私、蚊を殺した
私の癖は、胃痛。
「…君が店のもの扱うとね、問題起こるんだよね」
ああ、そう。と言って、両手両足を最大限に伸ばし、全身で目の前のこの男を吹っ飛ばしてやりたかった。
「わかりました。じゃあ、やめます」
私って、何時もこうだ。爆発するのを抑えて、自分の中にしまい込んでしまう。そしてそれがいつの間にか積もり積もって重なって、嫌な痛みを生むのだ。
「…こう…もりが…さんびき…こけた」
苦しい時に生まれるのは痛みだけでなく、意味の判らない歌。町中であろうと何処であろうと関係ない。痛みを誤魔化すための歌は、やはり情けないけれど。
「怪しい女がいると思ったら、由里かよ」
聞き慣れた声がして振り返ると、これまた見慣れた顔が目に入った。
「広治」
彼は私に何かあったと悟ったように、奢るよ、と近くのファミレスへ誘ってくれた。
しかし、私は胃痛の持ち主。今は何も、体内に入れたくない。
「おれ、腹減ってんだよ。付き合え」
この強引な男は、私の所謂幼馴染みだ。なーにが、『広く治める』で『広治』だ。広治になんか治められてたまるか。
脂っこい肉。見ただけで更に胃がきりきりと痛んだ。
「え、またバイトクビになったの?やるじゃん由里」
ふざけやがって。
「クビじゃないよ。こっちから辞めてやったの」
「同じだろうが」
テーブルの下で広治の足を蹴ろうとした。が、空振ってしまう。畜生。
「由里さ、我慢が足りないんじゃねえの」
は?じゃあこの胃痛は何なのよ。私が、どれだけ溜め込んでると思っているの?
「我慢?してるし。寧ろし過ぎよ!頭突きの一発も出来なかったんだから」
広治は呆れたようにフォークを置き、私を見つめた。
「どんな状況になっても続けるのが我慢。お前のはただの、逃げ」
こいつ……。
私は怒りに身を任せそうになったが、また抑えた。と言うか、よく考えたら広治の言葉は正しい。私は水の入ったコップの中の氷がカラン、と音をたてるのを聞いた。
先程広治に持ち掛けられた話を考えながら、私は寝苦しい夜を過ごしていた。
「おれの彼女がさ、服屋の店員やってんだけど。今人数足りないらしくて、由里のこと誘ってくれって言われたんだ」
「何で私?」
女の私から見ても綺麗な、あの子か。と彼女を思い浮べながら尋ねる。
「さぁ?よく判んないけど、なんかそこの服お前とイメージ合うんだって。細身でカッコイイ系の子探してんだけどなかなかいないらしいし、由里フリーターだしな」
「悪かったわね」
私が、服屋の店員か。何だかピンと来ないな。第一接客に向いているとも思えない。
……………。
私は自分の腕を眺めた。不健康まではいかないが、細い。それは認める。だけど、顔はなぁ。どちらかと言うと感じの悪い顔だ。接客業なんてもう懲り懲り。無理無理。
私は溜め息を吐いて、寝返りをうった。胃痛はまだ続いている。それに夏の暑さが加わり、私は完全に参っていた。夜とはいえ、蒸し暑い。
…フゥーン…ゥゥーン…
知らないうちに眠りに落ちていた私の耳を、不快な音が刺激した。この音は…ヤツが徘徊しているに違いない。私は電気を点け、漫画を読みながらヤツが姿を見せるのを待った。生憎、蚊取線香は切らしている。
漫画の中では、殺人事件が起きていた。主人公が真相に近付いていくにつれ、何やら犯人には悲しい動機があるらしいことが判ってくる。
私は蚊のことなどすっかり忘れて、物語に没頭した。そして、すっかり感情移入してしまう。
そして気付かないうちに、頬を暖かいものがつたう。何故涙を流したのか。漫画が悲しかったからかもしれない。でもそれだけではないと判っているのは、どうしようもなく情けない自分を感じているからだ。
何が悲しくて、蚊に眠りを妨げられ、こんな深夜に漫画を読みながら泣かなければならないのだろう。どうして私はいつも必要とされないのだろう。本当に、私の居るべき場所なんてあるのだろうか。何だか、全てに見放された気分になる。
その瞬間だった。ヤツが私の横を通り抜けたのは。
私は漫画本を振り上げ、ヤツを上から叩き落とした。命中したかどうか判らずにそっと床を見ると小さな黒い点がそこにはいた。命中。そう思った時にはもう、不思議と胃痛は消え、涙も溢れることをやめていた。
蚊とはいえ、生きものを殺して立ち直りつつある私は、何て残酷な人間なのだろう。少し罪悪感を抱きながらも、そんなにストレスが溜まっていたのか…とちょっと笑えてきた。そして、電話をかける。広治の眠そうな声に、再び笑った。
「ああ、こんにちは!」
お店へと向かうと、広治の彼女が出迎えてくれた。
「良かった、来てくれて。由里さん、販売の仕事経験ありますよね?」
休憩時間を削って、私に仕事の説明をしている。この気持ちに応えなければ申し訳ない。
「まぁ、一応。あんまり向いてないっぽいですけど」
そう言うと彼女は笑い、フォローしますから大丈夫ですよ、と優しく言った。私は、あなたみたいに、笑顔の素敵な接客に最適のひとになりたい。いや本当に。
「でもなんで、私なんですか?」
「服を着てみれば判ります。由里さん絶対似合いますよ」
そう言われ、一緒に店内を見て回った。シンプルな服が主体で、色使いも多くない。好きなタイプだと思った。
私は彼女が見立てた切りっぱなしのデザインの黒いTシャツに、ノンウォッシュのスリムジーンズを履いた。足元は赤色の高いヒール。
「うん、やっぱり似合います!」
試着室のドアを開けると、彼女は嬉しそうに笑ってくれた。こんな風に笑顔を送られたら、お客さんも良い気分なんだろうな。
しかし、様子が少し変だ。彼女はそれだけ言うと、私を上から下まで見つめ何か考え込んでいる。…な、何だろう?やっぱダメ?最近ちょっと太ったからな…。
考えを巡らせていると、彼女が私と目を合わせた。
「…由里さん、髪切りませんか?」
彼女に連れられて来た美容院は、こじんまりとした落ち着く雰囲気だった。それに、何だか良い匂いがする。故意に作っている感じのしないそれは、何の匂いなのだろう。
肩まであった中途半端な長さの髪を、ばっさり切った。
「うん、似合う似合う」
美容師さんの隣で微笑む彼女に照れ隠しの笑顔を返した。
「かっこいいなぁ、由里さん。うちのお店にぴったり。やっと見つけた」
私の居場所が新しく働くお店かどうかは判らない。でも、出来ることを今はやるしかないんだ。
私はとても前向きな気持ちで俯いて、床に散らかっている自分の髪を眺める。昨日ヤツを殺した時の爽快感と、それはよく似ていた。
鏡に映るベリーショートの黒髪。そして、彼女の嬉しそうな顔。うん、悪くないな。やってやろうじゃん。
本当に普通の話が書きたかったのです。それだけです。そして主人公と私は少し近いです。素の感じで書いてみました。