邂逅と衝撃
坂の上に、坂下高校。これは、この坂下高校が所在する、「菜々美町」への揶揄である。古く、この土地には雄大な自然が広がっており、一説によれば、絶滅危惧種であるトキが巣作りをしていたとされた。しかし、時代とともに、そんな風流心などは淘汰され、町は精力的に開発を行うようになった。町役場の掲げるスローガンは、「緑あふれる」から「便利な暮らし」へと変わっていき、手付かずだった山々は地図から消えていった。その過程で建てられたのが、この坂下高校であったというわけだ。
「自然を蹂躙して建てられた校舎。毎日この坂道を登らなくてはいけないのは、その罰なのでしょうか……」
スロープのように整備された通学路を歩きながら、新入生・七崎ナキ――通称ナナキは呟いた。
春。出会いの季節。桜が唯一、生きていられる季節。
入学式を終え、ナナキは自クラスの席で本を読んでいた。彼は内向的というわけではないが、他人との接触にあまり喜びを覚えず、こうして一人、何かに没頭していることが常であった。そこに悲しみは伴わず、また、見るものに寂しさを感じさせなかった。彼は整った顔立ちなので、何をしていても画になったのだ。他のクラスメイトはというと、そんなナナキを風景として捉え、各々メイクフレンズに勤しんでいた。入学式で友達が作れなければ、灰色の青春まっしぐらだと、皆わかっていたのだろう。御多分に漏れず、ここで「無難な友人」を作ることができなかったナナキは、「灰色と」青春を過ごすことになるのだから。
クラス内に、徐々にグループができてきた頃。教室の戸が開き、担任らしき女性が教卓に立った。
「ええ、本日より、君たちは晴れてこの坂下高校に入学となります。おめでとうございます」
新任教師のオカノは、下ろしたてのパンツスーツを窮屈そうに整え、祝辞を述べると、仏頂面で生徒の顔を見回した。とうてい祝福をしているような表情ではなかったので、教室内は静まり返った。
「あー、オカちゃん、俺たちより緊張してんじゃねーの」
恐る恐る、陽気な生徒がヤジを飛ばすと、教室内に笑い声が反響した。すかさずオカノが注意を飛ばし、今度は別の生徒が軽い言葉を投げる。そんな、不毛な時間の甲斐あって、教師と生徒、両面の緊張は解けた。
仔細の説明を終えた後、ホームルームは自己紹介の段へと移った。クラスメイトらが、口々に名前や趣味を述べていく間、ナナキは全く表情を変えず、たまにページを左にめくっては、まばらな拍手をしていた。彼は短く揃えられた黒髪の、制服モデルのような容姿だったが、学内標語とはかけ離れた少年であった。
「七崎ナキ。ナナキと呼ばれることが多かったです。趣味は特にありません。よろしくお願いします」
やっと自分の番が来たので、ナナキは立ち上がり、淡白な自己紹介を述べると、また席に着き、次の順番は後ろの人だというのに振り返る気配もなく、読書を再開した。
打って変わって、ナナキの後ろの少年は勢いよく席を立ち、自慢げにこう語った。
「七瀬リン。気軽にナーリンと呼んでよ。それと、僕は趣味で探偵をやっているから、何か解けない謎があったら、僕のところに来ること。じゃあよろしく~」
趣味で探偵。それを一瞬で受容できた者はいなかった。これにはナナキも驚き、本を閉じ、いったいどんな奴なのかと、半ば無意識的に振り向いた。
灰色のくせ毛に赤いヘアピン。中性的な顔に自信満々な表情を浮かべている、猫のような印象の彼は、振り向いたナナキの顔を覗き込む。
「ふふっ、君もその……推理小説が好きなんだろう。入学式に持ってきているくらいだからね」
ナーリンはナナキと目を合わせたまま、まさに今まで読んでいた本のジャンルを当てて見せた。
ナナキはこれまた驚いた。自己紹介で立つまでは、ナナキの背中に阻まれて本を覗き見ることはできないはずだし、今、本は裏表紙を上にして閉じられている。見えたとしても、装丁くらいなものだ。だというのに、目の前の自称探偵は、それが推理小説であることを知っていた。
「……なぜそれが分かったのです」
「簡単なことだよ、ワトソン君」
すでに自己紹介の領分を超えているのだが、それを気にかける者はおらず、皆、ナーリンの言葉を待っていた。
「まず僕は、自分の自己紹介の順番を待っている最中、前の君の腕が動いていることに気づいたんだ。そう、それはまさしくページをめくる動作をしていた。問題はその方向さ。一般に日本の書籍は右から左に文を連ねている。つまりページを右に開きながら読み進めていくはずなんだ。でも君は、頻繁に左へページをめくっていた。それは前のページへと戻っていることを意味する……何度も何度も読み返す必要のある小説……それでピンと来たんだ」
周辺の席をぐるぐると回りながら、ナーリンは大立ち回りを披露して見せ、そのまま着座した。
「探偵が見なければならないものは、些末なディテールなのさ。前に座っている君が何をしているか、だけじゃない。何の本か、まで考えを巡らせるのさ」
足を組みながら得意げに探偵論を語るナーリン。憎たらしい光景ではあるが、彼が雄弁に推理をまくしたてたことにより、教室は熱に浮かされ、彼に、歓声のような拍手を送った。
――違う。
最中、ナナキは考えていた。今の推理に違和感を覚えたのだ。それを堂々と言うべきなのだろうか、彼は葛藤する。
端的に言えば、ナナキは、真面目である。真面目に生きていくには、人よりも多くのタスクをこなす必要がある。だから彼は、人との関係に消極的になった。人より多くのことができるようになるには、人より多くのことをしない必要があることを、方法論としても、経験則としても、彼は知っていた。
「はは、まあこれでわかっていただけたんじゃないかな。僕の探偵としての実力をね。御用のある方はぜひ、この七瀬リンまで……」
「……そうでしょうか」
だが彼は、引かなかった。
「んっ、そうでしょうか……ってなんだい」
「その推理は合っているのでしょうか、と言ったんです」
「……何を言っているんだ。現に君が読んでいた本は推理小説だったんだろう。間違いなんてないじゃないか」
思いがけぬ反論に、ナーリンは少し驚いた様子だ。
ナナキは立ち上がり、先ほどのナーリンよろしく、推理を語りだした。
「では、僕の推理を話させていただきましょうか」
「ちょちょ、ちょっと待ってよ。推理って何なの!」
「過程の話ですよ。あなたが、僕の読んでいる小説は推理小説であると、気づいた過程です」
ナーリンの一つの間違いとして、ナナキは別に、推理小説が特段好きなわけではなかった。彼の読書スタイルは、言わば雑食。名作、傑作と呼ばれる作品を、何の恣意もなく選び、教養として読んでいるだけであった。が、唐突にご高説――ナーリンの言葉を借りれば推理とやらを披露され、推理好きのレッテルを貼られたことは、彼にとって、いい気のしないことであったのだ。
「第一に、ページをめくる動作が本当に後ろから読み取れるのでしょうか。せいぜい肘の関節が動くくらいしか見えなかったのではないですか。加えて、今日着たばかりの学生服では、生地も固く、細かい動きまでは計れないはずです」
動き回り、皆を巻き込んでいたナーリンとは違い、ナナキは静かに、ナーリンを見ながら推理を語る。
「僕の洞察力をもってすれば、たいしたことはないさ」
「それだけではありません。そもそも、前のページを何度も読み返していたからといって、推理小説であると断じるのは、いささか早計すぎます。気に入った描写や、伏線を見返すことは、十分にありえることでしょうに」
次第に空気が傾いていく。
「だったら何さ、僕がただ勘で、小説のジャンルを当てたというのかい」
既にナーリンはムキになり始めている。
「いいや、違いますよ。そんな不確実なことをするようには見えませんから……七瀬さん、あなた、もしかして、この本のジャンルだけではなく、タイトルも当てられるのではないですか」
図星。ナーリンは顔をゆがませ、少したじろいだ。
「やはりそうでしたか」
ナナキは満足そうに視線を外す。
「あの……結局どういうことなんだ」
すっかり夢中になっていたオカノが、ナナキに問う。
「……つまり、七瀬さんの推理は至極シンプル。いえ、推理ですらなかったわけです。僕が読んでいた本は、あまりに有名な傑作、コナン・ドイルの『緋色の研究』ですから。きっと彼は、立ち上がった時初めて、僕が小説を読んでいることに気づいたのでしょう。そして同時に、それが自分の見知った作品であることにも気が付いた……あとは適当な推理を考え、順序を逆に立てて説明したんです」
「参った参った。まさしくその通りだよ」
ナーリンはうなだれ、首を横に振っている。
「緋色は僕の愛読書さ。だから、同じ趣味のやつがいたのかと思ったんだけど……まさか、推理を返してくるとはね。なんで僕が嘘をついてると思ったんだい」
「ああ……それは、あなたが『君もその……推理小説が好きなのか』と言い淀んだからです。本当は『君もその小説が好きなのか』と言いかけたんじゃないかって、そう思ったんですよ」
次第にナナキの「推理・ハイ」は引いていき、視線を一挙に集めていたことに気が付いた。
「ナナキ、お前すごいな」
オカノが率直にナナキを褒めると、自然と拍手が彼を包んだ。
「ちょっとちょっと、確かに彼の推理は見事だったけど、今は一応僕の自己紹介タイムだったのであって、それに僕の推理力の方が劣っているとか、そういうわけじゃ……」
拍手に彼の声はかき消される。
「ナナキのあの追い詰めかたの方が、探偵っぽかったけどな」
「わかる。ナナキ探偵向いてんじゃね」
ヤジは無責任にもそう煽り、探偵の印象はナナキへと押し付けられた。
この面倒極まりない出会いは、結果として僕の高校生活を大きく変えることになりました。僕は、僕は黙っていればよかったのかもしれません。それでも、彼の推理が間違いであると声をあげてしまったのは、シャーロック・ホームズに、少しでもあこがれを抱いていたからなのかもしれません。