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011

 ――ぼくは、今、公司館の地下三階に居る。

 さっき屋上から公司館に入る直前に、ヴォルトに言われたんだ。

「お前は知らなきゃならない。いいか、地下三階に行け」

 この言葉がどういう意味なのか、ぼくにはさっぱりわからなかった。

 でも、ヴォルトがマーシアやテイルに聞こえないよう、用心して言ったようだったから、ぼくはとりあえず誰にも見つからないように、静かに階段を降りている。

 路上でさんざんやりあった後は、今度は地下へ行ってこいだなんて。ヴォルトは一体何を考えているんだろう?

 地下三階は初めて来た。ぼくは、比較的自由に公司館内を動き回ることを許されているけれど(問題児のヴォルトやティーマなんかは、まだ制限がある)、地下三階と五階には、特に用もなくてまだ行ったことがない。

 地下四階、五階は倉庫、一階は公司たちの休憩所や小ぶりの会議室がいくつかあり、二階は主に緊急用食料保管庫。

 確か三階も倉庫だ。ひとつ気になることといえば、その地下三階に、重罪人の牢獄があるという噂を、何度か耳にしたことがある。

 だけど今のところ、そんな様子はない。いつもと同じ赤い絨毯と、等間隔のランプだけの廊下に、時々シンプルな茶色の扉がついているだけ。

 人にも会わない。ぼくの足音だけが、寂しい廊下にコツコツと大きく響く。

 会ったとしても、いつも顔なじみの公司さんだけだ。軽くお辞儀をしてすれ違えば、怪しまれることなんてない。

 延々と同じ光景を繰り返すあまり、もしかして同じ場所で足踏みしてるだけなんじゃ、なんて思い始めて、ちょっと笑った。そのすぐ後、とたんに廊下の雰囲気が変わった。

 赤い絨毯は途中で途切れ、そこからコンクリートの冷たい壁と、石畳の床になっている。

 明かりも、時々ぽつぽつと足元のライトが灯っているだけで、かなり薄暗くなっていた。

 恐る恐る進んでいくと、ぼくからあと十歩ぐらいのあたりに、廊下をふさぐ頑丈そうな鉄の扉が見えてきた。見た目だけでも、五センチ以上の厚さがありそうな、重厚な扉だ。

 ぼくは、ハンドルのような扉の取っ手を掴み、軽く動かした。ハンドルは回ったけれど、途中でつっかかる。どうやら鍵がかかっている。

 誰も居ないとわかっているのに、ぼくは振り返って様子を伺った。そして扉に小さくあいた鍵穴に、そっと指先をそえる。

 水が飛び出して、すぐに固まった。ぼくはちょこちょこと指先を動かして、鍵の構造を探る。

 開けられそうだ――出来あがった氷の鍵をひねると、カチリと音がして、ハンドルが回った。

 扉を少し押すと、さびた蝶番が派手に唸った。慌てて振り向くが、やはり誰も聞いていない。

 ぼくは指の先に力を込めて、豆電球程度の小さな明かりをつけてみた。指にホタルが乗っている程度の明かりだが、これでも足元ぐらいは、照らしてくれるだろう。

 ぼくは用心深く扉の向こうを観察し、明かりのついた指を先に突っ込んでから、中に入った。


 寒い……。

 つま先や指先が凍りつく。まるで、冷蔵庫の中を歩いている気分だ。

 ぼくの吐く息は決して白くなったりはしないけれど、むき出しの肌は人間と同じように寒さや暑さを感じることができる。

 歩いていくうちに、整えられていた石畳の床も、長年忘れられていた遺跡のように、あちこち崩れて歩きにくくなっていた。

 ぼくは指先ランプをさらに明るくし、足元を照らす。

 足元には崩れてきた壁の破片と思われる、小石や砂利が散らばっていた。

 一方目の前は、どこまでも続くような、何もない暗闇が広がっているだけ。

 なんだか怖いな……。

 その時、突然、獣の唸るような低い唸り声が聞こえてきた。

 ぼくはぎょっとして、声のほうへ体を捻る。

 すると、小さな明かりに照らし出されたのは、鉄格子に覆われた小さな牢屋だった。

 しかし、中には何もなく、ただ石を積み上げただけのような壁が見えるだけ。とても殺風景な部屋だ。

 振り返ると、ぼくの歩いてきた後にもいくつか同じものがあった。前と足元にばかり気を取られていて、ぜんぜん気がつかなかった。

 確かに、さっきのは人の声だった。ぼくはさっきの唸り声の正体は何なのかと、恐る恐る足を進ませる。

 ほんの二、三歩進むと、またひとつ牢屋があった。そしてその奥に、小さくうずくまる人間らしき人影があった。

 ぼくは闇に目を凝らし、ピクリとも動かないボロのかたまりのようなものを見つめた。

 ぼくの足が小石を蹴り、鉄格子に当たって軽い音を立てる。その時、牢の奥で何かがピカッと光った。

 人間の目だ。見開いた大きな目が、ぼくを仰々しく見つめている。

 きっとぼくに気づいたんだ。その人がぼくの下へ、少しずつ這ってき始めた。

 灰色っぽく変色してしまった骨のような腕が、地面を必死に掻いている。

 ぼくは、ただわなわなと口を震わせながら、恐怖で全身をひきつらせていた。

 こんな人、見たことがない。今にも声をあげて逃げ出したいぐらい怖いのに、この怠け者の足は、まったく動こうとしない。

 らんらんと光る見開かれた瞳が、ぼくを真っ直ぐに見つめている。

 ぼくは、怠け者をバシバシ叩いて、走らせたい衝動を必死に抑えた。

 ヴォルトに言われたんだ。ここに来れば、ヴォルトが何を言おうとしていたのかがわかるって。

 ついに、人影はぼくの前まで這って来て、長い髪から覗く黄色い目で、ぼくを見つめた。

 そして、ゆっくりと、乾燥した唇を開く。

「……水を……」

 精一杯出された、擦れた、微かな声には、同情せずにはいられなかった。

 とたんに恐怖心も薄れ、ぼくはその人を見つめ返しながら、彼の前にひざを折って屈む。

「手を……出してください」

 ぼくの出した声は、虫が飛ぶみたいなかすかな音だった。

 すると、唸るような返事が返ってきた。さっき聞いた唸り声は、どうやらこの人のものだ。

 毛むくじゃらの顔の真ん中に、少しだけ突き出した鼻と、ぎらぎらと光る黄色の目だけがある。

 近くで見てもおとぎ話に出てくる森のお化けにしか見えないが、どうやら男性だ。男性はゆっくりと、やせ細った手をぼくの前に差し出した。

 ぼくは、指先から男性の手の中へ、新鮮な水を注ぐ。

 それを見て、男性は黄色い瞳を見開くと、かぶりつくように、その水を一気に口に含んだ。

 「おいしい、おいしい」と擦れた声で呟きながら、ぼくの出した水を瞬く間に飲み干していく。

 ぼくはそんな姿が、哀れで仕方なかった。

 きっと、この人も何か重い罪を犯し、ここへ入れられたんだろう。

 だけど、こんなにのどが渇くほど、寂しい牢獄で放っておくなんて……。

 男性は何度も何度もおかわりをし、十分に水を飲んだあと、ぼくの顔を黄色い瞳でじっと眺めてきた。

 初めの頃より恐ろしい印象の消えた顔は、見慣れたせいもあって、今ならじゅうぶん人間らしく見える。

「……あなたは……」

 しわがれた小さな声が、ぼくに尋ねる。

「ぼく……ぼくは、アランです」

 ぼくは頷き、同じようにそっと囁いた。

 細い手首が、ぼくを探しているように暗闇を掻く。

 黄色の瞳から、さっきようやく摂った水分が、ボロボロと零れてきた。

「アラン……ありがとう……ありがとう……」

 男性はか細い声でそう言うと、突然床へ倒れてしまった。

 何年もほったらかしの牢に埃が舞う。ぼくは驚いて、細い手首を掴んだ。

 弱ってはいるが、脈はある。眠ってしまったのだろうか……。

 ぼくはほっとして、そっと彼の手を床に下ろした。

 ぼくは立ち上がり、恐怖でよく見ていなかった、彼の牢の中を照らし出した。

 男性が着ているものは、一般的な囚人服とは程遠い、茶色の擦り切れた布一枚だけ。

 這って体からずれた薄い毛布が足にかかっているだけで、予備の毛布なんかは、もちろんない。

 あとの備品は、転がっている汚れたマグカップと、小さな陶器の皿だけのようだ。

 ぼくはせめてもと、そのマグカップを引き寄せ、水で満たしておいた。残念だけれど、今のぼくにできることは、このぐらいだけだ。

 ぼくは毛布を引き寄せて男性の上にかけると、立ち上がり、また歩き出した。

 殺風景な廊下のところどころに、冷たい柵がたくさんある。

 その中には、毛布の固まりか、人影なのか、牢のすみのほうで固まっているものが時々見える。

 かろうじて人だとわかる影も、生きているのか死んでいるのか、わからないものばかりだ。

 ぼくは、その牢獄すべてにある汚れたマグカップに、水を満たして進んだ。

 ぼくに話しかけてきたのは、いちばん最初の、あの人だけだ。

 あとは薄汚れた毛布をしっかりと体に巻きつけ、ぼくが来たことにも気づいていないようだ。

 しばらくすると、無造作に石の積まれた、大きな壁……行き止まりが照らし出された。

 地下三階は、ここで終わりだ。

 ぼくはほっと息をつき、最後のマグカップに水を入れて、食料でも取りに行こうと、また来た道を戻ろうとした。

 その時、


「……誰だ……」


 低く、擦れた声が、聞こえてきた。


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