猿夢の怪 その一
よどみに浮かぶうたかたは、
かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし。
方丈記/鴨長明
「ねえ、猿夢って知ってる?」
日曜日の朝、バスの中。
うとうとしていると、そんな噂話がきこえてきた。
わたしは目をとじる。
そして、彼女たちの会話に耳をすませた。
「……猿夢って、猿の列車が夢にでてくるやつ?」
「そうそう。駅に着くたびに、拷問されてころされちゃうってやつ」
「ふうん。それがどうかした?」
「それがね、私……昨日見ちゃったんだよね」
思わず、携えたなぎなたを握る。
噂話は、わたしのお役目にも関係があるからだ。
――都市伝説の化け物。
それらは時代ごとに生まれて、さまざまな地域に広がってゆく。
彼らの根源は、うつろいゆく社会の闇だ。
現世に暮らす魂が、時代の闇によどんでいくと……まるで病気のように行動が典型的になり、そうやって都市伝説の原型ができあがっていく。
よく耳にする人面犬、口裂け女、メリーさん……といった某は、名前を得た疫のリストともいえるのだ。
わたしたちはそういった都市伝説に名をつらねるものを、『怪異』とよんでいる。
「……それで、どんな夢だったの?」
「えっとね。私がいたのは地下鉄のなかだったんだよね。ずっとトンネルを走ってたから、たぶん地下鉄だなって感じ。私のほかに乗客はいなくって、私、いろんな車両を探しまわってたの。そうしてるうちに電車がとまって……」
「まさか、拷問がはじまったの?」
「うーん。それが、なんにも起きなかったんだよね。あいかわらず、だれも乗ってこなかったし」
「え、それってただの電車の夢じゃん。どこが猿夢なの?」
「それがね、電車がうごきはじめて、私が外をみたときなんだけれど……」
――おおきな猿の顔が、窓のそとからこっちを見てたんだよね。
彼女はそういうと、深いため息をついた。
「……私、つぎは猿にころされちゃうのかな」
「うーん……ていうか、それって百キロババアの話とごっちゃになってる気がするんだけれど」
「……あ」
言われてみればそうかも。
と、女の子がハッとした声でいった。
――百キロババアとは、走っている車とならんで走る老婆のことである。
ちなみに、この老婆は実際に存在する。
だけれど……彼女たちは怪異ではなく、妖怪に属するものたちだ。
つまり、人間をびっくりさせるけれど、害はない存在なのだ。
女の子たちは、お気楽な調子で話をつづける。
「どうせ寝る前に、スマホで怖い話でも見てたんでしょ。だからそんな悪夢なんて見ちゃったんだよ」
「うん……これからは、ちゃんと眠るようにする」
二人は笑う。
と……そのうちの一人と目が合ってしまった。
気まずくなって、目をそらす。
「……夢魔のたぐいですか。たしかに、そんな匂いがただよっていますねえ」
わたしの隣で、ふよふよと浮いていた青髪の烏天狗がひとりごちる。
彼は東雲という名の、わたしの退魔業のパートナーだ。
妖怪である彼の姿は、バスの乗客にはみえていない。
わたしはスマホを取りだして、するすると指をすべらせた。
――怪異がでたの?
わたしが打った文字をながめて、東雲は扇子で口許を隠す。
「そのようです。まあ夢魔のたぐいなら、アタシたちの出る幕じゃありませんが」
わたしはうなずく。
実体のない怪異といえば、こっくりさんやメリーさんがそうだ。
かれらの存在は、性質としては呪術にちかい。
わたしのようになぎなたを使う退魔師ではなくて、結界や呪を得意とする家系の出番になる。
気を張ってもしかたがない……と、わたしは背もたれに体重を預けた。
バスが止まる。
座席を人が行き交い、わたしは、窓のそとをのぞいた。
朝の繁華街は、まだ静けさに満ちている。
眠さをかみころしながら、人々の様子を探っているときだった。
「あの……怜先輩ですよねっ!」
話しかけられてしまった。
わたしは内心「ほぎゃー」と叫びながら対応する。
話しかけてきたのは、さっき目があった女の子だった。
この子は、猿夢の話をしていた子だ。
さっき、わたしの名前を呼んだ気がするけれど……。
「えっと……どちら様ですか?」
「私ですよ、私っ!」
ショートカットで明るい声。
ワンピースの似合う、フェミニンな女の子だ。
一度みたら、忘れられないような美人さんである。
だけれどやっぱり、わたしには見覚えがない。
「あ……そうか。この格好じゃわかりませんよね」
彼女ははにかむと、
「中学のなぎなた部で一緒だった、茉莉子ですよ。覚えてますか?」
「茉莉子ちゃん……?」
思い出した。
けれど……わたしの知る彼女とは、ずいぶんと印象がちがっていた。