太陽男と雪女
山奥の森の中。複雑に入り組んだ道を進むと、小さな家がある。コンコンコン、と3回軽くノック。暫くして木製の扉がゆっくりと開いた。
「お届け物でーす」
「やあ、よく来たね。いつもご苦労様」
俺が持ってきた箱を掲げると、彼女はほんの少しだけ微笑んだ。
「今日も家、入っていいの?」
「駄目だといっても入るのだろう?」
「ご名答」
彼女の後に続いて、家にお邪魔する。
「寒いだろう。適当に座っていたまえ」
「ありがと」
お言葉に甘えて、ふかふかのソファに腰掛けた。
「君も大変だろう。毎回こんな所まで来るのは」
俺が手渡した箱の中身を確かめながら彼女は俺を労うようにそう言った。
「そうでもないけどな。雪ちゃんに会えるんだし。話をするのも楽しいから里から荷物を届けるのなんかちっとも苦にならない」
「ふむ、全く君はおかしな人だ。雪女の私を怖がるどころか話し相手として見るのだから変な人と言わざるを得ない」
そう、彼女は雪女。嘘みたいな話だが雪ちゃんの一族は何千年も前からここに住んでいるらしい。というか昔、悪さをした仕返しに村人にかけられた呪いのせいでこの山奥の地を離れられないんだとか。だが流石に可哀想だって話になって、呪いをかけたご先祖様が食べ物やら服やら書物なんかを雪女に届けるようになった。その伝統は今でも続いている。だからその子孫である俺がこうして雪ちゃんに荷物を届けてるってわけだ。正直よく分からない伝説と伝統だが、そんなことはどうでもいい。
「そうだ。聞きたいことがあるのだが」
俺にカフェオレの入ったマグカップを差し出しながら、雪ちゃんは俺の隣に座った。
「おう、どうした?」
マグカップを受け取り、温かいカフェオレを飲む。程よい甘さが口の中に広がった。雪ちゃんはマグカップを机に置くと、真顔で俺にこう尋ねた。
「恋とはどういうものだ?」
「……は?」
「いやな、この前書斎にあった書物を読んでいたんだが、その主人公が恋をしたと書いてあった。私には恋がどういうものか分からないから聞いてみたのだが」
一瞬、俺の恋心が雪ちゃんにばれてしまったのかと思ったがどうやら違うらしい。
「恋、なぁ……。何というか、その人を好きって思う感情?」
「主人公は恋が苦しく随分と悩んでいるようなのだが、病気ではないのか?」
きょとん、と首を傾げる雪ちゃん。それから少し眉を寄せて呟いた。
「感情というのは難しいものだな」
雪ちゃんには両親がいない。そのため人と触れ合う事が無く、感情をあまり持たない。家の本で理屈のようなものは分かっているらしいが理解出来ない感情も多いんだそうだ。
「焦らなくても大丈夫だって。感情なら俺が少しずつ教えてやるから」
そう言いながら軽く頭を撫でてやると、雪ちゃんは少し頬を緩めた。
「ふむ、そうだな。君には感謝しなくては。荷物運びが代替わりして君になってから少しは感情について分かるようになったからな」
「親父とは話をしなかったのか?」
「君の父親は私を怖がって言葉を交わす事などなかったさ。荷物を届けた初日に強引に家に入り込んだのは歴代でもきっと君が始めてだ」
そもそも荷物だって家の前に置かれているだけだったよ、と雪ちゃんは付け足した。
「感情を全て理解することが出来れば、君にお礼をしなくてはな」
「あっ、じゃあ名前で呼んでよ。それから雪ちゃんの本名教えて」
雪ちゃんは何故か本名を教えてくれない。俺のことも名前で呼んだためしがない。
「ふむ、名前か。しかし私は君の名前を知らないが」
前に自己紹介したはずだが、どうやら忘れられてしまっているらしい。雪ちゃんの中で俺の存在は思っていたより小さかったことに少しショックを受ける。
「陽一だよ。太陽の陽に、一番の一」
「なんとも暑苦しくて君らしい名前だ。覚えておくとしよう」
雪ちゃんはまた少しだけ微笑むと頷いた。
「さて、そろそろ帰るな」
村での出来事や雪ちゃんの質問に答えたりしているうちに、随分と日が傾いてしまった。本当はもっと雪ちゃんと話がしたいのだけれど、日が沈む前に帰らないと、道に迷う危険性がある。
「ああ」
全く名残惜しくなさそうに、あっさりと雪ちゃんはそう言った。
「じゃあな、また明日」
「あっ、待ってくれ」
少し寂しさを感じながら家を出ようとすると服の袖を慌てて掴まれる。これはもしや雪ちゃんにも寂しいという感情が芽生えたのではと小さな期待を抱きながら、真顔でどう言ったものかと逡巡している雪ちゃんの言葉を待つ。この子はストレートだから、もしかしたらドキドキするような一言を俺に言ってくれるかもしれない。
「最近この辺に熊が出るから気を付けて帰るといい」
「怖すぎだろ!」
別の意味でとてもドキドキした。
「ただいま」
「遅かったじゃねえか」
「荷物届けたついでに雑談してた。親父は荷物運びしてた時一度も喋らなかったんだって聞いたぞ」
嫌味っぽく言うと、親父は複雑な顔をして、半ば独り言のように呟いた。
「 俺には才能がほとんどなかったからな。話しても無駄だったんだよ。その点お前は優秀だ。才能も十分にあるし、会話するぐらい仲良いみたいだからな……けどそろそろ潮時かもしれねぇな」
親父は残念そうに目を伏せる。
「もう雪女と会うのはやめろ」
「何だよそれどういうことだ」
「そのままの意味だ。荷物を家の前に運ぶだけにしろ。話はするな。これ以上はお互い辛くなるだけだ」
「いや、訳分かんねえ。何が駄目なんだよ」
半ば怒鳴る俺とは対照的に、親父は至って冷静だった。
「俺達の祖先を知ってるか?」
「知ってるよ。雪女に呪いをかけた人だ。だから俺達が荷物運びをしてる」
「そうだ。俺達は太陽の一族と呼ばれる。雪女の力を封じ込めることができるんだ。具体的に言えば、俺達が近づくだけで雪女は雪を降らしたり操ったりする能力を奪われる。お前が荷物運びになってから村に雪が降らないのはお前が毎日雪女と会ってるからだ。今の雪女はお前と接触しているから雪を降らせるだけの力がためられないんだ。だが、それだけじゃない」
ここで親父は一呼吸置くと、俺の目を見据えて、はっきりと告げた。
「俺たちが近くにいると、雪女は全身を炙られるような痛みを感じる」
「そんな……嘘だろ……」
「お前のじいちゃんもな、お前に似てお人好しだったよ。本人がどう思ってるかは知らないが雪女には母親も父親もいない。自然が生み出すんだ。そしてその雪女が死んだらまた自然から新しい雪女が生まれる。伝説だから詳しくは分からないがな。まあとにかく、じいちゃんは雪女がずっと1人で暮らすのはきっと寂しくて可哀想だと毎日彼女の元へ通っては話をした。だけど、随分と若くして死んじまったんだとよ。後で伝説の中に太陽の一族がそばにいると雪女に苦痛を与えるって一文を見つけて、じいちゃんはずっと後悔してたよ。俺が関わらなければあの子はもっと長く生きられたかもしれない、ずっと痛い思いをさせていたに違いないって」
親父の言葉が、俺に重くのしかかる。
「だからもうお前もそれ以上関わるな。俺達がすべきことは雪女の能力を封じることだけだ。彼女を苦しめることじゃない」
「もう彼女を解放してやれ」
親父は気の毒そうに、そう言った。
目の前が真っ暗になった気がした。
親父の話を聞いてからもうすぐ2週間。俺は明け方の少し前に荷物を家の前に置いてはすぐに立ち去るを繰り返していた。
「今日の分もよし、と」
箱を置いて、雪ちゃんの家を見る。
本当なら今すぐにでも雪ちゃんに会いたいところだが、彼女に苦痛を与えると知った今、そんな身勝手なことは出来ない。
「せめてちゃんと別れの挨拶ぐらいはしたかったな」
「なら今すればいいだろう」
聞き慣れた声。紛れもなく雪ちゃんの声だ。いつの間にか、俺の真後ろに立っている。
「雪ちゃん……!?」
慌てて少しでも距離を取ろうとすると、雪ちゃんが俺の腕をがっしりと掴んだ。俯いているため、雪ちゃんの表情は分からない。
「なぜ今まで来なかった!! また明日、と言ったのに! なぜ! なぜだ!!」
顔を上げて、声を震わせながらそう言った雪ちゃんは泣いていた。目から大粒の涙を零して、更に言葉を続ける。
「熊に襲われて死んでしまったと思った! 荷物の渡し方が変わっていたから、違う人になってしまったのではないかって……そう……思って……」
しゃくりあげ、まるで小さな子供のように泣く雪ちゃんを力一杯抱きしめたい。だがそれは出来ない。胸を引き裂かれるような気持ちで雪ちゃんの手を振り払うと、雪ちゃんは目を見開いた。
「どう……して……」
「雪ちゃんに苦痛を与えてしまうなら、俺はもう雪ちゃんとは会えないよ」
気持ちを押し殺すように、出来るだけ穏やかな顔で雪ちゃんに語りかける。
「苦痛……? 何のことだ?」
「とぼけなくたっていいんだ。今までずっと苦しかったんだろう? 痛いのを我慢して俺と話をしてくれていたんだろう? 今まで辛い思いさせてごめん」
「待て。それは何のことだ。君が私に近づくと何か不都合なことでもあるのか?」
「え……?」
「ん……?」
雪ちゃんの態度は、嘘をついていたり無理をしているようには見えない。
「だって太陽の一族が近づくと痛みを感じるって……」
「話が飲み込めない。もう少し詳しく話してくれ。何があった」
雪ちゃんは怪訝な表情で俺に問いかける。俺は親父に聞いた話を全て伝えた。
「つまり君は私の先祖に呪いをかけた一族の子孫で、君が近づくと私に苦痛を与えると」
雪ちゃんはそう言ってからしばらく黙り込んだ。それから、さらりと言葉を放つ。
「君は馬鹿だな」
「馬鹿!?」
「確かに私の先祖は呪いを受けたのだろう。だが、そんな昔の呪いが今まで根強く残っているわけがないだろう。効力はとうの昔に弱まっている」
「えっ、そうなのか!?」
「確かに君が毎日会いにくると雪を降らせたり操るのは難しいが、苦痛など全くない。むしろ……」
雪ちゃんは言葉を選ぶように視線を宙に向ける。
「むしろ?」
待つことに耐えきれず、思わず問いかけると雪ちゃんは少し頬を緩めてこう答えた。
「陽だまりにいるような気分になれてポカポカする」
「何だよそれ……俺はすっごく悩んだってのに……」
がっくりと崩れ落ち、その場に膝をつく。
「くっ……あは、あははははは!!」
弾かれたような笑い声に、驚いて顔を上げると、雪ちゃんがとても楽しそうに笑っていた。
「ははははは!! 君は、君は本当に馬鹿なんだな!」
「馬鹿とはなんだ」
「だってそうだろう? 本当に面白い!」
いつの間にか昇ってきた太陽の光に照らされて、雪ちゃんの笑顔がきらきらと輝く。
「ふふっ……そうだ、いいものを見せてやろう」
ひとしきり笑った後、雪ちゃんが手を胸の前で組み、目を閉じて何かを呟く。
「何も起きないぞ?」
「まあそう焦るな。もう少し待て」
言われた通りに大人しく待ちながらぼんやりと景色を眺めていると、目の前にひらり、と白い何かが通った。目の前だけじゃない。あちこちに白いものが舞い降りている。降ってきた白い物体に両手を伸ばし、すくうように受け止めると、手のひらの上で溶けてしまった。冷たい。
「すげえ……! 雪ちゃん!! 雪が降ってきた!」
空は雲一つない青空なのに、次々と雪が降ってくる。
「君が来なかった間に貯められた力だよ。村じゃきっと今頃雪女の仕業だと大騒ぎだ」
愉快そうに雪ちゃんがまた笑う。
「なあ、陽一。君が来なかった間に私は沢山の感情を手に入れたよ。寂しさを感じたし、心配というのもした。怒りの感情も分かったし、悲しい気持ちも理解できた。楽しいって感情もよく分かったよ」
穏やかな表情で雪ちゃんは俺にそう告げる。
「雪ちゃん、今、陽一って……」
「全ての感情はまだ分かっていないが、かなりの感情を知ることが出来たからな、報酬も半分だ」
雪ちゃんの本名は、どうやらまだ教えてくれないらしい。
「それからな、陽一。私は後1つ感情が分かりそうなんだが……」
雪ちゃんは俺を見つめる。
「少し前から陽一の事を考えると胸が苦しくなるし、いつの間にか陽一の事を考えているのだ。動悸もおかしい。俗に言う苦しい、という感情に似ているのだが、少し違う。この感情は何だろうか……?」
本気で分からない、といった風に胸を押さえて首をかしげる雪ちゃんを見て、思わず吹き出してしまう。
「なっ、なぜ笑うのだ」
「その感情はね、雪ちゃん」
早く教えろ、と催促する雪ちゃんの手をなだめるように握る。
陽に透かされて降る雪が、周囲の木々に少しずつ降り積もる様子を眺めながら、俺はゆっくりと答えた。
「きっとそのうち分かるよ」