前に進む、鈴木学君の三月(三月)
番外編その1
和菓子さまこと、鈴木学君の物語です。
快晴の三月の朝、鈴木 学君は、京都へと向かう新幹線に乗り込んだ。
同じ高校に通っていた同級生のほとんどが進学するなか、学君は、京都の和菓子屋での修業を決めた。最低でも三年間、実際にはさらに伸びるだろうといった予感はある。
新幹線が横浜を過ぎたあたりで、学君はリュックを開けた。そして、家を出るときに父親に持たされた包みを出した。見慣れた鈴柄の「寿々喜」の包装紙を開けると、白い上用饅頭が出てきた。そして、その饅頭の上には、小さなトンボの焼き印が押されていた。
菓子の意味を思いながら、学君は自分の心に問いかける。
――いったいなにが、自分をここまで動かしているのだろう。
ホームドラマでいうところの朝の匂いといえば、母親の作る味噌汁や、パンを焼く匂いだろうか。
ところが、学君が育った鈴木家は違った。小豆を炊いたり、もち米を蒸したり。そのうっすらと甘い香りが、鈴木家の朝の匂いだったのだ。
学君の家は、曽祖父の代から和菓子屋「寿々喜」を営んでいる。店は駅からやや離れた住宅街にあり、お客様はもっぱらご近所のみなさまだ。
お隣のおばあちゃんから、地元の企業まで。私立の幼稚園から高等学校。町内会に老人ホームに趣味のサークル。地元のみなさまのネットワークのお陰で、「寿々喜」は成り立っている。
「寿々喜」は、資金力に長けたわけでもなく、歴史があるわけでもない。個人が起こした小さな店だ。その店が、こうして何十年にも渡り家業を続けられるのは、ご近所のみなさまに支持される味や技術に加え、「寿々喜」の店名にもあるのではないかと言われる。
「寿々喜」の店の名に、祝い事や長寿といった意味の漢字が使われているからだ。結果、ご近所のみなさまに、慶事の菓子なら「寿々喜」だといったイメージが刷り込まれたとか。
初代の曽祖父が、そこまで見越してこの名付けをしたのかは不明だが、自分が付けた名で得をしていると知れば、喜んでいるに違いない。
そんな「寿々喜」で育った学君。彼は、父親が働く姿を見るのが好きだった。小豆や砂糖、うるち米やもち米から作られる様々な粉を使い、父親が菓子を作り出す様子は、手品にも思えたし、もっと言えば、魔法のようだとも思った。
父親のように菓子を作りたい。
いつしか芽生えたその思いは、年月を経るごとに漠然としたものから、ゆるぎない決心へと変わっていった。
高校三年生の十一月、学君は保護者のサインをもらうために、進路希望用紙を父親に渡した。遅い夕飯を食べていた父親は、進路先として書かれた京都の和菓子屋の名を見て目を細めた。
「やっぱり、おまえも、こっち側に来ちまうんだな」
「いまさらだね」
「朝は早いし、休みはないし、やることは多いのに儲けは少ない」
「だけど、やりがいはある」
「そうなんだよな。そこなんだよ。ほんと、困ったもんだよ」
そう言いつつも、父親の顔はちっとも困っているようには見えない。
「あのな、京都に行ったからって答えが見つかるなんて思うな。この仕事、一生、答えは見つからないからな」
学君は、はっとした。父親が、今でも材料の一つ一つの産地や作り手を試行しているのを知っていたからだ。
「一生、片想いみたいなもんだ。繋がったと思ったら、また離れて行く。物を作るってことは、その孤独な作業を延々と続けていくってことなんだろうな」
父親らしい言葉だと学君は思った。
「片想いねぇ。だから、元君は、モテないんだねぇ」
風呂上がりの祖父が、湯気をまとい学君と元さんの間に座る。祖父の豊かな銀色の髪からは、学君とも元さんとも違うシャンプーの香りがした。おそらく、祖父のファンからの貢物だろう。
「俺がモテようが、モテまいが、菓子作りに関係ないだろう」
「菓子に色気は必要でしょう」
祖父は、やれやれといった顔をすると、孫である学君をじっと見た。
「答えはね、見つけるものじゃないよ。ある日ね、ふっと隣にやってくる女神さまみたいなものなんだからね」
祖父の「女神さま」発言に、父親は咳き込んだ。
「でも、女神さまにそばに来てもらうためには、きちんとしたアプローチも大切だよ」
薄茶色の瞳で祖父は学君にウインクをしてきた。ストイックな父親と、自由人の祖父の言葉。真逆ながらも、それぞれが本人たちにとり真実なのだろう。
「大丈夫。学君には、学君だけのピッカピッカの道があるんだから。こんな、修行僧みたいな、枯れたおっさんの言うこと、まともに聞いちゃだめ」
「俺がおっさんなら、お父さんは、じじいだな」
「じじい! なんて口の悪い。そんな息子に育てた覚えはないですよ」
祖父と父は、顔を合わせると喧嘩になる。
海岸線が見えてきた。トンネルが多くなる。
自分が住んでいた街から、どんどん離れていく。
おまえは一人で、今までとは違う場所に向かっていくのだ。
景色が、そう教えてくれる。
「手紙、出したいので」
卒業式のあと、学君は校舎に戻る柏木 慶子さんを追いかけた。福地 裕也君たちに冷やかされたけれど、関係ない。
階段を上り三年B組の入り口に立つと、柏木さんはこちらに背を向け、黒板の端を見ているようだった。学君は、そんな彼女の後ろ姿をしばらく見つめた。
柏木さんは、どこもかしこも柔らかそうだ。特に髪は、触ったことはないけれど、きっと柔らかい。長さは、中学生の頃から肩につくかつかないか位で、話すたび、笑うたびにかすかに揺れた。
大学に入ったら、伸ばすのだろうか。
剣道部の山路 茜さんが、成人式で着物を着るために髪を伸ばすと言っていた。柏木さんもそうだろうか。伸ばすのだろうか。
なんとなく、伸ばして欲しくない気がする。
「柏木さん」
埒もない考えを追いやり、彼女の名前を呼んだ。柏木さんは驚き、忘れ物かと聞いてきたので、そうだと答えた。ほんと、随分な忘れ物である。
教室は、がらんとしていた。慣れ親しんだ部屋だったはずなのに、居心地が悪い。卒業するとは、こういうことなのか。
柏木さんが京都の住所を教えて欲しいと言ってきた。手紙をくれるのだそうだ。
メールじゃないところが、さすがというか、柏木さんらしいと思った。住所を空で言えるようになっていてよかった。
手紙は嬉しい。それは、友達としての縁が続くことを意味しているからだ。ただ、反面、そこから先には進めないだろうなと思った。
この一年間、学君は柏木さんのそばにいるのが当たり前のようになっていた。クラスでも剣道部でも、そして店でも。
京都に行かずに、そのまま大学に進んだら。
もしくは、修業先を京都ではなく、東京に決めていたら。
彼女のそばにいる生活は、今まで通り続いたのかもしれない。そして、それだけそばにいたら、友達なんかでいられないってことは明らかだ。
そんな、もしもの未来を、思い描かなかったかと言えば嘘になる。
けれど、学君は京都行きを決めた。祖父や父から紹介された、いくつかの店を訪ね、話を聞き、自分で決めた。
京都の修業先への挨拶から帰ってきた二月のこと。不用品をまとめていた学君の部屋に、ふらりと祖父が入って来た。
「おつかれさん」
祖父は学君に茶を勧め、一休みするよう促した。
「聞いてよ、学君。この間ぼくね、とても綺麗なもの見ちゃった」
恐らく、家族の中で綺麗なものや美しいものに一番敏感なのは祖父なので、学君はなんだろうと興味を持ち耳を傾けた。
「あのね、近所に白いしだれ梅あるでしょ。あの可愛い花が咲く。そこにね、二羽の緑色したメジロがチュンチュン跳ねて蜜を吸っているの。空は青くてね、ほんと綺麗だった」
「しだれ梅って、うちの常連さんの家のあの木だね」
「そうそう。毎年ぼく、楽しみにしているからさ。絶対、見るじゃない」
「梅はいいよね。ぼくも好きだ。爽やかな甘い香りがいい」
「そうそう。でね、それをね、大切そうに愛しそうに見上げている女の子がいてね、その姿がね、ほんと絵みたいに綺麗だったのね」
祖父の言葉に、学君のお茶を飲む手が止まった。
「もしかして、柏木さん?」
祖父が、ふふふと笑う。
「学君のおばあちゃんをね、鈴子さん。思い出した。ぼくね、小さいころから鈴子さんと一緒だったからね。ずっと一緒だったからね。ずっと見てたね。今思うと、とても贅沢ね。鈴子さん、もうぼくのそばにはいてくれないけど、でもね、覚えてる。うん、全部覚えてる。その記憶、全部、ぼくのものね」
祖父と祖母は幼なじみだ。
外国の血が流れ、生き辛かった祖父を鈴木家は守り、ついには婿養子として人生全部も引き受けた。
祖父から聞く、曽祖父のエピソードはどれもこれもカッコいい。
「饅頭がどこから来たのが御存じか」
和菓子屋のくせに、外国人なんかを婿にしてという誹謗中傷を受けたとき、今は亡き曾祖父は、文句を言ってきた自称常連客の方々に、静かに問うたらしい。
「では、仏教がどこから来たか御存じか」
相手はなにも言い返せなかったらしい。
「どこで生まれたかとか、どこの血を引くかなんて、関係ないのです。育んでいく心が大事なのです。その志が尊いのです。優れたもの美しいものに、外国とか日本といった垣根はありますか」
今でも、祖父が曾祖父の話をするときは、尊敬と愛情があった。
穏やかで洒落者の祖父と、数々の武勇伝を残すお転婆な祖母は、孫の学君から見ても仲が良かった。元気な祖母が亡くなってから、早いもので、もう九年が過ぎていた。
ロマンチストでもある祖父は、学君に、ことあるごとに柏木さんの話をふってくる。学君が彼女を好きだと断定しているのだ。否定できないところが、なんとも……なんともなのである。
「女の子はね、女の子としての綺麗な時は、ほんの一瞬なのね。もちろん、そこから女性の綺麗さになるんだけど。女の子の、なんていうかな、ある意味潔いというか、何の色にも染まっていないわずかな瞬間ね。あれは、本当に綺麗だね。学君にこそ見てほしかった。ぼくが見ちゃって、もったいないね。多分、あの姿見たら、学君は京都に行けなくなるよ」
「……また、人の足をひっぱるような」
「ひっぱるなんて、人聞きの悪い。そんなことを言う学君って、わからないなぁ」
「行かせたくないわけ、京都に」
「行かせたいか、行かせたくないかって聞かれたら、行かせたくないよ。だって、ぼくが淋しいじゃない。学君いないと。でもね、行った方がいいか、どうかって聞かれたら、行った方がいいねって言うよ。そりゃ、京都はすばらしいもの」
祖父の言葉に学君は唸る。
「ただね、長いこと生きているとね、いろんなことがあるわけ。正しい道ってないんじゃないかなぁって思ったり、いろんな道を通っても、辿りつく場所は同じかもねぇと思ったり」
「そんなこと言われても、困るよ」
「学君、意外と一途だからさ、なんていうか、周りにはこういったいい加減な大人もいて、それなりに成功しているってとこを見せておこうと思ってさ」
そう言うと、祖父はよっこらしょと、立ちあがった。
「心は大事にして。技は習うことができても、君の心は君しか守れないから」
邪魔したねと言うと、祖父は学君と自分の茶碗を重ねて部屋を出て行ったのだった。
――君の心は君しか守れないから。
トンネルに入り暗くなった車窓を鈴木君は眺めていた。
二月の雪の日、山路さんからの電話で、学君は柏木さんを駅まで迎えに行った。柏木さんは、誰かに来てもらえるとは思ってもいなかったような顔で、学君を見ていた。
あの学君の父親でさえ、天候が悪いときや、遅くなったときは母を駅まで迎えに行く。大切な人を迎えに行くのは、別に、特別のことではない。
柏木さんだって、父親が駅まで迎えに来てくれることは、あるだろう――そこで、はたと学君は気が付いた。
いや、ないのだ。
柏木さんには、そんなことをしてくれる人がいないのだ。柏木家で優先されるべき人物は、娘ではなく病み上がりの母親だった。
学君は、たまらない気持ちになった。
早く大人になりたいと、強く思った。
しかし、自分が大人として柏木さんの前に立つためには、しなくてはいけないことや、行かなくてはならない場所がある。そこをやり遂げないと、自分は彼女とは向きあえないだろう。
けれど、それは学君の考え方である。自己満足ととられても仕方がない。
約束できない自分は、柏木さんを繋ぎとめることはできない。彼が京都から帰って来るその時まで、彼女の隣が空いているとは限らないのだ。
「おかえり、って言ってもらえるかな」
学君が言えた精一杯は、その言葉だった。
柏木さんと揃って校舎を出た。彼女は、待っていた山地さんと常磐 冬子さんの三人で、帰っていった。
そして、学君が戻ってくるのを待っていたのは、福地君と和歌山 真司君と北村 颯君だ。にやにや顔の三人に、柏木さんとは何の約束もしなかったことを告げると、絶句された。
「あんだけ威嚇射撃しながら、なんで言わないの。無駄撃ちだ。信じられねぇ、ありえねぇ」
福地君が騒ぎだした。
「まぁ、気持ちはわかるけど。俺なら言う。絶対に言う。とことん言う。情けなくても、泣いてでも、待ってもらう約束をとりつける。で、休みごとには、東京に帰っていちゃつく」
和歌山君に呆れられた。
「面倒なことになるなぁ」
北村君がぼやく。
「四年間限定」
福地君が、右手の四本指を立てた。北村君も頷く。
「四年間は、同じ大学にいる間は、柏木さんをなんとか見守る。でも、それ以降は責任持てない」
そう言うと福地君は「成功報酬は、スターウォーズのフィギュアでいいから」と言って、腕を組んだ。
トンネルを抜けると、再び海と青空が見えた。
――いったいなにが、自分をここまで動かしているのだろう。
あの春の日、迷子のように柏木さんが学君の前に現れなくても、おそらく自分は京都に行ったし、もちろん店も継ぐことになっただろう。
事柄だけ見れば、そこに変化はない。
けれど、柏木さんがいたから、彼女の存在があったからこそ、自分はより高いところを望んでしまうのだ。
彼女の瞳に映る自分が、自分で誇りに思えるようになりたい。
自分が作る菓子で、彼女を笑顔にしたい。
本物になりたい。
学君は、父親が作った饅頭を食べた。
旅立つ息子に父親が贈ってくれたのは、トンボの焼き印のついた、白い上用饅頭だった。
上用饅頭は、素材がシンプルなだけに、誤魔化しがきかない菓子だ。
そして、トンボは、後ろに戻ることなく、前に向かって進んでいく虫だ。
その性質から勝虫と名付けられ、縁起物とされていた。
おい、学。
俺は今、ここにいる。
おまえは、どこまで行けるのか。
ともかく、気が済むまでやってこい。
父のそんな声が聞こえた気がした。
新幹線は、速度を上げて進んだ。
その加速に、気持ちが高揚する。
この線路の先には、学君の未来がある。
長い歴史と技を持つ古都が、自分を待っているのだ。
※
十八歳の春に東京を出た学君が、予想通り三年では済まない修業を終えて東京に戻り、柏木さんの左薬指に指輪をはめるのに成功するのは、まだまだまだまだ、先の未来。