第二十四話 無人
美馬土市では年に数回避難訓練が行われているおかげなのか、避難はとてもスムーズに行われていた。それゆえ雫たちはもはや人通りのほとんどない街を駆け抜けていた。岩と素朴な家が立ち並んでいるせいか墓所のようにも見えた。
ちらりとここから見える最も高い岩山を見上げると苦悶する顔をいくつも張り付けたような巨大な石像が山頂に鎮座していた。この世のものとは思えないあれが塩と灰の精霊なのだろう。中位精霊もしくは上位精霊。今はただそこにいるだけだが万が一にも誰かに襲い掛かれば間違いなく被害が出る。
可能な限り迅速に少女の母親を救出しなければならないと心に刻む。
間の悪いことに土産物屋は繁華街のはずれにあるらしく、避難所からは少し遠い。ドワーフは小柄だが頑丈で体力があるとも聞くが、大人一人を運ぶのはそれなりに時間がかかるだろう。
「もうすぐです」
少女が息を切らせながらしゃべる。そして明るい字体の看板が目に入った。黒犬亭と書かれており、その下のショーウィンドウ越しに色とりどりの雑貨が並んでいた。
「お母さん!」
少女が扉をなだれ込むように開け放ち、叫んだ。そのまま店の奥まで小走りする。
少女が手を伸ばすその先には壮年の女性がぐったりと手足を投げ出し、壁に背を預けていた。ふと、違和感を覚えたが、少女が必死で母親に駆け寄る姿を見てそれは霧散した。
「お母さん! ねえ、大丈夫⁉」
少女は膝をつき、母親をゆさゆさと揺さぶるが目を覚まさない。
「落ち着いてください。頭を打ったのなら安静にしておくべきです」
体を軽く眺める。少なくとも出血はない。これは母親の健康面でも、雫の精神面でもありがたいことだった。雫も少女と同じように膝をつき、脈と呼吸の確認、さらに後頭部などの急所に外傷がないかを確認した。
そこで、かすかに牛乳の香りがした。少女の香水に混じっていたため、雫の鋭敏な感覚でなければ気づかなかっただろう。
ふと、以前聞いたことを思い出した。サキュバスの体臭はミルクのようで、それを隠すために香水でごまかす人が多いのだとか。
そして、少女の母親の体勢は奇妙だった。少女は母親を運ぼうとしてできなかったと言った。それなら床に仰向けになって寝ているべきではないか? わざわざ背中をもたれさせている余裕などあったのか?
そしてそもそも、この少女はなぜこんな非常時で精霊を呼んでいないのか。母親の救助を手伝ってくれるかどうかはともかく、身を守るために精霊を呼ぶべきではないのか。
状況証拠が積み重なり、密かに警戒心を跳ね上げる。
誰にも気づかれないようにショーウィンドウを覗くとそこには縄を携えて雫に忍び寄るドワーフが映っていた。 壮年の男のがっしりとしているがしわの混じった手がゆっくりと伸びる。
そこからの行動は思考が介在していなかった。
振り向かずにドワーフの腕を掴みそのまま背負い投げを決めようとしたが、床に叩きつけるよりも先に壁に当たってしまい十分な威力を発揮しなかった。
仕留め損ねたことに内心で舌打ちしつつ、距離を取る。少女は先ほどの弱気な様子とは全く違い、大声でまくしたてる。
「捕まえろ!」
その言葉でこの一連のトラブルがやはり何らかの策謀だったと確信できた。それと同時に入り口にドワーフを始めとした異種族が群がっている。数は十数人。まともに戦って勝てる数ではない。
出入口は二つ。自分も入ってきた入り口と、店の奥に通じる扉。ここまで念入りに準備を整えてきた相手が逃げ道を残しているとは考えられない。扉は通れない。つまり、逃げ場はない。
ならば逃げ道を作るしかない。手近な土産物の一つである石像を掴むとショーウィンドウめがけて投げつける。
あまり分厚くはないガラスだったのか、盛大な音を立てて大穴があいた。
唖然としている襲撃者たちを横目に顔をかばいながらショーウィンドウめがけて突進しガラスをぶち割りながら外に出る。ぎゃりぎゃりとガラスと地面、そして靴がかみ合う不快な音がした。
その突拍子のない行動を誰も予想していなかったのか。何とかその場から逃げ出すことができた。




