餡子嫌いの若鮎(五月)
ご注意ください!
主人公が、子どもを手放す離婚についての記述があります。
辛い思いをされたり、不快な気持ちになる方もいらっしゃると思います。
ご心配な方は、お読みにならないことを、お勧めします。
今回の菓子はタイトルどおりの「若鮎」です。
田中 那美(学 実母)視点の物語です。
青々とした葉を揺らし、薫風が吹く。
一年の中でも若く勢いのあるこの季節を迎えるたびに、田中 那美さんの心は、ざわざわとした。
心の中は、果てしない罪の意識と、果てしない感謝の気持ちが混ざったマーブル色。
――「ありがとう」
その言葉を思い出すだけで、那美さんは泣きたくなる。
そして思う。
あの鈴木家の父子は、性格は全く似ていないのに、言うことは似ていてずるい。
悔しいほど男前過ぎて、ずるい。
那美さんが、一度目の結婚相手である鈴木 元君と出会ったのは、桜咲く三月。パリ発東京行きの飛行機の中だった。
「そこのチョコレート、うまいよな」
隣の席から、少し低めのやけにいい声がした。若い男の子である。
「うまいって、これのこと?」
那美さんがチョコレートのパッケージを見せると、彼は肩をすくめた。
隣の席の彼は、明らかに二十五歳の那美さんよりも若かった。女性の敵と思うほどに、お肌がつるっつるなのが癪に障る。着ている服は高くはないだろうが、清潔感がある。大学生だろうか。
「このチョコレート、さっき空港で買ったの」
お隣さんは頷くだけで話にのってこない。
「あなた、チョコレートが好きなの?」
なおも無言である。
「あなたね、話しかけてきたの、そっちだよね。だったら、会話を展開していきなさいよ。ぼくもチョコレート好きなんです、とか、他にもお勧めの店ありますよ、とか。ここのチョコレートを知っているってことは、あなた、それなりに詳しいんでしょう?」
「元気そうだな」
「なによそれ」
「さっき、飛行機に乗ってきたとき。あなた、死にそうな顔をしていたから」
彼のその洞察力に、那美さんは何も言えなくなった。
パリに赴任した恋人に、サプライズで会い行ったら女がいました。
言葉にしてしまえば、たったそれだけのこと。けれど、その破壊力たるや、半端ない。
恋人は五歳年上の会社の先輩だ。お付き合いして二年。そのうちの一年ほどは、東京とパリとに別れ、遠距離恋愛である。
寂しくないの? と、会社の同僚や先輩、そして友人に聞かれるたびに、しおらしい表情を浮かべてみるけれど、実は那美さん、そのシチュエーションを楽しんでいた。恋人に会いにパリへ行くなんて、まるで、映画やドラマのようだと思ったからだ。
できたら月に一度は会いに行きたい。けれど、就職をきっかけに実家を出て一人暮らしを始めた那美さんだったので、さすがにそこまでの渡航費を捻出するのは難しかった。それでも安い航空券を探して、那美さんは恋人に会いに行っていた。
「仕事ができる女性が好きだ」
恋人は、那美さんの仕事も応援してくれていた。
恋も仕事も絶好調だったはずなのに、ここ三か月、どうも調子がおかしい。那美さんが関わる仕事で小さなトラブルが続いただけでなく、恋人も仕事が忙しいのか、毎日届いていたメールが二か月ほど前から途切れがちになっていた。
ようやく仕事が一段落した那美さんは、迷わずパリへ向かった。今回は、前から一度やってみたかったサプライズ訪問というやつだ。部屋の鍵は、彼から渡されていた。
その鍵で、那美さんは恋人が暮らすアパートメントへと入った。恋人はとても元気そうだった。元気に、那美さんの知らない女性と、いちゃついていた。
お決まりの修羅場のあと、那美さんは空港へ戻り、一番早く日本へ戻れるチケットをとった。
出発までの時間、空港のロビーで、那美さんの感情は山あり谷ありとなった。
初めは、怒るなんて言葉じゃ足りないほどの怒りと憤りと悔しさで、肩までのストレートヘアが逆立っているんじゃないかと思うほど、頭に血が上った。
しかし、怒りは徐々に色を変え、挫折感へと落ちて行った。
みじめだった。自分が女として落第したような気持ちになった。
女性は、ふりふりのエプロンを身に着けていた。那美さんは、モノトーンを好む恋人に合わせて、服装だってシンプルだった。詐欺だ。
挫折感は次第に悲しみへと変わった。そして、悲しみは自信喪失へ向かった。搭乗時間が近づくにつれ、那美さんの心は、パリの厚い雲よりもどんよりとしていった。
このままじゃダメだ。甘いものでも食べて元気を出さなくちゃ。
那美さんは、残り時間のぎりぎりで、会社のスイーツ好きの先輩から教えてもらったチョコレート店を見つけて入ったのだった。
那美さんは、改めて隣の席の彼を見た。
「あなた、恋人はいる?」
「いないよ。あなたは?」
「別れてきたところ。会社の先輩だったの。パリに駐在になって一年。フランスに遊びに来た大学時代の同級生と再会して、できちゃったわけ」
那美さんの話に、お隣さんが肩をすくめる。
「彼、わたしが相手だと安らげないんですって。そばにいて愚痴を聞いてくれる女性が欲しかったんですって。だったら、わたしとの関係を終わらせてから、彼女と付き合えばいいのよ。あんな態度、わたしだけじゃなくて、彼女にも不誠実だわ」
「男前だな」
「わたし、何も知らないで東京からパリまで行っちゃった。バカみたいでしょう」
「バカは、男だろ」
「そう思う?」
お隣さんは答えない。
「ねぇ、やっぱり、彼女には癒しを求める? いかにも女の子って感じの、ふりふりエプロンが似合う女性が好き?」
「どうかな」
「そっか。まだ、学生さんだもんね。仕事の悩みなんてないから、癒しが欲しい感覚、分からないか」
「学生じゃないよ」
「そうなの? あなた、いくつ?」
「人に聞く前に自分から言えば」
この生意気なクソガキめ。
心とは裏腹に、那美さんはとびきりの笑顔を見せる。
「わたしは、二十五歳よ」
「俺は、二十一歳」
そう答える彼は、意外にも少し悔しそうだった。
彼は、鈴木 元君といった。
しかも、この元君、フランスで菓子の勉強をした帰りだと言うではないか。
「日本に帰ったら、ケーキ屋さんで働くの?」
元君がまた肩をすくめる。これは、彼の癖なのか? なんだかなぁと思うけれど、背伸びをしたいお年頃なのかもしれない。二十一歳といえば、新卒入社の社員よりも若く、別れた恋人より十歳近く年下になる。
十歳! 那美さんは一気に老けた気持ちになった。
元君は若い。見ているこっちがくすぐったい気持ちになるほど若い。若さとは、とてつもないエネルギーと可能性を持っている。何かに向かい進んでいく、登っていく。
隣に座り息をしているだけでも、彼からはプラスの勢いしか感じられない。若さって、すごい。那美さんとて、会社では若手の部類に入るけれど、いやはや、降参です。
那美さんは、元君と話しをすればするほど、彼に好感を抱いた。元君の地に足の着いた物言いに感心した。
「君って、育ちがいいのね」
元君は、話す言葉や抑揚に落ちつきと品があった。そして、やっぱり声がいい。少し低めで、艶がある。今でも、なかなか素敵な男の子だけれど、年を重ねたほうが、男っぷりがあがるだろうと想像できた。
那美さんは社会人になってから、男も女も四十歳を過ぎるあたりから魅力が増すタイプがいると知った。知らなかった世界である。
ふいに、元君が日本人とこんなに長く話すのは久しぶりだと言い出した。修業先でも、日本人は彼だけだったそうだ。
「外国の人たちの中で、孤独は感じなかった?」
「ないと言えば噓になるけれど。それが海外に出た目的でもあったから。自分がマイノリティとなる場所に身を置き、過ごしてみたかったんだ。フランスを選んだのはたまたまだったけど、日本にいたら、それは叶わないから」
そう話す元君に悲壮感はなく、瞳も澄んで清らかだ。しかし、そうはいえども、決して甘い時間ではなかったはずだ。それが辛くてふりふりエプロンを選んだ男だっているのだから。けれど、元君はそれさえも、糧にしたということか。
元君は、いい子だ。考え方が健やかで強く、ぶれがない。那美さんは彼と話すうちに、気持ちが段々とフラットになっていくのを感じた。
「あなたと話していたら、ぐちぐち悩むのがバカバカしくなったわ」
「別に、俺と話さなくても、あなたは自分でちゃんと立ち直ったと思うよ」
「それはそうかもしれないけれど。ここまでのすがすがしさはなかったかもしれない。それにね、誰かとかかわって元気になるって、気持ちのいいものなのよ」
「……よくわからないな」
「だって、そこに、素敵な出会いがあったってことだもの」
そうなのだ。那美さんは元君と出会えて、とても嬉しいと思っている。しかし、元君はピンとこないのか首をかしげた。
「あなたみたいに、努力を惜しますに、実直に生きている人がいるって。そんな人がいるって知るだけで、とても励まされるの。わたしも頑張ろうって、元気をもらえるの」
「……それはよかった」
照れているのか、元君は言葉少なだ。
「あなたのご両親、きっと素敵な方々なんでしょうね」
「素敵かどうかは分からないけれど、父も母も、息子が見ていて恥ずかしくなるほど、夫婦仲がいい」
渋い顔でそう話す元君に、那美さんは笑ってしまった。
パリから東京までの約十二時間、那美さんは、心地よいフライト時間を送ることができた。恋人のアパートメントを飛び出した時には、予想さえしなかった。那美さんは、思いがけず良き旅の友を得たのだ。
一期一会という言葉が浮かぶ。
人生って、なにが起こるかわからない。
将来、今日のこの日を思い返すとき、那美さんの頭に浮かぶのは二年間付き合った恋人ではなく、十二時間一緒に空の旅をした元君の顔かもしれない。それが嬉しい。
飛行機が着陸した。那美さんはふと思い、財布に入れてあった会社の名刺を元君に渡した。
「もし、近くまで来ることがあったら連絡して。お昼でも奢るわ」
「この会社のそばに、和菓子屋があるだろう」
「あるある。すっごい立派なお店が。わたしの会社って、海外の企業との取引が多いの。接待の一環としてその店で開かれる和菓子教室に、外国のお客様やそのご家族を案内するのよ。わたし、そういった接待全般を引き受ける窓口で働いているの」
那美さんの説明を、元君は興味深そうに聞いていた。それなのに、元君は自分の連絡先を、那美さんに渡してこなかった。
少し残念な気がしたけれど、二十一歳の男の子にしてみれば、二十五歳なんておばさんなのだろう。きっと元君は連絡してこない。もう、これきりなのだ。那美さんは、少しセンチな気分になった。
その6日後。
那美さんは、元君と再会した。
場所は、那美さんの会社のそばの有名和菓子屋だ。
元君は、和菓子を買いに来ていたわけではない。そこで働いていたのだ。
お客様をタクシーに乗せた後、那美さんは急いで和菓子屋に戻った。そして、和菓子教室のアシスタントとして後片付けをしていた元君に近づく。
「ちょっと、あなたね。ここで会うって分かっていたのね」
機内でのやりとりを思い出す。那美さんの名刺を見て、彼はこの和菓子屋が那美さんの会社のそばにあると言っていたのだ。こんな有名店、昨日今日で働けるはずがない。彼の口ぶりから考えると、帰国前からこの店での仕事は決まっていたのだ。
元君は仕事の手を止めると、まっすぐなまなざしを那美さんに向けた。その視線の強さに、那美さんは胃がキュッと縮まる。
元君は背が高く、細身だけれど体つきはしっかりとしていた。そしてなにより、立ち姿がりりしい。機内で座っているときには気が付かなかった。
やばいと思った那美さんに追い打ちをかけるように、元君が不敵な笑みを浮かべた。
その瞬間、那美さんの世界はぐるりと変わった。
目の前にいるのは、飛行機の隣の席にいた、年下で少し生意気だけど、素直で育ちのいい子なんかじゃなかった。
やられた、と思った。
けれど、やられたくなんかない那美さんは「覚えておきなさいよ」なんて捨て台詞を残して、その場を立ち去ったのだった。
その後も海外からのお客様は絶えることなく、好評の和菓子教室での接待は続いた。結果、元君と顔を合わせる機会も増えた。
それにしても、なぜフランスで洋菓子の修業をしてきた元君が、和菓子屋で働いているのだろう? 逆に言えば、なぜ、和菓子屋で働くのに、フランスに行ったのか?
そんな謎さえ解くこともできないまま、那美さんはただ彼を見つめるだけだった。
元君は、所作がきれいだ。材料や道具も大事に扱い、お客様にも丁寧に根気よく付き合っている。彼は、言葉もそれなりに話せるので、海外からのお客様とのコミュニケーションがスムーズだ。元君の評判は、会を重ねるごとに上がった。アシスタントに入る職人さんは何名かいたのだけれど、那美さんの会社は元君を指名してお願いするようになった。
「あなたは、やらないんだな」
すれ違いざまに、元君から声をかけられた。久しぶりに間近で聞いた彼の声に、那美さんは鳥肌が立った。
「わたしは仕事で来ているんだもの。できないわよ」
「一度やってみればいい。仕事が休みの日にでも、作りにくれば?」
「餡が好きじゃないから、和菓子は苦手なの」
かろうじて裏返らなかった声にほっとする。
嫌いなのは、餡だけではなかった。
苦労して入った会社だというのに、最近、嫌気がさしたというか、仕事がしにくくなっていたのだ。
恋人と那美さんの破局は、いつのまにか職場に広まっていた。那美さんは黙っていたので、彼からのリークなのだろう。時折向けられる視線の痛さから、同情というよりは、非難されているのだと感じた。
「ふつうは、仕事を辞めて彼についていくよね」
そんな声も聞こえた。
「フランス帰りの奴、調子に乗りすぎているよな」
和菓子教室の最中、参加者の子どもをトイレに連れて行った那美さんの耳に、そんな言葉が飛び込んできた。視線を声のほうに向けると、以前、何度か顔を合わせたアシスタントの男性職人の姿があった。
異質は排除される。
排除しようとする側は、常識や正義という名のもとに、そこから外れると判断した人々を言葉や行為で正しい道に導こうとしているのかもしれない。
恋人を支えるために会社を辞めてパリに行かない那美さんも、和菓子職人として働いているのにフランスで洋菓子修業をしてきた元君も、その人たちからすれば、正しくない存在なのだろう。
もやっとした気持ちで和菓子教室に戻った那美さんの目に、黙々と自分の仕事をしている元君の姿が映った。元君はアメリカ人夫妻へのフォローをしていた。今日の菓子は、花菖蒲だ。いかにも五月らしい。
菓子は、すでに仕上げの段階にきていた。夫人が薄紫の練りきりに三角のへらで、はなびらを模すように線を入れている。うまくできたのだろう。夫人の顔に笑みが浮かぶ。元君はそれを静かに見ていた。
これが答えだ。
那美さんの頭に、そんな言葉が浮かぶ。
先輩職人がなんて言おうと、元君がこの店に来るまえにどんな経歴があろうとも、今、彼は自分の仕事に真摯に取り組んでいる。
その事実を、フランス帰りだとかなんだといった言葉で汚されるいわれはないのだ。
改めて思う。先輩職人や、会社の同僚や先輩のからの言葉は、元君や那美さんの仕事のできなさを諫めるものではない。
だったら、くさることなく、仕事に励むしかない。
その日、お客様を見送った那美さんのもとに、元君がやって来た。そして、毎回参加者に渡されるお土産の菓子の入った小さな袋を、那美さんにも渡してきたのだ。
「わたしがもらうのは、まずいよ」
「なら、上司に報告すればいい。でも、担当者が、うちの菓子を食べていないほうがまずいと思うよ」
痛いところをつかれた。
「だったら、お金を払うわ」
「まじめだな」
「自分なりにルールを決めて線引きをしないと、堂々と立っていられないのよ。あなただって、そうでしょう?」
那美さんは、元君に同意を求める。元君はしばしの沈黙の後、目を細め「そうだな」と言った。
会社に戻ると、那美さんは、ランチをとるため社員食堂へ行った。
元君から渡された袋を開ける。そこには、細長い魚の形をしたパンケーキのようなものが二つ入っていた。
透明な包みには「若鮎」と印字されている。
鮎。……鮎? 鮎ってあの川魚だよね。魚の和菓子か。しかし、和菓子といえば餡だ。餡子は嫌いなのに、彼はこれをわたしにどうしろというのだ。
「あれ、若鮎だ」
同じ課の両角 良子先輩が、那美さんの隣に座った。二歳上の彼女こそ、スイーツ好きで那美さんにおいしいチョコレートを教えてくれた人である。良子さんは、あっさりとした性格で、那美さんと恋人についても、コメントはしてこなかった 。
「よかったら、どうぞ」
那美さんは、二つあった若鮎の一つを良子さんに渡した。
「わぁ、いいの。さっそく、食べちゃおう」
「食事の前に餡子って、胃がもたれませんか?」
「若鮎にはね、餡子は入ってないのよ」
良子の言葉に耳を疑う。
「餡子がない和菓子なんてあるんですか?」
「やだ。そりゃ、あるわよ。これはね、中に求肥が入っているの」
「え? 牛脂?」
「牛脂って。すきやきじゃないんだから」
良子さんはひとしきり笑うと、求肥は餅みたいなものだと説明をしてくれた。
パンケーキの中に餅。
余計に不可解な気持ちになる。けれど、餡が入っていないなら食べてみよう。那美さんは若鮎を手に取り、頭からぱくりと食べた。口の中になんともいえぬ優しい甘さが広がった。
材料はなにかと、パッケージの裏に目を通す。……味醂? 味醂って、あの料理のみりん? 和菓子って、不思議だ。
求肥とパンケーキの食感の違いも面白かった。
「これ、おいしいです」
思わず漏れた那美さんの言葉に、良子さんが笑う。
「そりゃ、おいしいでしょ。あそこの菓子は、外れなし。超一流だもん」
もちろん、それはそうなのだろうけど、那美さんの気持ちとは少しずれていた。那美さんが言いたかったのは、店の格式云々ではないのだ。餡が嫌いな那美さんにとって、この若鮎が驚きの和菓子だということなのだ。
「若鮎」という響きと、二十一才の生意気和菓子職人の姿が重なる。
彼は、どうして、わたしにこの菓子を渡してきたのだろう。
わたしが餡子を嫌いだって言ったから?
だから、餡子がない菓子を渡してきたの?
気がつけば、年下の和菓子職人について考えている自分がいることを、那美さんは自覚しだした。
那美さんは、鈴木 元君に恋をしてしまった。
やっぱり、どうしても、そうなってしまうのだ。
けれど、これは叶わない恋だ。自分は彼の恋愛対象にもならないだろうと分かっているからだ。
元君は、那美さんがパリにいる恋人に会いに行き、振られたことを知っている。そんなややこしい、面倒な年上の女はごめんだろう。
それに、彼に少しでもその気があれば、連絡くらいしてきたはずなのだ。機内で会ってから二か月近く過ぎたけれど、元君はノーリアクションだ。つまり、そういうことなのだ。
二十一歳の元君が恋をするのにふさわしい、素直でかわいい女の子はいくらでもいるのだ。
秋の人事異動により、那美さんは今の部署から外れることになった。
それについての異存はなかったものの、今までのように和菓子教室に行くことがなくなると思うと――元君に会えなくなると思うと、心がすかすかとした。
和菓子教室が終わったあと、店側のスタッフに今までの礼を伝えた。
「後任はわたしの先輩である両角が務めます。どうぞよろしくお願いします」
良子さんが後任だ。適任である。
帰り際、これが最後だと思い、那美さんは元君に近づいた。
「つまり、そういうことだから」
さよなら、とか、これからも頑張ってね、とか。別れを意味する言葉は言えなかった。自分でも、大人げないと自覚はある。
恋人には、きっちりと別れを告げられたのに、元君に対してはこんなにぐずぐすとしてしまうなんて。この恋は引きずりそうだ。那美さんは、見納めとばかりに元君を見上げた。
「じゃ、結婚するか」
那美さんを見下ろし、元君はそう言った。そして、今夜待ち合わせをすることを那美さんに承諾させていた。
会社に戻りながら、那美さんは年下の和菓子職人からの言葉を反芻していた。
じゃ、結婚するか。
じゃ、結婚するか。
信号で止まった那美さんは、その場にしゃがみ込んだ。
そして、就業時間中にもかかわらず、自分がプロポーズされたことを理解したのだった。
進む時は進むもので、とんとんとんと話は運び、なんと那美さんは元君と飛行機で出会って半年ちょいで、自分も鈴木さんになっていたのだった。
結婚する段階になって知ったのだが、元君の実家は地元で和菓子屋を営んでいた。
那美さんは、元君の両親に会いに行った時、彼が海外に行った理由が期せずしてわかった。
――「自分がマイノリティとなる場所に身を置き、過ごしてみたかったんだ」
この人は、こんなにもひたむきに人を想い、愛するのだ。それを知り、那美さんの心は震えた。
結婚式は、元君の収入を考えシンプルに行われた。唯一こだわったことといえば、ウエディングドレスだ。那美さんは、以前から目を付けていたドレスを自分で購入した。
結婚しても、那美さんは仕事を続け、元君も同じ和菓子屋で働いた。住居は、那美さんのマンションをそのまま使った。狭いが、まぁ、仕方がない。
結婚して二年目に、那美さんのお腹に命が宿った。その頃も仕事は忙しく、生理も不順だったため、妊娠に気付くのが遅れた。
子を授かった喜びの反面、那美さんの心の中に漠然とした不安も生まれた。仕事のことだ。
会社での産休は、どうなっているのだろう。
出産後は、仕事に戻れるのだろうか。
そんな那美さんの不安に答えてくれるような、モデルとなる先輩が周りにいなかった。
もしかして、仕事を辞めなくてはいけないのか。
専業主婦になるのか。
自分はそれができるのか。
日に日に大きくなるお腹を愛しいと思う気持ちとは別のところで、仕事に対する焦りが生まれてきた。
けれど、そのことは、元君には言えなかった。元君には、泣きごとを言いたくなかったのだ。
那美さんは、自分も元君も前に向ってともに上昇していきたいという思いが強かったのだ。自分が年上だというのも、あったと思う。元君に心配をかけたくなかった。彼には、彼が目指す高みまで、なんの心配もなく駆け上がってほしかった。
生まれたのは男の子だった。
七夕生まれの、元気な子だった。
息子の名前を付けたのは、那美さんだ。
学という名前は、一生学び続けていく元さんの姿に、そして自分もそうでありたい願いを込めて付けたのだ。
学君は可愛かった。
こんなにも愛しい存在がこの世にいるというのは、奇跡のようだとさえ思った。
那美さんは、学君のことが大切だった。ミルクを飲む量が少ないと心配し、泣き出すと、どうしたものかとハラハラした。熱を出せば、自分が代わりに病気になりたいとさえ思った。それなのに、那美さんの頭のすみには、いつも仕事があった。
出産後に会社に戻れるか、戻れないかと那美さんは気をもんでいた。大学のゼミの女性の先輩のなかには、結婚しただけで望まない部署へ配属された人もいたからだ。
しかし、予想外に会社は、那美さんが戻ってくるのを前提として話を進めてくれていた。
真摯に仕事に取り組む那美さんは、いつのまにか周りから深い信頼を寄せられるようになっていたのだ。
那美さんは、仕事がしたかった。
一刻も早く、職場に戻りたかった。
その思いは日々募り、遂には夢の中でも那美さんは仕事をしていた。
そして、段々と、優先順位がわからなくなってしまった。
自分にとって一番大切なものは何なのか。
それが何だか分からなくなったのだ。
いつしか、家族三人での生活が壊れてしまった。
那美さんは「この頑固娘が!」と、実家から勘当をくらう結論を出してしまった。
桜が散り、木々に若葉が茂りだす。
「那美」
元君が那美さんの名前を呼んだ。
元君は学君を抱いていた。
元君の腕の中で、学君はすやすやと眠っていた。
思わず那美さんの手が学君の白くやわらかな手に伸びた。
ぷくぷくとした、幸せな手だ。
今日まで那美さんの宝物だったその手は、今からはもう遠くへ行ってしまう。
そう考えただけで、那美さんの体中から汗が吹き出た。
今ならまだ間に合う。
――でも。
今は欲しいその手を、五分後にはいらないと思ってしまうかもしれない。
それは、恐ろしいことだと思った。
どうして自分はこうなんだろう。
どうして、こんな答えしか出せなかったのだろう。
わたしは、わがままで、自分勝手で、残酷だ。
そんな那美さんの耳に「ありがとう」と、元君の声がした。
那美さんは、自分の耳を疑った。
元君は今「ありがとう」と自分に言ったのだろうか。
那美さんは元君を凝視した。
「那美。学を生んでくれて、育ててくれてありがとう」
けれど、やはり元君はそう言った。
「何を言ってるの。ありがとう、なんて」
那美さんは、涙声にならないように踏ん張った。
泣くなんて、そんな卑怯な真似は許されないと思った。
これから大変なのは自分ではなく、この人、そしてこの子なのだ。
これからこの人は、母親がいない子を育てなくてはいけない。
そしてこの子は、母親のいない人生をおくらなくてはいけない。
自分は、そこから退場するわけだから。
自分から、そう決めたわけだから。
「学は、ハンサムだから」
那美さんは言った。
「産むとき、すっごく気を付けて産んだから。だから絶対にハンサムよ、学は」
今自分が持つ明るさの全てを出した声で、那美さんはそう言った。
すると元君は、笑った。
「そりゃありがたい。学、看板息子になるな」
元君は、実家の和菓子屋に戻ることになっていた。
「那美。元気で」
元君の言葉が、頭の中でぐるぐると回った。
那美さんは何も言えずに、ただ頭を下げた。
元君に向けての言葉なんて、自分には何もないと知っていたから。
だから、頭を下げたのだ。
ごめんなさいの意味と、ありがとうの意味を込めて。
那美さんは、元君と学君と別れた後、がむしゃらに働いた。
それまで、仕事をする夢ばかり見ていた那美さんは、一人になると学君の夢ばかり見ていた。
泣きながら起きることも多かった。
二人のもとに戻ってしまおうかと思ったのも、一度や二度じゃない。
けれど、那美さんはそうしなかった。
ともかく、前を向いて仕事をし続けた。
那美さんは、元君と学君のことを「後悔」という言葉で表したくはなかった。
自分が使うには、それはあまりにも一方的で、傲慢な言葉だと思ったからだ。
そうするうちに、いつしか彼らの存在は、那美さんの中で「良心」として存在するようになった。
離れてしまった人たちに、どこで会っても胸を張れるような自分でいたかった。
つまりそれしか、那美さんが二人に対してできることはないと思ったからだ。
四十歳目前に、那美さんは異動したアパレル関連の部門で、田中 典明さんと出会った。そして、彼とともに長年勤めた会社を退職し、二人で会社を興した。
学君が果たしてハンサムな青年になったことを、幸運にも那美さんは知ることができた。
文明さんと再婚して、二人目の子がお腹に宿ったとき、なんと学君が那美さんの家にやって来たのだ。
段取りをしてくれたのは、元君の再婚相手である鈴木 苑さんだ。彼女から、学君が那美さんに会いたがっていると聞き連絡をもらったのだ。思いもしないその事態に、那美さんは人生で一番というくらいの緊張をした。
どんな顔で会えばいいのかと、夫にもピーピーと泣きついてしまったほどだ。
そんな学君との仲をとりもってくれたのが、再婚して生まれた上の息子だった。
再会の場で、学君は那美さんではなく、上の子を穴が開くんじゃないかってくらいじっと見ていた。
上の息子も同じように学君を見た後、学君の静電気になるのを決めたかのように、彼にまとわりついていた。
一度で終わるかと思った学君のとの緊張の訪問は、意外にも次回があった。
しかも、その日たまたま家にいた夫と学君は、仲良くなってしまったのだ。
そして、夫と仲良くなった学君は、最近夫の出張が多く家を空けがちなのを聞きつけると、頻繁にやって来るようになり、買い物やら家事まで手伝ってくれるようになったのだ。
今まで全く世話をしてこなかった息子にそこまでやらせていいのか、不安になった那美さんは散々考えた挙句、苑さんに相談をしたところ「学は頑固者なので、本人がやると決めたらそれを周りが止めさせることは出来ないんですよ」との返事が返ってきたのだ。
頑固者。
どこかで聞いた台詞である。
そして、あぁ、学君は自分の息子なんだと、初めてすとんとその事実が心に落ちて行った。
もう、緊張感はなくなっていた。
「ありがとう」
それは産まれたばかりの下の息子を見て、学君が言った言葉だ。
那美さんは、デジャヴかと思った。
「ありがとう、お母さん。弟を二人も産んでくれて」
まるでいつかの誰かさんと同じ言葉に、今度は那美さん、人目も憚らずに思いっきり泣いてしまった。
その学君は、彼の頑固さを通し、今は京都で和菓子の修業中だ。
「おかあさん、おかあさん。わかあゆ、かうでしょ」
那美さんの服を引っ張りながら、学君と同じ血が流れる息子がしきりに後ろを見ていた。
息子の言葉に、那美さんは足を止めた。
周りの景色を見る。
後ろで和菓子屋ののぼりが揺れていた。
「ごめんね。考え事をしていたら、通り過ぎちゃったね」
「ぼく、さっきからおかあさんのこと、よんでいたのに」
そう言うと息子は「もどろう!」と元気よく那美さんに言った。
那美さんは、今来た道を振り返った。
街路樹の緑に隠れるように、老夫婦が営むお目当ての近所の和菓子屋があった。
息子を見る。
やっぱり、似ているな。
那美さんは、幼い息子の顔に学君の面影を見た。
那美さんは、ゆっくりとベビーカーを方向転換した。
そして、二人の息子とともに、和菓子屋へと向かう。
薫風に吹かれながら、那美さんは改めて思う。
失敗ばかりで、ちっとも完璧じゃなくて、立派でもなく、いい人でもない自分だけど。
これからも、自分の大切な人たちに恥ずかしくない生き方をしたい。
――「ありがとう」
その言葉が、決して簡単に口にできるようなものじゃないってことが、わかっているから。
「わかあゆは、おかあさんがだいすきなおかしだよね」
その大きな声にほほ笑みながら、那美さんは息子たちとともに店の暖簾をくぐる。
五月の風が、誇らしげに店に入る幼い息子の前髪を優しく揺らしていた。