2-2 夏の悪魔に見舞われて (委員長)
心踊るような出来事から一夜明けてもその時の余韻が残っているようで、起床すると一気に目が冴え渡った。
朝から気分が良いのは久々で、いつもより深く眠れたのも久しぶりな気がする。
昨日は結構はしゃいでいて疲れたんだろうなと時計を見て思う。夜更かしした訳でもなく、普段通りに就寝したのに針は九時過ぎを指していた。いつもならとっくに目が覚めてる時間だ。
ベッドから抜け出し部屋から廊下へ。階段を下り居間へと足を運ぶが、両親の姿は既になかった。共働きなのでどちらも仕事へ行ったのだろう。そして残されたのは私と静けさだけでなんとも味気ない。
私が起こしてもらえなかったのは、夏休みだからなのか、面倒だったからなのか。いつも朝、顔を合わせているのに。
「…………………………」
少し考えて前者のはずだよね、と前向きに肯定し食卓用のテーブルを一瞥する。私の買った猫の分銅の下に千円札が敷かれていた。これは毎度の事で、朝昼のご飯代にしなさいとの母親からのお小遣いだ。
ありがたくいただくことにして、椅子に腰掛け今日の予定を思案する。
生活圏のそれほど広くない私は、まず第一候補に学校が挙がった。
昨日の今日の事を思い出し、宿題をすると捗りそうな気がしたからだ。実際、平岡さんも昨日そうしていたしもしかすると案外また教室にいたりするかもしれない、と淡い期待が生まれた。
次に他の案を考えるも、一人で行きたいような場所はやっぱり出てこない。
知ってる場所やお店でも一人で探索するのは苦手だ。昔何か事件に遇ったという訳ではないが、周りの視線やどう思われているかが気になって仕方がなくなるのだ。自意識過剰なのは分かってるが、そんな心理状態で楽しむ事は難しい。
よって、学校に行くことにした。宿題も手付かずだったので丁度いい。
一応、昨日よりも念入りにおめかししようと心掛ける。寝癖がとにかくひどかった。
学校に着く頃には歩く気力がなくなっており、日が昇るにつれ暑くなる事を肌で実感する。汗ばむ首回りをタオルで拭きながら、自転車を買った方が楽なのかなと昨日の平岡さんのを思い出す。ママチャリじゃなくてもいいけど。
敷地内の日陰で、水筒に入れてきたスポーツドリンクを喉に流し込む。生き返るような感覚を得て職員室に向かった。
職員室を見渡すと今日も担任の川端先生がいた。
教師になってまだ二年目と経験は浅いらしいが、そうは見えないくらい授業中は落ち着いて見え、男子からは割りと人気がある様子だった。けれどそれは努力の賜物らしく、休みの日もこうして出てきて鍛練? してるのだとか。何故か今は机に突っ伏しているが。
「先生。おはようございます」
「あら、おはよう。今日も何かの用事? 偉いねー……」
顔を上げた川端先生は、いつも教卓の前に見るお淑やかで活気に溢れた印象とは違い、なんというかオフの日の疲れきったOLとイメージが重なった。何かあったのだろうか。
「今日は宿題をしようかと思いまして」
「へー、でも宿題ならわざわざ来なくても家でやればいいんじゃない?」
「えっと、教室の方が集中できるような気がしたので」
「おお、そういうとこ気にするとはさすがだね。でもたまには息抜するのも必要よ。してる?」
「大丈夫です!」
元気にそう返すと、川端先生は少し驚いたようで「いらない心配だったね」と微笑み教室の鍵を貸してくれた。タイミングを逃して先生の疲れてる理由は聞ずじまいに終わるが、興味本位に聞くと藪蛇かもしれなかったので良しとする。
平岡さんのことを少し意識しながら私は一年の教室がある一号棟へと歩いていた。
昨日は忘れ物を取りに来たついでに宿題してたけど、他に平岡さんが学校に来る理由なんてあるだろうか? 先ほど勉強をしに来るかもと想像したが、わざわざそんな理由で来るかは怪しい。それも連日だ。考える度によくない方に思考が傾いた。
やっぱり夏休み中にはもう会えないかもしれない。休みが明けたら忘れられたりしてないかな? と、心配になったりした。
それでもマイナス思考を払拭すべくあれこれ考えていると、前方にゆっくり歩く影を発見する。平岡さんに似てるような気がして目を擦りよく凝らす。華奢で低めの身長によく風になびく黒髪、抜けるように白い肌は平岡さんの特徴に合致した。鞄も昨日持ってた物だ。
再び会える事を諦めかけていただけに、嬉しさが反比例して膨らんでいく。
「平岡さーん!」
駆け寄りながら、いつもは出さない大きめの声で呼び掛ける。しかし、聴こえてないのか近付いてもこちらに気付く気配はない。無視、という訳ではないようで少し様子がおかしい。回り込んでみると平岡さんで間違いなかったが、顔がほんのり赤く視点が虚ろだった。目の前の私に焦点が合ってないように見える。
「平岡さんっ!?」
「あ、いいんちょ……」
やっと反応してくれたが、熱中症かもしれないと判断し額に手を当てる。反射的にビクッとされたが気にしてる場合ではない。
「あっ、え、なに?」
「良かった、意識は大丈夫みたい」
手のひらには平熱よりも高い温度が伝わり、このままにしておくのは危険だと思った。すぐに休ませる必要がある。
「保健室、行こう」
「え、なんで……?」
「熱あるよ! さっき様子も少しおかしかったし、熱中症かもしれないから」
「そう、なんだ。体は少し重い気がしたけど」
あまり実感してないような素振りだが、大丈夫だろうか?
「歩ける? いや、だっこした方がいいかな……?」
肩を貸すには身長差のせいで少し難しそうで、歩けない場合は、だっこ……いや、おんぶの提案が先だったかな? どっちでも良かったが、突発的に出てしまった発言の収拾に少し焦る。
「あ、歩けるから……!」
「そ、そう? じゃあ私の腕つかんでて。倒れたら大変だから」
「え、うん。わ、わかった……」
平岡さんはしぶしぶ了承したようだが、腕を掴むというよりは制服の裾をつままれるような形で保健室まで歩いた。最中、平岡さんの様子を確認するが酷い症状は見られなかった。早めに発見できて良かったと安堵する。もし入れ違いになっていたら……ぞっとしたので考えないようにした。
保健室に着いて、鍵の確認をすると幸いにも開いている。しかし人は不在でエアコンは動いていなかった。とりあえず平岡さんをベッドに座らせ、棚に常備されてるタオルを渡して汗を拭かせる。私はエアコンを作動させて窓を開け放ち、空気の入れ替えを済ませた。
「気分悪いとか、体が痛いとかない?」
「大丈夫だよ。少し目眩しただけだし大したことない」
大袈裟に思われてるような反応だった。確かに顔色は良くなっているが、熱中症は一歩間違えば死に繋がる危険があるので軽く考えるのは危ない。理解の相違があるようで、どう擦り合わせれば良いのだろう? いつもなら諦めて引くような場面だが、こればかりは引きたくなかった。
「あの、平岡さん。熱中症で危険な症状が出てたかもしれないんだよ……わかる?」
「自分ではあまり、わからない」
「私から見たら危なかったから、その……少し休んでほしい」
「もう大丈夫だと思うけど、ダメなの?」
「大丈夫じゃないよ。熱もあるし体力も低下してるだろうから、少し眠ったりして休まなきゃダメだよ! このまま放っておいて倒れたりしたら私嫌だよっ……!」
「………………ごめん」
ウザいとか面倒だと思われただろうか。知った風な態度で意見を押し付けるのはよくない。分かってはいても、つい語気を荒げてしまった。謝るのは私の方だ。
そう思うと顔が自然と逸れて、地面を向いてしまう。けど、それで平岡さんに元気が戻るなら嫌われても構わない。軽く深呼吸して恐る恐る向き直ると、目が合う。
しかし意外にも、煙たがるような面持ちはそこにはなく逆に柔和で穏やかな表情を向けられていて驚いた。
「どうしたらいいの?」
「えっ……?」
「熱中症、治す方法」
素直な発言にまたも驚く。圧力を掛けるような言動にも関わらず、平岡さんは特に悪く思ってはいないようで、足をぱたつかせながら吹き抜ける風で涼んでるようだった。
治す気になってくれてるなら良かったと保健室にあるはずの物を机の上のペン立てに発見する。体温計だ。とりあえず今の体温が知りたいので、それを平岡さんに渡し熱を測らせた。
「大声出しちゃってごめんね……」
「ううん、いい」
なんで簡単に許してくれるのか不思議だったが、今は平岡さんの状態をチェックするのが先だ。脱水症状も確認する必要がある。
「最後に水分摂ったのはいつ?」
「うーん、朝食かな」
「えっ……それから学校に来るまで何も飲んでない、の?」
「そうなる」
「もしかして、昨日も……?」
「うん。カレー食べに行くまでは」
熱中症の要因の一つがいきなり判明した事に驚き、よくそんなに飲まずに耐えれるなあと絶句した。
「夏はこまめに水分補給しないと危ないよ?」
「私あんまり飲まなくても動けるし、熱中症なんてなったことないから」
「うーん、そういう問題じゃないんだけど」
どうやら熱中症についてあんまり知らないのかも。学校でも注意喚起されてるし、毎年この時期はニュースで騒がれてるのに。平岡さんが少しわからなくなる。まだわかることも少ないけど。
私は水筒からスポーツドリンクを蓋のカップに注いで差し出した。普通の水よりも塩分の入ってるものが予防の基本だ。
「とにかく、これ飲んで」
「え、これ……」
「いつも夏は持ち歩いてるから。あ、スポーツドリンクだよ。こういう時は塩分も入ってるものが良いんだよ」
「ふーん、そうなんだ」
平岡さんはカップを受け取ると、じっと見つめていた。もしかしてスポーツドリンク嫌いなのかな? そう思ったがゆっくりと口に運びそして、一気に飲み干した。ああ、ゆっくり飲まないといけないのに。
「熱中症が怖いのは知ってるけど、日傘も差してたし日光に当たらなければ大丈夫と思ってた。そんなに暑い気しなかったし」
日傘? さっきは差してなかったので、どこかに置き忘れたのかもしれない。
「迷惑、かけてるよね……」
「そんなことないよ。平岡さんを見つけられて、平岡さんが無事で、良かったよ」
本心だったが、なんだか口にするとこそばゆい感じがした。
平岡さんは少し戸惑いの表情を見せるが、俯きがちに口をもごもごさせた。どうやら「ありがとう」って言ってるように聴こえた。どういたしましてを言葉の代わりに笑顔で返すと、なんでか顔を隠された。
その後体温計の電子音が鳴り、確認すると三十七度六分の微熱だった。ひとまずホッとする。
それから、室内でも熱中症になる場合がある事や、水分補給の大切さを享受し眠るように促した。平岡さんは素直に横になると私に訊ねる。
「委員長はどうするの?」
「えっと、ここにいようかな。保健の先生が来るかもしれないし。あ、邪魔だったらどこか別の場所に行くよ?」
「べつに、邪魔じゃないし。いていい……」
近くにいられると気になって眠れないかなと考えたが、そうじゃないなら居る事にしよう。他にやることもないし、平岡さんの側にいたかった。あ、やることといえば宿題しに来たんだった、とポケットにある教室の鍵を思い出す。けど今日はやめておこうかな、後で返さないと。
「そういえば平岡さん、今日は何しに学校に来たの?」
素朴な疑問だが一番知りたい事だった。まさかまた夏休みに、しかも二日連続で会えるなんて妄想が現実になったようでなんだか少し怖くなる。
「えー……うん。宿題、しようかなって」
何故かぎこちなかったが、つまり私と同じだった。私の場合“平岡さんが来るかも”という期待が含まれてる分、完全に同じって訳じゃないだろうけど。
「実は私も同じなんだ。昨日のこと思い出して勉強するのにいいなーって」
「私もそんな感じ。昨日捗ったし、いいよね教室」
「けど、今日はおあずけだね」
「うん? 私は仕方ないけど委員長は付き合う必要はなくない?」
「う……。急にサボりたくなった、ってことにしておいて」
「……? わかった」
腑に落ちないようだったが納得はしてくれたようで、それ以上追求する事なく平岡さんは目を閉じていた。白い肌に長いまつ毛が栄え、目を閉じていても凛々しい雰囲気を感じる。寝顔も絵になるなあ、と少し遠慮がちにちらちら見てしまう。どう育てばこう、気品……とか落ち着きが得られるのだろうか。そんなことを考えていると、目を閉じたまま平岡さんが呟く。
「今日はまた借りができたね」
「え、べつにそんなつもりじゃあ……」
「私の中ではそうなるから」
そんな風に言われたら返せる言葉がない。個人の価値観の問題だろうし、それを否定したりねじ曲げたりする話術を私は持っていない。それに、貸し借りで続くような関係よりも「友達だから」で助け合える関係を私は求めている。
「なんでも言ってくれればその、力になるから」
「えっ、じゃあ…………か、考えとくね!」
「なんでも」というフレーズで衝動的に「元気になったら、また遊ぼう」と喉から出かかったが、ここは抑えて考えることにした。
そういえば昨日遊んだ事も平岡さんの「借り」のお返しによって実現した出来事だ。今の私にとっては平岡さんと仲良くなる為の有難い助け舟ではないだろうか? そう思うと受け入れる事ができた。
話続けて忘れがちになるが、このままだと平岡さんが寝つけないのではないか。私は立ち上がってまた机周辺で探し物をする。目的の物はすぐに見つかった。封を切り、平岡さんのおでこにそっと貼り付けた。
「きゃっ、ちょっ!?」
さすがに驚いたようで講義の目が向いた。額には冷え冷えシート。熱を冷ますには定番の代物だ。いたずら染みた行動に出た自分に少し驚いた。そして平岡さんの驚いた声は可愛らしかった。
「ご、ごめんごめん。ちょっと調子に乗っちゃった」
「うぅ~、やめてよね、もう」
「ごめんね。これでもう眠っていいから」
「あ、そういえば寝るんだった」
それじゃあ何のために横になってるかわからないよ。脳内でツッコミをいれつつ、カーテンでベッドを仕切り寝ることに集中してもらった。エアコンの冷気も部屋中を循環していて快適な状態を保っている。時々いるか呼ばれて返事をしたが三十分くらいでそれはなくなった。寝付いたかな?
その間私は読書をしていた。今は恋愛物の小説を読んでるが、恋愛経験なんてないのでいまいち感情移入出来ない。私には早いのだろうか? 好き、という感情がいまいちわからなくて悶々とした。
お昼を知らせる鐘が鳴り、お腹が空いていることに気付く。本を閉じて気持ちを切り替えると、平岡さんが寝てるのを確認してゆっくりと保健室を出た。
少し歩いて中庭へ差し掛かると、ちょうど近所の弁当屋さんが売り出しに来てるようで、校外に出なくて済みそうだった。お弁当を買った後は平岡さんの日傘も探してみよう。
外は相変わらず暑かったが、私の足は軽やかだった。