7・夜舟は密やかに(中編)
――水の中に潜ったみたいだ。
初めて面をつけた柏木 慶子さんは、そう思った。
面をつけることで、どんなに大勢の人がその場にいても「個」になれる。
それは、水泳で潜水をした時のあの感じと似ていると、慶子さんには思えた。
「防具をすると、途端に動きがぎこちなくなるよね」
着替えながら山路 茜さんが言う。
午前の稽古では、防具の着用から礼法、素振りまでを行った。
防具の着用については全く自信がなかった慶子さんだったが、なんとかどうにかなりそうに思えた。
しかし、防具なしでの素振りの感覚と着用してのそれは違い。まさに、山路さんが言うように、ぎこちない動きしかできない慶子さんだった。
ぎこちないのは、一年生も同じだった。
「先輩、わたし、ロボットになった気分でした」
その一年生の言葉に、慶子さんも大きく頷き、山路さんも「あ、それ、わかる!」と言って話し出した。
「わたしは、中学一年から剣道を始めたでしょう。そうなると、同級生もみな背が低いわけよ。だって、ついこの間まで小学生だったわけだし。そうなるともう、ミニチュアな感じのロボットがあちこち動いていてさ」
そうじゃなかった? と、山路さんが中学から上がってきた一年生に同意を求めると、その子たちもうんうんと頷いた。
「それが、段々と防具をつけていた方が心地よくなってきたりもするんです」
経験者の一年生が、ぽつりとそう言った。
「身が引き締まるというか、やる気スイッチが入るんですよ」
別の一年生がそう会話を引きとる。
「お、いいこと言うね」
山路さんの言葉に、一年生が照れ笑いをする。
「他のみんなも、近い将来、こう思える時が来るってことね。とりあえず、お昼をしっかり食べて、午後もまた頑張りましょう」
その言葉に「はーい」と、明るい声があがった。
昼食が始まった途端、福地 裕也君が山路さんのところにやって来た。
「山路、ちょい相談があるんだ」
「だったら、ここの席、どうぞ」
慶子さんは、福地君に席を譲った。
「あ、いいの? 助かる。俺、まだ飯に手をつけてないから、柏木さんは俺の席で食べてくれる?」
「うん。わたしも手をつけてないから」
「いや、柏木さんの食べかけなら喜ん――」
福地君は言葉を途中で切ると「いたたたたっ!」と、足を摩りだした。
「柏木さんにかまけてないで、とっとと相談するよ」
山路さんが、福地君の背中をたたくと、彼はおとなしく「はい」とだけ言った。
福地君のいた席に向おうとすると、和歌山 真司君が大きく手を振ってきた。
それに小さく頷くと、慶子さんは和歌山君のいる席へと向かった。
「やあやあ、ようこそ」
そう言いながら、椅子を引いてくれた和歌山君に従い、席に着く慶子さん。
……。なんといいますか。
「むさ苦しいでしょ」
そう言ってきたのは、和歌山君とは反対側の隣の席にいた和菓子さま。
「いえいえ、そんなことは」
慶子さん、ズバリ心を読まれたことに慌て、誤魔化すかのように水を飲んだ。
和菓子さまといえば――。 ちょうどよかったとばかりに、慶子さんは、和菓子さまに話しかける。
「あの、明日なんですけど。明日の朝も今朝と同じ時間に食堂に来ればいいですか?」
「朝早いけど、大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
「わかった。じゃあ、今朝と同じで」
山路さんから任命された、おやつ副番長。
任命された時は、一体何をどうすればいいのか分からなかったが、偶然にも今朝の早起きのお陰でその任務を遂行することができた。
今朝、和菓子さまと顔を合わせた時、慶子さんは自分が恐れ多くも「おやつ副番長」に任命されたことを和菓子様は知っているのかどうか不安だった。
しかし、カルピス羹作りに誘われ、イベントで行うおはぎ作りの話までしてくれたということは、和菓子さまも「おやつ副番長」任命を知っているということだ。でなければ、わざわざ和菓子さまが、慶子さんにそんな話をしてくるはずがない。
早く起きて良かった。
早起きは三文の徳とは、よく言ったものである。
山路さん任命のおかげで、明日も朝から和菓子さまのお手伝いだ。慶子さんがわくわくとした時、慶子さんの席の周りのあちこちで、椅子を引く音があがった。
ぞろぞろと立ちあがった男子部員たちが、食堂の前のテーブルへと進みだし、そこにはあっという間に列ができた。
今日のお昼は、冷やし天ざるうどんだった。
男子たちは、麺のお替わりの列を作ったのだった。
男子は、よく食べる。
男女共学なので、修学旅行などでそういった場を目にしたことはあったけれど、こんなに間近でそのことを意識したのは初めてだった。
しかも、今日は男子のばかりの席に、ぽつんといる慶子さん。その様子は、林立する樹木の間にうっかり生えてしまったペンペン草、といった感じだ。
ふと、和菓子さまももう食べたのだろうかと気になった慶子さんは、お行儀が悪いと思いつつ、そっと和菓子さまの様子を窺った。
和菓子さまは、ゆっくりと食事をしていた。
少しほっとした。
そして今度は、ちらりと和歌山君のことを見た。
和歌山君は、なすの天ぷらを、今まさに食べようとしていたところだった。大口を開いた和歌山君と慶子さんの目がばっちり合った。
「あ。もしかして、これが欲しいとか?」
仕方ないなぁと言いながら、和歌山君は口に入れようとしていたなすを箸で掴んだまま、慶子さんへ「ほら」と押しつけてきた。
目の前に、ずずずと迫ってきたなすの迫力に、動きを封じこまれた慶子さん。
「あほか」
和菓子さまが、腕を伸ばし和歌山君の頭を叩く。
「ジョークだよ。もう、鈴木って過保護だな」
その声によって、慶子さんのなすの封印は解かれた。
午後の稽古は、大学生のOB・OGも加わり、より緊張したものとなった。福地君の相談とは、午後からの先輩を加えてのメニューについてだったらしい。
「顧問が役に立たないだけに、先輩方が来て下さると助かるのよね」
山路さんは、そう小さな声で慶子さんに言った。
初心者グループにはOGがつき、他の部員たちはOBとのかかり稽古にはいった。慶子さんたち初心者は、まず午前中にやった礼法の復習をした。
礼法の難しいところは、相手との距離感だ。慣れてしまえばできてしまうそれらのことを、そうなるまで慶子さんたちは頭と体で覚えていくのだ。
そして素振りをしたあと、いよいよ面打ちをすることになった。日常生活におて、竹刀で人の頭を打つなんてことは、まずない。
それだけに、ある意味最初の一歩というか一打というのは、つい躊躇してしまうところがある。
と、いうことで。
自分たちもそうだったOGたちは、わざと慶子さんや一年生を焚きつけるような厳しい声をかけだした。優しい先輩は、この場に必要ないと思ったからだ。その中で、意外にも慶子さんは躊躇することなく、なかなかの面を打ち込んでいた。
それを見た一年生たちは「柏木先輩でもムカつくことあるんだぁ」などと、OGの言葉に挑発され頑張る慶子さんを意外に思った。ならば、自分たちも負けてはいられないとばかりに、OGへと飛び込んでいった。
当の慶子さんは、OGからの掛け声にムカつくというよりも、今まで散々見てきた山路さんや他の部員の姿を思い描きながら打っていただけなのだが。
昨日よりのポジティブ菌に、もともとの素直な性格が加わり、慶子さんの剣道はいい方向に転がっていた。
そして、なにより、個になれる剣道の世界を、慶子さんは好きになっていた。
初心者ながら、弱いながらも、ある意味最強の慶子さん。
そんな慶子さんのファイトが、一年生の刺激にもなり。
そして、それをいち早く察したOGたちは、ともかくこの子を上に引き上げれば他の子も上達すると考え、慶子さんにハードな稽古をつけだした。
肩で息をする慶子さんの背中を、山路さんがポンと叩く。
「お疲れ」
「お疲れ様」
声をかけてきた山路さんだって、顔を赤くして疲れた様子だ。二人して、よろよろと着替えの為に部室へと向かった。
「後悔、してる?」
山路さんはわざと「剣道」の言葉を使わずに慶子さんに訊いた。
「柏木さん、おっとりしているし。わたしみたいに気も強くないし」
あはは、と山路さんは笑う。
「それが、ね」
呼吸の合間で慶子さんは言葉を出す。
「気持ち、よかったの。そう言ったら、山路さん驚く?」
疲れた中にも清々しい表情を浮かべ、慶子さんはそう言った。
ぱっと山路さんの顔が明るくなる。
「わかる! 剣道ってさ、気持ちいいよね。だよね。そうだよね。いやん、仲間だわん」
えへへ、と山路さんが慶子さんに擦りよる。
「うん。すごく集中できて」
そう言ったあと、慶子さんは続く言葉を探すように、視線を泳がせた。
山路さんはせかさずに、慶子さんの言葉を待った。
そして、部室の前まで来た山路さんは、そのままドアを開けた。部室は、いつもの通り甘く爽やかな香りがした。
「うん、集中できて、それが気持ちよかったの」
色々と考えていた割には、同じ事を繰り返した慶子さん。同じ言葉ながらも、初めの言葉と後の言葉の背景にある気持ちの深さは違っていた。
「そっか。うん、そうか。……ありがとう、柏木さん」
「え? どうしたの? なにが?」
「ありがとうは、ありがとうだから、それだけ。さ、着替えよう。あぁ、お腹空いたな」
突然の山路さんのありがとうに、慶子さんは戸惑った。
翌朝、慶子さんは早起きをし、和菓子さまを手伝い、フルーツ羹を作った。
粉寒天の溶かし方も、少し慣れてきた。
「明日のおはぎ作りなんだけど」
はい、と慶子さんは頷く。
「柏木さん、作ったことある?」
「おはぎを、ですか?」
和菓子さまの言葉に、慶子さんの動きが止まる。
もしかして、日本の家庭においておはぎ作りは、一般的なことなのだろうかと。
だとすると、「おやつ副番長」失格?
ひきつった笑顔で、和菓子さまを見上げる慶子さん。
「……。ごめん」
慶子さんから視線をそらし、俯く和菓子さま。震える肩。心なしか和菓子さまは、笑っているような。逆に、慶子さんは泣きたくなってくる。
「いや、今のはナシで。忘れて。で、明日なんだけど、そういうわけだから早起きはしなくていいから」
午後にみんなでやるから、ということらしい。
「あぁ、でも。もち米とうるち米を混ぜたものを炊飯器にかけるけど、まぁそれも一人でできるしなぁ」
和菓子さまがぼそりと言う。
「あの、でも。道具の用意とかは。棚から出したり、洗ったりとか、準備は必要ですよね」
「まぁ、それもみんなで出来るし」
がくりと頭を垂れる慶子さん。
いよいよ、出番なし。
「あぁ、そうだ。親父が来るんだ」
その言葉に慶子さんは、顔を上げる。
「餡を持ってきてくれるように頼んだから」
和菓子さまの「親父」。つまり、師匠。
慶子さん、ちょっぴり心臓がどきりとした。
そして、そう自覚すると顔も赤くなってきた、ような気がした。
そんな慶子さんの顔を、ちらりと見ると和菓子さま。
「柏木さんは、うちの親父を知っているから、餡の受け取りをお願いしようかな」
ようやくお仕事ができたとばかりに「はい」と、元気に返事をする慶子さん。
「そうそう。餡が苦手な人もいるから、その人達のために、ホットケーキを焼こうかと思っているんだよね。ここで、ホットプレートも借りられるみたいだし」
「ホットケーキですか」
「うん。柏木さん得意?」
おはぎの次は、ホットケーキ!
しかも、今度は得意かと訊かれた慶子さん。
いや、もう。
得意も何もありゃしませんが、しかし、あえて得意かどうかと訊かれたのなら。
「あんまり得意では……」
ちょっと見栄を張って答えてしまう慶子さん。
まぁ、その答え、あながち嘘ってことでもないわけで。
ちまたでは、下手すると幼稚園児でもできるホットケーキ作りだが、ご想像通り慶子さんはしたことがなかった。
即ち、得意なはずがない。
「じゃあ、福地にやらせるか」
和菓子さまの口からは、意外にも女子の名前でなく福地君の名前が出た。
「福地君は、ホットケーキが作れるんですか」
思わず、そう訊いてしまう慶子さん。
「あぁ。出来るって言っていたから大丈夫でしょ。ミックスだってあるし」
「ミックス?」
慶子さん、初めて聞く単語に戸惑う。
「うん。ホットケーキミックス」
ホットケーキミックス。
「ホットケーキ」が「ミックス」?
慶子さんがミックスと聞いて思い浮かぶのは、ソフトクリームのミックスだけだ。
バニラとチョコのシマシマで。
しばし、ホットケーキミックスの単語を挟んで見つめあう、慶子さんと和菓子さま。
慶子さんの頭の中は、当然シマシマ模様。
「あぁ、まぁ。知らなくても、人類が絶滅することでもないから」
そう言って、またもや先に視線をそらしたのは和菓子さま。
慶子さんの精一杯の見栄も、ホットケーキミックスの言葉の前に脆くも崩れおちたことを知らないのは、ご本人のみ。
剣道なら、いきなり面を一本取られるくらいの隙の多さ。
「柏木さんは、ぼくと一緒におはぎの担当しよう」
「よろしくおねがいします」
ホットケーキミックスなるものの謎は残りながらも、おはぎ担当という甘い言葉に気持ちが動く慶子さん。
「副番長として、少しでもお役にたてるよう頑張ります」
決意も新たに、そう言う。
「ん? 何番長だって?」
慶子さんの発言に、今度は和菓子さまの動きが止まる。
「おやつ副番長です。わたし、合宿初日の夜に、山路さんにそう任命されたんです。ご存知、ですよね?」
「あぁ、うん。副番長、ね」
「はい」
すっきりとした表情で応える慶子さんの言葉に、和菓子さまはとりあえず「あぁ、そうか。そうだったよね」と、合わせるような返事をした。
そして、ぱたぱたと片づけをする慶子さんの後ろ姿を見ながら、和菓子さまは全然すっきりしない顔で何やら考え込んでいた。