第5話 秘めた想いは火酒より燃える
「初めは人狼、次にオーク、象の魔族。西地区を中心に起こっている魔族の暴走騒ぎは、収束するどころかその数を増やしています」
東オリアン王国。その城内の会議室にて、淡々とした声が響く。
「症状は意識の混濁に一時的な暴走状態、激しい破壊衝動。土地から離れれば落ち着くことから、その地に何らかの素因がある可能性が高い…しかしながら3か月前から調査に乗り出すも詳しい原因、対処共に不明です」
調査官からそう報告を受けたのは、事件を担当する魔族の面々。椅子に座っていた議官のひとりが、億劫そうに息を吐いた。
「ただでさえも西オリアンの処遇をどうするか決めかねていると言うに…厄介事は後を絶たんな」
「未だ解決策が見つかっていないことに…国民からは相当の不満が噴出しております。何かしらの対応が必要かと」
「フン…。こちらの気も知らないで、権利ばかりを主張する凡俗共が」
「我々とて解決に向け手を尽くしていると言うに…」
実際に、彼らとてのんびりと構えている訳ではない。3か月前から始まった小事は、今や国を揺るがす大事件にまで変貌を遂げようとしている。しかしながら手を尽くそうとも解決の糸口が見えぬ事案に、苛立ちは募っている。
その言葉に賛同する声が広がる中、流れを変える一石が落ちてきた。
「わたくし達と違って、住居の目と鼻の先で起こっている事件なのです。国民の皆様が不安に思うのも、当然でしょう」
一斉に視線が集中した先にはアンナの姿。ところが声を発したのが彼女であると知った彼らは、謗るように笑った。
「これはこれは…王妃殿下」
「皆様。ひとつ…提案があるのですが、聞いて頂けますか?」
揶揄に構わず、彼女は続ける。
「問題の西地区に陛下と…及ばずながらわたくしが直接赴けば、その不安も払拭できるのではないでしょうか」
場が静寂に包まれた。
「……」
壁に立つクリストフェルの肌を、一筋の汗が流れる。彼はアンナの提案を知っていた。彼女に頼まれ、今日この場所に連れてきたのもクリストフェルである。
(案自体は悪くない…)
王が自ら赴けば、国の総力を挙げこの問題に取り組んでいると皆が皆納得するだろう。たかが心証、されど心証。何も解明できていないこの状況だ。今手を打たねば、後々の明暗を大きく左右することになるだろう。
(だが問題は…)
「小娘が。命が惜しくば黙っていろ」
静まり返る空間を切り裂くように飛んできたのは、拒絶する言葉。
「アウレリウス卿。仮にも王妃にその物言いは…」
そう窘める者の声も、揶揄を含んでいる。続いて室内にさざ波のごとく広がるのは嘲笑。
そしてその冷たい一言を放った人物と言えば、ほんのひとつも笑みを溢すことなく続けた。
「我らの王はエドヴァルド陛下のみ。くだらん人間風情に畏まった言い振りをする必要がどこにある」
琥珀のような瞳に浮かぶのは厳格な光、鳶色の見事なたてがみが靡く。
グレーゲル・アウレリウス。東オリアン王国第2騎士団団長であり、獅子の魔族である。
「人の国から捨てられた憐れな姫は、惨めに這いつくばって暮らしていれば良いものを。陛下の温情で地位を得、思い上がったか」
その傲慢な物言いも威圧的な態度も、決して単なる芝居ではない。エドヴァルドがこの地を平定した際に、最後まで争い合った唯一の人物。顔面を走り左眼を潰す傷跡は、激闘の熾烈さを雄弁に語っている。
「次に魔族の政治に口を出してみろ」
グレーゲルがアンナを見据え、口を開ける。人間の骨など、たちどころに噛み砕ける牙が覗いた。
「ーーー殺すぞ」
たった一言、単純な言葉。それでも空気を震わせる殺気と、続けて怒りを示す威嚇音が本気であることを示している。直接向けられたわけではない周囲の者も、咄嗟に息を呑んだ。
「ええ、全くその通りでございます。生意気な態度をお許しください」
アンナが顔を上げた。空中で視線がかち合う。
「けれど民を想う気持ちは同じの筈。どうかお力添えを頂けないでしょうか」
「まだ言うか…」
グレーゲルの額に青筋が浮かんだ。
それに反応し、主の傍で控えていたヘルガが一歩前に出る。一触即発の空気の中、アンナが彼女を制した。
「例え種族が違おうとも、わたくしは東オリアン王国の王妃です」
そうして一歩も譲らずに言い切った。
「わたくしの申し上げている内容が、この国での道理が通らないものであれば聞く耳を持たずとも結構です。しかしながら棄却の理由が人間の提案であると言うただ一点なのであれば、わたくしは引く訳には参りません」
「エドヴァルド様ぁ!」
夜。公務を終えたエドヴァルドは、近付く蹄の音に顔を上げた。見れば彼の妻に宛がった侍女の姿。珍しく焦燥に駆られた表情に、妙な胸騒ぎを覚える。
「どうした。ヘルガ」
「ええと、ちょっと厄介なことになっちゃって…」
彼女は言い辛そうに自身の角を掻いた。
「アンナ様が猫おじさんに喧嘩を売ったんですけど」
「猫…グレーゲルのことか。それはクリストフェルから聞いたが、何かあったのか?」
「それが…アンナ様が…」
言葉を濁す彼女を前に、ぞわりと鳥肌が立つ。エドヴァルドの頭に過ったのは最悪の展開である。
(まさか…)
アンナは温室育ちのお姫様。あのような殺意を直接に向けられたことなど初めての筈だ。気もそぞろに廊下を進み、寝室の扉を勢いよく開ける。瞬間、彼の目に入ってきたのは、手首を切り血まみれのアンナの姿。ではなく。
「ヘルガ!もう!どこに行っていたのですかぁ!」
べろべろに酔っ払い、舌足らずに叫ぶアンナの姿であった。
「……?」
「いやあそれが…アンナ様がちょっと酔いたい気分だって仰るもんだから、私秘蔵の酒をちょいと」
扉の取っ手を掴んだまま憮然とした面持ちになる彼の横で、ヘルガが何かを飲む動作をする。事実、机の上に置かれたボトルはかなりの量が残っており、決して無謀な飲み方をしていないのは見て取れる。
だがしかし実際にアンナは、顔どころか全身を真っ赤にさせて、その瞳をふらふらとさ迷わせている。
「おい、どうにかして寝かせ、」
言いながらエドヴァルドが振り向いた時には、ヘルガは消えていた。
「……」
(押し付けたな…)
恨みがましく思いながら、何事か騒ぐアンナに視線を移す。
「ヘルガ!ほら!ここに座ってわたくしの話を聞いてくらさい!」
そう。これは本人も知らなかったのだが、アンナは死ぬほど酒に弱かったのだ。
そして非常に厄介なことに、絡み酒だった。アンナが自身の隣、ベッドの縁をべちべち叩く。今もエドヴァルドのことを、似ても似つかぬヘルガだと思って会話しているのだから、重症である。
「……」
仕方なしにアンナの隣へと腰掛けると、上機嫌でにこにこ笑顔を向けてくる。
「ふふ、ヘルガは美人ですね。とっても強くて、胸も大きい!」
大の男を捕まえて何を言っているのかという話だが、相手は酔っぱらいである。仕方がない。
そして酒を飲むなど普段はしない行為をしたことにも理由があるのだろう。視線を移せば、わずかに震える指先が目に入る。
「…無茶をしたな」
エドヴァルドが呟いた。発言の内容は、今日の会議のことである。
アンナは敗戦国の姫だ。それに加え魔族は実力主義の側面も強い。エドヴァルドがいくら言い聞かせたところで、彼女の立場が好転することはないだろう。彼らの前では王妃という立場も、最低限の衣食住を保証する程度の価値しか持ち合わせてはいないのだ。
(…我にできるのはそこまでだ)
王の采配とは言え、人間の王妃が誕生したことに、未だ戸惑っている者も多い。王が敗戦国の姫を寵愛していると公表すれば、混乱に陥るだろう。アンナの身さえ危うくなる。
エドヴァルドの監視下ならばまだしも、そこを抜け出してその身を晒せば、彼であろうとも止められない。
「人の姫がそこまでする必要はない。言い方は悪いがーーー誰一人として、お前が王妃としての役割を果たすことに期待はしていないのだから」
東オリアンはもちろん、西オリアン王国の者とて、彼女の働きには何の期待も寄せてはいない。アンナが王妃になるとは予想外の出来事であっただろうが、あくまで事を荒立てることなく平穏に夫婦生活を終えることが目的の筈だ。
「それは貴様も分かっていることだろう。何故そうまでして固執する?」
エドヴァルドのその質問に、アンナの頬がわずかに染まった。伏し目で瞬き、ゆるやかに微笑む。
「…秘密です」
金の瞳には熱が差し、言葉の最後を締めくくるは吐息。その妙に大人びた仕草に、思わずエドヴァルドの心臓が鳴った。
それには気が付かず、思い出したようにアンナの瞳がくるりと動く。
「そう!そうです!お役目と言えば、セックスですわ!」
「……は?」
可愛らしい妻からとんでもない単語が出てきて、ぴたりと固まる。いやなんて?
「聞いてくださいヘルガ!エドヴァルド様と来たら、相も変わらずほんの少しもわたくしに触れてさえくださらないのです!」
「…は?」
ほんの少しも触れてくださらないエドヴァルド様が、間の抜けた声を漏らした。それに気がつかないアンナは、と言うより目の前の人物がどういう訳か心を許した侍女であると思い込んだ彼女は、ぷんすかと悔しそうに続ける。
「色々と手は尽くしてきましたのに、陛下はちっともセックスしてくださらない…。ちゃんとお茶も飲んで待っているのですよわたくしは!」
「え、いや。…茶?」
「やはりあの方は、わたくしに興味のひとつも抱いてはいらっしゃらないのでしょうか…」
そう言いながら、アンナが肩を落とした。金色の瞳が哀しげに揺れる。
「っ…!?」
エドヴァルドと言えば衝撃を受けていた。まさか妻がそんな鬱々とした想いを抱えていただなんて。彼にとっては青天の霹靂だったのだ。純真無垢だと思ってた妻は予想外にスケベだったが、安心して欲しい、エドヴァルドはドスケベだった。
「あ、アンナ!」
エドヴァルドが、彼女の肩を両手で掴んだ。アンナが顔を上げる。金の瞳に緑青色が映り込んだ。
「エドヴァルド様…」
理性をわずかに取り戻したのか、アンナが彼の名を呟く。鈴を転がすような声。それを溢す唇をじっと見つめる。
そして自身の牙で傷つけないよう気を付けながら、彼はゆっくり顔を近付けた。
そう、エドヴァルドは覚悟を決めた。本当は手を握るところから始めようと思っていたが、もうそんな悠長なことは言っていられない。愛する妻が不満に思っているのだ。ここで男を見せなくて如何とする。今夜は絶対セックスしたいーーー。
「…え?」
ところがどうして、触れる瞬間、エドヴァルドの唇は空を切った。見れば、アンナの頭が落ちている。
肩を掴まれている為に上半身こそ立ってはいるものの、頭だけはひっくり返るように背中側に落ちている。まるで首の据わっていない赤子のような体勢である。
「…アンナ?」
エドヴァルドの呼び掛けに、すうと規則正しい息遣いが返ってきた。聞きなれた寝息だ。いつもいつも手を出す前に寝てしまうアンナの。
「……」
でろんと伸びた妻を前に、エドヴァルドは硬直する。今にもはち切れそうな情熱を抱えたまま、硬直する。
「アウレリウス卿。良いのですか?あのような娘の言う通りに、遠征の手配をするとは」
部下の一言に、グレーゲルは鼻を鳴らした。
「フン。他ならぬ陛下が承諾されたとあっては、我らに四の五の言う分限はない」
わずかに緊張したあの表情を思い出し、グレーゲルは冷たい瞳で前の壁を見据える。
「おそらくは陛下が気紛れで据えた王妃だろうが…短い命を懸命に燃やそうと必死なようだ」
そこで言葉を切って、彼は部下を見やった。
「聞いたか?先日、陛下が指一本で部屋を丸ごとひとつ大破させたと」
彼が言っているのは、エドヴァルドが寝室の壁を壊した脱がせたい派事件の事である。口頭で伝わる内に、些か話が膨らんでしまったようだ。
「あの娘が生きていられるのも、未だ陛下が手を出していないだけだろう。あのエドヴァルド陛下と夜を共にし、生きて戻れるとは到底思えんからな」
相手が息絶えるような野蛮な性行為しかしないと思われているとは、とんだ濡れ衣である。だが、いかんせん仕方がない。彼らにとってエドヴァルドは暴虐で無慈悲、力のみで玉座まで登り詰めた至上の王。何よりも、あれほど恐ろしい容姿を持つ彼が、乙女の如くらぶえっちを所望しているとは夢にも思わないだけなのだ。
「陛下の気紛れひとつであの娘は死ぬ。例えば今頃…張り裂けそうになりながら泣き喚いていても可笑しくはない」
自身の左眼の傷を撫でながら、グレーゲルは笑う。実際にエドヴァルドと相対し膝をついた彼だからこそ、主君の恐ろしさは誰よりも知っている。
ところがそんなグレーゲルでも知りはしない。今この瞬間実際に泣き喚きたい気持ちになっているのは、その王であるとは。心が張り裂けそうになっているのはエドヴァルドの方であるとは、露ほどに思ってはいないのだ。
今夜もやっぱり、セックスはできない。