猿夢の怪 その三
調査を終えて帰宅したころには、すっかり夜になっていた。
幸いにも、口裂け女の気配はどこにもなかった。
ほっとしつつ、ドアノブに手をかける。
――わん!
「うん?」
扉の奥で、犬の鳴き声がきこえたような気がする。
なんだろう……と思いつつ家に入る。
「わんわん!」
と、玄関にいたポメラニアンが、そのままわたしの足にすがりついてきた。
思わず夢中でなでてしまいつつ、はたと気づく。
「ポメ? どうしてここに?」
このポメラニアンは、普通の犬じゃない。
わたしの友だちの、『心』からうまれた子なのだ。
ややあって、ポメはわたしと一緒にいる。
とりあえずポメを抱きあげて、わたしはリビングにむかう。
「怜。口裂け女はどうじゃった?」
巫女服で、甘酒をあおっている女性。
豊満な胸元をのぞかせる彼女こそ、狸の大妖怪である隠神刑部様だ。
いまはわたしの身元引受人だから、普段から大人の女性に化けている。
「えっと。口裂け女はいなかったんですけれど……」
隠神刑部様と食卓についている人物をみて、わたしは言葉をうしなった。
「わ……わたしがいる?」
そこには、わたしそっくりな子がいた。
もし野生だったら、木や土の穴に暮らしていそうな小動物系。
ちいさいころ、ポニーテールにしている母のことをリスみたいだと思っていたけれど、わたしにもきっちりその血が受け継がれているとわかる。
低血圧っぽくわたしのパジャマを着ているその姿は、わたしそのものだった。
「怜。そこにおるのは陽魔よ」
「ヨーマ?」
すると、ヨーマが不承不承と言った。
「おれは……抵抗したんだからな」
不満げなヨーマをよそに、隠神刑部様は愉快げにつづける。
「ちいさくなった陽魔をよう見たら、怜に似ておったからな。これはと思ってカツラを作って仕上げてみたのよ。どうだ、ぬしそっくりであろう?」
「たしかに……」
声はちがうけれど、見た目はわたしと瓜二つだ。
ぶすっとしているところをみると、性格までおなじに思えてしまう。
「どうじゃ怜。その陽魔なら、まぐわうのもよかろ?」
隠神刑部様はころころと笑う。
「全然よくないです」
わたしはもちろん拒絶する。
隠神刑部様はフフフと笑った。
「天と地、昼と夜……そして男と女。それらはもともとひとつだったものが、ひとたびわかれて命を孕むもの。カガミの術も同様、この儀式を経てようやく一人前よの」
「そういわれても……」
陰陽術が伝わる家系には、それぞれ秘中の術がある。
わたしのカガミの家系では、己の心を鏡写しにしたモノノケ……つまりもう一人の自分が、それにあたる。
まぐわいとは、つまり男女の情事だ。
わたしは女だから、男の陽魔が姿をあらわした。
ちなみに男であれば、女の陰魔があらわれるという。
「まぐわいとはいっても、つまりは陽魔の力を受け入れさえすればよいのじゃ」
「まぐわいをしなくてもいいってことですか?」
「うむ。破瓜の血を流さずとも、直会をすればな」
そう言って、隠神刑部様は甘酒を喉に流し込む。
直会というのは、神事にかかわる食事のことだ。
陽魔の力を直会すればいいというのは、つまり……口から、ということだ。
「あの、そっちのほうが無理なんですけれど……」
いいながら、わたしはテーブルに着く。
隠神刑部様はゆったりとくつろぎながら、
「なあに、無理にとはいわん。おぬしたちのペースで進めるとよい」
と、おだやかにわたしに笑う。
いっそ東雲みたいにシビアに命じてくれれば、わたしは文句をいわずに従うのに。
怪異退治のためなら、わたしはなんでもやるつもりだ。
……と思ったけれど。
やっぱり、まぐわえっていうのは別問題かもしれない。
「まあ……ないとは思うが、陽魔がほかのものにとられないようにだけは気をつけておくのだぞ」
「陽魔がとられる?」
「うむ。陽魔は、外に出たぬしの力そのもの。もしほかのものと陽魔がまぐわえば、まぐわったものに力が奪われてしまう。めんこいこやつのことじゃ、誘惑してくるものがあらわれんともかぎらぬ」
「むう……」
わたしが眉を寄せていると、
「心配しなくても、その……おれは浮気なんてしないよ」
ヨーマはわたしを見ると、ふいっと顔を背けた。
「んん?」
ヨーマの耳が赤い。
その反応は……まるで、照れているかのようだ。
「うふ。せいぜい、陽魔と仲良くすることじゃ。おぬしにとっての試練は、じぶんを好きになることよ」
陽魔をみてみる。
彼は、わたしの鏡写しの姿。
彼を好きになる、とはいっても……まぐわうなんて、いまは想像ができない。
「ところで……口裂け女の件、人死にはでておらんかったようじゃな」
「はい。やっぱりだれかのいたずらだと思います。東雲は気にしてましたけれど」
「そうか」
隠神刑部様は、空になっているぐい呑みに視線を落とす。
「怜。すまんが、もう一度あの街に行ってはくれぬか」
「かまいませんけれど……なにをするんですか?」
「なに、たずねて欲しい者がおってな。住所はここに書いておる」
隠神刑部様は、テーブルに紙片を差し出した。
受けとって、ながめてみる。
住所の下には……むずかしい名前が書いてある。
ありがたいことに、ふりがなをふってくれている。
「……勅使河原徹? 知り合いなんですか?」
何をしている人なんだろうと思いながらたずねると、
「ああ。おぬしの父親の古い友達じゃ」
父親、と聞いて息が止まる。
「お父さんの……」
わたしの両親。
二人とも、すでにこの世にはいない。
退魔師だった二人は、わたしがちいさいころに怪異の手にかかってしまった。
「なに、そろそろおぬしにもその者のことを教えてもいいころだろうと思うてよ。一度話を聞いてみるがよかろ」
「はい……ありがとうございます」
お父さんの、古い友達。
勅使河原という男性は、いったいどんな人なのだろう。
気になりつつ、わたしは夕食をすませてお風呂に入った。
シャワーをあびてお風呂からでると、ポメがお行儀よく待っていた。
わたしを見つめて、ちょこんとお座りをしている。
わさわさと、しっぽが揺れていた。
……とてもかわいい。
これはもうベッドに攫うしかない……と決めて、わたしはポメを抱えて部屋に入った。
就寝支度を終えると、ベッドに寝転ぶ。
スマホをいじって、アコちゃんのSNSを開いてみた。
いままではこうしたものは見なかったけれど、アコちゃんと親しくなってからは変わってきた。
この時代に新しく生まれた、人との繋がり方だ。
アコちゃんのSNSにも、いろんな人がコメントや評価を残してゆく。
わたしといっしょの写真も、ずいぶんと増えた。
わたしもアカウントを作ろうかな……と考えて、どんな写真を投稿したらいいのかわからないということに気がつく。
そうこうしてるうちに、ポメが布団に潜り込んできた。
足下で丸まるポメを感じつつ、わたしもうとうとして眠ってしまった。