表裏一体
初?挑戦した自称現代SF短編小説。
存分にお楽しみくださいませ。
自動運転の路面都市バスから降りると、ちょうど空が橙色に染まり始めていた。と言ってもそんなに長い時間は経っておらず、バスに乗っていたのはほんの二〇分程度だった。
むせ返るような暑さと、街路樹の蝉たちの大合唱がやかましいとは思ったもののそれ以上の感情は何もない。
腕時計を見れば、ようやく五時を回ったところ。
私――芽庵未莉は料理部の活動が予定外に早く終わり、まっすぐ家へ帰って課題に取り掛かろうと考えていたが、少々気が変わって作り余った肉じゃがを祖父に食べてもらおうと思い立った。
思えばこれが、なにかの始まりだったのかもしれない。
高校と家があるA地区からわざわざバスに乗り、こうして祖父の仕事場である都市庁と病院などを併設した複合型超高層ビルがあるJ地区にやってきているのである。
言い忘れていたが、私の祖父はここ――「希求都市」の創立者であり都市のトップの人間だ。世界一平和で最先端技術を駆使した「希求都市」内部はメディア公開されておらず、都市自体も城塞のような壁で覆われているため、外部からの出入りも極力制限されているほどの隠密ぶりだ。
ちなみに世界一平和というのは、都市の創立から今まで犯罪発生率が〇%という驚異的な保安状況から。そもそも市民にとって犯罪というのは言葉であり単なる知識でしかないのだから、実際に起こり得るはずがない。
私も含めて、それ以上のなんにでもないというのが普通なのだ。
そろそろ暑さに耐えきれなくなって西日を反射するビルの中へ足を踏み入れると、途端に世界が変わる。
祖父が普段いる市長室は、なぜか併設する総合病院の最上階にあるためそちらへ移動したのだが、今日は事前に連絡していなかったのが凶と出た。
「あいにく市長は会議中ですが……、お呼びいたしましょうか? 」
受付の女性が終わるまで待つかではなく呼び出そうかと聞いてきたのは、私が都市創立者の孫というのを既知しているからだろう。孫に甘い祖父はきっと会議を中断してでも来てくれるであろうが、わざわざそうさせるほどの用事でもない。
肉じゃがの入った包みをその女性に託し、私は再度エレベーターに乗った。帰りのバス停がこの病院の建物に近いので今度は一階のボタンを押し、ドアが閉まる。
最後まで祖父が居留守を使っていることに、気付くはずもなかった。
* * * * * * * * * * * *
西日が差し込む市長室にて。
居留守を使った張本人は、孫がエレベーターへ向かう防犯カメラの映像を見て、耳につけた小型通信機のボタンを押した。
『A〇〇〇三。今、一階か。』
『はい。』
『そこから離れなさい。孫と接触することは禁ずる。』
『了解しました、老師・芽庵。』
通信が切れると、不服にもその顔は醜く歪んでいるようにしか見えなかった。
* * * * * * * * * * * *
空色が移り変わる黄昏どき――。
一階のロビーには、人がまばらだった。祖父に会えなかったのは残念だが、のんびりしていては父が仕事から帰ってきてしまう。母はずっと前に他界しているため、家事全般を担っている私は夕食の準備をしなければならない。
多少足早になりながら病院を出ようとしたそのとき。
私の前を白いものがフッと横切った。
反射的にそれを目で追ってしまった私の視線の先には制服に白衣を羽織った少女がいて、こちらを横目で見たときに視線が交差する。
私は背中に悪寒が走ったと同時に、目を大きく見開く。
その顔を知らないわけがなかった。
彼女はすぐに背を向けて去っていくが、私は追わなければならないと本能的な何かに支配されて、気付けば病院内のどこかの人気のない廊下を歩いていた。
彼女が右折した角を私も曲がったが、その先の廊下に姿はない。
そのかわり、少し先に白いものが落ちている。
拾い上げるとそれは紙切れで、表面には走り書きの乱れた字で短く綴られていた。
「影を知りたくば、明日午後二時、この場所で。」
おそらく彼女が故意に落としていったのだろう。
彼女は一体何者で、何の目的でこのメッセージを残していったのかは分からなかったが、私は見てはいけないものを見てしまったかのような、変な感覚だった。まるで彼女自身がその大きな影の一部ではないかと思えて、気味悪さと冷や汗が止まらない。
こんな体験をしたのは初めてだった。
半分上の空で帰路についたものの夕食を作る気分にもなれず、結局冷蔵庫にあった残り物の有り合わせで済ませて早々に自室に引っ込んだ。ちなみに父は急に仕事が入ったのか、数日は家に帰れないとだけ連絡してきたので、久しぶりに家に一人の夜である。
だが今は、一人でいるのが嫌だった。
そう思ったこと自体も初めてだったし、それに日中見た少女の顔が頭から離れなかった。
その先を知ってはいけないような気はしている。
止まらない背筋の震えと、闇の中から何かが追いかけてくるような感覚。
それは知識でしかなかった恐怖、そのものだった。
なぜこんな気持ちになるのか。
なぜこんな気持ちになったのが初めてなのか。
わからない。自分の中にある心が、少しだけ濁ったような気がした。
その日は一睡もできなかった。
* * * * * * * * * * * *
翌日。
人生で初の不眠を経験した私は、史上最強に気分が良くなかった。いつもは普通に学校に行くはずなのに、今日は体が重い。心ももやもやとしているせいか、余計に気分がすっきりしない。今日は午前授業のはずなのに、学校に行く気にもならない。
どうしてこんな気分なんだろうか。
学校で授業を受けているときも、何かが違う。
先生や生徒、道ですれ違う都市の人々。
人と違う。自分だけが違う。
何かが決定的に違っていた。
そして今、ちょうど時計が午後二時を指した頃。
私は制服のまま、昨日彼女が紙を落としていった病院の部屋の前に立っている。ドアのプラカードには「休憩室」とだけ書かれていた。
決して開けてはならないパンドラの箱に、手もかけようとしないのが今までの私だった。だが、何かが変わり始めている今の私はその中身を知りたいと思い、手を伸ばしている。
自動だったのかそれとも内側から開けられたのか、いきなり無音で開いたドアの先には、昨日の少女が立っていた。
「影を知る覚悟ができたみたいね、芽庵未莉。」
私と全く同じ顔の彼女が言葉を紡ぐが、あらぬことか声までそっくりだった。これが昨日私を驚愕させた理由である。
それにしても世界には自分と同じ顔の人が三人はいる、というのも伊達ではない。まさかとは思うが、人口約百万人の都市内にいたのだからなおさらだ。少なくとも私はそう思っていた。
私が無言で一歩を踏み出すとすぐ後ろでドアが閉まり、電子ロックがかかる。室内は机と椅子、飲み物や軽食の自動販売機があるだけの殺風景な休憩室だった。
「すべてのものには裏がある。紙もコインも、そして『希求都市』にも。それは私たち人間も同じ。表がいれば、裏がいる。」
突然何を言い出したかと思えば、彼女はそう言って微笑みを浮かべた。それはゾッとするような不敵な笑みだった。
あり得ないと一瞬は思った。だが私は気づいてしまった。
視線の先で笑う彼女が――。
もうひとりの私だということに。
「どういう、こと……?」
たっぷり膠着していた私の口からこぼれ出たのは、裏返ったような困惑の声だった。驚愕の事実に、頭の中は早くも思考停止に追い込まれている。
そんな私の姿を見ても彼女の笑みは揺るぎもせず、小脇に抱えていた書類を差し出してくる。電子媒体が主流の現代において紙媒体は非常に珍しく、今でも使われているのはネットワーク上では管理できない重要な機密情報くらいだ。その書類にもマル秘の印が押されていた。
「表裏分離計画 計画および被験体について」
そう表題がつけられた書類をぱらぱらとめくっても訳のわからない研究や用語が並んでいるだけで、ただの高校生にはさっぱり理解できない内容である。
「表裏分離計画。それは『希求都市』を舞台に秘密裏に行われている計画。都市を創立した老師・芽庵、あなたの祖父を中心として計画が進行中であり、『希求都市』はこの計画のために作られたゲーム盤であるということ。」
彼女がかみ砕いて説明し始める。
「簡単に言えば人間の持つ心を二つに分離し、よいもののみ残すことを目的としている計画よ。心を分離する技術の開発に成功した彼らは、表の心を持つ人が暮らすために『希求都市』を作った。裏の心がないのだから、犯罪なんて、争いなんて起こるわけがない。これが世界一平和な都市の裏側ってわけ。」
彼女の話は分かりやすかったが、そもそも話が壮大すぎる。
「……でも待って。それじゃあ、あなたはなんなのよ。まさかドッペルゲンガーとか非論理的な生命体ってわけ?」
率直な疑問に彼女は答えず、黙って私が持っている書類のページをめくり、ある部分を指さした。
そこには、私の想像を遥かに凌駕する事実が記されていた。
「クローン人間製造技術の開発!? 嘘よ、だってヒトクローンの個体産生は……。」
そこまで言いかけた私はハッと我に返って目の前に立つ彼女を見る。
「ま、まさかっ!? 」
私が固まるのをよそに彼女はワイシャツのボタンを二つほど外すと、鎖骨のあたりを露出させた。
そこには肌を焼いたような跡があり、A〇〇〇三と刻まれていた。
「私は個体番号A〇〇〇三、芽庵未莉のクローン。そしてあなたの裏の心を持つ、もう一人のあなた。」
彼女の口は笑っていたが、目は笑っていなかった。
私はもはや言葉も出ずに、口を開けたまま唖然としていた。
一九九〇年代からクローン技術の開発は行われていた。だが長い月日が流れた現代になっても、クローン技術を用いたヒトクローンの個体産生は国際会議で取り決められた国際条例により厳しい規定がなされ、適用自体が禁止されている。
尊敬していた祖父を中心として、想像を絶する計画が進んでいることにショックを受けていた最中の、強烈なダブルショックである。それが世界をも揺るがす重罪に手を出していたというのだからなおさらだ。
それとは裏腹に、彼女は淡々と追い討ちをかけてくる。
「さらに、ヒトクローンの製造に成功した彼らは都市の人々の個体を量産。いらないものである裏の心のみをそれに移し、裏の心を完全に消し去る技術が開発されるまでの期間限定で保管するゴミ箱を作っ……。」
言葉を切った彼女の顔が途端に厳しくなり、視線がドアの方に向いた。釣られた私も振り向くと、スモークガラス越しにいくつかの人影が見え、ところどころ声も聞こえてくる。
「……っ、気づかれたかも。こっち! 」
私の顔で強烈に舌打ちした彼女は、まだ立ち尽くしている私を半ば強引に引っ張って部屋の奥にある自動販売機に向かい、電子パネルに指紋認証と長いコマンドの番号を素早く打った。
なにをしているのかと聞くまでもなくすぐに自動販売機が横にずれ、元の場所には円柱型の鉄の箱が口を開けている。それに転がり込むと閉まり、高速で地下へと降下しているのが感じられた。
どうやら追っ手がいることは確かなようだ。
しかしそこまでの危険を冒して私と接触する理由がわからない。計画に対してはそもそもわからないことだらけであり、真意も読めないのだからここは置いておくとして、私の裏の心を持ち、極秘の「表裏分離計画」を知っているほどの内部の人間である彼女が今になって反旗を翻すというのも不自然である。
なにかまだ、私が知らない影がある。
物思いにふけっていると再び口が開き、何台かの小型リニアカーが配備されてある地下道に出た。その先には地獄へ繋がっていそうな先の見えない地下トンネルがあり、まさに隠し通路という具合だ。
小型リニアカーの中に私を押し込んだ彼女は隣で運転パネルを操作しており、まもなく激しいGとともに車体が動き始める。
どこへ向かっているのかというのも疑問にあったが、それよりも聞かなければならないことがあった。
「どうしてわざわざ私に極秘の計画を? 」
彼女は少しだけ考えて、口を開いた。
「心がきれいなあなたが許せなかった、っていうのが一つ。元々一人の人間だった芽庵未莉が二つに分けられ、裏の私が非人道的な計画で手を汚しているというのに、表のあなたは何も知らずに犯罪のない、争いのない、エデンの園で暮らしているなんて。」
彼女の言葉から溢れるのは、怒りというより憎しみだった。
「私だけじゃない。心を分けられ、ゴミ箱に押し込められた誰もが思っているはずよ。片方の自分は人間として認められているのに、もう片方の自分はただのゴミでしかないなんて、とね。」
小型リニアカーが減速し始め、やがて止まった。
無言で降車し地上に続く階段を上り始める彼女の背中を追いながら、私は考えていた。
私の隣にもう一人の私がいるように、「希求都市」の住民約百万人にも別の自分がいて、その彼らはいつか消されるゴミ扱いされている。
確かに彼らがもう一人の自分に憎しみを抱いても不思議ではない。
そこで私はあることに気がつく。
「希求都市」の百万人とは別の百万人が住む場所がある。
「すべてのものには裏がある。そして、「希求都市」にも。」
あの彼女の物言い。彼女が「ゴミ箱」と皮肉る場所。
私たちが「ガーベージ」と呼ぶ、都市郊外の大規模廃棄場。
もしそれらが、同じ場所を指しているとしたら。
階段を上りきった彼女が、電子ロックを解除して扉を開く。
目に入ってきたのは、見覚えがある総合病院前のパノラマ。
だが、私が知っている「希求都市」の風景ではなかった。
やけに近く感じる曇り空はドーム状に世界を覆っている。よく見れば本物の空ではなく、ドーム状に組まれたパネルを使った人口の空だ。
歩く人々の瞳は暗く、あちこちから言い争う喧騒が聞こえてくる。
この空間全体から、暗雲のように重い焦燥感が漂っている。
「希求都市」と同じであるが、「希求都市」ではない。
「希求都市」を模倣した閉鎖的空間、いわば大きな牢獄のようだった。
彼女がまた、不敵な笑みを浮かべて言った。
「ようこそ、『廃棄都市』へ。」
ここが、彼女の都市。いや、彼女を含む裏の心を持つ百万人が暮らす都市なのだ。
もう驚きはしない。むしろ、妙な納得感があった。
そもそも、私の家があるA地区は「希求都市」の端にあり、少し歩けば都市を囲む高い壁、その向こうには巨大なドームに覆われた廃棄場が見えていた。都市と同じ広さのゴミの廃棄場と聞かされていたとはいえ、その広さに疑問を持たなかったのも今では不思議なくらいである。
「わかるでしょう、私たちがゴミ箱と揶揄する訳が。『希求都市』から捨てられた、まさに『廃棄都市』だもの。」
棘を含んだ言葉とは裏腹に陽気な声音で言った彼女は、おいでと言わんばかりに手をひらひらさせながら病院の建物へ入っていく。
それを追って中へ入ると、ロビーには人が一人もいなかった。
中央まで足を進めたところで、彼女が半身だけ振り返る。
「さっきの質問の答えだけど、もう一つあるの。」
質問とは、私が投げかけた「私と接触する理由」であろう。
彼女の顔から、一切の感情が消えた。
「このままだと次は私、いえ私たちが犠牲になる――。」
どういう意味なのか全く理解できなかった。
だが私の中に「犠牲=死」という恐怖が湧き上がってくる。
「ヒトクローンの個体産生は百歩譲るとして、この計画が誰も犠牲にならない、きれいごとの塊だと思っているなら大きな見当違いよ。この計画には、既に二人、昨日で三人目の犠牲者が出ているもの。」
「犠牲者とはあんまりな物言いじゃないかね。」
突然の第三者の声に二人して入り口に顔を向ける。
そこには、ことの発端である祖父が悠然と立っていた。
後ろに研究員や科学者らしき上層部の人間を大勢従えて。
「やはり君にGPSを埋め込んでおいて正解だったよ。かわいい孫に余計なことを吹き込んでくれるとは思わなかったがね。」
朗らかに言う祖父をよそに、彼女は蒼白な表情でその場に固まったままぴたりとも動かない。あえて言うならば、手が小刻みに震えているようだった。
聞くことは山ほどあったのだが、私は根本である計画についての資料を恐る恐る掲げる。
「お祖父ちゃん、この計画は本当なの? 」
彼女に向けられていた祖父の視線がこちらへ向く。
「ああ、そうだよ。もっとも計画に犠牲者など出ないがね。」
「嘘よ! あなたは殺したじゃない! 」
彼女の叫びがロビーにこだまする。
射殺されそうなほどきつい視線のまま歩み寄ってきた彼女は、私の手から書類をむしり取って乱雑に紙をめくっていく。
そして三人の顔写真が載ったページをこれまでもかと、突きつけた。
「昨日までに三人。あなたの身勝手な感情から生まれたこの計画が、私たちから大切な人たちを奪っていった。」
その資料を覗き込んだ私は、声にならない悲鳴を上げた。
『実験失敗個体リスト
・芽庵 光(長女) 個体番号A〇〇〇一
分離実験段階の失敗により心が消失。旧研究所内に収容。
・芽庵 星(次女) 個体番号A〇〇〇二
分離実験後のクローンへの心の移行の際に急変。両個体とも狂死。
・芽庵 飛影(長女の夫) 個体番号A〇〇〇四
邪心消失実験の際に何らかの異常で表の心も消失。旧研究所内に収容。』
三人は、病死したと聞かされていた母、同じく病死した叔母、そして昨日メールをくれたはずの父だった。
犠牲者はいないなんて、根も葉もない大嘘ではないか。
祖父は慌てる様子もなく、ただ困ったような顔をしただけだった。
「訂正しよう。一人は命を落としている。だが二人は生きているよ。」
確かに父と母は心が喪失したとは書いてあるものの、死亡という文字はない。
しかし私は、まだ知らなかった。
心を失うということがどういうことなのか。
「こちらへ来なさい。」
そう言った祖父が、私たちを追い越してロビーの奥の方へ歩いてゆく。
その背中が拒否は許されないと語っていた。
* * * * * * * * * * * *
連れてこられたのは、地下奥深くの部屋だった。
元々病院が研究所の一部であること自体初耳だったが、「希求都市」の方に主要を移したとはいえ内部はまだ古びた感じはしていない。部屋内に設置された機器はどれも稼動している。
そしてガラスで隔てられた向こうには二台のベッドが並んでおり、二人の男女が横たわっていた。
「お父さん、お母さん……。」 母の顔は覚えていなかったが、父が玄関に大切に飾っている写真の顔と変わっていなかった。
私はガラスに張り付きながら彼らと視線を合わせようとして、ある異変に気がついた。
確かに二人は目を開いたまま、自発呼吸もできている。
だが瞬きがない。目は上を向いているがどこも見ていない。
まるで、魂が抜けた抜け殻だった。
自分で生きているというより、生かされていると言った方がいいのかもしれない。
「心を失った人間は生理的な活動しかできなくなる。ただ呼吸をしているだけで、外から栄養を与えなければ生きながらえられない彼らを見ても、それでも生きているって、自分は殺してないって言えるの!? 」
張り裂けそうな声で、彼女がもう一人の私の心を代弁する。
「そうだ。医学的には生きているのだよ。殺したわけではない。」
「悪魔だわ。」
吐き捨てるように言った彼女の言葉はあながち間違っていないと思う。私から見ても、今の祖父は優しい雰囲気は微塵もなく恐怖の対象となっていた。
祖父は父と母を殺してはいなかった。だが、二人の心を殺した。
それはある意味、犠牲者と言って違いなかった。
彼女は重い溜息を吐いて言う。
「この際、過去のことは百歩譲って水に流してもいい。だけど、これ以上計画を進めるべきではないわ、老師・芽庵。邪心消失実験は人の域を超えている。」
彼女が何も知らない私に気を遣って見せてくれた資料には、その実験のことも書いてあった。つまり邪心消失実験とは、ヒトクローンに移行した裏の心を完全に消去する実験であり、表裏分離計画の最終段階に位置しているようだった。さらに皮肉にも、父を被験体として昨日行われた実験は失敗し、三人目の犠牲者を出す羽目になっている。
彼女の言葉を聞いた祖父は、突然狂ったように笑い始めた。
「人の域を超えている? 何を今さら。A〇〇〇三、君こそ明日の実験に怖気づいているんじゃないかね。」
図星だったのか、彼女の瞳が大きく揺らぐ。
そして私もようやく彼女が今になって私に接触してきた理由と、ロビーで言っていた意味深げな言葉の意味を悟った。
要するに私たちは明日、邪心消失実験の二番目の被験体になる予定だったのだ。昨日の実験で父が心を失ったのを見て、次は自分だと知っていたから私に接触を試みたというわけだろう。
ある意味何も知らなかった私は間一髪だった。それと同時に、尊敬の念さえ抱いていた祖父に対して、胸の奥からふつふつとわきあがってくるものがある。
「片方のみを消去する実験はリスクが高すぎる。これ以上、あなたの計画のために誰かが犠牲になる必要がない判断した上での勧告よ。」
確かに心を分離した時のメリットは大いにあると私も思っている。犯罪、争いがない世界は平和だ。さらに裏がなくなれば世界平和も夢ではない。
しかしそのために犠牲になる人がいてはならないのだ。
また困ったような笑みを浮かべて何も言わない祖父を見た彼女は、痛いほど拳を握りしめ、唇を噛んでいた。
「表と裏は一体、それは絶対的領域。昨日の実験もそう。表と裏、どちらかが消えればもう片方も消えるのよ! なぜそれが分からないの!? 」
迸る悲痛な叫び。流れ落ちてゆく無数の滴。
彼女は泣いていた。
もう一人の私が、私が失った涙を流し、失った心から叫んでいた。
それでも、祖父の心には届かなかった。
「私は計画を完遂させなければならないのだよ。死んだ妻のために。」
祖父の言葉はひどく冷たかった。
無言で後ろに控えていた白衣の男女が追い打ちをかけるように入り口をふさぎ、数人がこちらへゆっくりと歩み寄ってくる。きっと私たちを拘束して、実験を前倒しさせるか明日まで監禁しておくつもりなのだろう。
どのみち八方ふさがりである。
私は声を上げて泣く彼女を支えたまま、何もできなかった。
白衣の男の手が伸びてくる。
「ならば仕方がない。」
首筋に冷たい感覚と、ゾッとするような悪魔のささやき。
白衣の彼らが一瞬にして蒼白な表情になり、飛びのけるように私たちのもとから離れていった。
もう一人の私が、私に鋭利な刃物を突き付けていた。
そして空いていた手でポケットを探り、ボタン付きのリモコンのようなものと取り出す。
「過去の実験は水に流す。老師・芽庵、邪心消失実験を中止して。さもなくば、あなたの大切な孫を殺し、ボタン一つですべてが滅びる。」
祖父の表情が、初めて険しいものとなった。
「このボタンを押せば、計画のすべてのデータが都市外部の情報機関及び日本政府にリークされるようにプログラムされている。さらに、邪心消失実験のデータと機器については一切抹消される。」
ただの高校生にすぎなかった私に比べ、彼女は祖父の身内の分身として計画に参加していたのもあってか、最後の切り札を用意していたらへんは用意周到だった。その内容については、本当に都市を破滅に追い込みかねない内容だったが。
もう一人の私に刃物を突きつけられているという状況の私は恐怖というよりか、変な気分でもあった。何しろ、私が私を殺そうとしているのだから。その甲斐あってか、意外と冷静であった。
「A〇〇〇三、馬鹿なことはやめなさい。都市の内情が明らかになれば、君とて市民とてどうなるかわからない。」
祖父が言うことも一理あり、ヒトクローンや心の分離験についてが明かされれば、市民が実情把握のための調査や検査の対象になる。ヒトクローンの彼らに関しては、扱い的にどうなるのか分からない。
それでも、この非人道的な実験により犠牲者が出るよりはいい。
彼女も意見は同じようだった。
「元々人の心を分けるなんて間違っていたのよ。結局表が良くなっただけで、裏では犯罪や争いが絶えなかった。それに人は表と裏両方があって、一人の人間。それでいいじゃない。」
「希求都市」には犯罪がなかった。笑顔はあったけれど、驚きや悲しみはなかった。それらはすべて悪いもの、裏の心として切り離されていた。だから私たちは知識ではあったものの、非日常的な驚きや悲しみからくる涙を見たことも感じたこともなかった。それがある意味悪いことが起こらない最善の策だろうが、裏の心しか持たないもう一人の私が教えてくれた。
私たちは一つであるべきなのだと。
そう思ったら、自然と彼女が持つリモコンに手が伸びていた。
「未莉、なぜだ。君まで私を否定するのか。」
私は首を縦にも横にも降らなかった。
これが最初で最後の祖父への反抗だったのかもしれない。
「彼女はもう一人の私で、私はもう一人の彼女。だから彼女の意思は私の意思でもあるのよ、お祖父ちゃん。」
いつの間にか突きつけていた刃物を下ろした彼女と目が合うと、私と同じ顔で笑っていた。
祖父が声を荒げて何かを言っていたが、私たちには聞こえなかった。
私たちはそのボタンを押した――。
それは理想郷の静かな崩壊の始まり。
そして、表と裏が一つになるとき。
時計を見れば、くしくも黄昏どきだった。
* * * * * * * * * * * *
「希求都市」と「廃棄都市」は数日の間に崩壊した。
人の範囲を逸脱した「表裏分離計画」に世界が揺れ、国連が主催する国際会議が緊急で招集されたほどであった。
祖父ら関わったすべての人が逮捕され、今も世界法廷で審議が続いている。恐らく、厳罰は免れられないであろう。
何も知らなかった人々は、開発済みであった表裏結合技術により一つとなり、同じ都市で暮らしている。
心を失った父と母は、やはり元には戻らなかった。
そして最後の最後に私たちは一つになった。
計らいにより唯一罰則を免れた彼女は、最後まで人々のために結合技術を付与していた。裏の心を持つ彼女にも、人を思いやる気持ちや笑顔を見せる一面があったのだ。
人の心はきっと、表と裏にはっきり分けることはできないのだと思う。どの感情がいいとか悪いとか、それは人に決められるものではない。
だからこそ、一つでなければならないのだった。
彼女は今、私の中にいる。
みんながみんなそうだから時には嫌なことも経験した。
でもそのおかげで私は笑ったり、泣いたり、怒ったりできる。
人間、それでいいのだ。
* * * * * * * * * * * *
そして半年の月日が過ぎた今日――。
表と裏は一つとなって、「希望都市」として再スタートを切る。
FIN.
こんにちは。作者の前野巫琴です。
『表裏一体』をお読みいただき、ありがとうございます。
冒頭にも書きましたが、今回はSFに初挑戦してみました。なぜはてなかというと、はるか彼方に書いたような書いてないような……ようするに作者が忘れてしまっているだけです。それにSFとはサイエンスファンタジーでしたっけ、あれ……とアホ丸出しですが、私的にはSFのつもりで書いてました、はい。
ズレまくっていたらすみません。
さて『表裏一体』ですが、いつだか「表と裏」というテーマで練ったプロットが元ネタです。本当はもっとゆっくり話を進めたかったのですが、諸事情により少々駆け足どころか大爆走の展開になってしまいました。お察し下され。
一応主人公として芽庵未莉を設定し、冒頭こそ彼女が話の主流だったのですが、物語が進むにつれて彼女のクローンの言動が目立つようになります。ちょっとした理由ですが、表の心しか持たない彼女は反抗心やネガティブな思想、疑問が一切ないので、後半はその感情をすべて持っているクローンが感情を爆発させるということです。ここで裏の心を持たない主人公が「知識でしかない」とか「初めてだった」とか妙な表現をする理由も合わせてお分かりいただけると思います。(説明が下手でしたら謝ります)
ちなみにですが、苗字の芽庵は「明暗」からです。(脱線)
テーマの「裏と表」、けっこう難しいですよね。作者の私でさえ物語の中で正確には分けられていません。正直なところ、分けられないというのが本音でしょうか。私でなくとも、この領域は誰であっても分けられないものなのでしょうね。みなさんはどうでしょうか。
最後になりますが、あとがきまで前野の稚拙な文章に目を通してくださった皆様、ありがとうございました。
それではまたお目にかかれる日まで。