第五十六話 擬態
エドワードは杖を突きながら空き部屋の前で立ち止まり、鍵がかかっていないことを確認してから中に入った。
一見すると誰もいない。しかし部屋の奥まで進む。
「君のそんな顔を見るのは久しぶりだな」
物陰に潜んでいたメロウに声をかける。うずくまっていた彼の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
「え、エドワードぜんぜい、す、ずみばせん」
嗚咽と鼻をすする音が混じってまともな言葉になっていなかったがエドワードは言葉の意味を理解していた。大の大人が子供のように泣きじゃくる様子を見て、何も言わずにエドワードは横に並ぶように腰を掛ける。
「懐かしいな。法学校にいたころ、君は嫌なこと、失敗をすると誰もいない部屋で落ち込んでいた」
「あ、あのころから先生には迷惑をかけっばなしです」
エドワードの顔を見たせいなのか、幾分声には落ち着きが戻っていた。
「では、あの頃と同じように復習の時間だ。今回の君の敗因は何だと思う?」
「それは……早めに決着をつけなかったことです」
「そうだ。今回の依頼人は金に困っていない。なら、適当なところで慰謝料を少額にして相手に謝罪させる、くらいで手を打つべきだったのだ。それを怠った君は反撃する時間を与えてしまった。まあ、あの依頼人を説得するのは骨が折れただろうがね。だがほかにもある。何かわかるか?」
「……思いつきません」
「簡単だ。彼女の陣営のほうが弱かったからだよ」
「そんな、弱い方が勝つなんておかしいです」
「いいや。おかしくはない。法律を判断するのは人だ。人間は弱い人間を庇いたくなるのだよ」
「ですが調停委員を担当しているのは精霊です。精霊がそんな判断をするでしょうか」
メロウはエドワードから薫陶を受けていた過去を思い出し、冷静さを取り戻した。
「精霊に心などない。だが、なぜ法の精霊が感情を持っているかのようにふるまっていると思う?」
「……わかりません」
「あくまでも私の経験則だがね。法の精霊は他人の心を写し取っているのだよ」
「心を?」
「そうだ。召喚者、あるいは周囲の人間たちから常識や慣習、倫理、道徳……それらを吸い上げて心があるように見えるだけだ」
「でも、だからって……」
「今回の件は夫婦間の問題だった。そしてその力関係は明らかだ。であれば力が強い方が何かを隠している、あるいは無理やり従わせていたと考えるのが人情だ。事実として法の精霊は君より向こう側の話をよく聞こうとしていなかったか?」
「……」
確かに今考えれば相手側に有利な議事進行が行われているようにも感じる。
「人間の心とは不公平なのだよ。例えば私が収賄の罪で捕まったとしよう。今まで一度も金に困っていない良家に生まれた法律家よりも、孤児の身でありながら苦学の末、法律家の資格を勝ち取った人間に弁護を頼みたくなるのだ。君のように、ね」
「……僕が、自分を強く見せるために高圧的な人間を演じていることを怒っているのですか?」
「いいや。それも一つの選択だ。自分の性格や力量を敵に見極められて得をすることなどない。だが覚えておきたまえ。強さとは弱みであり、同時に弱さとは強みでもある」
そういうと同時にエドワードは立ち上がった。会話の終わりが近づいていることがメロウは少し名残惜しかった。
「新星教の支援する施設で育った君だ。新星教から声をかけられれば拒むことは難しかっただろう。意に沿わない依頼を引き受けたことを気に病む必要はない」
「……いいえ。たとえ後でどんな仕打ちを受けたとしても僕は断るべきだったのです」
「そうか。ならばそれが今回の君の学びだ。若人よ、学びたまえ。私にはそう時間がないが、君にはまだまだ前途がある」
出口に向かって立ち去るその姿は、メロウにとって知識としてしか知らない親のように見えた。




