第十話 谷底
「もう説明するべきことは説明しました。これ以上質問がなければおいとま致します」
立ち上がり、出口に向かっても誰も止めない。雫を伴い、扉の取っ手に手をかけたその瞬間に、ようやく声が聞こえた。
「どうして……」
「なんでしょうか」
「どうして、あの人はそんなことを……?」
「警察には報酬が魅力的だったと証言しているそうです。なんでも一般人では絶対に手が出ない宝石が貰えたとか」
これは私なりの推測だが、高価な宝石を手に入れてしまったことで満足してしまったのではないだろうか。だから警察の捜査に積極的に協力している。なんとなく、単純に自分の罪を軽くする打算だけではない気がする。
その推測が正しい場合、この施設での生活は面倒ばかりだったことになってしまうが……さすがにそこまで説明するつもりはない。
「なんだよそれ……なんだよ……あの人も、俺を裏切ってたのか……?」
「おそらくそうでしょう」
「じゃあ、俺は……誰を信じればいいんだよ……あの人だけは、俺を裏切らないと思っていたのに」
取っ手から手を放して明日斗様に向き直る。
「では、質問させていただきますが、明日斗様は院長先生を疑ったことがありますか?」
「それは、あるよ。あったと、思う」
「本当に? 心の底から疑い、論理によって信じられると確信しましたか?」
私の責めるような口調の詰問に、明日斗様は口をもごもごさせながら答えた。
「わからない……」
「では疑いが足りなかったというだけです。本当に誰かを信じたいのならばまず疑うことです。全力で疑いぬき、それから初めて誰かを信じるべきです。そうですね、まずはこれを学ぶことをおすすめします」
一冊の本をテーブルの上に置いた。
「これは……?」
「六法全書です。正確にはデイリー六法ですが。法律を学んでおけば犯罪から身を守る一助になります」
この世界は日本の法令が採用されてから時間が経っていないせいで司法試験の難易度も低い。頑張って勉強すればもしかすると十年後くらいに法律家になれるかもしれない。
明日斗様はデイリー六法を手に取って沈黙したままだった。
「ではこれで失礼します」
雫とともにカーテシーを行ってから今度こそ立ち去った。
「お姉さま。質問してもよろしいですか?」
「構いませんよ」
施設から出ると、すぐに雫から質問された。
「なぜ院長先生が悪事を犯していると気づいたのでしょうか」
「確信があったわけではありませんが……彼女が明日斗様にこう言ったそうです。いつまでもここにいていいと」
「それの何がおかしい言葉なのでしょうか」
確かに優しい先生の言葉のようにも聞こえる。だが、それはあくまでも蚊帳の外の人間の考えだ。
「いいですか? 児童養護施設とは結局のところ子供の仮宿にすぎません。決して終の棲家にはなりえないのです。絶対にいつかは出ていかなければならないのです」
つまり院長先生の失敗は子供に優しくしすぎたことだ。警察への供述から推測するにもともと子供は嫌いだったようにも見受けられるから、徹底的に演技していたのだろう。
「野生動物が子供をあえて群れから追い出すようなものでしょうか?」
「そうなりますね。人間は……いえ、どんな種族でも居心地が良ければ怠けてしまうのです。皮肉な言い方ですが、児童養護施設とは多少居心地が悪いくらいでちょうどいいのかもしれません」
もちろん、児童が虐待されるような真似は避けなければならないし、施設を出た後の生活を考えればある程度の投資は必要なのだ。
「では……あれでよかったのでしょうか」
「わかりません。ですが、下手に院長先生に未練を残しているとまた変な犯罪に関わってしまう可能性もありますから。子供にとって苦い経験に……」
「いえ、そうではなく……お姉さまはこの施設のスポンサーに掛け合って支援を打ち切らないように交渉したのでしょう?」
「たいしたことはしていません。それに、ここの子供たちには恨む対象が必要でしょう」
「でも、それでは……お姉さまが……」
痛ましそうに雫は目を伏せていた。本当に優しい子だ。だから少しだけいじめたくなってもしょうがないですよね。
「雫。もう済んだことです」
「……はい」
交渉といってもいくつか電話で確認しただけだ。何しろこの状況で支援を打ち切ればマネーロンダリングに関わっていたとみられかねない。
私はごくわずかな労力で子供たちに優しい法律家として評価され、明日斗様を筆頭に子供たちが傷つく様子も眺められる。雫もなかなか味わい深い顔になってくれた。
まさに完全勝利。今夜はぐっすり眠れそうだ。
しかしこの事件は今回私が巻き込まれる事件の始まりに過ぎないことをまだ知る由もなかった。




