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前編

 私は九州の鹿児島の小さな貧乏教会のカソリックの神父です。

私が神の僕である神父という存在に憧れたのは、小さい頃に、病院で病弱な若い神父様と出会ったのがきっかけでした。

アトピー持ちの私は病院へ治療のためによく通っていたのですが、その神父様は持病で人工透析を受けておられ、そのために体調のよくないときが多かったのに、いつもとても優しく笑われており信徒にも優しくされている、また布教にも熱心な神父様でした。

私は神父様のお話を聞くために日曜の礼拝を毎週聞きに行っていましたね。

小学校を卒業後公立のの中学、高校と進学し高校卒業後は就職しようと就職活動を行いましたが、景気の悪いこの時勢に私の就職はうまく行かず、アルバイトをして生活していました。


 そんなある日、アルバイト先で神父様にばったりお会いしたのです。

神父様は私に「子どもたちへの日曜学校の手伝いをしないか」と声をかけてくださいました。

その時の私は就職活動に疲れ、私は必要とされていないのだと、自分に自信をなくしていたので、最初は申し訳なくもお断りいたしました。

ですが「子どもを部屋につれていくだけでいいから」との言葉に甘えてお手伝いさせていただくようになりました、子どもたちと一緒に受ける日曜学校はとても楽しいものでした。

 そうして神父様のもとで日曜学校を手伝いながら、アルバイトもしながら大学検定を受けて合格した私は、神学校に進みました。

 そして、4年が過ぎ、私が叙階を受けられたその年に神父様は亡くなられました。

神父様に第一にお知らせしたかったのに残念でなりません。


 そして、私は神父様のような立派な人になりたいと願いながら、小さな教会の神父として、一生を過ごしました。


 残念ながら、私は神父様ほど立派なことはできませんでした、しかし、自分なりに満足がいく一生であったと思います……。


「神よ今みもとに参ります……」


 そうして私は天寿を全うしたのです。

・・・

 私が目を開けたとき視界に入ったのは、木の天井でした。


「ここは、天上ではない……となると地獄ですか?」


「おおい、どうしたカブラル?」


すえた臭い充満する同じ室内にいた男が私を見て不思議そうに言ったのです。


「あ、ああ、なんでもないオルガンティノ」


 突然に思い出しました、しかし、こんなことがあるのでしょうか?

私はわたしの生きていた時代よりもずっと昔の人間になっているようですね。


 これは神のイタズラでしょうか、それとも私に信心が足らなかったのでしょうか?

私は中年の司祭として今日本に到着しようとしているのです

しかも、日本のキリスト教嫌いの原因になった人物として。

私は小さくため位置をつきながら、彼に聞こえぬようにつぶやきました


「……それにしても私が生まれ変わったのがフランシスコ・カブラルとは、

 私の行いは神に厭われるようなことでしたでしょうか……

 いや、これこそが神の思し召しというものでしょう」


 私フランシスコ・カブラルは戦国時代末期の日本を訪れたイエズス会宣教師でありカトリック教会の司祭で、日本布教区の責任者でもありました。

しかし、同僚であるグネッキ・ソルディ・オルガンティノとは異なり、白人の典型のような人物で、日本人と日本文化に対して一貫して否定的・差別的であったため、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに徹底的に批判され、責任者を解任されたのです。

まあ、その後を引き継いだのがガスパール・コエリョであった時点でもはやキリスト教の布教は難しかったでしょうけどね。


 さて、カブラルが天草志岐に到着したのは永禄13年で元亀元年の1570年ですね。

私が解任されるのが1581年(天正9年)ですからそれまでに対策をしないといけないでしょう。


「まあ、これも神の与えた試練と考えましょう。

 まずは、今後どうするかですね……」


 ある意味、戦国期以降の日本のキリストの教えを広めるチャンスなのですから頑張る他ないでしょう。

すでに織田信長は、足利義昭を奉じて上洛を果たしており姉川の戦いで朝倉・浅井の両軍を打ち破っています、後の天下人である豊臣秀吉もその配下に入っていますね。


 私は到着した天草志岐で宣教会議を行い、今後の宣教方針を決定します。


「私は前任者であるトーレスの「適応主義」引き継ぎます。

 この日本では我々も日本の文化を尊重し、日本式の暮らしを行い、

 日本の人々とともに暮らさねばなりません。

 我々は日本の言葉を覚え、信徒となったものにはラテン語やポルトガル語をを教えていきましょう。

 日本人が司祭になることも許しましょう。

 日本においては身なりや服装がきちんとしていない人物は軽蔑されるのです。

 我々は清貧を旨としますが、この日本では身分のあるものと対面するときは

 あえて良い服を着ることで侮蔑の対象とならぬようにしてください。

 教会には十字架と聖母マリアの像を置くものとします」


 私が思うに十字架に貼り付けにされ頭に茨の冠をかぶせられた中年の男性が飾られていたら、日本人はなぜそんなものを拝むのかと思う気がするのですよね。

子を慈しむマリア像のほうがありがたいものに思えるでしょう。


「また我々イエスズ会の信徒の奴隷売買を禁じます」


ざわりと声が上がったが私は続けた。


「そのようなことは我々がするべきことではありません。

 我々は神に仕える信徒でありますよ」


 この戦国期には何十万という人間が日本から東南アジアやインドに売られていたはずです。

男は優秀な使い捨ての兵士として、女はもちろん性的欲求の解消目的ですね。

火薬ひと樽に対して50人というのが相場だったらしいですが……。

まあ、商人にまで禁止させるのは難しいでしょうけど、我々は関わるべきではないでしょうね。

現在の世情では奴隷売買自体は普通に行われているものですし。


「それと大友宗麟は破門とします。

 今後は彼に対する支援や交易は一切認めません。

 破ったものは当然破門とします」


 九州の統一を急ぐとするのならば、恐らく一番良い勢力は大友ではありません。

彼の家臣は優秀ですが、それをまとめるだけの能力がないですね。

この時点では目立ちませんが龍造寺も同じです。

勢力は大きいが統一できるほどではないという状況を作り出したのは、もともとはあちこちの敵対勢力に適当な武器弾薬を供給することで戦況を膠着させ戦いを長引かせることで、金をもうけるつもりだったはずですが、そんなことをしているうちに、信長は教会の影響下からはなれ、彼を暗殺したのはよいものの経済に優れた嗅覚を持つ豊臣秀吉によってわれわれは追放されるわけですからね。


「また今後大友への支援は一切禁じます、この地に速やかな平和があらんことを」


 そして私はまずオルガンティノとともに日本語と日本の習慣について学ぶことにしたのです。

むろん過去の記憶があるだけ私に方が遥かにスムーズに学習は進んだのですが、それとともに島津家へ使者を送り武器弾薬食料を持って挨拶をさせ貿易の再開を取り付けました。

更に毛利や長宗我部にも同じく使者を送り武器弾薬食料を持って挨拶をさせ貿易契約を取り付けました。

そしてこの3つの勢力にはフィリピンから持ってきたじゃがいもとさつまいもをわたし栽培法を教えて食料の供給を少なくしても自力で確保できるように手配します。

援助は無償ではなく対価として銀や真珠などを出させますが、島津に関してはあとから払いです。

そして、島津、毛利、長宗我部に不戦同盟を結ばせました。

薩長土の同盟ですね。

この時キリスト教への改宗の共生はせず寺社の破壊も行わないようにすることを伝えておきます。


「我々が暴力を振るうことを神はお望みではありません。

 汝の隣人を愛せよ、です」


 そして堺への硝石や火薬、宋鉄(中国大陸で取れる鉄)の輸入を禁じ、堺へ運ばれるそれらの物資の私掠を許可しました、それらの扱いは九州と中国のみとしたのです。


「これで国友などでも大量の鉄砲はつくれないでしょうし

 鉄砲の運用もしばらくは難しいでしょうね」


 日本の鉄鉱石の資源はさほどではなく、貿易での輸入が多かったはずですからね。

硝石についていえばいうまでもありません。


 さらに医師免許をもつルイス・デ・アルメイダに命じて、乳児院、孤児院を建てさせ、更には外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てさせました。

貧しいものには貧しいものなりの料金で病気を治療させ、さらには私の知識でペニシリンや、プロポリス、きのこ類を薬に加えるなどして病気で苦しむものを救わせました。


「さてさて、これで織田はどうなるでしょうね……」


 少なくとも織田信長の勢力拡張の速度が遅くなるのは間違いないでしょう。

さて、私が日本について学習している間に、事態は動きます。

元亀2年(1571年)教会を破門とされ硝石や鉄砲を集められなくなった大友宗麟のもとから反旗を翻すものが続出しました。

また、我々が鉄砲や武器弾薬、食料を支援した島津が、肝付・伊東・相良の同盟軍を名将「島津義弘」が疑似敗走で敵をおびき寄せて包囲せん滅する島津家の得意戦法 「釣り野伏」 で伊東軍を撃破し、総大将も戦死させその勢いで、肝付・伊東を攻め滅ぼし大隅と日向南部を制圧しました。

いわゆる木崎原の戦いですが、侵攻速度は本来よりもずっと早いものとなっています。


「さすが鬼島津ですねぇ……」


 古のスパルタもかくやというという厳しい訓練による高い練度を持つ兵士と高い統率能力を持つ武将の組み合わせは恐るべきものがありますね。


長宗我部は一条、西園寺を撃破し土佐を統一、毛利は天小を打ち破り伯耆を領土とします。


 そして将軍足利義昭より毛利に届いた御内書に従い毛利に上洛を促しました。

この年信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻め、比叡山延暦寺を焼き討ちにしたのです。


 さて翌年元亀3年(1572年)島津家の攻勢で滅亡した日向の伊東義祐が、友好関係にあった 大友家に逃れます。

島津家の日向の有力勢力が次々と島津家の傘下に入っていき、さらに大友家の本拠地である豊後と日向地方の国境沿いを治めていた小勢力が、島津家になびきます。

「このままでは豊後の統治も危なくなる」 と考えた大友宗麟が南下し、その知らせを受けて、島津家も急いで軍勢を集め対抗します。

総数は多いもののすでに内部崩壊状態であった大友の軍はこの耳川合戦にて大損害を受けて崩壊状態になります。


 毛利は隠岐を制圧し宇喜多を傘下に入れ、さらに尼子の残存勢力を完全に掃討し因幡を攻略、更に丹波と丹後、播磨を支配下とし、中国地方を統一しました。

そして武田が上洛せんと西に進みます。

一方の織田は堺より入ってくるべき軍需物資を得られずに苦境に陥っていました。

更に我々ポルトガルの武装商船によって織田の海上輸送はほぼ不可能になっていました。

姉川の合戦にて浅井・朝倉は勢力を減らしては居たものの、その連合軍は未だ健在であり、更に長島の一向一揆や本願寺勢に囲まれた状態で東は武田軍西は毛利軍のの侵攻を受け武田軍は美濃・飛騨・遠江・三河を落とし徳川家を滅亡させました。

四面楚歌の織田軍から離反する物が増え、織田は大和の支配権を失います。

さらに長宗我部は河野を滅ぼして伊予を制圧します。

将軍足利義昭は織田を見捨てて武田の元に走りました。


 さらに翌年元亀4年天正元年(1573年)島津は肥後の相良家、阿蘇家を討ち滅ぼしおおよそ九州の南半分を支配下に置きます。

九州の北部では龍造寺家がその勢力を拡大していました、筑前・筑後の大友家側の勢力を次々と撃破、従属させ、さらに肥前西部を支配下に入れ肥後の北部にまで勢力を伸ばし、九州の北部に大きな勢力を築き上げました。

ここで、龍造寺家と島津家の国境が接します。


 しかしこの頃の龍造寺隆信は芸者を呼んで毎日酒を飲み、酒池肉林で遊びまくり始め、非道さ・残忍さが目立っており、敵対するものは一族や兵士もろとも皆殺しにし、自分に反対する者も容赦なく粛正し始めました。

人心はどんどん龍造寺家から離れていき、反乱が相次ぎます。

長崎の島原半島を拠点とする大名家 「有馬家」 が離反し、島津家に救援を求めます。


 龍造寺軍と島津軍の激突は沖田畷おきたなわてで行われ島津軍の得意戦術釣り野伏で島津が勝利を収め、この戦いで龍造寺隆信が島津兵によって討ち取られるにいたります。

龍造寺家 を打倒した 島津家 はそのまま北へと進軍、肥後全土を支配し、北九州の諸勢力も次々と島津家の傘下に加わっていきます。

 島津家はそのまま大友家を打倒して九州を統一すべく、軍備増強を続けます。


 一方の大友家も、北九州の支配を取り戻すべく、立花道雪などを派遣して進軍を開始します。

立花道雪の活躍で大友は北九州の支配地を取り戻しました。


「ふむ、大友もなかなかしぶといですね……」


 ある意味私が大友宗麟を破門したことが仏教や神社の信徒の結束を高めたのでしょうか。

一方武田軍では武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国したのです。

長宗我部は我々の支援のもとで三好を滅ぼし、四国全領域と淡路が長宗我部の領土となりました。


「島津の応援に毛利と長宗我部を動かしますか、彼らにとっても大友は目障りな存在でしょうし」



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