20・ふたたびの、仙寿(中編)/(三月)
卒業式は、粛々と執り行われた。
講堂には三年生と保護者が集い、一、二年生は、各クラスのテレビから卒業式の様子を見ていた。
柏木 慶子さんには、クラスメイトの顔がいつもと少し違って見えた。
そしてきっと、慶子さんの顔もいつもとは違うのだろう。
今日で、この制服を着るのは最後だ。
制服のない生活というのは、自由なのだろうが、その自由さが不安でもあると慶子さんは思った。
式が終わった。集合写真は、二十分後に先生たちに続き、A組から順次行われるとアナウンスされた。平日だったため、父親よりも母親の姿が多く見られる。
三年B組のクラスメイトと校庭に出てきた慶子さんは、保護者が集まる方へ視線を向けた。昨晩唐突に、母親は慶子さんの卒業式に行くと言いだした。このところ、母親は体調も良く活動的で、昼間もあちこち出かけているらしい。
けれど、病気をして以来、一人で慶子さんの学校に来たことはない。学校に来れば、話しかけられることもあるだろう。そうなると、※嗄声のため会話が不自由な母親は嫌な思いをするかもしれない。不安になった慶子さんは、助けを求めるように父親の顔を見た。
「いいね。ぼくの分までしっかり慶子を見て来てね。写真もよろしくね」
慶子さんの心配をよそに、父親は暢気顔でそう言った。
そして今朝、慶子さんは何度も母親に体調を確認した。
「無理しないでね」
にこにこ顔の母親をあとに、学校へと向かった慶子さんだった。けれど、集まる保護者の中に、母親の姿はない。
体調が悪くなったのだろうか。それで、来るのを止めたのだろうか。それとも、途中で、倒れたとか? 早く家に帰りたい。母親の無事を確かめたい。
そんな慶子さんに向かい、手を振ってくる人がいた。着物姿の「寿々喜」の女将さんだった。そして、その隣には母親がいた。母親は、懐かしい卵色した着物を着ていた。
母親は綺麗だった。少し細いけれど、病気をしたとは思えないくらい、生き生きとした表情だった。
慶子さんは二人に駆け寄ると、まずは女将さんに頭を下げ、母親に近づく。
「柏木さんのお母様とわたしね、メル友になったのよ。着物も、今日一緒に着たのよ」
そんな話は初めて聞いた。慶子さんは、驚いた顔のままで、母親を見た。すると母親は、いたずらが成功したような顔をして、着物に似合わない小さなピースサインを慶子さんに送ってきた。
その姿に、慶子さんは、うわっと涙が出た。
涙が止まらない慶子さんの背中を、母親がさする。
慶子、慶子。
まるで、そう呼ぶかのように母親の手は優しく、ゆっくりゆっくり動く。
――お母さんが戻ってきた。
慶子さんはそう思った。
お母さんが戻ってきた、と。
「ほら、学。見ていないでこっちに来なさい」
女将さんの声が聞こえた。
和菓子さまが、慶子さんの母親に頭を下げる。
「柏木さん、クラス写真を撮るって」
慶子さんは頷きながら、ポケットからだしたハンカチで涙をふいた。
そして、母親と女将さんに向い、大丈夫とばかりに笑顔を見せた。
慶子さんの笑顔に、二人の母親の優しい表情が向けられる。
「集合写真、母さんたちも写るんでしょう。だったら、一緒に来て」
「ねぇ、学。あなたの学校のカメラマンって、皺の修正とかしてくれるの?」
慶子さんの母親が吹き出す。
あきれ顔の和菓子さま以外の女性三人は、くすくすと笑いながら歩いた。
四人で写真撮影に向かう中、女将さんが慶子さんに話しかける。
「あのね、まだ決まったわけじゃないんだけど。こんどうちのお店でね――」
思いがけない情報に、慶子さんは息をのんだ。
「あの四人の仲のよさそうなこと。鈴木、最後にすっげー威力の牽制球投げてんな」
「計画的」
「アンタッチャブル」
「……鈴木ぃ!」
和歌山君、北村君、岡山君、福地君の順で、剣道部の男子四人は、慶子さん母娘と鈴木君家二名が繰り広げる小さなドラマを見ながらそう言った。四人の会話はさらに続く。
「あの様子だと母親同士は、すでに友達だな」
「盤石だ」
「京都に行っても、家族ぐるみの付き合いで繋ぎとめる。なるほど、そういったストーリー展開か」
「柏木さんのお母さん、可愛い」
福地君はこの一言で、熟女好きといった名をしばらくいただくこととなる。
男子四人のそばに寄る、美少女常盤さん。
「ねぇ、賭けない? あの二人の未来を」
やんや、やんやと二人の行く末を想像したけれど、結局、みなの意見は同じになったため、賭けは成立しなかったとか。
クラス写真を撮り終えると、待っていましたとばかりに後輩たちが校庭に流れ込んできた。
「山路先輩! 柏木先輩! 常盤先輩!」
一年生たちの声と共に、卒業する三人の目の前には次々と花束が差し出された。
「嬉しい! ありがとう!」
元気良く花束を受け取る山路さん。
「え、わたしにまで?」
常盤さんは珍しくも照れると、小さな声で「ありがとう」とお礼を言った。
チューリップに、フリージア。
優しい春の花々が、ゆらりゆらゆらと揺れている。
「ありがとう」
慶子さんが笑顔でお礼を言うと、一年生たちは途端にしくしくと泣き出してしまった。 山路さんが、彼女たちをなだめはじめる。
「おぉ、よしよし。……辛い?」
すると、一年生たちはこくこくと頷く。
「今まで、先輩方は引退されたといってもまだ学校にいて下さったから、だから安心だったんですけど」
「もう、上に誰もいないと思うと、不安でたまりません」
「新入生が入らなかったら、どうしたらいいんでしょう」
そんなメソメソとする一年生たちの前に、福地君をはじめとする、一年生から三年生までの剣道部男子部員がやってきた。
「おいおい、一年女子。そんな時は男子を頼れ」
福地君の言葉に、男子部員たちが大きく頷いている。
「SOSは恥じゃない。君たちの某先輩はね、平気そうな顔しながら一人で抱えていたけどね、なんでも自分たちでやれば偉いってわけじゃないから。そこら辺はさ、協力してよ」
「まるでわたしが、ダメ先輩の見本みたいなんですけど」
「つーか、いい見本すぎたんでしょ。俺をみなさい、この隙だらけの人格を」
そんな福地君の言葉に、山路さんが大きく頷く。
「ほれ、相棒」
福地君が山路さんに花束を渡した。
それを合図に、岡山君は常盤さんに、和歌山君は「副部長ご苦労さん」と慶子さんに、それぞれ花束を渡した。
「これ、剣道部男子からのホワイトデーだから」
福地君がカラリと笑った。
「たまには、いいこと考えるじゃない」
山路さんが二つの花束を大事そうにぎゅっと抱きしめた。
そんな二人の姿を見ながら、慶子さんは、いや、慶子さんだけじゃなく剣道部員たちは、福地君と山路さんの明るさと行動力に、どれだけ励まされただろうと思った。
花形と呼ばれるには程遠いこの部を、それでも大事に、そして盛り上げてくれたのは、彼ら二人だったからだ。
「おーい、みんな、写真を撮るぞぉ!」
松葉杖が二本から一本になった山田先生が、その姿には重すぎるカメラを首からさげてやって来た。
「あぁ、先生! 俺がやりますって」
岡山君が先生に向かい駆けだした。
剣道部での写真撮影が終わった。母親たちは一足先に帰り、慶子さんはこの後、山路さんと常盤さんとともに、帰ることになっている。
はたと、慶子さんは教室に筆箱を忘れたのを思い出した。いつもの癖で、使った後、机の中に入れてしまったのだ。山路さんに断り、慶子さんは校舎へ向かった。
その視界のすみで、和菓子さまが福地君たちと一緒に帰る姿が見えた。
結局、慶子さんは和菓子さまとは話せなかった。教えてもらいたいことがあったけれど、もう無理だ。もしかしたら、もう一度くらい「寿々喜」で会えるかもしれない。でも、もう、クラスメイトじゃない。お店でそんな話はできない。
慶子さんは、三年B組の教室に入った。見慣れたその部屋が、早くもよそよそしく感じられた。教室内はがらんとしていた。机の横にかかっていた鞄も、教室の隅にあった汚れたスニーカーもない。
慶子さんは、筆箱を入れた鞄と剣道部からもらった花束を机の上に置き、黒板の前へと進んだ。黒板の一面には、文字や絵が描かれている。それは、よそよそしくなった教室において、唯一、自分たちが過ごした場所である形跡を残していた。
慶子さんは、右手の指で自分が書いた文字の上をすっとなぞった。
「柏木さん」
名まえを呼ばれる。
教室の入り口に、和菓子さまがいた。
慶子さんの胸が高鳴る。
和菓子さまは、福地君たちと帰ったのでは?
「忘れものですか?」
「うん。すごい忘れ物」
慶子さんは、慌てて自分の書いた文字に背を向けた。この言葉を、和菓子さまには見られたくなかった。
「この教室、ぼくたちが一番最後かなぁ」
「みなさん、もう帰られましたもんね」
ふいに、和菓子さまと目が合う。
ふっと降りてきた二人の間の沈黙に、慶子さんは息ができないくらいの緊張を感じた。
すると、そのとき。
「ひゃっほー さらばだぁ!」
「卒業! しちゃうよー」
大きな声とともに、男の子二人が廊下を駆けて行き、そのまま階段を駆け下りていった。
慶子さんと和菓子さまは、顔を見合わせた。
「……あほか」
和菓子さまがそう言って笑いだしたので、慶子さんも同じように笑った。
さっきの緊迫感はすっかり消えた。あの男の子たち二人に感謝だ。
もしかして、これはチャンスなのでは?
慶子さん、一度は諦めた和菓子さまへのお願いをしようと決意した。
「す、鈴木君!」
思いがけず大きな声が出てしまい、慶子さんも驚いたが、慶子さんに名前を呼ばれた和菓子さまは、もっと驚いた顔をした。
「初めて名前を呼ばれた」
そんな和菓子さまのつぶやきが聞こえる筈もない慶子さん。
「あの、京都の住所を教えてください。手紙、出したいので」
「手紙」
そうつぶやくと、和菓子さまはくすりと笑った。
「手紙かぁ。いいな、それ」
そして、慶子さんが自分の席に戻りカバンから取り出し渡したメモ帳に、すらすらとそれを書くと返してきた。京都独特の住所表記だった。それを空で覚えている和菓子さまに、彼の覚悟をみた。
「ありがとうございます」
慶子さんは、和菓子さまを見上げてそう言った。
「本当に、ありがとうございます」
慶子さんには、もっと伝えたい言葉がたくさんあった。けれど、こうして向き合うと、そういった言葉がとても薄っぺらなことに思え、言えなかったのだ。
「あんまり、そう感謝されてもな」
和菓子さまがぼそりと言う。
「ぼくも柏木さんに、一つだけお願いがあるんだけど」
「お願い、ですか? わたしに、わたしに出来ることなら!」
自分に出来ることならなんでもやります! という気持ちで慶子さんは言った。
しかも、たった一つだけ、なんて。
一つとはいわずに、二つでも三つでも叶えたい気持ち満々だ。
「おかえり、って言ってもらえるかな」
和菓子さまの思いもよらない言葉に、慶子さんは目が泳いでしまった。
「おかえり、と言えばいいんですか?」
今だろうか? 今、言えばいいんだろうか?
「うん。ぼくは、最低でも三年は、店には戻らないと思う。いや、もしかしたら、それ以上。こっちに戻って店をやるには、勉強が必要だとわかっているから」
三年。
それ以上。
想像できないその年月に、慶子さんは途方に暮れた。
「柏木さんは、これから大学に入って、そのあとはどこかに就職して。もしかしたら、結婚もして『柏木さん』じゃないかもしれないけど」
慶子さんは和菓子さまの言葉を黙って聞きながら、未知なる未来の自分の姿を想像した。
「それにもう、うちの店の側には住んでいないかもしれないけれど」
その言葉に、慶子さんは胸がつまった。
「それでも、もし、柏木さんがうちの店に寄ってくれて、その時にぼくが店に戻っていたら」
慶子さんは、何度も頷く。
「おかえり、って言って欲しいんだ」
そう言うと、和菓子さまは笑った。
慶子さんは声も出さずに、ただただ頷いた。
そして頷きながら、いつかの自分の夢を思い出した。
船での旅だった。自分が帰るべき場所へと戻った慶子さんに、優しい声がした。
「おかえり」
大切な誰かが贈ってくれた言葉。
自分の帰る場所。
いるべき場所。
そこに戻った時に聞く「おかえり」という言葉の尊さ。
慶子さんは、和菓子さまをまっすぐに見た。
「わたしでよければ」
そう言うと慶子さんは、顔をくしゃくしゃにしながらも笑った。
「ありがとう」
和菓子さまは静かにそう言った後、もう一度「ありがとう」と言った。
慶子さんと和菓子さまが一年を過ごした教室の黒板の隅には、まるで二人を見守るかのように、ある言葉が書かれていた。
一期一会。
そして、この時が、二人が高校時代を共に過ごした、最後の時間となったのだった。
三月の、とある晴れた日。
和菓子さまはカバン一つを持ち、住み慣れた家を、街を、出発した。
そして、和菓子さまが京都へと旅立った数日後。
「寿々喜」のガラス窓には、アルバイト募集のちらしが貼られた。
そのちらしは、それを書くのにかかった時間よりも短い時間しか、貼られなかった。
待ち構えていたかのような、アルバイト希望者の手により剥がされたためだ。
※嗄声・・・声の掠れ