人面犬の怪 間章
わたしは、布袋からなぎなたを取りだす。
とん、ぱん、となぎなたの手応えを確かめて、正面に構えた。
――怪異退治なら……何度だってやってきた。
怪異は、日没前に出てくることが多い。
秋には、こうして世界が真っ赤に染まる時間だ。
……ねえ、れっぴー。教えてよ――。
アコちゃんはそう言うと、わたしに飛びかかってきた。
たまらずなぎなたでいなすと、アコちゃんは、きゃん、と小さな悲鳴をあげた。
友達の顔をした犬。
しかも……まだ人の意識がある。
川辺はこんなに寒いのに、冷や汗がでる。
心を失っていない怪異は、いままで相手にしたことがない。
ましてや……。
「アコちゃん、正気に戻ってよ……!」
訴えるわたしに、もう一度、アコちゃんは牙を剥いてくる。
なぎなたで受けると、アコちゃんは爪を立てて必死にすがりついてきた。
「う……!」
暴れるアコちゃんを、わたしは払い落とす。
ぐおう、と小さく鳴いて、アコちゃんは地面に倒れた。
吐き気をもよおす光景に、頭がくらくらしてくる。
――息も、うまくできない。
むせて咳をしたわたしは、踵をかえして逃げ出した。
怪異から逃げるのは、はじめての経験だ。
人気のない路地まで走り、疲れて膝に手をつく。
ふと見上げると……空に、烏天狗たちがいた。
「怜さん。珍しく、苦戦しているようですねえ」
山伏姿で青い髪の一人が、わたしのもとへと降りてきた。
「東雲……連絡が遅いよ」
烏天狗の東雲。
怪異の対処をする、烏天狗の一人だ。
「遅いも早いもありゃしません。歪んでしまった人間は、遅かれ早かれ怪異になっちまいますから。それに、ああいった下級の怪異は匂いが薄いんですよ。力が弱いのはいいことですが……見つけにくいのが厄介ですね」
東雲は、へばっているわたしの背中に手を置いた。
烏のようなくちばしが、わたしの耳元に寄る。
「悩むことなどない。いつも通りにやればいいんです。彼女の心はまだ完全に怪異になっちゃいませんが、あの姿を見るに、四十九日まではもう日がないでしょう。だからせめて、早々にあなたの手で葬ってやるのはいかがです? あとはいつも通り、ワタシたちが、骨の髄まで供具団子にしてさしあげますよ」
供具団子。
それは、怪異の死骸を供物にしたものだ。
その団子を神仏にお供えし、烏天狗たちが直会することで、怪異は供養される。
つまり――わたしが倒した怪異は、烏天狗たちが食べて、片付けるのだ。
……わたしがそれを知ったのは、中学のなかばごろ。
この話を聞いたときは、怪異の元が人間や妖怪だったことを知ったときより、目眩がした。
わたしがこれまで、せめて浄土へ行けるようにと願って倒していた怪異が……みんな団子にされて、食べられていたなんて。
この供養は昔からの習わしなのだ、と聞いたけれど……。
「……いやだ」
「いやだ?」
「アコちゃんを食べさせるのだけは、いやだ!」
「ほおう?」
東雲は感心したように、黒いあごを撫でる。
「これは珍しいですね。淡々と怪異退治をされてきたあなたが、それは今更というやつじゃありませんか? 命を天秤にかけるのであれば、怪異は供養する以外にありゃしません。それが知り合いであったとしてもね」
「東雲……!」
精一杯睨みつけても、東雲は飄然としている。
「アタシは信頼していますよ。なにがどうあれ、怜さんは、あの怪異を倒してくれるとね」
大きな風を立てて、東雲は空に上がる。
夕焼けのなかを舞った枯葉が落ち着くと、たしたしと、犬が駆ける音が近づいてきた。
「れっぴー、見つけた……」
曲がり角から影をのばして、アコちゃんが姿をあらわす。
「アコちゃん……!」
わたしは、なぎなたを構える。
柄をつかむ手が、震えていた。
「東雲……もう、こんなのやだよ……」
怪異退治で、もうわたしの手は血に染まっている。
良かれと思ってやったことにだって……いつも酷い結末が待っていた。
わたしには、だれも近づかないほうがいい。
アコちゃんを怪異にしてしまったのも……わたしだ。
――アコちゃんが、わたしのもとに走ってくる。
わたしは……力を抜いて、なぎなたを地面に落とした。
目を閉じて、アコちゃんを受け入れる。
アコちゃんの足音が、わたしの前で跳躍した。
あとは、首を噛みちぎられるだけ。
そのときを待っていると――目の前から風の音と、ぎゃお、という悲鳴が聞こえた。
「どうやらまだ、躾が足りないようですねえ」
東雲が、アコちゃんを地面に踏みつけている。
があ、と彼女が喘ぐのを、東雲は無感情に見下ろす。
「言うまでもありませんが、あなたは神通力を賜る資格を持った巫女の一人です。肝心なところで覚悟が足りないようではいけないのですよ。この程度の怪異ならアタシたちにだって仕留められますが……もし、大禍物があなたの知り合いだったとき、いまのように仕留められないのでは話にならないでしょう?」
「でも! わたしにはもう、お役目はできないよ……!」
「……そうですか。それじゃ仕方ありませんね」
東雲は、腰袋から一つの団子を取りだした。
アコちゃんに押しつけて、食べさせる。
――け、け、とえずく犬の体が、どす黒く大きくなっていく。
めりめりと、アコちゃんの口が大きく裂けていった。
「さあ……彼女をどうします? 知らんぷりをして、放っておきますか?」
――おお、オオ……。
巨大な獣になったアコちゃんが、夕陽にあえぐ。
ぼろぼろと涙を流しながら、その巨獣の身体を悶えさせる。
その血に濡れたような毛並みが、どす黒く、てらてらと夕陽を反射させた。
――ミナイデ、ミナイデ……。
じぶんの手で顔を隠して、アコちゃんは嗚咽した。
「……己の好奇心を抑えることもなく、その無遠慮さを省みない人間とはかくも卑しいものです。彼女も人の顔をもって、飢えた犬の身体を恥じる人面犬へと変わってしまった。このまま災禍をもたらす触媒となるよりも、供養してあげるのがいいと思いますがね」
東雲が、あけすけに空から言う。
わたしはもうお役目から降りるとしても……ここは、わたしがどうにかするしかない。
「さあ……怪異がこうなってしまっても、伶さんなら容易いはずです。それともアナタも、父上や母上とおなじところに行きたいのですか?」
――わたしは、歯噛みする。
「アコちゃん、ごめん――!」
わたしは足下のなぎなたを拾い上げて、アコちゃんのもとへと走った。
駆けながら、わたしはいつも首に下げている七子鏡を引っ張り出す。
この七子鏡は、現世に、常世の国の力を映す門だ。
準備をすると、わたしは、あぐ、となぎなたの柄を咬んだ。
生き物の口も――神仏に通じる門。
大禍物を相手にするときは、こうして得物に神通力を借りて、調伏させるしかない。
――七子鏡と、なぎなたが共鳴する。
わたしは、金剛の光を纏ったなぎなたを、アコちゃんに振るう。
ぐしゃり、ぐしゃりとアコちゃんの身体が拉げていくのを感じながら、一撃、もう一撃――。
攻撃を重ねていくたび……いままでにないほど、七子鏡は光芒を増した。
やがて……力を失った巨獣の身体が、大地に横たわる。
身動きのとれなくなったアコちゃんを前にして、わたしは肩で息をする。
――アコちゃんは、弱々しく顔をあげた。
「ねえ、殺してよ……あたし、こんな姿で生きるのやだよ……」
わたしはアコちゃんにかける言葉もわからず、ぐ、と息をのみこむ。
「……ごめん。すぐ、終わるから――」
ようやく言葉を絞り出して……わたしは、なぎなたを高く振り上げる。
――わたしのなかで、なにかが終わってゆく。
意を決したとき――光を湛えていた七子鏡が、高い音とともに閃光を放った。
◆
「う……」
振りかぶったなぎなたが動かない。
「……よう。あんたが俺の巫女か」
振り返ると……そこには鏡の中にいた青年が立っていた。
彼は片手で、わたしのなぎなたを掴んでいる。
すらりとした長身で、ショートの黒髪と眼鏡。
二十歳後半といったところの青年で、スーツを着崩している。
――彼がわたしの陽魔だと、陰神刑部様は言った。
陽魔は、なぎなたから手を離した。
「あんた――あいつを助けたいか?」
「……アコちゃんを?」
陽魔は、アコちゃんを見据える。
「ああ。助けたいならやり方を教える。その代わり……あんたは心の一部を失って、苦しみを抱えて生きていくことになる。その覚悟があるなら、おれに任せてくれ」
わたしを見下ろす陽魔は、意志の強い瞳をしていた。
――ばさり、と羽を慣らす音がした。
「なにかと思えば、カガミの陽魔ですか。残念ながら……怪異を祓うことなんか出来ゃしませんよ。特に、あれだけ混ざってしまっていてはね」
東雲が当てこするように言う。
そんな東雲に、陽魔は、皮肉じみた笑みを返した。
「あいにく……おれもあんたと同じく小狡い性格してるんでね。そんな口車で利用できると思うなよ」
「む……」
東雲が沈黙する姿は、はじめてみた。
わたしは、陽魔の服の裾をつかむ。
「……わたしはどうなってもかまわないから、アコちゃんをお願い……」
そのときだった。
――地鳴りとともに、アコちゃんが起き上がる。
それとともに振り下ろされる、巨大な腕。
すんでのところで、わたしは陽魔に抱きかかえられて飛び退いた。
アコちゃんは……動くたび、身体を痛めている。
「……あいつが死んじゃ元も子もない。急ごう」
陽魔は、なぎなたを持ったままわたしを降ろす。
そして正面で向き合うと、
「悠長にしてる時間もない。目をつむって、力を抜いてくれ」
「……うん」
わたしは、言われるがままにする。
「……舌を噛むなよ?」
謎の台詞を言うと、陽魔は……わたしの身体を引き寄せた。
むぐ。
陽魔の舌が、わたしの唇を割って入ってくる。
「んんっ……!」
じたばたするわたしを押さえつけて、陽魔は口づけを続けた。
背の高い陽魔にあごを引かれ、反射的に唾を飲む。
――わたしはようやく、陽魔の拘束から逃れる。
「……もう! いきなりなんなのっ!?」
はじめてのキスで――めちゃくちゃされた。
陽魔はなにもなかったように、淡々と言葉を放つ。
「七子鏡が放つ光芒は、いろんな『モノノケ』の性質を含んでるからこそ金剛色をしてるんだ。それを分光して、『モノノケ』の性質を顕現させるのが……おれたち、カガミの陰陽道だよ」
陽魔が持っているなぎなたが、影に包まれて姿を変えた。
――七支刀【ナナツサヤノタチ】。
刀身が枝分かれしたこの刀は、七子鏡と対をなす神器だと聞いたことはある。
「この七支刀は、魂の『モノノケ』を司る六本の鉾が一本に纏まった状態の姿だ。だから……持ち手はこっちだ」
陽魔は、七支刀の枝分かれした刀身の一つを掴んだ。
そのまま引っ張ると――七支刀が影と消えて、陽魔の手に一本の鉾が現れた。
「それって……」
……ぼろぼろの木の柄の先に、そこの抜けた手桶がくっついている。
それは――おおきな、古い柄杓だった。
「……ごみ?」
「これのどこがごみだ。この鉾が唯一、怪異を助けられる『モノノケ』を使えるんだよ」
陽魔は、わたしに柄杓を投げた。
わたしは大きい柄杓を、両手で受けとる。
途端に……先端の底抜け桶から、水が湧きだした。
「これ……止まんないよ!」
「それでいいんだよ。あとは、『モノノケ』が勝手にやってくれる」
柄杓から生まれた水が、やがて滝のように唸りをあげる。
水の奔流が、アコちゃんのおおきな体を呑み込んだ。
アコちゃんを包み込む水のなかで、凝り固まった濁りが渦巻いてゆく。
それが増えていくたび……アコちゃんの姿が、あらわれ始めた。
「……限りなく純度が高い水ってのは、強烈に物質を取り込む浸食性をもった劇物だ。『水』のモノノケは不純物を食らっちまうのさ。その性質を持ってるモノノケは、『水』と……」
――わん!
水が消えて、ちょこんと姿をあらわしたのは……けむくじゃらの、『子犬』だった。
くんくんとアコちゃんに鼻を寄せながら、ポメラニアンがしっぽを振っている。
「そいつが持ってた『モノノケ』の正体はその犬……つまり『無垢』だよ。犬ってのは、無邪気さを形にしたもんだからな」
「ムク……?」
わんわん! と、ポメラニアンはモフモフ動き回る。
その姿も可愛いけれど……わたしには、もっと目を引くものがあった。
「……ヨーマ?」
「なんだ?」
「どうしたの、その格好……?」
陽魔は、いつのまにか高校生のような姿になっていた。
そう。さっきまで陽魔はわたしより身長も年齢も一回り大きかったはずなのに……なぜか今は背格好がわたしと同じくらいになっていて、スーツも高校の制服になっている始末だった。
「……七支刀は本来、あんたの心のなかに納めとくもんなんだよ。けれどおれたちは、鉾を引き抜いて使っちまった。その欠けた分だけ、おれの姿も変わっちまうのさ。特に『水』のモノノケは、一発だけの大技だかんな」
「え……?」
ずきん、と胸が締めつけられる。
「……ごめん。まさか、あなたのほうに迷惑がかかるなんて」
わたしは、思わずうつむく。
身を削られるのが、わたしではなく陽魔のほうだったなんて。
「……おれに謝ってどうすんだ。それに、困るのはあんたなんだよ」
「わたし?」
「ああ。純粋さのモノノケを失った代償として、あんたは孤独に苦しみ続けなきゃなんねえ。つまり禊ぎを済ませておれを納めても、孤独の飢えは消えねえってことだよ。……あんまり他人の歪みに引っ張られてっと、いつか自分をなくしちまうぞ?」
「う、うん……?」
――こころなしか、陽魔の口調が変わってる気がする。
高校生の陽魔は苛立ったように眉間を押さえて、
「だいたい、バカなんだよおまえは。どうして他人なんかのために自分を犠牲にしなきゃならないんだっつの。まったく、われながらいやになる性格だよなあ。……これからはもっと、賢く生きてくようにしようぜ」
「……その素直じゃない憎まれ口と付き合わないといけないのが、代償ってことなの?」
「な……! こ、こうなったのはおまえのせいだろうが!」
陽魔は慌てて反論してきた。
そして、めんどくさそうに頭を掻くと、
「……とにかく。あとは、あの犬をあの女のなかに戻して終わりだ。一番むずかしいのは、あいつが自分のモノノケとの付き合い方を覚えるかどうか……」
――わんわん!
ムクの鳴き声とともに、うわあ、という陽魔の悲鳴がひびく。
陽魔は、ポメラニアンに押し倒されていた。
「わぶ! やめろこのばかっ……むぐぐ!」
ポメラニアンは、陽魔に熱烈なぺろぺろ攻撃をする。
――やがて光になって、陽魔のなかに消えた。
「……うそだろ」
陽魔とわたしは、目をまるくする。
陽魔の姿が……さっきまでの、青年の容姿に戻っていた。
「――強欲さの対極にある性質は『供与』です。それが『犬』のモノノケがもつ、和魂の部分なのですよ」
東雲が、わたしたちのそばまで降りてきた。
「……まさか怪異の穢れを祓うとは、恐れ入りましたよ。しかし……ご友人のモノノケがあなたに入ってしまった以上、代償となる苦しみは、伶さんではなく彼女が抱えることになってしまいました。まあ、命を拾っただけでももうけものでしょうがね」
秋空の烏天狗たちが、この場を去って行く。
「伶さんも、あまり六叉の鉾はお使いになられぬように。でないと、陽魔というやつははどんどんやっかいになっていきますから」
陽魔を一瞥して、東雲も去っていった。
――空は黄昏。夕陽と夜が、半分ずつ。
わたしと陽魔は、うつろいゆく空をみあげていた。
「あんた……夕焼けは、どんな光か覚えてるか?」
「それって、血の色の話?」
「違う。スペクトルの話だよ」
青年に戻った陽魔は、暮れゆく夕陽をみつめる。
「夕焼けの赤い色は――遠く離れていく太陽が、最後まで届けてくれる強い光なんだよ。そして、心のいちばん奥に届くのも赤い色……夕陽と同じ、暖かい色だ」
陽魔は、視線をずらしてアコちゃんを見つめる。
「ん……」
アコちゃんが、身じろぎをして目を覚ました。
「あたし……なんでここに?」
「……アコちゃん?」
わたしが近づくと、アコちゃんは……怯えた目で、わたしをみつめた。
「アコちゃん、大丈夫?」
わたしは、手を伸ばす。
「――さわらないでっ!」
アコちゃんは身体を引いた。
そのまま視線を、地面に落とす。
「……れっぴー、ごめんね。あたし……あなたの気持ちを無視して、どんどん止まらなくなってた。だからあたし、あんな化け物に――」
わたしは、首を横にふる。
「夢をみてたんだよ……きっと」
「え……?」
「アコちゃん。一緒にかえろう?」
わたしは、もういちど手を伸ばす。
いつもアコちゃんが見せてくれていたような、笑顔とともに。
「れっぴー……いいの?」
「もちろんだよ。それとも、一緒にかえっちゃだめ?」
「……ううん。ありがとう」
アコちゃんは、わたしの手を取った。
――太陽の赤い光は、心のいちばん奥まで届く色。
わたしは、毎朝のように笑いかけてくれるアコちゃんのことが……好きだったのだ。