魔王との対面
薬品の匂いが漂う室内は、狭い簡素なワンルームだ。魔王がいるというから、さぞかしおどろおどろしい部屋なのだろうと想像していたリデリアは少し拍子抜けした。
しかしながら、そんな事で恐怖心が完全に拭えた訳ではない。部屋の奥のベッドに置かれた毛布が人型に盛り上がっているのを見て、リデリアはごくりと息を呑んだ。
「よっ、アレス! 元気ー?」
ラッドヤードは無遠慮な仕草でベッドに近づいた。アレス、というのは魔王の本名だ。自分の主君に対しても気安く接するその態度は、『ラディ』であった頃と変わらない。
そんなラッドヤードには自分の恐怖心など理解できるはずもないのだろうと、リデリアはひっそりと嘆息した。
ラッドヤードに倣って、リデリアもベッドに目を向けた。どの道対峙しなければならない相手なのだ。ここは覚悟を決めるしかないと思ったのである。まさか魔王といえども、直視しただけで呪いをかけてきたりはするまいと心を落ち着かせる。
(この人が……魔王……)
毛布に包まっていたのは、一人の青年だ。顔の左半分を厚い包帯が覆い、右頬には大きなガーゼが貼ってある。ワイシャツの隙間からも素肌はほとんど見えず、覗くのはやはり真新しい包帯ばかりだった。
犯罪者然とした凄味のある人を想像していたリデリアは、その弱々しい姿に己を奮い立たせていた勇気が行き場を失い、代わりに憐憫に似た情が湧いてくるのを感じていた。
(そう言えば魔王はナーシルさんと戦って、大怪我をしたんだっけ……)
今の魔王の弱った姿を見るに、どうやら彼はまだその時の傷が癒えていないらしい。
魔王はかすかに胸を上下させて息をしていた。そうでなければ死人かと思ってしまっただろう。顔色が悪く、意識はあるようだったが、瞼が鉛でできているみたいに瞬きするのさえも辛そうだった。
「ひどいよねー。せっかくの美形が台無しじゃん?」
そうリデリアに言いつつも、ラッドヤードは魔王の緑の目にかかった黒髪を横に撫でつけた。
大怪我をしているものの、確かによく見れば綺麗な顔だ。奥二重の涼やかな目元には、どこか愁いが漂っている。魔王は華やかな美しさの持ち主のラッドヤードとは対照的な、静かな美貌をしていた。
お尋ね者リストに載っていた、いかにも『極悪人』といった風情の男とかけ離れたその容姿に、リデリアは目を瞠ってしまった。
だが、生来が美しかっただけに、傷を負った今の姿は余計に痛々しく見えた。リデリアはいたたまれなくなって魔王から目を逸らす。
「大丈夫なんですか?」
リデリアは、目の前にいるのが王を廃人にした凶悪な犯罪者であるという事を忘れて、思わず相手を気遣うような発言をしてしまった。
「変な攻撃食らっちゃったみたいでさー。段々ひどくなるんだよねー」
ラッドヤードは、リデリアの質問にはっきりとした答えを返さなかった。リデリアは、もしかして魔王の命はもう長くないのだろうかと察する。
「一回目は俺が苦手な『癒し』の魔法を駆使して頑張ったけど、今回はもうこれ以上はお手上げっていうか。色々大変な事になっちゃってて、お蔭でアレスの怪我を治せそうな子を探すの、苦労したんだから」
「……」
ラッドヤードの言葉に、魔王の視線がこちらに向いた気がした。一回目とか今回とか何の事だろうと考えていたリデリアは、不意に自分がここに連れて来られた目的に気付いて驚愕した。
「ま、まさか私に魔王を治せって言うんですか!?」
ラッドヤードは何も言わずににっこり笑っただけだった。リデリアはそれを肯定と受け取って狼狽える。
「無理ですよ! できません! 他を当たってください! 私に治せるのなんて、小さい切り傷くらいです!」
そんな風に言葉を並べながら、『悪人の怪我なんて治したくない』と思わないのが我ながら不思議だった。きっと、目の前の魔王が満身創痍だからだろう。リデリアには、弱い立場の者を痛めつけて楽しむなどという事はどうしてもできなかったのだ。
「まあまあ、そんな事はいいからさー」
ラッドヤードは慌てるリデリアの肩に手を置いた。
「とりあえず、アレスのためにお茶、淹れてくれない?」
「お、お茶……?」
おもむろにラッドヤードの口から飛び出した言葉に、リデリアは一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「リデリアちゃんのお茶、美味しいからさー。アレスにも飲んでほしいんだよねー」
「そ、そうですか……」
先ほどまで魔王を治療するという話だったのに、いきなり話題が変わってリデリアは戸惑っていた。
「別にいいでしょー?」
「あー……。はい……」
断る理由もないので、リデリアは思わず頷いてしまった。ラッドヤードは「決まりだねー。キッチンはこっちだよー」と言って、持っていた荷物を部屋の隅に置くと、再びリデリアの手を取った。
「じゃあ、アレス。またねー」
ラッドヤードは魔王に手を振る。リデリアも何が何だか分からないまま、彼に連れられて部屋を出た。