嵐を呼ぶ水無月 3
大学帰り、慶子さんはいつものようにアルバイトのため「寿々喜」へ向かった。
そして、いつものように一階の四畳半の事務室で制服に着替える。
事務室には電話やコピーとファックスの複合機、パソコンが置かれていた。
「寿々喜」の制服は、上下に別れた二部式の着物だ。
「柏木さんには着物を着てもらおうと思うんだけど、どれがいいかしら?」女将さんからカタログを見せられたとき、慶子さんは怯んだ。
けれど、それは仕事着用の着物で生地も洗濯もできるポリエステルと聞き、それならばと、女将さんと一緒に選んだ。
結果決めたのが、ピンク地に小梅が散ったかわいらしい制服だ。
エプロンをつけて三角巾を被ると、やる気スイッチが入りいよいよお仕事モードになる。
慶子さんが着替えて店に出ると、女将さんが満足げな顔をした。
「柏木さん、今日もかわいいわねぇ。やっぱり、制服を着物にしてよかったわ。お店が華やぐもの」
「女将さんの着物も薄い緑色が爽やかで、とても素敵です」
今まで白い上っ張り姿だった女将さんも、この春から店で着物を着る日が増えた。
女将さんはそれを「柏木さん効果」と呼び、ちょこちょことあちこちを変えていく。
たとえば、店の前に寄せ植えが置かれたり、会計のときのキャッシュカラトリーが黒からスモーキーピンクに変わったり。
けれど、慶子さんはそれらを「柏木さん効果」ではなくて、女将さんが一人息子のいない淋しさを紛らわすためのあれこれだと思っている。
師匠もそんな女将さんの様子がわかっているのか、苦笑いしながらも黙認しているようだ。
「ところで、妙な話なんだけど。今日はやけに『紫陽花もち』が売れるのよ」
「『紫陽花もち』は人気商品ですよね。通常でも、他の二つの上生菓子よりも少し多く作っているとお聞きしましたが」
「まぁ、そうなんだけど」女将さんが考え込んだとき、店の奥で電話のベルが鳴った。
「あらあら。柏木さんお店番お願いね。なにかあったらお客さまにお待ちいただいて、わたしを呼んでね」
昨日の今日だ。慶子さんは大きく頷いた。
店に一人になった慶子さんは、袋や包装紙やプラスチックの容器の確認をする。
女将さんがいたので、不足しているなんてことはないのだけれど、自分自身の安心に繋がる。
そのあと慶子さんは、菓子の残量の確認もした。
みたらし団子に、滑らかなこし餡がかかった餡団子。きんつばに大福。
季節の上生菓子は外郎生地の白い「鉄線」に、練り切り製のオレンジ色の「びわ」。
そして、紫や青のグラデーションの美しい「紫陽花もち」が売られている。
そして「紫陽花もち」は女将さんの言う通り、残りが一つになっていた。慶子さんも去年「紫陽花もち」を見たときには、とても惹きつけられたので、人気の理由はよくわかる。
けれど「鉄線」だって負けず劣らず美しい菓子だ。
「鉄線」とは、キンポウゲ科の落葉性つる植物の名前だ。六枚の花弁に見えるものは萼だという。
菓子は丸くまとめた白餡を薄く伸ばした白い外郎生地で包み、その外郎で花弁の萼を作っていた。
菓子の中央には紫色のきんとんが載っている。背筋が伸びるような、凛とした美しい菓子なのだ。
外郎は、材料に砂糖や上新粉、白玉粉など加えて蒸す、もっちりとした厚みのある菓子だけれど「鉄線」で使ったように薄く伸ばすと、その上品な滑らかさが際立つ。
材料や調理方法。
日々のアルバイトの中で知ることが増えるのが楽しい。
去年は客として通った場所に、今年は店側の立場で働いている。
縁とは不思議だ。でも、わくわくもする。
そして、いよいよ明後日は和菓子の日だ。「嘉祥菓子」の販売である。
「寿々喜」では、「嘉祥菓子」のように年になんどか行事と重ねた菓子の販売をする。
「嘉祥菓子」の内容は、七つの饅頭だ。それをセットで売り出している。
慶子さんは先日、閉店後に師匠から今年の饅頭を見せてもらうという役得があった。
まずは定番の紅白のうさぎ饅頭。白がごま餡で赤がさつま芋餡だ。
そして、こし餡の葛饅頭に、栗がごろっと入った栗饅頭、白餡の利休饅頭。最後の一つは――。
「この餡は枝豆ですか?」
それはところどころ緑の餡が表まで透けて見える、きれいな饅頭だった。
「そうだよ。枝豆の餡は、地域によって呼び方がいろいろあって『ずんだ』『じんだん』『ぬた』とも呼ばれ親しまれている。でも、こっちが知らないだけで、呼び名は他にもあるんだろうな」
それぞれの地域で、枝豆の餡が愛されていることがわかる。
「それで、この皮が薄い饅頭には名前があるのですか?」
「田舎饅頭や吹雪饅頭、やぶれ饅頭と呼ぶ地域もある。うちでは、田舎饅頭として出そうと思っているよ」
慶子さんは田舎饅頭を見ながら、今年は絶対にこれを食べたいと思った。
ふいに店の入口に人影が見えた。
ガラス戸の向こうに、ベビーカーを押した、髪をゆるく巻いた若い母親の姿がある。
慶子さんはその女性にアイコンタクトをすると、カウンターから出てドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。あの、紫陽花のお菓子を買いに来たんです」
「はい。『紫陽花もち』ですね」
慶子さんは女性からショーケースの『紫陽花もち』が見えるよう、横にずれた。
「そうそう、あれです。昨日マンションの懇親会で見て、もう、絶対に買いに来ようって思ったんです」
「ありがとうございます。ご用意しますね」
準備をしながら、慶子さんは考える。
昨日のマンションの懇親会、つまり、お客さまは最中屋のおやじさんのマンションの住人なのだ。
「ご存じかもだけど、うちのマンションの大家さんが最中屋さんで、こちらの店長さんとお知り合いなんですって。それで、懇親会のお菓子は和菓子を三種類用意したなんて言ったんだけど、正直言って和菓子なんてなぁ、あまり食べないしなって思ったら。出てきたのが宝石みたいにきれいなお菓子で。そこからもう、撮影会。一気にそれでみなさんと仲良く打ち解けたの」
「それは、光栄です。みなさまに喜んでいただいたと、店主に伝えます」
女性の話では、その場でSNSに載せる人もいたそうだ。
……もしかして『紫陽花もち』の人気は、そこから?
「あと『水無月』って、お菓子、あるんですよね。最中屋のおじさんが縁起のいいお菓子だって。それを、このお店で売っているって教えてくれたんです」
あっと思う。これは、女将さん案件だ。
「『水無月』ですね。少々お待ちください」
慶子さんが、奥へと女将さんを呼ぶと、ちょうど電話を終えた女将さんがすぐにやってきた。
「女将さん『水無月』について、お客さまからのお問い合わせです。マンションのオーナーさんである最中屋さんからお聞きしたそうです」
女将さんが笑顔で女性に向き合う。
「お客さま、大変申し訳ございません。『水無月』ですが、実は神社で行われます夏越の祓と関係したお菓子のため、その神事が行われる六月三十日に合わせて売り出す予定なんです」
「そうだったんですか? おじさんは、もう売っているような言い方でしたが、わたしの聞き間違いだったのかも……。それで、夏越の祓ってどんなことをするんですか?」
「すぐそこに神社がありますよね」
「うちのマンションの、あのそばの神社ですか?」
「はい、そうです。あの神社に人が通れるくらいの大きな茅の輪ができるんですよ。そこを通ることで半年分の汚れを祓って、次の半年また元気にがんばろうって。『水無月』はそのときに一緒に召し上がっていただきたいお菓子なんです」
女性の目が大きく開く。
「なんか、楽しい。子どもの教育にもきっといいですよね。そのお菓子、もう予約できますか? この町に越してきてよかった」
にこにこ顔の女将さんだけれど、目は笑っていなかった。
情報源は、最中屋のおじさんだった。
そして多分、あの男性も懇親会に出ていた一人で、雨の中なにかしらの理由で「寿々喜」まで「水無月」を買いに来たのだ。
女性が店を出たのを見届けると、女将さんは勢いよく奥へいき、最中屋のおやじさんに電話をかけた。