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合図を

作者: Y.Sag

長く伸ばした爪を真っ赤なマニキュアで染めた。

目がちかちかするほどの原色の赤。刷毛の跡が残らないように丁寧に二度塗りする。


そんなことをしても無駄なことは分かっていた。とうに手遅れであることも。

丸くて短い指の先に真っ赤なエナメルがのっている様は、誰がどう見ても不恰好だった。


似合わない。

そう思いはしたけれど、すぐに落とすのも悔しくて、黙って指先を風にさらす。

開け放った窓から流れる六月の生温い風は、重さを増した指先にゆるくまとわりついた。


橙色の火は、苛立つほどにゆっくりと広がっていく。

細く細く立ち上る煙は頼りなく何度も揺れながら、窓の外に広がる暗灰色の空にのみ込まれていった。


まだ長い八ミリの煙草を灰皿の左角に押し付けて消す。

ラブソファに肘掛に放られた陶器の灰皿は、左の角だけ黒く灰の跡がついていた。


真っ赤に塗られた爪先を橙に染める光にほんの少し目を細める。

似合わないと思う。


釣り合わないと思い知る。

漂う煙が目にしみた。目頭を押さえる。きつく、きつく。

人差し指と中指全体で煙草を挟む手。同じように操ってみても、ぎこちなく不器用な指先は無様なままだった。


起きたそのままでくしゃくしゃになったシーツの上でケータイが鳴った。

即座に視線で追った自分が嫌になる。

仕返しのように殊更時間をかけて通話ボタンに手を伸ばした。

画面を見ないのは期待しているからなのか、失望しているからなのか、もう分からない。

着信音を分けないのも、半ば意地のようなものだった。


「はい。」


やけに低い声が出る。

何もかも手遅れなのだから。


「何してた?」


予想通りの声。期待はずれの声。

耳障りな騒音をバックにこいつは喋る。

ざわつく人ごみの中に埋もれていきそうな感覚。

新しい煙草に火を点ける。


「別に。」

「ふーん。あ、俺今さ…」

「行かない。」


続く言葉なんて分かりきっている。どこにも、出かける気力なんてない。

このノーテンキな声を聞かされるだけで、こんなにもうんざりしているというのに。


もう何度目かも知れない拒絶の言葉。

なのに、こいつは気にする素振りも見せない。

それが余計に癇に障る。


「また煙草?」

ノーテンキなその声がほんの少しだけ低くなる。

「なんで?」

鬱陶しげに返す言葉。正確に意味するところを捉えるこいつにまた苛立つ。

「ひと息多い。喋る時にね。気づいてなかった?」


本当に何でもないことのように、良い天気だねというのと同じ、当然のことのように、そんな癖に気づいている。


「やめたら?体に悪いんだから。」

心配する風でもなく、叱るわけでもなく、さらりと言う。

こいつが決してその言葉を使わないことに気づかないほど、鈍感ではないけど。


「悪かったわね、似合わなくて。切るわよ。」

言うが早いか電話を切って、大きく息を吸う。

自分で言ってりゃ世話ないな、と苦笑して。


本当は吸えやしない煙草。

咳き込む喉を押さえつける。苦しくて目尻に涙が溜まっていく。けれどそれも、零れ落ちることのないままやがて消えた。


釣り合っていないことなど知っていた。


『全く別の種類の人間だからこそ、面白いんじゃないか』


そんな陳腐な言葉を信じていたかった。嘘でもいい、信じさせていて欲しかった。

疑う余地のないくらい、完璧な嘘で、だまし続けて欲しかった。


関節の太い男の人の手。

長い指で煙草を弄ぶ様は映画のワンシーンのように見えた。

ゆっくりと味わうように目を細める仕草はひどく官能的で、上下する胸に頬を押し当てるのが好きだった。


私のものになった瞬間、すべては無価値になることもどこかで感じていたけれど。


短くなった煙草を灰皿の左端に押し付けた。

うまく消えずに、ちらちらと小さな火が未練がましく揺れる。

それはひどく皮肉な眺めだった。


この灯りが消えた時、私に残るものは何だろう。


すべてはあの人の元に収束していた。

私という存在そのものさえきっと。

苛立つのはたぶん、からっぽの自分を知っているから。


ずるずるといつまでも引きずることで、ただごまかしているだけ。

あの人の存在、気配、余韻。

そのすべてを失った時、私にはきっと何も残りはしないから。


もう戻れはしないことなど、とうに知っていた。

私自身、本当はもう戻りたいだなんて思っていないことも。


きっとただ待っていたんだ。

からっぽの自分が歩き出すための合図を。

自分以外の誰かが叫んでくれるかけ声を。


灰皿の真ん中に強く煙草を押し付けた。

白い陶器の表面に、真新しい跡が残る。

強すぎる力につぶされた煙草は、ぼろぼろにほぐれて茶色の葉を吐き出した。




おろしたてのコートの襟をきつく合わせて歩く。

吐いた息が白く染まり、頬が痛くなるほどの冷気に思わず首をすくめた。


地下鉄の階段を一段一段、かかとを鳴らしてのぼる。

今日のこの選択で、きっと私は大きく変わる。

いわば決戦の日。

そんな予感を抱きながら過ごす日を、何度越えてきただろう。

あと何度越えていくことだろう。


最後の一段。

薄く曇った空が見える。

薄灰色の空は澄んだ冷たい風に追われて涙を飲み込んだように見えた。


一、二、三


自分自身に合図を。

自分自身でかけ声を。


ゆっくりと一歩を踏み出す。

何年も前にやめたはずの煙草の匂いを思い出した。


あの時の自分に。

自信をもって問えるだろう。


今の私を誇りに思ってくれますか?

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