とうふメンタル
友よ――――
+ + +
机の上に豆腐があったので、僕はびっくりした。
ここが我が家のダイニングで、きちんとお皿に盛りつけられていたのなら、僕はこれほど動揺しない。
ここが学校の教室で、じかに机に置かれていたから、僕はおおいに驚いてしまったのだ。
半丁の豆腐。
確かに最近は、教科書がマジックで黒塗りにされていたり、上履きの片方がトイレの大便器で発見されたり、すれ違いざまに膝蹴りを受けたりと忙しかったけれど、豆腐というのは意表を突かれた。
教室を見まわしてみるが、犯人らしき人影は見あたらない。
こういう仕掛けを思いつく人間は、たいてい第一リアクションを楽しみにしているものだ。教室の隅とかで、くすくす笑いながら僕のことを観察しているはずなのだが――むしろ、誰も僕のほうを見ていない。
無視というパターンなのかもしれない。
仕方なく僕は席についた。
白い。どこからどう見ても豆腐だ。僕が座るときの振動で、ふるんと揺れた。どうやら絹ごしだ。
数学の授業が始まっても、誰も豆腐のことについて触れてくれない。先生ですらスルーだ。
絹ごし豆腐は、机の中央より少し向こう側に置かれてある。教科書とノートを並べるには、結構邪魔だ。僕のささやかな領地の、その三分の一を占領されているのだ。僕は気の強いほうではないので、豆腐に遠慮して、残りの土地に教科書を広げた。
ノートの端が手前にはみ出すので、やや背中を丸める必要があった。なんだか理不尽を感じた。
シャープペンシルの頭で軽くつつくと、白い不法滞在者は、ふるんと揺れた。
休み時間になると、クラスメイトがぎゃあぎゃあ騒ぎながら教室を走り回った。およそ中学生とは思えない幼稚な奇声を発しながら、しかし本人たちはとても楽しそうに駆け回った。
僕の前を横切るとき机に、ばん! と手を突いた。
あっ、と僕が短い悲鳴を上げると、その彼は立ち止まってこちらを見て、犬の糞を踏んづけたときと同じ表情をした。
「うげぇ、藤原菌がついた!」
と、おそらく新種の病原菌を発見し、手のひらをなすりつけ合うという遊びを思いついて、追いかけっこにスパイスを加えていた。
でも僕はそれどころではなかった。彼が手を突いたために、絹ごし豆腐がつぶれてしまったと思ったからだ。
けれど、それは余計な心配だった。
豆腐は少しも欠けることなく、そこにあった。
絹ごし豆腐は無敵の豆腐だった。目玉はないのに、脅威を察知してすばやく身を隠すのだ。
たとえば、掃除の時間は椅子を机の上にひっくり返す必要がある。掃除当番の女子が嫌そうな顔で僕の椅子をそうしたとき、豆腐は、ひゅっと平面に潜った。
幽霊のように透明になったりとかではなく、机の天板に引っこんで避難するのだ。
そして、危機が去ると『ふるん』と現れる。
あるとき――僕の机でバスケットボールのドリブル大会が開催されたとき、絹ごし豆腐はせわしなく、ひゅっ、ふるん、ひゅっ、ふるんを繰りかえした。
大会の参加者たちは、僕がいつものようにすべてをあきらめ、机の一点をうつろに眺めているのだと勘違いしていたが――実のところ、このときの僕は興奮しっぱなしだったのだ。
ひゅっ、ふるん。ひゅっ、ふるん、が楽しくて仕方なかった。
頑張れ。つぶされるな。急げ。
僕に応援されるまでもなく、絹ごし豆腐くんは、危なげなくバスケットボールの体当たりをかわす。
夢中になっていた僕は、バスケットボールのつぶつぶした表面が顔に当たっても痛みを感じなかった。
+ + +
僕は、大豆製品をほとんど憎んでいた。
豆腐は好きでも嫌いでもないが、納豆のことを憎悪していた。
小学生のとき、クラスの猿たちが、給食で余った納豆のパックを僕のランドセルに忍ばせたことがあった。
授業中、担任の先生がロッカーの中から異臭の発生源を突き止めた。僕もそこで初めて気づいた。ご丁寧に納豆パックのふたが開けられていたことも、そのとき知った。
先生は、「お前みたいに食い意地が張った奴は初めてだ」と僕をせせら笑うことによって、クラスの人気者になった。
あれ以来、納豆のにおいを嗅ぐだけで、先生の、あのにちゃにちゃした笑い顔を思い出して吐き気がする。
絹ごし豆腐くんは何も言わない。
目玉もないのだから、当然口もない。
まず疑ったのは自分の脳みそのことだ。
人間は精神的に追い詰められると、現実とは違う映像が脳みその中で投影されることがあるらしいので、その類ではないかと心配した。
そうなのかもしれなかったし、そうではないのかもしれなかった。
そして、もし幻覚でないのなら、きっとファンタジーだとかSFの世界の出来事が、目の前で起こっているのではないかと考えた。この豆腐がきっかけで、僕は大冒険に出かけるのだ。
……どんな冒険だろう。
あまり格好良さそうではない。
あるいは、この白い直方体には不思議な力が備わっていて、僕の願いを叶えてくれるのかもしれない。
何を願おうか。
世界から納豆をなくしてください。落書きのない教科書で授業を受けさせてください。修学旅行が中止になりますように。殴られても痛くない筋肉が欲しい。
……ううん、絹ごし豆腐には荷が重いだろうか。どうだろう。
つついてみても、彼はふるんと揺れるだけだった。
+ + +
驚くべきことに、僕と絹ごし豆腐くんの中学生活は、それから卒業するまでの一年半、ずっと続いた。
修学旅行先の京都にまでついてきたときが、いちばんびっくりした。けれどおかげで、班行動で置き去りにされても、新京極のドトールで豆腐くんとコーヒーを飲んで過ごしたので、ちっとも退屈しなかった。
彼は何も言わないし――僕も何も語らない。
悩みの相談もしないし、愚痴もこぼさなかった。目と目で意思疎通もしなかったし、連絡先も知らなかった。
けれども確かに、僕たちは友達だった。軟弱者同士、互いに傷つけることもせず、ただただ『ひゅっ、ふるん』を繰りかえすだけの関係性だった。
中学を卒業すると、彼との縁はぷつりと切れた。
高校以降の僕は、クラスメイトに話しかける勇気を持つようになり、久しぶりに人間の友達ができた。
大学では初めて恋人ができて、卒業してから二年後、結婚もした。今では子供までいる。
友よ。
今、初めてきみに語りかけよう。きみがいたから今の僕がある――かどうかは分からない。なにせ、ただ机をともにしただけの、薄い間柄なのだから。
友よ。
……そういえば当時、僕の願いがひとつだけ叶った。あれは、きみの仕業だったのだろうか。
そう、もう何度目かの納豆ブームが世間に吹き荒れ、一時的に、近所のスーパーから納豆が消え去ったのだ。
友よ。
きみに伝えたい。
「そういうことではない」
(終わり)