一一二 二宮の変
~~~呉 建業の都 孫権の邸宅~~~
(親父、オレはもう駄目だ。体中ガタが来ちまってもう長くはねェよ。
仮に持ち直したところで全快は無理だ。国のために働けねェ)
「なんでェお前らしくもねェ。いきなり弱気なこと言いやがって。
まだ33だろうが。しっかりしろよ」
(33歳じゃ若すぎるって? 孫堅の爺様や孫策のオジキがおっ死んだ時は何歳だった?
どっちも死ぬまでに天下に名前を轟かせたじゃねェか。短くも長くもねェよ。
そんなクソの役にも立たねェオレが、死のうが生きようがどうでもいい話だろ)
「そんなのオレだって似たようなもんだ。
兄貴の頃から増やせた領地は荊州だけだ。
それだって呂蒙や陸遜のおかげだったぜ」
(弟の孫慮が死んだ時、アンタ馬鹿みてェに泣きやがってよ。
飯も食わねェでみるみる痩せやがって。
しょうがねェからオレが都まで出張って、代わりに政務とってやったっけな。
もうオレはいなくなんだぜ。
酒だけじゃなくてちゃんと飯食って、てめェで国ィ切り回せよ)
「余計なお世話だバカ息子。
……そういやあ、良い酒が手に入ったんだよ。なあ、たまにゃあ一杯飲みに来いよ」
~~~呉 建業の都 孫覇の邸宅~~~
「……まずいわね」
「まずいって何の話だ姉貴?」
「わからないの? アンタを差し置いて孫和が皇太子に選ばれた件よ」
「差し置いても何も、孫和はオレの兄貴じゃねェか。
順番からいって妥当だろうが」
「三男と四男に順番なんて些細な問題よ。
アンタがもっと踏ん張りゃあ、皇太子になれる目だってあったはずなのに」
「別に……オレは皇帝の座になんて、もともとそんな興味ねェしよ。
それより、孫和が皇太子になったら何がまずいってんだ」
「本当に鈍いヤツだね。アタシはずっと、ママが皇后になれるよう働きかけてさ、
それに反対する孫登の兄貴とやり合ってたじゃないの。
で、今回も孫和の母親が皇后になるなんて噂されてさ。
ママは死んでからやっと皇后に認められたのに、
アイツの母親はあっさりと皇后になるなんて、もう悔しくて悔しくて……」
「だから何の話なんだよ。そんなのダンナの全琮サンにでも愚痴ってろよ」
「アンタにも関係があんから話してんのよ。いいから黙って聞いてなさい。
……だからアタシは孫和に恨まれてんのよ。
アイツが皇帝になったら、きっとアタシは仕返しされる。
その時には孫覇、アンタも道連れにされんのよ」
「はあっ!? なんで急にそんな話になんだよ」
「孫登や孫和とやり合う時に、アンタはアタシと同意見だって名前を出してんの」
「何を勝手なことしてんだよてめェ!
だいたいオレと姉貴は母親が違うのに、なんでオレにそんな義理があんだよ」
「アンタのママだって身分が低いからって何かと差別されてんじゃないの。
夫人じゃなくて姫とか呼ばれてるしさ」
「そりゃオヤジは皇帝なんだから、呼び方とか堅っ苦しい決まり事があるんだろうよ。
……そんなことより、オレに一言の断りもなく何を勝手なことしてんだっての!」
「ちゃんと孫弘に断り入れたわよ。アンタの腰巾着の。
あと呂岱とか呂拠とか歩隲とかにも言ったし」
「孫弘に呂岱に呂拠に歩隲……。
日常会話ができねェヤツばっかじゃねェか……。やべえ、頭がくらくらしてきた」
「どうせアンタ、狩りに夢中でアイツらの話なんて聞き流してたんでしょ」
「否定はできねェ……。
っていうか会話が成立しないんだってアイツらは……」
「自分の立場はわかった?
孫和はやる時はやる子よ。皇帝になったらきっと、不穏分子はまとめて叩き潰す」
「否定はできねェ……。
で、どうすんだよ姉貴。何か考えがあっから、人払いしてオレを訪ねてきたんだろ」
「今から本気になればいいのよ。
……アンタが本気で皇帝になればいいの」
~~~呉 建業の都 孫権の邸宅~~~
(あと親父よォ。オレ以外の弟ども、どいつもこいつも甘やかしやがって。
あいつら雁首そろえてみんな、オレも皇帝になれっかもって勘違いしてんぜ。
オレが死んだらさっさと孫和の奴を代わりの皇太子にしろ。アイツが一番マシだ)
「だから余計なお世話だつってんだろ。
おめェと比べたら、どいつもこいつも頼りなく見えちまってな。
ついつい甘くしちまうんだ。おめェは誰に似たんだろうな。
オレか兄貴か、それともオヤジか」
~~~呉 建業の都 孫和の邸宅~~~
「良いニュースと悪いニュースがある。どっちから聞きたい?」
「どっちでも構わない」
「相変わらずノリの悪いヤツだな。ハイスクールで習わなかったか?
友人がパイを投げる時は一緒に投げるか、笑ってパイをぶつけられるもんだぜ」
「君は有能な男だが友人ではない。早く用件を言ってくれ」
「だから良いニュースと悪いニュースのどっちからだ?」
「良いニュースでいい。さっさと言え」
「全琮と歩隲が死んだ。もっとも、呉にとっては悪いニュースだがな」
「孫覇派の重鎮が2人そろって死んだか。それは確かに朗報だ」
「めったなことを言うな。全琮様は俺にとって義兄にあたる方。
歩隲様は建国以来の功臣だ。つつしんで冥福を祈ろう」
「だが滕胤の言う通り、これで孫覇様の勢力は著しく削られたな」
「残るは呂岱、孫峻、呂拠程度。孫弘その他は物の数にも入らん」
「全琮様や歩隲様には悪いが、これで無益な後継者争いは終わるだろう」
「正統な皇太子である孫和様を差し置き、孫覇様を擁立するなど、
そもそもが間違った話だ。
元をたどれば御二方に同等の処遇を許された陛下の判断が……」
「で、殿下! 一大事です!」
「どうした吾粲。君ほどの人がそこまで慌てるなんて……」
「その通りだ。慌てる必要はない。君が言いたいことなら私がとうに知っているよ。
ハワイは暑いということと同じくらいにね。だから落ち着くんだ」
「そういえばお前は、悪いニュースがあるとも言っていたな」
「ああ、これ以上ないくらいの悪いニュースだ。
寝ていた赤ん坊も飛び起きるくらいのな。
……陸遜が失脚した」
「な、なにィ!?」
「……詳しく話してくれないか」
「その必要はない」
「り、呂拠。孫覇派のお前が何しに来やがった!」
「それは関係ない。私は勅命に従うだけだ」
「勅命? 父上からの命令だって?」
「吾粲、張休、顧譚に逮捕状が出ている。身柄を引き渡せ」
「!? わ、私にまで手が及んでいたか……」
「そ、そんな不当な要求を呑めるものか!
だいたい孫覇派のお前がその役目を命じられてること自体がおかしい話だ!」
「おやめください。……抗議は法の場で、陛下の前でいたしましょう」
「ああ。この場で何を言っても、呂拠には無駄だ」
「良い機会です。 孫権陛下の非を正しましょう」
「話が早くて助かる。だが縄は付けさせてもらう。ついてこい」
「吾粲……張休……顧譚……」
(孫和派の重鎮も一気に3人が脱落か。
これは私にとっては2つとも良いニュースだったな……)
~~~呉 建業の都 孫権の邸宅~~~
(ついでに言っとくけど、アンタ戦下手なんだから
あーだこーだ口出しして、あっちゃこっちゃ遠征させんのいいかげんにしろよ。
戦のことは陸遜だの呂岱だのに任せときゃいいんだよ。
皇帝陛下サマのわがままで軍や民が消耗してたらざまァねェぜ)
「おめェなんかろくに軍を率いたこともねェくせに偉そうなこと言いやがってよ。
……いっぺん率いさせてみたかったな。
オレよりはマシに戦えたかもしんねェな」
~~~呉 建業の都 孫覇の邸宅~~~
「やっぱりパパはあれ以来おかしくなってるわ。
アタシの言うことをなんでも鵜呑みにする」
「や、やりすぎじゃないのか姉貴……。
いくら孫和に肩入れしてたからって、陸遜に吾粲、張休や顧譚まで陥れるなんて」
「ここまでやっといて怖気づいたの? 今さら後になんて引けないわよ」
「……もし、このままオレが皇帝になれたとしてだぜ。
その後どうすんだよ。陸遜や吾粲を殺しちまってよ。魏とどうやって戦うんだよ」
「陸遜は死んでないわよ。パパの不興を買って都への出入りを禁じられただけ」
「吾粲は死んだじゃないか! 張休も、顧譚も。
みんな姉貴が……いや、オレが殺したんだ……」
「いいこと? 今は自分のことだけを考えなさい。
このまま皇帝になれなかったら全てが水の泡よ。アンタもアタシも死ぬだけ。
呉のことも魏のことも今はどうでもいいの。
アンタは死ぬ気で皇帝になるしかないのよ!」
「あ、ああ……」
「そのためならアタシはどんな手だって使ってやるわ。
孫峻だって孫弘だって、誰だって利用してやる。
そうして皇帝になって、アタシやアンタやママを
馬鹿にしてきた連中に一泡吹かせるのよ……」
~~~呉 建業の都 孫権の邸宅~~~
(ガキの頃に読んだ……ありゃなんだったかな。
孔子サマだかなんだかがこんなこと言ってたぜ。
鳥が……鳥が死ぬ……なんだっけな。
鳥のことはいいや。オレが言いてェのは後半のほうだ。
人が死に際に言うことは良いことしか言わねェ、とかなんとか)
「ははっ。ちゃんと勉強してねェから肝心な時に思い出せねェんだよ。
かっこつけようとして失敗してんじゃねェよ」
(うるせェな。学が無ェのはお互い様だろうが。
とにかくよ、オレが死にそうな身体に鞭打ってこんなに色々しゃべったんだ。
その一つか二つでもいい。たまにゃあ思い出してくれりゃあ満足だ。
死に際にはオレみたいな馬鹿でも良いことしか言わねェらしいからよ)
「……馬鹿が」
(親父がオレの言葉を覚えてる限り、オレは死んでも生きてるようなもんだぜ。
それを忘れんなよ。
じゃあな親父。せいぜい長生きしろよ)
「……覚えてるぜ。おめェの言葉だけは忘れねェ。
耄碌しちまってよ。情けねェことに他んことはいろいろ忘れちまった。
判断力も無くなってよ。ガキになんか言われりゃ、ついつい甘い顔しちまう。
でもよォ、ここらでしっかりしねェとな。
もうすぐおめェに会った時、何を言われるかわかんねェもんな」
「失礼します。……おっと、また孫登殿下の手紙を読まれていましたか?
私と来たらいつもこうだ。大事な時に限って邪魔をする。出直しましょう」
「いや、いいんだ。構わねェ。手はず通りにやってくれ。
……なんだよ。まだ何かあんのか。なんか言いたそうじゃねェか」
「いや……私はいちおう孫和殿下の腹心です。
こういったことにはもっと適任者が別にいるんじゃないかと思いましてね」
「何が腹心だ他人事ヤロー。
てめェは何があっても他人事みてェなツラでやり過ごしやがる。
そういうヤツが一番向いてる仕事だ。さっさとやれ」
「やれやれ。陛下には負けますよ。じゃあ遠慮なく」
「ああ。孫和の廃立と孫覇の自害。
……それでクソ下らねェ争いは終わりだ」
~~~~~~~~~
かくして孫権は10年にわたり続いた政争に二人の息子との別離で決着をつけた。
だが呉は無駄に浪費した長い月日のツケを払わされる。
幼帝が即位し、そして専横が始まろうとしていた。
次回 一一三 独裁者