第二十三話 灰色
動物・塩湖の見学ツアーをまずまず満足して終えた雫と花梨はこの旅行中に採取した水を異京に送るため運送業者に荷物を預けることにした。
見た目がホムンクルスの少女ということもあり、少々時間がかかったが無事に荷物を送り届けてくれるようだった。
そろそろきりのいい時間になったのでホテルに戻ろうかという相談をしていると悲鳴のような鐘の音があちこちから聞こえてきた。
「これは例の避難を呼びかける鐘の音ですよね?」
「そうみたい。周りの人も避難しようとしてるよ」
にぎやかな祝日が一転、混乱と焦燥の坩堝になった。自分の身を守るために精霊を呼んでいる人間もいた。
「ここからホテルまでは少し遠いですね。近くの地下に避難するしかなさそうです」
自力で精霊を呼べる人間はいい。だが、所有者である藤太様と別れている現状では身を守るすべはない。人間やゴブリン相手ならいくらでも戦える雫も精霊に対しては何ら意味がない。
避難用の地下施設には十分な余裕があるはずなので手早く非難してしまおうというところで怒鳴り声が聞こえた。
「だから、もう鐘が鳴っているって言ってるだろ!」
「でも、お母さんが……」
雫より一回り年下の少女が髭の濃い中年の男性と言い争っていた。
「いいか! 避難の鐘が鳴ったら必ず地下に避難しなきゃいけないんだよ。親兄弟を見捨ててもとがめられることはねえ。法律でそう決まってんだ」
男の言い分は無茶苦茶なようで間違っていない。美馬土市の条例では避難指示に従わなければ罰則があり、避難以外の業務や義務のほとんどを放棄しても良い。それどころか避難指示に従わない相手を強引に避難させても許容される。
ここまで強引にことを進められるのは精霊が一人でも危害を加えると被害が急速に拡大するという経験則に基づいた迷信に由来する。法律的には緊急避難、カルネアデスの舟板として知られる寓話からも男の発言は正しい。
とはいえいたいけな少女の願いをはねのけるのはいささか心苦しく、外聞も良くない。男もそう思ったのか、あたりをきょろきょろと見まわし、雫に目を付けた。
「おい、そこの侍従。お前、ホムンクルスか」
「はい」
面倒な相手に絡まれたという慨嘆はあったが、立場上無視するわけにもいかない。
「ちょうどいい。お前、こいつの頼みを聞け」
ホムンクルスは命令を聞く人形であると誤解していそうな横柄な態度に眉根を吊り上げかけたが、普段から侍従としての教育を受けている雫はそれを抑えた。
「承知致しました」
その返答に満足したのか男は何も言わずさっさと避難所に向かった。
取り残された少女と雫、そして花梨は顔を見合わせながら会話を始めた。ふわりと華やかな香りがした。香水だろうか。
「まず、あなたのお母さまに何が起こったのか話していただけますか?」
「は、はい。私のお母さんは土産物屋で働いていたんですけど、鐘が鳴ってお客さんがみんな慌てて駆け出したときに倒されてしまったんです。その時に頭を打ったみたいで……それから動かなくなっちゃったんです」
「それでお母さんを助けるために助けを呼ぼうとしたんですか?」
「はい。一人で何とかできないかと思ったんですけど……この手じゃ無理だったんです」
少女が差し出した手には痛々しく包帯が巻かれていた。確かにこの手では大人一人を運ぶのは無理だろう。
少女はすがるように雫を見つめている。正直に言えば助ける義理はない。むしろ直ちに避難するべきなのだ。
ふと、お姉さまならどうするか、そう考えた。多分、自分では助けに行かず、どこかの誰かに何かの理由をつけて少女の母親を助けさせ、かつその人にも利益があるように立ち回る気がした。残念ながら自分はそれほど器用ではない。ほんの少しだけ苦笑した。
「わかりました。私もついていきます。花梨、すみませんけど先に避難してくれませんか」
体力があるわけではない花梨は同行しても力にはなれないだろう。そう判断しての言葉だった。
「うーん……わかった。気を付けてね、雫お姉ちゃん」
やや逡巡した様子だったが、非常時であるためか口数少なく避難所に向かった。
「では案内を……」
してください、そう言いかけたところで横から声をかけられた。
「おい。あんた」
横を向くが誰もいない。声の方向、下を向くと声の主がいた。豊かな髭、背は低いががっしりとした体。いかにもひもじい姿。ドワーフだった。
「いかがしましたか?」
「その子の親を助けに行くのか?」
「はい。あなたは?」
「さっきその子ともめていた男の所有物だよ。俺もついて行っていいか?」
投げやりで皮肉っぽい口調だった。つまり無理やり仕事を押し付けられたらしい。
ちらりと少女を見やる。
「お姉さんも、ドワーフさんもありがとうございます。このお礼は必ずします」
ドワーフと雫は頷きあうと少女に案内を促した。




