嵐を呼ぶ水無月 6
そして、日はどんどんと過ぎて、六月三十日。
夏越の祓。
慶子さんは大学に行く前に神社へ行き、大きな茅の輪をくぐった。
くぐり方は輪の側の立て看板に書いてあった。
正面から入り左に回り、戻ったら、今度は右へと回る。
上から見たときに数字の「8」の字を描くように回るのだ。
それを三回することで、今年の一月から六月までの半年間の病と穢れを落とし、明日からの残りの半年間を無事に過ごせるよう願う儀式だそうである。
くぐり終えた慶子さんは、神社を歩いた。
朝の神社は気持ちがいい。
けれど、さっぱりしすぎて物足りない気もした。
以前この神社には、鈴木君と来た。
酉の市だった。
所狭しと熊手がふさふさと上からかぶさるように並んでいた。
熊手を買ったときに、熊手屋のみなさんだけでなくその場にいた方々にも囲まれて、とても驚いた。
灯りがきれいで、どこか別の世界に行ったかのようで、鈴木君が公達のようで――。
「柏木さん」
はっとして、振り返る。
神社には慶子さんしかいない。
鈴木君の声がしたと思ったけれど、勘違いだった。
なんだろう。
心がすかすかしてしまう。
淋しいというのとは、少し違う。
多分、これは、恋しいという感情なのだろう。
はじめてのこの想いを、慶子さんはどうしていいのかわからない。
誰かに相談なんかもできない。
鈴木君を想っているのは、秘密なのだ。
いつか、鈴木君がいない毎日がどんどん積み重なっていくうちに、こんな気持ちもなくなってしまうのだろうか。
人を想う気持ちは、好きな気持ちは、いったいどう昇華されるのだろう。
慶子さんは神社を出た。
――「あと、交差点の向こう。あそこにも、和菓子屋があるんだ」
鈴木君のお薦めのあのお店は、優しそうなおじいさんとおばあさんが二人で営んでいる。
お団子におはぎ。
ぽってりとして見るからにおいしそうで、慶子さんはついついたくさん買ってしまったのだ。
いつか「水無月」を買い来た男性に話したように、気が付けばこの町すべてが慶子さんにとり鈴木君を想い出すところばかりになっていた。
目があいているのになにも見えていなかった、まるで暗闇に迷い込んでいたかのような慶子さんをすくい上げてくれたのは、いつだって彼の「声」だった。
「柏木さん」って声が懐かしい。
名まえを呼んでほしい。
そう思うのは、友だちとして許されること?
「寿々喜」の「水無月」は、なんと昼過ぎに完売したらしい。
慶子さんは予約していてよかったと、胸をなでおろす。
「まさか、ここまで情報がいきわたっているとは思わなかったわ。そりゃ、宣伝は一生懸命しましたけれどね」
閉店後、お茶を飲みながら女将さんはバテ気味だ。
ご近所で付き合いのある商店に「水無月」のちらしを貼らせてもらった効果なのか、はたまた、おやじさんのマンションの方々のお力があってなのか。
とにかく売れに売れたそうだ。
「そうそう。柏木さんが来る前にね、お礼を言ってくれって男性も買いに来たのよ。『水無月』のお客さまって、あの方だったのかしらね」
おやじさんのマンションのエントランスでのやりとりは、その日のうちに師匠と女将さんにも話していた。
あのあと、あのお客さまはデパートで「水無月」を買っただろうか。
もし、そうだとしたら嬉しい。
鈴木家の玄関のベルが鳴る。師匠がひょいと腰を上げ、荷物を取りに行った。
「あらっ。わたしお店の鍵を締めたかしら。ちょっと、見てくるわ」
おかみさんが慶子さんに断り、店に行く。
さて、そろそろ家に帰ろう。着替えをしようと、慶子さんが席を立ったときに、鈴木家の電話が鳴った。
どうしようかと迷ったが、以前、出てくれと頼まれたことがあったので、おそるおそる受話器をとる。
「いつもありがとうございます。『和菓子屋 寿々喜』でごさいます」
「……『寿々喜』さん、ですか?」
「あ、すみません。鈴木です」
「……あれ。いや、まさか。でも」
受話器の向こうの人は困っている。
慶子さんも、早く師匠か女将さんが戻ってこないかと、きょろきょろしてしまう。
「すみません。少々お待ちください」
「やっぱり、そうだ。柏木さん、ぼくだよ、鈴木学」
「……え?」
慶子さんは思わず耳から受話器を離した。
鈴木君?
それとも、また幻聴?
「あ、柏木さん、もしもし、切らないで」
鈴木君が「もしもし」って言ってる。
「柏木さん」って言ってる。
耳が熱い。
これが茅の輪の力?
「すみません、柏木です、こんばんは。あの、すぐにお母さまに代わりますので」
「いや、いいから。代わらないで。そのままで。あの……柏木さんが嫌でなければ」
嫌なはずなんかない。
「……あの、わたしでよければ」
「うん、ありがとう。あのさ、状況がよくわからないんだけど。柏木さんはなんでうちの電話に出たの?」
鈴木君がいかにも不思議そうに聞いてくる。
「お父さまは宅配を取に行かれて、お母さまはお店の鍵の確認に行かれ、わたしひとりが電話の側にいたたからです」
「それは、あれかな。柏木さんがお店に寄ってくれて、なにかの流れてうちに上がったってこと?」
鈴木君との会話がどうにもかみあわない。
「わたしが『寿々喜』さんでアルバイトをさせていただいているのは、ご存じですよね?」
「……は? え? いつから?」
「三月の半ばごろでしょうか。鈴木君が京都に行ったあとです」
受話器の向こうで鈴木君が息をのむ。
「……全然知らなかった。っていうか、実は家に連絡をするのは京都に行ってから今日が初めてなんだ」
なんと! そうだったのか。
それなら余計に、女将さんに代わらなければ。
「それは大変です。今すぐにお母さまを呼びます」
「待って、あの、柏木さん。もう少し。いつもはがきをありがとう。で、あの、はがきに柏木さんの住所が書いてないのは、なにか意味があるのかな?」
「鈴木君はお忙しいので返事はいりませんって意味だったのですが……」
「そうか。なんか、いろいろと考えてしまった。実は、柏木さんに誕生日プレゼントを送ったんだけど、住所を間違えて戻ってきてしまったんだ。失敗したなと思って。それで、家に送るものと一緒に入れたんだけど。親に、柏木さんが店に来たときに渡してもらおうと思って。その電話だったんだ」
お誕生日プレゼント!
耳どころか、顔まで熱くなる。
「お気遣い、すみません」
「いや、送りたかったから。ブックカバーなんだ、版画の。柏木さん本が好きだからいいかなって思って」
「嬉しいです。とても、嬉しいです。ありがとうございます」
声を聞けただけでも嬉しいのに、プレゼントまでなんて。どうしよう、ドキドキしてしまう。
「柏木さん、元気そうでよかった」
「鈴木君は、お元気ですか?」
「元気だよ。毎朝早く起きて、仕事をしている」
「山路さんも福地君も北村君も、みなさん元気です。みなさん、鈴木君を想っています」
「高校のころは面倒だと思ったけど、離れてみるとありがたいものだね」
鈴木君がしみじみと言う。
「……柏木さん、あのね、京都は緑が濃いよ」
「緑、ですか?」
「うん。青もみじっていって、溺れそうになるほど美しかった。きっと柏木さんも好きだと思う。だから――」
バタバタとした足音とともに女将さんが戻ってきた。
「ごめんね、柏木さん。お待たせ。あら」電話?と女将さんが口パクをする。
「お母さまがいらしたので、電話を変わりますね」
鈴木君からですと言って受話器を渡すと、女将さんの顔がぱっと明るくなった。
慶子さんは、ふぅとため息を吐く。
溺れそうになるほどの緑。
なんてすごみのある表現だろう。
そして、どれほどの緑なのだろう。
ふと視線を感じ振り向くと、師匠と目が合った。
いつの間にか戻り台所の椅子に座っていた師匠が、慶子さんに手招きをする。
師匠の前のテーブルには、蓋の開いた菓子の箱がありその中には透明のゼリースタンドパックに入った菓子が四つあった。
それには、クラッシュされた寒天に半分に切った枇杷が二個分とミントの葉そして薄くスライスしたライムが入っている。
見ているだけでおいしそうだ。
「柏木さん、これを一緒に食べよう」
「いいんですか? でも、わたしは少しで……。これ量が多いので三人で分けましょうか」
慶子さんよりも早く動いた師匠が、ガラスの器に菓子を手際よく分けた。
女将さんはといえば、鈴木君に、ご飯は食べているのか、風邪は引いてないかと半分怒りながら電話をしている。
師匠はそんな女将さんを見て、肩をすくめた。
分けられた菓子を、慶子さんは師匠が食べたのを見たあと、食べた。
まずは寒天。そっとすくい、口に含んだ。
ぱっと目が覚めるような瑞々しい味が口の中に広がり、ライムの香りが鼻を抜けていく。
続けて枇杷を食べる。
不思議なことに、生で食べるよりも枇杷らしい味がした。
そして、少しだけお酒の香りもした。
「負けられないな」
師匠がぼそりと言う。
その言葉に慶子さんははっとした。
これは、鈴木君が働いている店のお菓子なのだ。
「そうだ。これ、柏木さんにだって」
師匠が紙の袋を渡してくる。
その場で慶子さんが開くと、中から梅の花のブックカバーが出てきた。
「とてもかわいいです」
師匠も頷いた。
女将さんはまだ鈴木君と話している。
この場に鈴木君はいないのに、まるで四人で同じ部屋にいるような楽しさだ。
慶子さんはまた寒天を一口食べた。
わたしも、鈴木君に負けられない。
ちゃんと勉強して、いつかの未来のどこかで役立てるようにするのだ。
そして、こんな時間をくれた鈴木君の失敗に、申し訳ないけれど感謝した。