青い柿、青い心 1(八月)
「7・夜舟は密やかに(中編)」に出てきた、呉田先輩(呉田充)の物語です。
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慶子さんと鈴木君が高校3年の8月、呉田君は大学1年生のときの物語です。
呉田君の心情とその後の変化、鈴木学君との決着。
そして、呉田君が目撃した鈴木君と慶子さんの様子などです。
彼が主人公だけに負の感情も描いていますが、鈴木君にとっても大切な物語だと思うので書きました。
苦手な方は、1回、2回は飛ばして慶子さんと鈴木君が出てくる3話(最終話)をお待ちくださいませ。
――「呉田君は、どんな人になりたいのかな?」
まさか自分が小学生の面倒をみるなんて。
大学一年生の呉田充は団扇で顔を仰ぎながら、長い座卓テーブルに向かい夏休みの宿題をしている子どもたちを見渡しそう思った。
ここは、充が高校一年生のときの担任教諭で高校の剣道部の顧問でもある山田正文先生の自宅の和室だ。
といっても、この場に山田先生はおらず、いるのは子どもたちから「大先生」と呼ばれる先生の父親の山田博文先生だった。
大先生は、一昨年小学校の教諭を退職後、自宅を開放し「寺小屋」と称して無料で子どもたちの勉強を見ているらしい。
大先生は体も大きく顔もいかつい。色白で小柄な山田先生の父親とは思えない。また、大先生は、どちらかといえばしゃべり好きの山田先生と違い、無口でもあった。
山田先生から充に連絡があったのは、例の高校剣道部の夏合宿あとである。
「呉田君、夏休みですが、もし時間があるのならお手伝いをしてもらいたいのです。ボランティアなのでアルバイト代は出せないのですが、おいしい昼食をご用意します」
充はOBとして参加した高校の剣道部の夏合宿で、後輩である鈴木学を殴ってしまった。その件で充は山田先生にとてもお世話になったのだ。
充のしでかしたことはその日のうちに明らかになり、充は母からも父からもしこたま怒られた。
そして、翌日。鈴木が合宿から帰宅したその日の夜に、山田先生仲介のもと、父親同伴で鈴木の家へと謝罪に向かった。
充は鈴木の顔を見て、思わず後退った。
唇の横が切れて、その周りも青くなっていたからだ。
彼の口のけがは、充が想像するより酷いものだったのだ。
充は自分が人を殴ることになるなんて、思いもしなかった。
言い訳にしか聞こえないだろうけれど、こんなことは初めてなのだ。
充は年の離れた姉が二人いる三人きょうだいで、いわゆる末っ子長男だ。
誰かの面倒をみるよりは、みてもらうことが断然多く、多少のわがままは余裕で通った自覚もある。
けれど、だからといって他人に暴力をふるった記憶はない。
問題のあの日、充は午後の稽古が終わったあと、合宿施設に鈴木を尋ね彼を施設の裏へと連れていった。
鈴木の言い分というか、話を聞こうと思ったのだ。
ところが、いざ鈴木を前にすると、充の中で鈴木への恨みや怒りが自分でもコントロールができないほどわきあがり、結果、鈴木を一方的に責めてしまった。
そして、挙句の果てに黙ったままの鈴木を力任せに突き、押し倒し……。
今でもあのときの混とんとした感情を思い出すと、心がざわざわとしてしまう。
人を殴るなんてダメだ。理性ではわかる。
わかっている。なのに……やってしまった。
そして、やってしまったことは取り返しがつかない。
――鈴木の顔のあの傷は、残ってしまうのだろうか。
そう考えると、充は今さらながらに恐ろしくなり冷や汗が出た。
そして、鈴木の家族とこれからどんな話になるのかと考えると、さらに心細くなりつい下を向いてしまった。
けれど、それを充の父は許さなかった。
顔を上げろと促され、充は奥歯を噛みしめ鈴木の顔を見た。
そして、頭を下げた。
充の荒れた感情とは対照的に、鈴木はいつも通り、表情もなく感情も読めない能面顔だった。
まるで、痛みなどないかのような静かな顔つきなのだ。
こんなことを言えばまた怒られるのだろうが、そんな鈴木に充はムカついた。
鈴木は充の行動についてもなにも言わなかった。
彼はただ黙って、その場にいるだけだったのだ。
だから充は、鈴木があの件についてどう考え、充についてなにを言いたいのかさえわからなかった。
なにをしても無反応の鈴木を前にしたとき、充の胸にぽっかりとした空しさが宿った。
この感情に、どんな名前を付けていいのかよくわからない。
鈴木の父親は終始渋い顔だったがそれは地顔のようで、話は充が拍子抜けするほどあっさりと終わってしまった。
玄関でちらりと顔を合わせた鈴木の母親にも、すごい顔で睨まれた気もするが、改めて鈴木の母から充が責められることもなかったので、あれも地顔だったのかもしれない。
もちろん、この件が大事にならずに済んだ根本には、山田先生の尽力があってのことだとは思うけれど、鈴木の両親も寛大だと充は思った。
とにかく、助かった。
これにて、充が鈴木を殴った件については終了となったのだ。
家に帰ると父親は「鈴木君もお父さまも理性的で立派な態度だった」としきりに褒め、逆に充に「おまえ、自分が悪い癖に、また鈴木君に喧嘩を売るのかと焦ったぞ」と、怒った。
充は高校の剣道部への出入りを禁止された。
そして、大学の剣道部の部長からも「しばらく頭を冷やせ」と連絡が来た。
友だちを誘ってキャンプに行く計画からも自ら外れ、夏休みではあるもののなんとなく謹慎気分だった。
そんなときに来た、山田先生からの手伝い要請だった。
二つ返事で引き受けた充は、山田先生に言われるがまま、先生の自宅へ行った。
先生に連れられて入った広い和室には何本もの長い座卓テーブルが並べられ、正座した子どもたちが各々勉強をしていた。部屋の隅には本棚があり、そこには国語事典や動物や乗り物図鑑。
そして学年ごとに分けられた古い問題集やドリルがずらりと並んでいた。
その光景に充は怯み、はじかれたように廊下に出ると山田先生を呼んだ。
「先生、ここは塾? 俺になにをしろっていうの?」
「呉田君、勉強得意じゃないですか。機転も利くし、アイデアマンだし、その調子で彼らの宿題をみてあげてくださいよ」
のんびりとした顔でとんでもないことを言う山田先生を、充はまじまじと見た。
「先生、頭大丈夫? 俺は鈴木を殴ったんですよ。そんな俺が、子どもを相手になにかをするなんて、PTAからクレームがくる。面倒なことになるよ」
「鈴木君のご家族は呉田君についてなにも問題視していません。とはいえ、呉田君にいろいろと思うところがあるのは当然だし、そういった感覚はいいことです。まぁ、いろいろとあるとは思いますけれど、そんなのは、ぼくの父に会えば払拭されますよ」
払拭? いやいや、そんな簡単に言っちゃっていいんですか、と思う充の目の前に、のっそりと登場したのが大先生だった。
大先生のその存在感というか、いかにもなにかしらの武道の心得があるような風貌を見ると、万が一充がなにかしでかそうとしたら、その百倍は痛い目にあうのだろうと予想できた。
だから、なんというか……。
つまりが払拭された。
そんなこんなで、充が山田先生の家に通い始めて今日で三日目になる。
ここに集まる子どもたちは、小学一年生から六年生までで、毎日メンバーは微妙に変わるものの概ね十人前後の子がいた。
初めは誰が誰だかわからなかったけれど、日を重ねるうちに、子どもの顔や名まえ、おおよその性格のようなものが充にも見えてきた。
その中で気になる子が二人いた。
小学四年生の太一と翔だ。
「寺小屋」での勉強の進め方としては、まずここに来た子は部屋にある大きなホワイトボードに、自分の名まえとここで終わらせる勉強の目標を自由に書く。
ドリルが一ページの子もいれば、読書感想文の子もいる。
そして、それぞれが目標のクリアができたら大先生を呼び、確認してもらうといった方法をとっている。
もちろん、わからない問題への質問はいつでもOKだ。
ところが四年生の翔は、自分の目標がクリアできたにも係わらず大先生を呼ばないのだ。
ちらちらと同じ学年の太一の様子を伺い、太一が大先生を呼んだあと、ようやく自分もクリアできたと先生を呼ぶ。
二人の一日の目標ページは同じだったため、充の目には太一よりも翔の方が賢く映った。
翔はなぜそんな行動を?
充はもやもやとした。
そこで、子どもたちが帰ったあと、部屋の掃除をしながら思い切って大先生に聞いてみることにした。
「翔と太一って、なにかあるんですか?」
「どうしてそう思うんだい?」
「いやだって、翔は自分の実力を太一に隠しているみたいだから」
「なるほど。呉田君、聞いてみてよ」
「俺がですか? 勉強を教えるのはかまわないけれど、小さい子を相手にそんな込み入った話なんて無理ですよ」
「彼らは『小さい子』じゃないよ。かつての自分だよ。きみだって、小学四年生のときがあったでしょう」
それはそうだけれど。でも、それって屁理屈じゃないの?
いや……うん。
……しかし。
「やっぱり無理ですよ。万が一めちゃくちゃシリアスな悩みを聞かされちゃったら、俺、どうしたらいいのか。解決なんて無理、無理」
「解決しなくていいんじゃないのかな? ただ、気持ちを聞けばいいんだよ。それで、呉田君はどっちの子の気持ちを聞くつもり? 翔? 太一?」
話なんて無理って言っているのに、大先生はどうしてこんな質問をしてくるんだ。
それに「どっちの子の気持ちを聞くつもり?」なんて。
そりゃ当然、翔だろう。
翔に、どうして、きみは太一君の様子を伺っているの? って聞くのだ。
ズバリ、それしかないだろう?
……いや、でも。