厨房は私のテリトリーです。
キッチンは、魔王が寝ていた部屋からほど近い位置にあった。リデリアを送ってきたラッドヤードは、「じゃあ、俺はここで待ってるから、美味しいの頼むねー」と言って、出入り口の辺りでリデリアの手を放す。
突然放り出されて戸惑ったが、そんなリデリアを見つけたエプロン姿の中年女性が話し掛けてきた。
「お嬢さん、何してるの?」
人好きのする顔だ。彼女もやはり魔王軍の一員には到底見えない。リデリアは特に警戒心も抱かずに、「お茶を淹れてきてほしいと言われたんですが……」と正直に目的を話した。
「あら、それならちょうどいいわ。さっき、お湯を沸かしたばかりだから」
女性は「こっちよ」と言って、リデリアを奥へと案内する。彼女の他にも厨房では何人かが立ち働いていた。その間を縫うようにして女性は進むと、棚から茶葉の入った缶を出し、ポットやティーカップなどと共に、それを近くのテーブルの上に置いた。
「はい、お湯」
湯の入った鍋も用意してくれ、すっかり茶を淹れる準備は整った。リデリアは女性に礼を言うと、白鷲団に所属していた時に毎日していたのと同じように、ポットとカップに湯を注ぎ、温め始めた。
(何だか変な気分……。魔王のアジトに来てまでお茶を淹れてるなんて……)
一体自分はどこまで『お茶汲み聖女』なのだろうかと自嘲したくなる。それでもリデリアはテキパキと手を動かした。
「あなたもラッドヤードさんに拾われたの?」
リデリアが湯を捨てたポットに茶葉を入れていると、先ほどの女性が世間話をするような調子で尋ねてくる。リデリアは、「拾われたっていうか、連れて来られたっていうか……」と曖昧な返事をした。
「そう言えば、ここにいる人って皆そうなんですか?」
ふと気にかかっていた事を、リデリアはついでだから尋ねようと思った。
「皆あの人が魔王の仲間にするために連れてきたんですか? でも、あんまり強そうな人、いないですよね」
「魔王の仲間!?」
リデリアの言葉に、女性は素っ頓狂な声を上げた。
「何言ってるの、そんな訳ないじゃない! ここにいるのは皆、ラッドヤードさんが好意で匿ってくれてる人ばっかりよ! 身寄りのない子どもとか、体に障がいがあって満足に働けない人とか、私みたいに暴力的な元夫から逃げてる人とか……」
「それは知ってますけど……。でも、そういう人たちを集めて魔王軍を組織してるんでしょう?」
「違うわ。……あなた、もしかして何か勘違いしてるんじゃないの?」
女性はやや気の毒そうな目でリデリアを見た。
「『魔王』ってアレスさんの事でしょう? アレスさんがそんな風に呼ばれる前から、この『隠れ家』はあったのよ。アレスさんは最近ここに入ったの。連れて来られた時は、何だかボロボロでねぇ」
「ボロボロ、ですか……」
「大体ラッドヤードさんが『魔王軍』なんて物々しいものを作る訳ないでしょう? あなた、何でラッドヤードさんが泥棒の真似事なんかしてるのか知ってる? ここにいる人たちを養うためなのよ?」
「皆のために盗みを……?」
初めて聞く話にリデリアは目を丸くした。世間を騒がせる怪盗の真の目的なんて、今まできちんと考えてみた事もなかったのだ。
リデリアが怪盗ラッドヤードについて知っていた評価と言えば、盗みに入られた家の者が答える新聞のインタビューの、「許さんぞ、うちの家宝を盗みよって、あのコソ泥が!」とか「今日の売上金を全部持っていかれました! 早く捕まえて死刑にしてください!」とかばかりだった。
そんな悪評ばかりを聞いていたリデリアは、自然とラッドヤードの事を人の物を盗るのが趣味の愉快犯か何かなのだろうと思い込んでいたのだ。
驚きで呆然とするリデリアに対し、女性はこちらの手元を見ながら「溢れるわよ」と注意を促す。リデリアはポットを傾けっぱなしだったと気が付いて、我に返った。
「それにアレスさんの事だって、ラッドヤードさんは濡れ衣だって言ってるのよ。ラッドヤードさんが言うんだから、きっとそうなんだわ。少なくとも、この隠れ家にいる人たちは皆そう思ってるわよ」
魔王が冤罪だったなんて、これまた思ってもみなかった言葉にリデリアは衝撃を受けた。王国を乗っ取ろうとした事も、その結果王を寝たきりにさせてしまったというのも、全部嘘なのだろうか。
もしそうなら、あの青年はありもしない罪によって非難され、挙句の果てに殺されかかった事になる。リデリアは、ベッドの中の弱々しい男を思い出して胸が痛んだ。
「分かった? 『魔王』なんて元からいなかったんだから、『魔王軍』も存在する訳がないの。それに、ラッドヤードさんみたいな良い人が私たちを戦わせたりするもんですか」
女性はきっぱり言い切った。リデリアはそれに賛同する事も疑問を呈する事も出来ずに、じっと考え込んでいる。
リデリアの考えは、ここに来た時と少しばかり変わっていた。一体何が本当で何が嘘なのか、きちんと確かめる必要があるのではないだろうかと感じていたのだ。
「ほら、早く持って行かないとお茶が冷めるわよ」
難しい顔をするリデリアに、女性が優しい声で諭すように言った。
「ここで暮らしていたら、すぐに事情も分かってくるわ。別に結論を急がなくてもいいのよ」
「は、はい……」
彼女はラッドヤードの事も、アレスの事も信じているようだ。リデリアも、二人に対する印象が少し前までとは違ったものになりつつあるのを感じながら、カップを盆に乗せた。
「美味しくなーれ!」
リデリアは何も考えずに最後の仕上げを行った。茶を淹れた後はいつもしている声掛けだ。輝きが増したように見える液体を眺めていると、リデリアはふと隣からの視線に気が付いた。
「それは……?」
「あっ……仕上げです」
女性が何だか奇妙な顔をしていたものだから、リデリアは白鷲団の厨房で給仕係から馬鹿にされた事を思い出して慌てて言い訳しようとした。
「えっと、これをすると、お茶が美味しくなって……」
「あら、凄い魔法ね!」
しかし、彼女は特段リデリアの事をからかうでもなく、純粋に感心したように言った。
「真心は大事よねぇ。私も今度お料理の最後には、それ、やってみようかしら」
女性はうんうんと頷いた。当たり前に受け入れられた事に、リデリアは安堵すると同時に、無性に嬉しくなった。白鷲団にいた頃はいつどこにいても『お茶汲み聖女』と揶揄されていただけに、こんな感覚は久しぶりだった。