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殺人鬼・無々篠シリーズ

光の御子と光明を奪う処刑士

作者: 緋色友架


「はっ…………はっ…………はっ…………はっ…………」


 逃げなきゃ。

 逃げなきゃ。

 逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。

 なんとかして、ここから逃げなくちゃ。


「はっ…………はっ……はっ…………はっ……」


 街並みは、とても日本のものとは思えない、異国情緒漂うものでした。

 煉瓦造りの建物に、整然と並べられた石畳、今時珍しい瓦斯灯たちが、(まばゆ)を錯覚に陥れてきます。

 もうここは違う国なんだって。

 もう眩を追ってくる人はいないんだって。

 そんな風に、時々勘違いを引き起こしてしまいます。

 もしそうだったら、どんなに幸せなんだろう。眩は空気を読まずにそんなことを考えてしまいます。

 どんなに逃げたって、そんな幸せはあり得ないのに。

 まだ、未練がましく考えてしまいます。


「はっ……はっ……はっ……はっ……」


 昔の人は、靴なんてものを持っていなかったから、みんな裸足だった筈です。でも、彼らは日常生活を普通に送れていました。

 何故なんでしょうか。

 答えは簡単に出ました。昔は、裸足で走っても大丈夫だったからです。

 昔は、コンクリートやアスファルトで舗装された地面なんて無かったんです。だから、裸足で走っても痛くなかったんです。

 眩は今、痛いです。

 涙が出てくるくらい、痛いです。

 一歩踏み出す毎に、踵や爪先が砕けるんじゃないかってくらい、痛いです。

 それはきっと、地面が石だからです。

 踵の骨が軋むような痛みは、段々と足を這い上がってきて、脛や膝まで巻き込んで痛くなってきます。走り方も自然とおかしくなって、足元がふらふらとしてきました。


「はっ……はぁ、はぁ、はぁ…………はっ……はっ……」


 息が、苦しくなってきました。

 喉が熱いです。熱いですし、それに痛いです。

 真ん中の辺りが焼けるように熱くて、うっすらと血の味もしてきました。でも、いつも眩の口に入ってくるものとは、少し違う感じがしました。今日のはどこか鉄っぽくて、いつものだって飲めたものじゃないのに、余計に最悪でした。

 何度か咳き込んでみましたけど、喉は裂けるように痛くなるばっかりで、最後には咳の方が勝手に出てくるようになっちゃいました。

 痛くて、痛くて、涙がポロポロと出てきました。

 これだって、いつものことです。

 痛いのも、苦しいのも、血や涙がどんどん出てくるのも、いつもとなんにも変わらない。

 折角外に出られたのに、すっごく苦しくて、すっごく悲しいです。


「はっ…………ぁ……ひっ……はっ……はぁ……かっ…………はっ……」


 周りには誰もいません。

 きっと、あの人たちが妙なことをやったに違いありません。眩を逃がすまいと、みんな必死なんです。

 何故でしょう。

 なんでなんでしょうか。

 眩に、そんな価値はないのに。

 そんな価値がある筈がないのに。

 そんな価値があってはいけないのに。


「はっ……はっ……――――うぐっ!」


 ふらり。

 一瞬世界が揺れて、足元から眩は崩れ落ちました。

 全身から、体温が奪われていく感じです。冷たい石畳は、枕にするには硬過ぎて、触れている頭が割れそうなほどに痛いです。

 心臓が早鐘を叩きます。

 肺が空気を求めて蠢きます。

 そんな臓器の動きにすら置いていかれて、眩は、気持ち悪くて倒れました。

 いつまで経っても大きくならない、寧ろ毎日の実験で体積が削られているんじゃないかと思うような小さい胸に、大きな杭が突き刺さったように、痛いです。

 今にも、張り裂けそうなほどに。

 いっそのこと、切り裂いてくれたら楽だろうと、そう思えるほどに。

 でも、あそこに戻るのは、嫌でした。

 切り裂かれるだけじゃ、済まないから。


「……まだ……ぐ……大、丈夫、です……。これくらい、なら…………」


 これくらいなら。

 眩は、死なないから。

 自分自身を励ますように呟いて、眩はゆっくりと立ち上がります。

 でも、流石に限界でした。

 今日で、脱走してから三日目。

 その間、眩はほとんど飲まず食わずで、ひたすら走り続けましたから、お腹も空いていますし喉も乾いています。それでも死なないような、死んでくれないような眩の身体には、ほとほと呆れますし、昨日辺りからはそれさえも通り越して感心の念まで湧いてきましたけど。

 でも、メンタルだけでカバーするには、キツ過ぎます。


「……お金…………必要、なんです、よね……? こういうのって……」


 きゅるるる……。

 どうやらお腹の虫さんも、泣く元気がないようです。

 というより、根本的な話、この街には人がいるのでしょうか。眩はかれこれ二時間くらいこの街で逃げていますけど、人っ子一人見かけません。だったら、お金なんてあったところで無意味でしょうか。まあ、そもそも持っていないのですけど。


「…………うぅ、ドロボーさんは、いけないこと、です……」


 緊急時には人のものを盗んでよい、なんてバカげた法律はありません。

 眩は仕方なく、またとぼとぼと歩き始めました。幸いなことに、彼らは眩のことを見失ってくれたようです。でも、もたもたするとまた眩のことを――――



「いたぞっ! こっちだっ!」



 突然、眩以外の人の声が響きました。

 それと同時に、無数の足音が聞こえてきます。石を踏み荒らしてこちらに近付いてくる音は、ガシャンガシャン、と、まるでロボットか何かが歩いてくるような、不気味なものでした。


「ひぅ…………に、逃げなきゃ!」


 眩は思い出したように走り出しましたが、まだ身体が言うことを聞いてくれません。

 ぐらぐらと景色は揺れて、足はふらついています。

 こんなんじゃ、すぐに追いつかれてしまいま――――


「うわっと!」

「へ? ふわぁ!」


 どん!

 苦しくて目を閉じて走っていたら、なにかとぶつかってしまいました。眩は後ろに吹き飛ばされて、尻餅を突きます。

 骨に直接響くような痛みが走って、また涙が出てきます。


「あ痛たた……大丈夫かい? お嬢さん」


 声に引かれて、恐る恐る目を開けてみると、そこには、一人の男の人がいました。

 久し振りに見る、白衣以外の物を着た人でした。

 品のいいダークスーツを身に纏った長身のその人は、眩に向かって手を伸ばしていました。

 …………どうすれば、いいのでしょうか。


「ん? どうしたんだい? ほら、掴まりなよ」

「え? あ、は、はい」


 言われるがままに、眩はその人の手を掴み、腰を浮かせて起き上がりました。

 男の人は、ボサボサの髪を掻き毟りながら、笑っていました。確証はないけど、でも、眩を捕まえようとしている訳じゃないんだろうなっていうことは、なんとなく分かりました。

 あれ? でもそうしたら、なんでこの人はここにいられるのでしょう?

 眩が首を傾げていると、男の人は困ったように言いました。


「いや、悪かったねお嬢さん。ちょっと考え事をしていたら、前方不注意になってしまっていた。…………見たところ、急いでいるようだけど、どこかに行くのかい? そんな格好で」

「へ? あ、い、いえ、これは、その……」


 言われて、眩は説明に困りました。

 この人はきっといい人です。だから、眩の問題に巻き込んではいけないと思います。

 …………普通の人と話をしたのは、久し振り、だったんですけど。

 でも、仕方ない、ですよね。


「な、なんでもないです。まば……いえ、その、わたしは、急ぎますので、えと、し、失礼します!」

「あ、どうだい? よかったらこの後、お茶でも」

「け、結構です!」


 暢気に続ける男の人を振り切って、眩は路地裏へと走り込みました。

 お願いです。

 眩のことなんか放っておいて、どうか、安全なところに行って下さい。

 そう願いながら、眩は狭い路地裏を走っていきました。

 そんな眩の頬に、冷たいものが当たりました。


「へ…………?」


 それは、涙でした。

 今は、あんまり痛くないのに。

 痛みなんて気にしていられる場合じゃないのに。

 それでも、涙が出てきました。

 どうしてでしょう?

 眩はなんで、泣いているのでしょうか?


「…………さよなら、です」


 考えるまでもありませんでした。

 眩はただ、久し振りに人と話せたことが、嬉しかっただけでした。

 でも、眩は逃げちゃいました。

 だから、

 今度もまた、独りで逃げるのです――――。



 違和感は、最初からあった。

 それは、文明開化間もない頃の西洋かぶれみたいな街ぶれにではなく、この街の雰囲気そのものに対する違和感だった。本来あるべきものが欠損している喪失感、本来ないべきものが存在している過剰感。どう言い表そうと構わないことだが、この街は明らかに、明瞭に、瞭然に異常だった。

 異常。

 それを、僕のような生物が言っていいものかどうか、気になるものだけど。

 一言でいえば、あまりにも人気がなさ過ぎるのだ。

 どの家も空っぽで、どの店も空っぽで、どの建物も空っぽで。

 空虚というよりも、最早この町そのものが虚空と変わらなくなっている。

 大体、入る時からして妙だった。

 町境を跨いでからこっち、どうにも気分が悪い。気分が悪いだけならまだしも、なんというか、言い知れない気持ちの悪さがある。いつの間にか、大気組成の違う別惑星に迷い込んでしまったような、そんな感覚だ。テキオー灯を浴びずに海底に潜った悪ガキ二人組は、きっとこんな気持ちだったのだろうな。

 お陰で訳もなくイライラしてしょうがない。

 イライラするのは嫌いだ。好きな奴もいないだろうが、しかし僕ほどにこのイライラする状況というものを嫌っている生物もいないだろう。

 ストレスそのものを嫌っている訳ではないのだから、性質が悪い。

 あくまで嫌っているのは、『イライラする』ことそのものなのだ。

 あまりにイライラすると、抑えが利かなくなる。制御が出来なくなる。操縦桿を手放すだけならまだしも、それを自分で踏み潰して壊してしまう。

 だから、この町から早く出たかった。

 ただ、それと同時に、容易には出ていきたくないとも思った。

 僕だって、いつもへらへらしてテキトーにちゃらんぽらんに生きている訳ではない。それなりにものを考えるし、気に食わないことだってある。

 有り体に言えば、この状況は、気に入らなかった。

 町そのものを外界から隔離しているかのようなこの状況。

 結界を張る専門の人間なら何人も見てきたし、何人も殺してきたが、しかし今回はそのどれとも違う。ゲームや漫画で見られるような、東西南北四方に術師を配置したくらいじゃ、人間はともかく、この僕にまでこんな圧倒的な不快感を与える結界は作れない。一〇〇人単位、達人級でも数十人で街全体を囲み、絶えず術をかけ続けなければ不可能だ。だが、それなら僕が入ってきた時に目に留まらない筈がない。

 大体、わざわざそこまで強力な結界を張って、人払いをした理由はなんだ?

 気に入らない。

 まったくもって、気に食わない。

 動機も方法も分からないものだから、余計にイライラする。出来ることなら、自らの手で盛大に壊してやりたいと思う。

 ほら、制御が利かなくなってきている。

 その内言葉遣いも乱れ出すぞ、おおヤダヤダ。

 我が身ながら、取り乱すというのはみっともないことだね。


 ――――と、そんな調子で一人思考に耽っていた時。


 路地裏から大通りに出る、丁度その場所で。

 僕は、彼女に出逢ったのだ。


「うわっと!」

「へ? ふわぁ!」


 どん!

 人と人とがぶつかり合う、鈍い音。

 僕は少し押し出されたくらいだが、彼女は走っていたからだろうか、五〇センチほど後ろに吹っ飛ばされていた。尻餅を突いてしまったらしく、固く閉じられた目からは微かに涙の粒が流れてきている。


「あ痛たた……大丈夫かい? お嬢さん」


 言いながら僕は、彼女をマジマジと観察してみた。

 色素の薄い髪の毛はかなり長く伸びていて、立ち上がった時には膝の裏くらいまではありそうだった。だが、きちんと手入れされている訳ではないらしい。遠目から見ても分かるくらいに、髪の状態は悪い。もう何年も美容院などには行っていないということが、明白だった。

 幼さを残す顔つきに、華奢な身体。その儚さを助長するように、身に付けられているのは、ぼろぼろに破れた一着の白衣だけだ。泥や煤で汚れて、もう着衣としての機能を半ば失っている。おまけに靴も履いてはおらず、腕や顔も充分に傷だらけで血だらけなのに、足は見るも無残に傷ついていた。

 僕の言葉が聞こえたのか、少女は目を開けた。

 その瞳は、宝石のように輝く、紫色だった。

 思わずそれに見惚れてしまったが、それは彼女も同じだった。僕の手を凝視して、固まってしまっている。どういう意味なのか問うように、首を傾げてしまった。


「ん? どうしたんだい? ほら、掴まりなよ」

「え? あ、は、はい」


 言われてようやくその意味に気付いたように、少女は僕の手を取った。そしてそのまま、おずおずと立ち上がる。自分の髪を踏まないように、少し慎重に。

 …………ん?

 なんだろう、違和感が……?


「いや、悪かったねお嬢さん」


 抱いてしまった不審を覆い隠して、なるべく柔らかく、警戒心を持たれないように声をかけた。

 少女は大きな目をパチクリと開閉させながら、不思議そうに僕のことを見ていた。それがどういう意味の視線なのか、僕にはよく分からなかったけど、しかし、放っておくにはどうにも気になる人間だ。


「ちょっと考え事をしていたら、前方不注意になってしまっていた。…………見たところ、急いでいるようだけど、どこかに行くのかい? そんな格好で」

「へ? あ、い、いえ、これは、その……」


 もしかしたら、この町に張られた結界か、或いはそれに類似するなにかに関係があるかも知れないと思って尋ねたが、その途端に、彼女はしどろもどろになってしまった。

 なにかを隠そうとするようなものではないが……しかし、やっぱりちょっと挙動不審だ。

 それでなくても、女の子をこのような格好で街に放してしまうのは、僕のフェミニストとしての矜持に反する。この娘が関係無いなら関係無いで、なにか服でも与えなければと思ったのだが――――。


「な、なんでもないです。まば……いえ、その、わたしは、急ぎますので、えと、し、失礼します!」


 そう言って、少女は走り始めてしまった。今し方僕が通ってきた、色気もなにもない、殺風景な路地裏に向けて、弾かれたように。


「あ、どうだい? よかったらこの後、お茶でも」

「け、結構です!」


 砕けた態度で引き留めてみたが、ものの見事に失敗に終わった。

 まあ、今ので立ち止まるような尻軽女は、このご時世、見かけないけど。まったく、防犯意識の強いことだ。


「……さて、どうするかな」


 順当に行くなら、彼女を追いかけるのが先決だろう。

 彼女の事情など一切知らないが、この不愉快な現状を打破する手掛かりを彼女が握っている可能性は高い。というか、人一人いない、ゴーストタウンと化しているこの街にいて、なんの影響も受けていないような彼女こそ、結界を張った犯人であるかも知れない。現状データだけで判断するなら、そう考えるのが妥当だろう。

 だが、僕は敢えてそこから動かなかった。

 彼女を逃がそうと思ってのことではない。

 もっと興味深いなにかが、こちらに近付いてくるのを察したからだ。

 時代遅れのブリキの玩具のような、ガチャガチャとうるさい音。

 しかも相当の数の足音が、僕の方へと迫ってくる。

 …………いや、もしくは、彼女の方へ、か?

 あの少女は追われている身…………とすると、この町はもしや、包囲網、ということになるのか?

 たかが少女一人捕まえる為に?

 こんな大規模なことを?


「…………おいおい」


 まさかね、そんな強引なことをやる筈がない。

《裏の世界》の連中にしたって、節操がなさ過ぎるよ。僕も人のことを言えないけどさ。

 ……だがしかし、仮にこの仮説が本当だとすると…………。

 彼女は、一体何者だ?


「……ん、俄然興味が湧いてきたな。たまには真面目に、考え事をしてみるものだ」


 そうと決まれば、早速彼女を追いかけることにしよう。

 あの足や身体では、そうそう遠くまでは逃げられまい。恐らくは路地裏の途中で立ち往生しているに違いない。なら、善は急げだ。


「おい待て! そこの男!」


 …………ん~?

 なにか今聞こえたな。

 振り向いてみると、そこには時代錯誤も甚だしい、鎧姿の集団がいた。

 しかも、町並みに合わせたのかどうなのか知らないが、西洋仕様。

 確か、プレート・アーマーとかいう奴だ。胴回りや腕、足の各部を金属の板で防御し、関節部分はチェーン・メールで繋がれている。頭や顔も完全に覆い隠されていて、ギリギリ目と鼻だけが隙間から露出していた。

 中世ヨーロッパで使われていた鎧を、どうしてまた、この二一世紀に堂々と使用しているのだろうか。それも集団で。

 赤信号、みんなで渡れば怖くない、の原則だろうか。いや、みんなで渡ろうが一人で渡ろうが、赤信号を渡るのは怖いものだろう。交通量の多い大通りなら尚更だ。


「ここでなにをしている!」

「……………………」


 くぐもった男の声が響いたかと思うと、僕は顔の横に槍を突き付けられていた。

 騎馬兵でもないのに、彼が手にしていたのはランスだ。先端から根元に向かって三角錐状に広がり、持ち手に傘状の鍔があるこの武器は、確かに破壊力は抜群だが、その分、横からの攻撃に弱いという欠点がある。

 ……それを知っててやっているのか? この男。


「なにをしていると訊いているんだ! さっさと答えろ!」

「……ただの散歩だよ」

「嘘を吐け!」


 本当のことを言ったのに、信じてもらえなかった。

 やれやれ、人間は疑り深い上に、思い込みが激しいから厄介だ。きっと警察で冤罪が生まれる過程というのも、こういうものなのだろう。詰まるところ彼らは、自分たちが納得出来る結末しか欲しくはないという訳だ。

 さて、この場合の彼らが望む結末というのは、一体どういうものなのだろうね。


「本当のことを言え! あの女をどこにやった!」

「女…………? ああ、もしかして、あの見るからに薄幸そうなあの少女のことかい?」

「どこにやった! さっさと言え!」


 ランスを構えながら言う男の、微かに甲冑から覗く目は、今にも僕の顔を突き刺しそうな剣呑な光を宿していた。他の鎧騎士たちもだ。数えてみたが、ざっと二四個の瞳が、僕のことを睨んでいる。

 これはこれで尋常じゃないが…………少し驚いたな。

 まさか、あのバカげた仮説が大当たりか。


「貴様! なにを笑っている!」


 成程ね。つまりはこいつらが、この不愉快な結界を張っている奴の一味という訳か。

 配役で言えば、僕は差し詰め、彼女を救い出す騎士ということになるのかな? ……ふむ、なかなかに悪くないな。

 じゃあ、端役共に付き合ってあげるのはこのくらいまでにしないとな。

 ヒロインが一人で逃げ惑っているんだ。

 主役としては、それを助けに行かない訳にはいくまい。


「貴様っ! いい加減に――――」

「口の利き方がさぁ、なってないんだよね」


 は?

 そんな間抜けな音声が聞こえたような気がした。

 だが、彼の自覚としては、そんな声を漏らしたという認識はないだろう。そんなちっぽけな意識など、目の前の光景によって吹き飛んでしまっていただろう。

 なんのことはない。

 僕は、彼が僕に突き付けていたランスの先端を、素手で砕いてみせたのだ。


「なっ…………はぁっ!?」


 鎧騎士たちは怖気づいたように、一斉に一歩退いた。ランスを握っていた男は、それを手放した上に腰まで抜かしてしまった。これではまるで、僕に殺してくれと言っているようなものじゃないか。


「君たちが余計なことをしてくれたお陰で、今の僕は頗る機嫌が悪いんだ。残念だけど、手加減は出来ないよ」


 地面に転がったランスを拾いながら、僕はその場にいる一二人の獲物共に向かってそう言った。先端の欠けたランスは、しかし、打撃武器としては充分な長さを持っている。それに、この破砕面だけでも、顔面の真ん中に突き刺されば容易く人の命を奪うことは出来る。

 うん…………いいね、凄くいい。


「さて、と。一〇人以上を一度に相手取る、小規模な大量殺戮は実に三ヶ月振りだ。腕が鈍っていないといいんだけどね。こんなところで、余計な時間をかけたくはない」


 そう言って、僕はランスを構えた。

 がくがくと震える鎧騎士の一人が、どうにか声を絞り出した。


「な、なんなんだ……お前はぁ!」


 そいつは僕の真横から、猪のように槍と一緒に突進してきた。僕はそいつを槍の側面で往なし、壁に押し付けてから、ランスの破砕面を思いっ切り背中に突き刺した。

 鎧の僅かな『綻び』から、ランスは簡単に彼の体内へと侵入し、腸をぶち抜いて、やがて腹まで貫通する。引き抜いたその真っ黒な穴からは、大して綺麗とも言えない血の滝がドボドボと流れ出ていた。


「君たちも、《裏の世界》に生きる者なら、その名前くらいは聞いたことがあるんじゃないかな?」


 僕はおどけたように言う。

 血で濡れたランスと、さっきまで生きていた死人が握っているランスとを取り代えながら。

 恐怖で動けなくなったアマチュア共に、格の違いを思い知らせるように、核の違いからして見せつけるように、尊大な口調で、こう言った。


「僕の名前は無々篠(ななしの)(だいだい)。殺人一族《無々篠》の末孫、その内の一人だよ」



「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」


 薄暗い路地裏の、どことも知れない、でもどうにか日光の暖かみが届くような場所。

 捨てられた缶ジュースの残り香に誘われた蠅とか蝶々とか、あとは名前も知らないようなよく分からない虫たちが群がっています。眩のことも食べ物だと思っているのでしょうか。ジュースが缶だけだと知るや否や、彼らは眩の方にまで寄ってきました。

 その中で、一際動きの遅い蝶々の一匹を、口だけで捕まえました。

 上の歯と下の歯で挟んで、羽の片一方を食い千切ると、途端に飛ぶ力を失って、蝶々は石畳の上に落ちていきます。でも、地面に落ちたものは食べられないので、その前に手で受け止めました。

 死にかけの蝶々は、今も尚飛び立とうと、一方しかなくなった羽を必死に動かしています。

 でも、眩は知っています。

 蝶々は捕食者がどこにいようと、前にしか飛べないんです。

 眩は蝶々の向きを眩側に変えてから、その宝石みたいに綺麗な昆虫を、口の中に放り込みました。


「…………ん、……んん…………ん……はぁ」


 口内で少しだけ抵抗していた蝶々を細かく噛んで、胃の中に流し込みます。羽が口の中の色々なところに触って擽ったかったけど、味は特にしませんでした。もしかしたら苦かったかも知れません。でも、眩は味を感じるのが苦手なので、よく分かりませんでした。

 久し振りの食事は、とてもお腹を満足させられるようなものではなく、寧ろ、中途半端に食べたものですから、余計にお腹が空いてきました。でも、蠅や他の小さな虫さんは速くて捕まえられません。

 食べられるのは、蝶々だけです。


「………………はぁ」


 眩も、蝶々なのでしょうか。

 疲れ切って、足も血まみれで我慢出来なくなって、こうやって座り込んでいます。これって、さっき眩が羽を食い千切った蝶々と同じですよね。

 身動きがとれない。

 相手の懐に飛び込んでいくしかない。


「…………はは……」


 じゃあ、眩のしたことって、なんの意味があったんでしょうか。

 どうせ捕まっちゃって、これまでより酷い実験をさせられるに決まっているのに、なんで、逃げてきちゃったんでしょうか。

 食べられちゃうに決まっているのに、前の方に飛び立っていく、蝶々そっくりです。

 そう思ったら、なんだか笑えてきちゃいました。

 自分のバカっぷりが面白くて、愉快で、滑稽で、つい、笑ってしまいました。

 ダメな娘ですね、眩って。

 こんなにダメなら、いっそ死んでしまえばいいのに。

 なんで、

 なんで、

 なんで、眩は死ねないんでしょうか。


 ざり


「――――っ!」

 足音。

 それと共に、微かに聞こえた金属音。

 奴らが、もうここに…………。


「…………いや…………いや、です……」


 誰も聞いてくれないのに。

 誰も助けてくれないのに。

 誰にも届きはしないのに。

 気付けば、そんな言葉を呟いていました。

 誰でもいいです。

 悪魔でも気が狂った人でも、眩の未成熟な身体目当てでも構いません。

 誰でもいいから、

 眩を、助けて――――


「…………見ぃつけた」


 がしゃん。


「ひっ…………!」

 建物同士の隙間から、眩を覗いてくる影がありました。

 それは、銀色に煌めく、禍々しいフォルムをした鎧でした。

 あの研究所から脱走した実験動物を捕縛する為の、実働部隊。

 殺してでも、捕獲する、鎧騎士。


「ひっ……い、いや……!」


 眩は動けませんでした。

 足も手もがたがたと震えて、上手く動いてくれません。

 腕なんて、膝を抱えたままの形で固まってしまいました。

 殺される。

 殺される。

 死なないくらいに、殺される。

 死なないからこそ、殺される。


 眩はどうやったところで死なないから、だから、眩はここで殺される。


「随分探したよ。僕は妹と違って、血の跡を追うなんて器用な真似は出来ないからね」


 でも、聞こえてきたのは、ヤケに優しい声でした。

 油断させる為にしたってやり過ぎな、まるで眩自身を気遣うような、そんな、不思議な声音でした。

 ぐらり、と、鎧が傾いて、呆気なくその場に倒れます。

 瞬く間に、鎧騎士が倒れた場所が赤く赤く染まっていきます。

 見るまでもなく、その鎧騎士は死んでいました。


「……え…………?」


 なんで?

 じゃあ、今の声は一体、誰が…………?


「だがダメだな、逃亡のいろはが分かっていない。そんな逃げ方をしていたら、遅かれ早かれこいつらに捕まっているところだったよ。いやぁ、僕が行動の早い奴でよかったね、お嬢さん」


 柔らかい口調でそう言うと、その人は、ようやく建物の影から出てきてくれました。

 真っ黒のスーツに、ワインレッドのネクタイ。

 革で出来た靴。

 整った格好に似合わないぼさぼさの髪。

 理想のパーツを全て揃えたような、端正な顔立ち。


「あ、あなたは……さっきの…………?」

「やぁ、久し振り。僅か一〇分ほどとはいえ、君のような美少女にそれだけの期間離れ離れになっていたというのは、矢張りとんでもない悲劇だね。まったく、人生を大分無駄遣いしてしまった気分だ。ああいや、君が気に病む必要はないよ。あの場面で君を引き止められなかった僕に、全ての責任はある。悪かったね、怖かったろう? お嬢さん」


 一息でかなり喋ってきましたが。

 でも、間違いありません。この人は、さっき眩とぶつかった人です。


「でも、安心していいよ。僕は君に危害を加えるつもりはない。味方、と考えてもらって結構だ。証拠は、そうだな…………この」言って、男の人は足許の死体を蹴りました。がしゃん、という耳障りな音が響きます。「君を追っていた下衆の死体、では不満かな? 何なら、あと一一個ほどあるけど」

「い、いえ…………遠慮しておきます……」


 相手が誰であろうと、死体を見るのは、あまり気持ちのいいものではありません。


「そうかい。じゃあ、僕のことは…………」

「信じます」


 眩は即答しました。

 これには男の人の方が驚いたみたいで、意外そうに口をポカンと開けています。

 そんな表情は、どこか可愛らしく思えました。


「助けて、くれたんですよね。眩のこと」

「まばゆ? …………あぁ、君の名前か。まぁ、助けたといえば助けた、のかな。半分以上は僕の都合だけど」

「都合?」

「今、この街には不愉快な結界が張られていてね。お陰で僕は機嫌が悪い。いつもなら躊躇するような殺人行為だって、実にあっさりと殺ってしまった。まったく…………我ながら情けない」

「いつもならって…………人を殺したことが、一杯、あるんですか?」

「恥ずかしい限りだけどね。あぁ、僕の名前を聞けば分かるんじゃないかな。唐突な自己紹介だけど、僕の名前は無々篠橙というんだ」

「無々篠、橙さん、ですか…………」


 ん~、聞かない名前です。

 そもそも、眩が得られる情報なんて限られているんですけどね。ゲージの中にテレビはありませんでしたし。

 指名手配犯さんかなにかなんでしょうか。


「ん? あれ? もしかして君、《無々篠》の名前に聞き覚えがないかな? 《裏の世界》じゃそこそこ知られた名前なんだけど」

「裏の世界?」


 またもや初めての言葉です。眩にはよく分かりません。

 首を傾げると、橙さんは困ったように腕を組みました。どうやら、考え事をしているようです。

 さっきまで笑っていたから気付きませんでしたけど、橙さん、真剣な顔になると、とっても凛々しい感じがします。これはこれでかっこいいです。

 やがて橙さんは、うん、と納得したように頷いて、眩の方を見てきました。


「どうやら事情がありそうだね。思っていたよりも込み入っていて、面倒そうだ。まずはどこかで、落ち着いて話をしようか。服も着替えなきゃいけないし、その様子じゃお腹も空いているだろう?」

「へ? あ、はい……でも、眩は…………」

「お返しなんて、考えてくれなくていいよ。君が僕に協力してくれるなら、それで充分なお返しになる。それくらい、今僕はイライラしているんだよ」

「は、はぁ……そう、ですか……」


 のんびり屋さんというか、どこか浮世離れした感じの見た目に似合わず、結構熱い人のようです。

 そういうのは、嫌いじゃありません。


「とはいっても、今は町に人がいなくなっている…………いや、追い出されている状態だからなぁ。…………いいか、レジをテキトーに操作して、お金払っておけばいいだろう。僕だってこんな所で、火事場泥棒のようなセコイ真似はしたくないし」

「かじばどろぼー?」


 初めて聞く言葉、三回目です。

 眩は聞き返しましたが、それにも構っていられないくらいにイライラしているのでしょうか、橙さんはぼさぼさの髪を乱雑に掻き毟っています。


「じゃ、行こうか。眩ちゃん」

「え? あれ? 眩、自己紹介しましたっけ?」


 眩の個人情報が漏れていました。

 そんなものがまだ眩にも存在していたということにも、驚きを禁じ得ませんが。


「いや……さっきから眩ちゃん、自分の名前言いまくりだよ?」

「…………そうでした。忘れてました」

「まあ、フルネームまで聞いた訳じゃ、ないけどね」

「あ、じゃあ今自己紹介しちゃいますね」


 言って、眩は痛む足を擦りながら、ゆっくりと立ち上がりました。踵に重心が傾くと激痛が走って、爪先に重心がかかると折れそうなくらいに痛いです。

 でも、眩は立ち上がりました。

 そして、橙さんに向かって、ぺこり、とお辞儀しました。


「初めまして。光ヶ丘(ひかりがおか)眩と言います、よろしくお願いします」


 昔、もう何年前かも思い出せないくらい昔に、お母さんに教わった挨拶。

 上手く出来たか不安でしたが、橙さんは笑って、「こちらこそ、よろしくね。眩ちゃん」と言ってくれました。

 人との会話って、こんなに、温かかったんですね。

 久し振りに、思い出しました。



「ふむ……つまり君はあれかい? その体質を持っているが故に、あの無粋な鎧騎士たちに追われている、ということになるのかな? 眩ちゃん」


 場所は、街の中央部に位置するファミリーレストラン。

 万が一にも窓からは見えず、尚且つ逃走経路も確保出来るという意味合いで、僕たち二人は、普段はスタッフしか出入り出来ない、厨房の中にいた。客席と違って不愛想な色合いの壁や床は、食事をするのに向いているとはお世辞にも言えなかったが、眩ちゃんはそれどころではなかったらしく、テキトーに解凍した冷凍の肉料理を美味しそうに食べている。数日間という長期に亘って絶食状態にあった眩ちゃんのことを考えれば、もっと消化のよい物の方が好ましいのだけど、しかしそこは本人の希望を尊重してあげる。それがフェミニストたる僕の流儀だ。

 女性は自由に美しく。

 特に少女は伸び伸びと。

 …………伸び伸びと育て過ぎた所為で、とんでもないじゃじゃ馬に育った妹も、まあ、いるにはいるんだけど。


「ふ。ほひゃりぇていりゅとはしゅこしちぎゃうんでしゅきぇどにぇ」

「口の中が空になってからでいいよ」


 口一杯にハンバーグを頬張りながら言う眩ちゃんを、僕は優しく諫める。顔がまるで餌を蓄えたハムスターのように膨らんでいて、その精神年齢の低さを見え隠れさせている。

 ちなみに、彼女が着ているのは先程までの白衣とは違う。あんなボロボロの物一枚だけの女の子(下着すら着用してはいなかった)をそのままにしておけるほど、僕は常識を捨ててはいない。

 彼女が着ているのは、髪の色と同じ、薄いクリーム色のワンピースだ。合わせているのは、淡い色のスニーカー。スレンダーなその体型をそのまま表現してくれるワンピースは、彼女の矮躯にもぴったり似合っていた。勿論、下着も着用させた。『なんかむずむずして、気持ち悪いです…………』と、本人は最後まで抗議していたが。

 う~ん。

 普通は逆なんだけどなぁ…………。


「ん……ぷはっ。えと、追われている、っていうのは、若干違いますよ」


 ようやくハンバーグを嚥下したらしく、眩ちゃんは口元を袖口で拭いながら言った。クリーム色が見る見る焦げ茶色に染められていくが、もういい、気にしないことにしよう。


「眩は、あの人たちに捕まっていたんです。それで、ずっと実験をさせられていました。でも、三日前、ちょっとした隙を突いて、実験機関から逃げてきたんですよ。ですから、追われている、っていうよりは、捕まえられそうになっている、って感じですね」

「それ、世間では追われているっていうよ」

「言葉に込められた意志が違いますよ」


 どうやら眩ちゃん、言葉には並々ならぬ思い入れがあるようだ。僕的には五十歩百歩、団栗の背比べもいいところなのだが。


「それに、向こうにしてみても、追っているというよりは捕獲に出ているっていう感じが強いでしょうね。あの人たちにとってみれば、眩なんか数いる実験動物の内の一匹に過ぎないですから」

「実験ね…………彼らは一体、なんの実験をしていたんだい? 眩ちゃんの体質を使って」

「それはやっぱり、不死の研究じゃないんでしょうか」


 目の前に置かれた炭酸飲料の泡を怪訝そうな目で見ながら、眩ちゃんは呆れるように言った。



「眩は、死なない身体ですからね」



 死なない身体。

 それが、さっきの違和感の正体か。


「死なない身体…………僕にはまだ、上手く整理が出来ていないんだけど、それはあれかな? 不死、と考えていいのかな?」

「う~ん、それは橙さんの考え方にもよりますね。例えば、橙さんが眩のことを、吸血鬼みたいな不死身ちゃんだと考えているなら、それは間違いです」

「ふむ、不死身といえば吸血鬼なんだけど、それとは違うんだ。ああ、じゃあダゴンとか、深き者どもみたいな感じかな? 殺されない限りは死なない、とか」

「そのダゴンとか深き者どもっていうのは、聞いたことがないですけど…………。でも、それも違いますよ。寧ろ眩は、殺しても死なないんです。だからあの人たち、あんな大層な武装をしているんですよ。眩が相手なら、どれだけ殺っても殺り過ぎということはないですからね」

「殺しても死なない、でも吸血鬼とは違う、か…………うん、よく分からない」

「…………つまりですね」


 眩ちゃんは二つ目のハンバーグにフォークを突き刺しながら、小さく溜め息を吐いた。僕の理解の遅さに、辟易してしまったのだろうか。

 ……その割には、なんだか笑顔だけど。

 世話のかかる子供の面倒を見る母親みたいな、慈愛に満ちた表情をしているんだけど。

 それ、どっちかっていうと僕の方が浮かべるべきじゃない?


「眩はどれだけ傷ついても死にません。何回殺されようと死にません。でも、それはただ死なないだけなんですよ。吸血鬼みたいに、自動で回復するなんてことはありません。切られても折られても砕かれても潰されても、ただ痛くて苦しいだけで、ただ、死ねないだけなんです」

「……その口調、経験がある人のそれだよね」

「実際、眩が受けていた実験って、それでしたからね」


 憂鬱の色見本みたいな重苦しい声を吐き出して、眩ちゃんはハンバーグを口に入れた。脇に添えられているブロッコリーやポテトには目もくれない。どうやら眩ちゃん、久し振りに食べる肉類が美味しくてしょうがないらしい。


「最初の頃は、首を絞め続けたり、指先から順々に切り刻んでいったりって、いくらかマシな殺し方だったんですけどね。だけど、最近は内臓を踏み潰されたり、水の中に数日間放置されたり、首と胴体とが捥げて離れるまで引っ張られたり、ローラー車で何回も潰されたり、えげつない殺し方にシフトしてきちゃったんですよ。脳味噌を犬に食べられた時は流石に死ねるかと思ったんですけど、ダメでしたね。今、眩の頭の中に入っている脳って、一度犬のお腹の中通過してきた、ドロドロのスライムみたいなものなんですよ? 気持ち悪いと思いません?」

「その話をしながら食事が出来る眩ちゃんの方が凄いと、僕は思う」

「慣れちゃいましたから。勿論、嫌ですけど」


 心底嫌悪するように、眩ちゃんは頭を振った。それと同時にお腹一杯になったのか、フォークをテーブルの上に置き、今度はお茶をぐい、と一気に飲み下した。


「どういう訳だか、眩はいくら致命傷を受けても絶対に死なないんです。年齢は順調に重ねていますから、多分寿命はあるんでしょうけど」

「寿命が来るまでの限定的不死…………本当に不死身なだけ、なんだね」

「いい迷惑ですよ。死んでも回復するならまだしも、死んでも死ねないんですから。首が捥げようと内臓が弾け飛ぼうと身体を真っ二つに裂かれようと、痛覚だけは全然死んでくれないものですから、痛くて痛くてしょうがないんです」

「……………………うわ」

「毎日毎日、実験が終わった夜には、もう、気が変になってました。訳もなく笑い声を洩らしたり、直された自分の身体が継ぎ接ぎだらけのぬいぐるみに見えてきたり…………」

「…………辛かったんだね」

「だから、逃げてきました」


 ぐしぐし、と、再び袖口で口元を拭い、クリーム色のワンピースを局部的に汚す眩ちゃん。

 それから何故か、僕の方に向き直って、満面の笑みを浮かべた。

 さっきみたいな、妙に老成した調子の笑顔ではない。本当に自然体の笑顔だった。


「そして、橙さんと出逢えました」


 人懐っこい笑みを、無防備に僕に晒す眩ちゃん。

 それは、吸い込まれるように甘く、優しく、

 殺したくなるような、可愛らしい笑みだった。


「ありがとうです。眩を、助けてくれて」

「…………軽々しく、お礼を言っちゃいけないよ」


 僕は、わざと素っ気なく返した。


「僕は、殺人鬼なんだから」

「でも、眩にとっては命の恩人です」

「君を助ける為に、僕は、一二人もの人間を手にかけた。それに、僕はこれから、君を追ってきている人間を皆殺しにするつもりだ。そんな殺人鬼に――――」

「眩は、構わないですよ?」


 ぐ。

 腕に感じた、小さな温もり。

 眩ちゃんが、僕の腕に巻きつくように抱きついた、その感触だった。


「橙さんが殺人鬼でも、殺人狂でも、殺人中毒でもなんでも構いません。それでも、橙さんが眩を助けてくれたっていう事実には、変わりないんですから」

「……眩ちゃん」

「……あはは、おかしいですよね。逢ったばっかりなのに、こんなこと言うなんて」


 でも。

 眩ちゃんは、恥ずかしそうにはにかみながら言う。


「眩は、嬉しかったんです。もう何年も前に、あの人たちに捕まってから、あんな風に気遣ってもらったこともなかったし、こんな風に、誰かに助けてもらえたことなんて、ありませんでしたから」

「……………………」

「お父さんも、お母さんも、お姉ちゃんも、みんな殺されちゃいましたし…………眩も、ずっとこのままなのかなって、本当、怖かったんです…………。誰かと、こうやって、普通に、お話出来るだけで、嬉しいんです……」


 後半の方では、眩ちゃんは最早泣き声だった。

 漏れ出てくる嗚咽を、なんとか我慢しようと必死だった。


「……我儘だって、分かってます。逢ったばっかりなのに、こんなことを言っちゃう眩が、悪い娘なんだってことも、分かってます……」

「……………………」

「橙さん……眩を――――」


 眩ちゃんがなにかを言いかけた、丁度その時だった。


 ど――――…………ん


「え…………?」


 信じられないくらい軽い音と共に、眩ちゃんの身体がぐらりと揺れた。

 痛みと驚愕を湛えた瞳が、僕の前で緩やかに、倒れていく――――。



「眩ちゃん!」


 橙さんの叫び声が聞こえました。

 でも、悲しいことに、それ以上に眩の頭に響いてくるのは、右肩から身体の中央を通って左肩に至るまで続いている、劈くような痛みと熱さでした。

 もう何回も、何回も、何回も何回も何回も何回も。

 身体が細かい肉片になるまで撃ち込まれた感覚。

 慣れ親しんでしまった、異常過ぎる異常。

 銃弾が、自分の肉体を貫通する痛みでした。


「あ……ぁ…………」


 こんな。

 こんな風に、眩を。

 こんな風に、眩を苦しめる目的で銃弾を放つ人間は、一人しか、いません。

 あの、人が。あの人が、ここに、来ている――――!


「……げ、て…………」


 ダメです。

 橙さんがどんな人か、《無々篠》っていうのがどんなに怖いものなのか、そんなことはなにも知らないけど。

 でも、あの人に遭ってはダメ――――。


「逃げ、て……だいだ、い、さん…………」



「あーあーあーあー、いたいたいたいたいまっしたよー実験動物さーん?」



「………………!」


 来た。

 来て、しまった。

 だらしなく皺だらけで、血まみれの白衣。人を見下したような目つきを隠すサングラス。不気味なくらいに細い身体。独特の間延びした、早口なのに流暢な口調。


「……竹笹(たけざさ)斑崎(むらさき)…………」


「『博士』とかさー『教授』とかさー『様』とか『殿』とか『御前』とか付けらんねーのかなー? やっぱ脳味噌が消化器官通っちまうといかっれちまうのかなーあーでもお前さんの場合は元からクソバカだったかーならかんけーねーなー」


 言いながら、竹笹は一歩一歩、厨房の入口に近付いてきます。

 でも、その前にその『厨房の入口』が、無くなりました。


 ばぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああんっ!!


「なっ……!?」「ひっ……!」


 眩と橙さんは、二人で揃って悲鳴を上げました。いえ、橙さんのは悲鳴というよりも、驚いただけだったかも知れませんけど、でも、それは俄かには信じられない出来事でした。

 厨房の壁が、一気に吹き飛びました。

 灰色の煙の向こうには、大量の鎧騎士たちが、槍を構えて立っていました。多分、あの人たちが壁を破ったんです。


「かーんしゃしろよ実験動物クソ牝豚が。全部全部お前さんの為に用意してやった兵力だぜー? 銃で内臓ぶち抜いて槍でぶっ刺しゃ動けねーだろー? ひっひひひひ、まー実際の話ー、それで痛がってヒーヒー言ってるお前の間抜け面見たいだけなんだけど!」


 そこで不意に、竹笹が怪訝そうな顔をしました。倒れている眩を抱いてくれている橙さんに、その目線は注がれていました。


「んー? んーんーんーんー? なんなんだなんなのかねなーんなんですかーあんたはー。人の実験動物になに手ー出してんですかロリコン野郎さんよー」

「……竹笹、とかいったかな」

「竹笹斑崎様だよバーカ。そーゆーあんたはどこのどなた様でどんな死因をお望みですかー?」

「僕の名前は無々篠橙だよ。《竹笹》……小物ではあるけど、一応《裏の世界》の住人ではあるんだから、僕の名前くらいは知っているだろう?」

「! ……無々篠、橙…………」


 橙さんが不敵な笑みと共に名乗ると、竹笹は不気味に顔を歪めました。

 あれは、眩を見つけた時と同じ顔です。

 興味の対象を見つけた時の、あの表情です。


「ひっひひひひひひひひひひ! こいつぁラッキーっすねー! 死なねーだけのミジンコ娘獲りに来てみりゃー思わぬ拾いもんだったぜヒャッハー! 《無々篠》といやー異常で奇妙でトリッキーな生態の持ち主だったよなぁ! 聞いた話じゃー死なねー奴だの血だけ敏感に感じ取れる犬娘やらの珍妙な奴ら、それに催眠術師や刀鍛冶なんつー古めかしい奴らまでいるって聞いたぜー? でー、お前さんはどんな異常な殺人鬼なんですかー?」

「弟や妹を珍妙だの古めかしいだの言われるのは心外だな。あの子たちは、僕にとっては誇りみたいなものなんだ。みんな、僕にはない不思議な能力を持っているしね」

「…………へぇ、つまりはお前さんにはなんの能力もねーって訳か」


 途端、竹笹が酷くつまらなさそうな顔をしました。

 目は酷く冷たくて、人間らしい温かみは、なんにも感じられません。

 当たり前です。だって、この人はもう人間なんて生易しいものじゃ――――



「じゃ死ね」



 バァン!


「…………え?」


 銃声。

 崩れ落ちる橙さんの身体。

 急速に引いていく、触れ合っていた体温。

 竹笹の手に握られているのは――――無骨な拳銃。

 玩具かと思ってしまうほどに大きい、デザートイーグル。


「え…………?」


 撃たれた?

 撃た、れた?

 橙さんが、撃たれた?

 眩の所為で、橙さんが、撃たれた?


「あーあーあーあー、無駄弾使っちまったなー」


 竹笹は、なんの感慨もなく、ただそう呟きました。橙さんを撃ったことなど、なんとも思っていないように、軽く軽く、とても軽い調子で。


「あ、あぁ、あ……あ…………」


 眩の所為で、橙、さん、が?

 眩の、眩の、眩の、眩の、

 眩の、所為で?

 まばゆのせいで?

 マバユノセイデ?


「でもまー腐っても崩れても死んでもいちおーは《無々篠》だからなー。念には念を入れて、間違いじゃないかもねー。そんじゃーぐっどばーい」


 バンバンバンバンバンっ!


「ひっ…………!」


 何度目になるか、もう分からない悲鳴。

 なんの躊躇いもない、五連発の銃弾。その全てが、横たわる橙さんの身体に撃ち込まれました。

 眩以外の人間なら、一つでも粉砕されたら生きていられなくなる、内臓が一杯に詰まった、胴体に、四発。それに、頭に一発。

 もう、助からない。

 生きている筈が、ない。


「な、あ、ぁああ、ああぁああぁあぁあああああぁぁぁああああ…………!」


 死んで、しまった。

 死んじゃい、ました。

 眩の、眩の所為で。

 お父さんやお母さんや、お姉ちゃんに続いて、橙さんまで。

 眩の所為で、殺されちゃいました。

 眩が、こんな身体だから。

 銃弾を撃ち込まれても、死ねないような、身体だから。


「あぁ、ああぁ、ああぁあああああああああああああああああああああああああああああっ!!」


 ヤダ。ヤダ。イヤだイヤだイヤだイヤだ!

 なんで? なんで、眩はこんな身体なんですか? なんで死ねないんですか? なんで死んじゃいけないんですか? なんで死ぬことが許されていないんですか? なんで、なんでなんでなんでなんで


 なんで、眩は死ねないのに、眩の周りの人たちは、こんな簡単に死んでいくんですか?


 こんな簡単に、人って死んでいいんですか?

 こんな眩が、生きていていいんですか?

 なんで、なんで、橙さんは「んじゃまー帰ろっか牝豚」ぐい、と引かれる手。激痛と共に引き摺られる身体。「楽しー楽しー実験三昧の日々に戻ろうぜー実験奴隷」動かない橙さん。スーツに遮られてか、一滴も流れない鮮血。眩の両肩から流れ出る赤い血。「この五年間で肉体的な実験は粗方終わったからなー後は精神的にグッチャグチャに凌辱してみっかー」乱雑に担がれる身体。竹笹の体温。気持ち悪い。気持ち悪い。血の臭い。獣の臭い。「こんなゴミみてーな奴にも欲情するロリコン連中に犯させてみっかなー。精神壊れたらどうなんのかー興味あるしー」錠をかけられる手足。受け渡される眩の身体。回る視界。橙さんに群がる鎧騎士。「ちょ、ちょっと待って下さい!」


「あ? なにー実験動物ちゃーん。ウザったいから三秒間だけ聞いてやるよー」

「なんで……なんで、橙さんを連れていこうとするんですか! その人は関係ないでしょう!」

「三秒間終了~。へー、糞尿まみれの腐れ脳味噌でも時間感覚だけは一丁前に備わってるんだなー、へー感心感心。そのミドリムシ並みの知能にバクテリア並みの敬意を払って答えてやんよ実験動物」


 鎧騎士の一人に担がれたままの眩は、身動きが出来ません。動けばそれは、動作の何倍ものエネルギーを孕んだ痛みに変換されて眩に返ってきます。

 まるで死体を収納する袋のようなものを取り出した鎧騎士たちが、橙さんの傍に近寄っていきました。


「《無々篠》っつーのはなー、俺たちみたいな《裏》に住む奴らにとっちゃー喉から手が出るくらいに欲しいサンプルな訳よ。どいつもこいつも異常な生態異常な性質異常な心理異常な殺人鬼なんだよ。だからー、その死体だけでもその細胞だけでも研究してみてーんだよなー。お前の細胞は普通の人間と変わんねーしー、あいつの方がよっぽど興味深いんだよ」

「そんな…………あの人は――――」

「うぜーよ、実験動物」


 ガチリ

 眩の口の中に、銃口が捩じ込まれました。

 竹笹は変わらず、にやにやと笑っています。眩を傷つけることが楽しくて仕方ないと言いたげな、下卑た笑いです。


「だーれがお前の意見なんざ聞いた? お前は黙って俺に身体弄られてりゃーいーんだよ。一丁前に楯ついてんじゃねーぞ噛み付くのは犬の役割だろーが。痛めつけられるしか能がねー奴隷女は、電柱にこびり付いた犬の小便でも舐め取ってろ」

「が……ぁ…………」

「けっ。大体、あーんな殺人鬼になーに好意なんか寄せてんだ?」

「!?」


 え?

 なんで、そんなことを、この男が…………。

 橙さんにだって、なにも、言ってないのに。


「お前のその反応、五年前となーんにも変わんねーわ。テメーの薄汚ねー両親と姉かなんかを殺した時も、お前はそんな反応してたよなー。ウザったくてしょーがなかったわー。だからあの時、俺はお前の身体をいの一番にズタズタに切り裂いたんだぜ? あんまりにも小うるさかったものだからよー」

「ぐ……ぐぁああ……!」

「諦めろよ、化物女。なにされたって死なねーよーな化物を好いてくれる奴なんて、いる訳ねーだろーが」

「……………………」


 そんな。

 そんな、ことは。

 言われなくても――――。



「お前は死ぬまで、俺らに実験されてりゃーいーんだよ。化物野郎」



 パァン!

 火薬の弾けた音。

 焦げた血肉の臭い。

 だけど、それは眩のものじゃなくて、眩の身体からは大分遠くて。


「はぁ?」

「え……?」


 驚いたように、眩の口から銃口を外した竹笹は、その方向を凝視しています。

 橙さんが倒れていた、その方向では。

 鎧騎士が一人、こちらに向けて倒れてきていました。


「…………橙、さん?」


 ガシャン!

 鎧騎士が倒れる音。

 その向こうに、橙さんがいました。

 鎧騎士の腰に付けられていた、武骨な拳銃を持って。

 身体を起こして、まるで平気そうな笑顔を浮かべて。


「っ、なにしてる! さっさと殺っちまえ!」


 竹笹の怒声が響きます。だけど、それは多分、遅過ぎました。

 パンパンパンパンパン!

 乾いた銃声が何発も響き、その度に鎧騎士たちが倒れていきます。悲鳴すら上げられずに次々と、橙さんの足元に鎧の山――――いえ、死体の山が築かれていきます。

 橙さんは、倒れた騎士たちの銃や槍を拾い上げて、それを使って他の騎士たちを殺していきます。それも、甲冑の隙間を撃つのでも刺すのでもありません。

 橙さんは、真っ正面から鎧騎士たちを撃って、真っ正面から刺しているのです。

 硬くて強い筈の鎧は容易く突き通され、すぐにその人たちは血まみれの死体に姿を変えていきました。

 まるで、橙さんが放つ武器は、ものの硬さを無視出来るかのように。


「っ、ちぃ!」


 竹笹が、右手の拳銃を橙さんに向けました。

 でも、その瞬間。


「な、ぁあああああああああっ!?」


 銃声が轟いて、それと一緒に、竹笹の右腕が吹き飛びました。

 狙い澄ましたかのように、右腕だけが、一瞬にして爆散しました。


「え?」


 なんで? おかしいですよ。

 確かに拳銃は、現代において最強の武器です。でも、地雷じゃないんだから、人の腕なんて大きなものを一発で吹き飛ばせるような威力は持っていません。いえ、本来ならそれくらいはあるであろう威力を、あの小さな弾丸に凝縮しているが為に、あのスピードと正確さを手に入れたのです。

 今のは、ただの銃撃じゃ、ない?


「ぐぅっ!?」


 眩がぼんやりと考えていると、眩を担いでいた鎧騎士の身体がぐらり、と崩れ落ちました。胸の方に目を向けると、小さな穴からジュースみたいに真っ赤な血が流れています。勿論、鎧を着ているのに、です。

 そして。


「さて、と」


 ガチャリ。

 橙さんの声。それに、銃を構える音。

 地面に落ちた眩が見たのは、竹笹の正面に膝をついて、彼の頭に銃を突き付ける橙さんの姿でした。竹笹の表情は窺えませんけど、橙さんは、笑っていました。

 とても寂しげに、笑っていました。

 とても悲しげに、笑っていました。


「チェックメイトだね、竹笹君。君を殺せば、この場に生者は僕と眩ちゃんの二人だけになる。先程までまとわりついていた不快感も消えたし…………それは、さっきまで眩ちゃんを担いでいやがった、そこの下衆が死んだからかな?」

「……てめえ、なんで」

「『なんで』生きているのか、それとも『なんで』殺せるのか、どちらかな?」

「両方だ、クソバカが!」


 叫んで、竹笹は足を上げ「させないよ」バンバンバン! と、橙さんの左手に持たれた銃から、三発の銃声が響きました。それが眩の耳に届くのと同時に、竹笹の左腕と、爪先の肉とが弾け飛びました。靴先に仕込まれていた仕込み銃も、一緒に砕け散って、足の指の破片に混じって血に濡れていました。


「がぁっ!?」


 痛みと屈辱に呻く竹笹は、しかし、倒れることさえ許されませんでした。彼の身体は橙さんの構える銃によって支えられ、水に浮かんだ死体のように、上半身がだらしなく下がっています。まるで、海老みたいです。


「どうせだ。その両方に答えてあげるよ」


 橙さんはそう言って、スーツの裾を少し揺らしました。

 すると、服の中から出てきたのは、大量の鎧の破片でした。

 ガラガラガラガラ、床に金属の欠片が落っこちていきます。


「ま、まさか橙さん……その破片でガード、したんですか?」

「うん、その通りだよ、眩ちゃん」


 橙さんが眩に笑顔を向けてくれました。そこには、なんの憂いもありません、ただ、眩を見てほっとしたような、そんな優しい顔でした。


「んな、そんなバカな話があるかっ! 大体、頭はどうしたんだ! そんなところに鉄板なんざ、仕込み様が――――!」

「いい質問だね、竹笹君。死にかけにしてはなかなかだ。では、そのボルボックス並みの知性にナメクジに向けるのと同等の敬意を払って答えてあげよう。答えは、これだよ」


 左手の銃を捨て、橙さんは自分の額を指します。眩にはなにも見えませんけど、竹笹には見えたみたいです。悔しそうに唸り声を上げています。

 こうなってはどちらが犬だか分かったものじゃありませんね、と、意地悪くそう思いました。

 しゅるり、と、なにかが解けるような音がしました。

 そして、カランカラン、と、床に落ちました。

 よく見てみると、それは肌色の鉄板でした。しかも、鉄の部分には人間の肌に見えるような着色が為さ

れていて、頭に括りつける為の布には本当の人毛が貼り付けられています。


「防御用の額当て、ってところかな。ここが僕の一番弱いところだってことは、鏡を見て知っていたからね。そこへの防御は怠らないよ」

「……待て。知っていた、だと? どういう意味――――」「オーケー。最後の最期に答えてあげよう、竹笹君」


 ぐい、と胸に銃を押し付けます。

 鳩尾を刺激されて気持ち悪かったのか、竹笹がまた呻きました。

 でも。

 眩が今まで出してきた呻き声に比べれば、

 まだまだ小さく、軽い声に過ぎませんでした。


「教えてあげるよ、竹笹君。僕の《無々篠》としての能力はね、『事物の弱所が見える』というものなんだよ。人間だろうと鎧だろうと槍だろうと、一番脆くて壊れやすい場所――僕はそれを『綻び』と呼んでいるけど――が見えれば、例え素手でだって、壊すのは容易い」

「な…………? そんな、バカな」

「だからこそ、眩ちゃんを見た時に違和感があったんだよね。どんなに壊そうと芯の芯までは壊れることのない眩ちゃんには、脆い『綻び』がなかったんだよ。僕も流石にそんな人間を見たことはなかったからね。今まで見た中で一番『綻び』が少なかったのは、僕の末の妹なんだけど、僕たちみたいな殺人鬼を『人間』などとは言えないからなぁ。うん、本当に驚いた」

「てめ、そりゃ一体どういう――――」


 バン!

 一発の銃声。

 竹笹の背中から噴水のように血が飛び出して、天井に何かが突き刺さるような音がしました。

 台詞は途中で寸断されて、竹笹はそれから二度と動かなくなりました。

 胸にはきっと、眩が何回も開けられた、歪な穴が空いているのでしょう。


「…………ふぅ。終わったよ、眩ちゃん」

「……はい」

「ごめんね。怖い思いをさせただろう」

「い、いえ! そんなことはないです! 眩、すっごく感謝しています! 助けて、くれましたし…………」

「でも、僕は殺人鬼だ」


 竹笹の死体を銃で押し退けて、床にぞんざいに落としました。

 ついでに銃まで捨てた橙さんの表情は、とても悲しげで、凄く、切なげでした。

 見ていて、胸が苦しくなってくるぐらいに。


「君はいい娘だよ。こんな下衆共に捕まっていて、まだそんなに綺麗な目をしている。君はね、僕とはどこまでも違う人間だ」

「……でも、眩は…………」

「警察に連絡すれば、保護してもらえるだろう。殺人鬼の身分で警察を頼るのは癪だけど、怪我もしているしね。じゃあ、取り敢えず連絡を――――」

「ダメですよ! そんなのはダメです!」


 眩は叫びます。

 橙さんは不思議そうに、眩のことを見ています。


「眩は、そんな人たちのところになんか行きたくありません! 大体、眩は普通じゃないんですよ!? 竹笹の言う通り、死なない女の子なんて、化物じゃないですか! 化物以外の何物でもないじゃないですか! そんなのが、普通の人間と一緒にいられると思っているんですか!? 橙さん!」

「……………………」

「それに、眩は橙さんがこの人たちを殺すのを、ただ見ていました。止めることなく、ずっと見ていただけなんです。だったら、眩だって同罪です。橙さんと共犯ですよ」

「いや、そんな法律はないんだけど」

「眩は九歳の時に拉致されましたから、そんな難しいことは知りません」


 困ったように、橙さんは息を吐きました。

 眩は、肩が痛いのも忘れたように、必死になって言います。


「とにかく! 眩は橙さんと一緒に行きたいんです! というよりも、眩は橙さんと行くしか道はないんです! どうせ眩は、一人でいたらすぐに捕まって、また実験台になっちゃうのがオチなんですよ!? 橙さんは眩のとろ臭さを知りません! 捕まる前の話ですけど、正面からプードルが歩いてきたから避けようと思ったら、野良猫の尻尾を踏んでその拍子に躓いて壁に頭突きしてしまったことさえありますよ!」

「誇るようなことじゃないよね、それ」

「賭けてもいいですよ! 眩は一人では生きていけませんよ! すぐにその辺で野垂れ死――――ぬことは出来ませんけど、一生路頭に迷うことになりますよ! 橙さんはそれでいいんですか!?」

「斬新な脅迫だな、まったく」


 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。

 な、なんとか言い切りましたよ…………肩が痛くて、しょうがないですけど。


「しょうがない。引き受けたよ、眩ちゃん」

「……確かに、眩がいると迷惑になるかも知れません。ええ、それは分かっています、すっごい我儘です。でも、それでも眩は………………って、いいんですかっ!?」

「またべたなボケだね。でも、うん、いいよ、一緒に来ても」


 橙さんはそう言って、とても優しい笑顔を見せてくれました。


「一人でブラブラするのも飽きてきたからね。勝手気儘な旅でも、相方がいた方が楽しいし。…………でも、嫌なことも多いと思うけど?」

「この人たちと」言って、眩は周りに転がる死体を見渡しました。「一緒にいるよりも辛いことなんて、ありませんよ」

「……それもそうだ」


 橙さんは笑って、そして手を差し出してきました。

 細くて長くて、凄く頼もしいその腕に縋りつきたかったけど。

 残念ながら、眩の手足の錠は、かけられたままでした。


「あの…………まずは、これ、外してくれません?」

「そだね。あ、言っちゃっていい? 僕は眩ちゃんのこと、結構好きだよ」

「あ、眩もです」


 …………少しグダグダな感じに終わっちゃいましたけど。

 一応、眩の初告白は、成功したみたいです。



 某県某所に位置する、陸桐(くがぎり)町。

 西洋風の街作りを目指しているその街で、今回、奇妙な事件が起きた。

 午前一〇時から午後三時までの、実に五時間に亘って、街の住民が全員街の外へ出なくてはならないという強迫観念に襲われ、一斉に街から退去。

 戻ってきた町民たちは、中央部にあるファミリーレストランの異様な惨状に気付いた。


 そこには、明らかに致死量の血液が、一人分や二人分ではない、十人分以上はあろうかというくらい残っていたのである。


 しかし、そこにあったのは血液だけで、死体は一つもなかったのだ。


 いくつかの金属片や、銃弾なども残ってはいたが、肝心の死体は一つも残っていなかった。

 警察では、なんらかの事件がその場で起きたものだと考えられたが、しかしその場の血液が誰のものであるかすら分からず、結局、日常的に矢継ぎ早な調子で巻き起こる事件に埋没していき、やがて、その事件は忘れられていった。

 だが、その時期を境に、街には一つの都市伝説が生まれた。


 曰く――――あのファミリーレストランでは殺人鬼と謎の組織とが、一人の少女を巡って戦ったらしい。

 曰く――――殺人鬼は少女と共に、どこかへと旅立っていったらしい。

 曰く――――その少女とは、死なない人間だったらしい。


 真実は、誰も知らない。

 誰も知ることが出来ない。

 殺人鬼・無々篠橙と、不死の少女・光ヶ丘眩の行方も、誰も知らない。

 程なくしてそのレストランは閉店し、今は更地が広がっているという。


 真実は、事件と共に、闇の中へと埋没していったのである。


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