人面犬の怪 序章
夕焼けは血の色に見えて嫌いだ、と考えるのは、いったいどこの国だっただろうか。
――そんなことをふと思う、秋の暮れ。
部活をしていると、夕焼けのなかを下校することになる。
なぎなた部の練習が終わって、わたしは校庭を歩いていた。
どんっ。
「れっぴー! 今日もかわいいね!」
わたしに飛びついてきたのは、アコちゃんだ。
「ちょっと、苦しいんだけれど……」
わたしはアコちゃんにされるがままだ。
この高校に入学して半年。
人付き合いの悪いわたしにも、アコちゃんはかまわず声をかけてくる。
「ああ……ちっこい手にサラサラの髪。ちんまい身体も抱きしめやすくっていいよ。れっぴーはもう、たまらんなあ……」
「むう……」
アコちゃんの話はよくわからない。
わたしが思案顔をしていると、
「ほら、一緒にかえろう?」
アコちゃんは、わたしの手を恋人つなぎにして歩きはじめる。
いつものことなので、周りは誰も気にしない。
「れっぴー。そういえばさ……」
「なに?」
「あのね。れっぴーは、妖怪って信じる?」
「妖怪?」
「うん。たとえば……人面犬とか」
「人面犬かぁ……」
わたしは空をみあげる。
夕焼け空。
すぐに、逢魔が時がやってくる。
この時間は、憂鬱だ。
「妖怪は……いると思うよ」
「ふうん? やっぱり、れっぴーも見えたりするの?」
「まさか……」
視線を横に流して、わたしはごまかす。
妖怪は、たしかに存在する。
けれど……人面犬は、妖怪じゃない。
「あの……アコちゃんはさ、『妖怪』と『怪異』の違いって知ってる?」
「カイイ?」
「えっと、妖怪の怪の字に、異なるっていう字をあわせて、怪異」
「なんだろう。なにか違うの?」
「うん。たとえていうと、妖怪のあぶなさっていうのはお医者さんの薬みたいなもので、付き合い方さえちゃんと知っていればなんでもないの。けれど……『怪異』のあぶなさは違う。怪異は人間や妖怪が病魔に冒されて、異形になった存在なんだ。人面犬は、妖怪じゃなくて怪異だよ。もし見かけたりしても、絶対に近づいちゃだめ」
そして、そういった存在を相手にするのがわたし……各務家のお役目なのだ。
「病魔……かぁ」
アコちゃんは遠い目をする。
「どうしたの?」
「ん……なんでもないよ。ていうか、さすがれっぴーは巫女さんだね。なんでも知ってるじゃん」
「まあ……うちの教えは、ちょっと独特なんだけれど」
「ふうん……」
「ところでアコちゃん、妖怪がどうかしたの?」
「なんでもない。あたし……やっぱり今日は先に帰るね」
アコちゃんは手を放して、行ってしまった。
まさか、アコちゃんはわたしの仕事を知っているのだろうか。
そう思いながら、わたしは夕焼けの道を一人で歩き出す。
もしどこかで怪異が出たのなら、すぐにわたしに連絡がくるだろう。
街並みを歩くと、人や妖怪が闊歩している。
もちろん、妖怪の姿は普通の人にはみえていない。
世界は、いままでと変わっていないように思えるけれど……。
「はあ……」
わたしは、制服の胸元からペンダントを引っぱり出す。
――母からもらった、七子鏡【ナナツコノカガミ】。
このところ、この鏡に映る自分の姿がおかしい。
「怪異退治のしすぎ、かなぁ……」
わたしはひとりごちる。
やっぱり、気のせいなんかじゃない。
わたしが見つめる鏡に写っているのは――眼鏡をかけた、青年の顔だった。
◆
「伶。それはお主の『モノノケ』じゃよ」
巫女服からゆたかな胸元をのぞかせる隠神刑部様が、わたしに教える。
「モノノケ……ですか?」
「そうじゃ。アレがあらわれたということは、そろそろ怜も、己の半身と向き合うときがきたのじゃな」
隠神様は愉快そうに微笑む。
狸の妖怪である彼女が、わたしの身元引受人だ。
この2LDKで、わたしたちは一緒に暮らしている。
「あの……『モノノケ』ってなんでしょうか?」
「『モノノケ』とは、その者の心のいちばん強い光が、現世でかたちを得たものじゃ。たとえば、清い心をもった娘の『モノノケ』は『水』として象られる。そして、それが憎しみなどで歪むと、肉体と混じって『濡れ女』の怪異となるのじゃ。それが怪異のなりたちよの」
「その話……はじめて聞きます」
「お前たちカガミの家系にとって、モノノケはまた別の姿を持つからなあ」
テーブルには、わたしがつくった夕ご飯が並んでいる。
隠神様は、にごり酒で唇を湿らせた。
ふう、と満足げに吐息を漏らすと、
「おまえに流れるカガミの血はな、モノノケを変貌させて修験に組み込んでおる。カガミの『モノノケ』は本人の性質の鏡写しとして顕現するのじゃ。男であれば女の『陰魔』が、女であれば男の『陽魔』がな」
「あ。だからわたしが鏡で見るのは男の人なんですね」
「うむ。ちなみにその男、美男子だったのではないか?」
「まあ……そう言われれば」
鏡のなかの青年を思い出しながら、わたしは「ん?」と思う。
「……『陽魔』の姿はわたしの反対になるんですよね? それ、わたしがブスだって言いたいんですか」
「整っていればこそ変化はしないということさ。美しさは極にあるものではなく、真中にあるものじゃからな」
「……うーん。よくわからないです」
「それでもよろしい。要は、目の前のものを受け入れればすむことよの」
隠神様は喉を鳴らして笑う。
わたしは少し不満を抱いていた。
「どうして隠神様は、わたしに『陽魔』のことを教えてくれなかったんですか?」
「……まあ、その、カガミにとっての陰魔、陽魔とは、でりけえとな話なのよ」
隠神様は人差し指で自分の頬をかくと、
「カガミの者にとって、『モノノケ』は禊ぎの儀式に用いられる。禁欲的な生活をしてきた青年は、年頃になると自分の鏡像となる陰魔と向き合って、はじめて陰陽をその身に取り込むでな。つまりは……まぐわいの話なのじゃ」
「まぐわい?」
「まあ、まぐわいについては自分で調べるがよろしい」
隠神様は、いじわるな笑みを浮かべる。
夕飯後。自分の部屋でまぐわいについて調べてみると……隠神様が面白がっていた理由がわかったのだった。
◆
この世ならざる者が視えるということ。
そして、カガミの巫女としてのお役目。
それらが、わたしと友だちとの間に距離をつくっていた。
けれど……高校生になってからは、少し違ってきている。
わたしが登校して席に座ると、決まって近づいてくる子がいた。
「れっぴーおはよう!」
「おはよう。アコちゃん」
アコちゃんは、色んな人と話す明るい子だ。
いつもわたしは、アコちゃんの話を聞いているだけなのだけれど……。
「ねえ、アコちゃん」
「なあに?」
「アコちゃんは、興味ない男と付き合うのってどう思う?」
「え? まさか、誰かに告られたの?」
「ううん。そういうわけじゃないんだけれど……」
「なになに、聞かせてよ」
アコちゃんは、近くの椅子を寄せて座る。
わたしは、のびをして机に寝そべる。
「許婚っていうか……いきなりそんな話がでてきたら、アコちゃんならどう思う?」
「んー。場合による……ってまさか巫女さんって、許婚がいたりするの!?」
「それに近いかも。ほんとにさあ、いきなり言われても、どうしたらいいのかわかんなくって」
ほっぺたで机の冷たさを感じつつ、わたしが呟いていると、
「……まあ、れっぴーにもそのうち大切な人ができるんだよね。れっぴーはその人のこと、どんな目で見るのかなぁ」
少し伏せがちな瞳で、アコちゃんがつぶやいた。
ホームルームがはじまった。
アコちゃんは、そそくさと自分の席へと戻っていったのだった。
◆
わたしは子供のころ、余計なお世話ばかりする子だった。
幼いわたしは、「りさちゃんのことを好きな狸の子がいるよ」なんて、言ってはいけないなんて知らなかったのだ。
結局、狸の少年と、りさちゃんのどっちも泣かせるハメになった。
中学生になって怪異退治をはじめてからは、人に言えないことも多くなった。
自然と、わたしは一人でいるようになっていた。
そんな調子だったから……アコちゃんのような人は久しぶりだった。
けれど……恋愛というか、『陽魔』の話をアコちゃんにして数日、帰り道に、アコちゃんがわたしを待っていることはなくなっていた。
だから……。
真っ赤に焼けた帰り道。
人通りのない川沿いの道で、アコちゃんの姿を見かけたのは、ひさしぶりだった。
「アコちゃん?」
こんなところでどうしたんだろう。
夕陽の逆光で、アコちゃんの顔に影が落ちる。
「れっぴー、犬って可愛いと思わない? ほら、犬は人の良いところしか見ないって言うけれど、犬はそうやって綺麗なものしかみないから、瞳や仕草があんなにキラキラしてるんだって思うの」
アコちゃんの口元が吊り上がる。
「それでね。あたしからみたら、れっぴーもとっても綺麗なの。人に媚びないところってとても素敵。れっぴーはあたしのこと嫌いみたいだけれど、あたし、あなたに近づけたら嬉しいって思ってた。犬みたいに無邪気に近づいていけば、ちょっとは振り向いてくれるんじゃないかって思ってたんだ」
「わたしは別に、嫌いじゃ……」
「でもね、れっぴーがあたしを見るときの、困ったような、あきらめたような目。その目を通してようやくあたしは……自分がキャンキャン鳴いてる犬じゃなくって、ブンブンまとわりつく虫だったんだって気づいたんだ」
「あ……」
アコちゃんがそんなことを考えていたなんて、わたしは知らなかった。
いったい、なんて答えたらいいんだろう。
言葉が出てこないでいると……アコちゃんは悲しそうに言った。
「ごめんね、れっぴー。あたし、虫だったら虫らしく、どこかに行っちゃうのが一番なのにね。でも、もう、あたしは自分のことがわかんなくなってきちゃったんだ。ねえ……あたし、どうしたらいいのかな?」
「そんなこといきなり言われたってさ……!」
わたしが思わず声を上げたときだった。
アコちゃんが、れっぴー、とわたしの名前を呼ぶ。
すでに、アコちゃんは人の姿をしていなかった。
――夕暮れにあらわれた、怪異。
犬の姿をしたそれは、アコちゃんの顔で、わたしにこう言った。
「ねえ。あたし……どんな姿してる?」