1・はじまりは、仙寿/(三月)
弥生三月、朝。
四月から、めでたくも高校三年生になる柏木 慶子さんは、開館と同時に図書館のカウンターへ行った。そして、予約していた本を受け取ると、軽やかな足取りで自宅への道を歩み始めたのだ。
穏やかな春の陽気である。どこまでも歩いて行きたくなるような、晴れた朝だった。
気まぐれに慶子さんは、いつもは通らぬ一本裏の通りを、お散歩しながら帰るなんて贅沢をしてみた。
慶子さんは、家の近くでありながらも、見慣れぬ風景に心をときめかせた。そして、たった一か月でこうも季節は変わるものかと、しみじみと思った。
今年の冬は寒かったなぁ。
しかし、今となっては過去のこと。
心弾む慶子さんの心の目には、冬に眠っていた固い木々の芽が、ふわりと緩んでいく様子が映っていたのだ。
慶子さんの心をときめかせているのは、春の陽気だけではない。
彼女が提げた布バッグには、今まで読みたいと思っても読むことができなかった本の数々が、どっさりと入っているのだ。
実際のところ、かなりの重さになっていたけれど、そんなのは、今の慶子さんにとってはどうってことないものであった。
あぁ、青春だなぁ。
にまにまとほほ笑みながら、慶子さんは思う。
図書館で、好きな本を好きなだけ借りるなんて、たいていの女子高生にとっては、日常的なことであったり、または全く興味のないことでもあったり。つまりが、青春なんて言葉を使うほどでもない出来事なのかもしれない。
けれど、慶子さんにとっては、他の人には些細なこんなことさえ、青春と呼べるほどの慶事であったのだ。
まぁ、青春の全てが慶事ばかりであるとはいえないのだが、今の慶子さんの心の中は「青春=慶事」なのだから、そこらへんはご勘弁願いたい。
ふと、慶子さんの鼻孔をくすぐる匂いが、早春の風に乗りふわりとやってきた。これが、 花の香りであれば、まぁ、慶子さんってば乙女ね、ってなものだが。
「どこからかな。小麦粉と卵とお砂糖の甘く、香ばしい匂いがする。ぐりとぐらの絵本を思い出しちゃうな」
慶子さんは立ち止り、彼らが焼いた大きなスポンジを想像しながら、その匂いのする方角へと、鼻をふんふんさせながら歩きだした。そして、ぴたりと足を止め、その左斜め上を見上げる。
するとそこには、建物の壁から飛び出した、銀色に輝くやや大きめのダクトがあった。
「ここかぁ」
くんくんと鼻を動かしながら、匂いの源をキャッチした慶子さん。次に慶子さんは、そのダクトの建物に沿って、ゆっくりと歩き出した。
これは、どう考えても業務用のダクトだ。 つまり、ここにはおいしいものを作っているお店があるということなのだ。 わくわくしながら、その建物の正面に着いた慶子さんは、驚いた。
「えっ、和菓子屋さん?」
しかも、この和菓子屋さんは、慶子さんの家から図書館、そして駅へと向かうルート上にあった。
いつもと違う道を歩いていたはずなのに、匂いにつられて来てみれば、いつも通る道にある、見慣れた和菓子屋さんへとたどり着いたのだ。
けれど、もし、いつもの道をいつものように歩いていたら、ダクトから流れる甘い香りに気がつくことはなく、そのまま家に帰ったのだろう。
縁とは妙なり。慶子さんはそう思いつつ、暖簾の出ていないお店を覗いた。 時刻は、午前九時を過ぎたところ。開店はしていないようだが、ガラスの引き戸の向こうには、所謂「和菓子」が、ショーケースに綺麗に並べられてあった。
当然ながら、ケーキらしきものは見当たらない。
本当に、ここのお店のからの匂いなのか。再び慶子さんは早足でダクトへ向かった。
匂う。
そして、もう一度、注意深くダクトのある建物の正面へと向かう。 他にもお店がないか、確かめたのだ。けれど、どう考えても、そのダクトは和菓子屋さんのものとしか考えられなかった。
「おかしいよね」
慶子さんはお店の前をうろうろと歩いた。和菓子屋さんから、ケーキを焼くような甘い匂いがするのは、なぜだろう。
すると、突然、和菓子屋さんの戸が開いた
「どうかなさいましたか」
慶子さんは、お店の制服と思われる、白い 上っ張りに帽子を被った男の人に、声をかけられた。
心底驚きながらも、礼儀にだけは煩い両親に育てられた慶子さんは「おはようございます」と、その人に挨拶をした。
すると、和菓子屋さんも「おはようございます」と、慶子さんに応える様に挨拶を返してきた。
しかし、和菓子屋さんは、そのまま慶子さんを解放するような雰囲気ではなかった。
そりゃ、そうだろう。
開店前の店先に立ち「おかしい」などと言っている人物こそが、「おかしい」と判断されてもおかしくないのだ。
慶子さんは腹を括ると「あの」と、話し出した。
そして「話すときは相手の目を見て」と言う母親の教えを思い出し、しっかりと顔をあげその和菓子屋さんのことを見上げた。
そう。
見上げるほどに、和菓子屋さんの背は高かった。
そして、白い帽子の中にきっちりと前髪を入れているせいか、顔もばっちりと見えた。
さすが和菓子屋さんだけあって、顔も和風だと慶子さんは思った。
その顔立ちは、すっきりと爽やかである。
けれど、すっきり爽やか、と言いきれない何かがあると慶子さんは感じた。なんだろう? 顔の中の何かが、その邪魔をしているのだ。
「なんでしょう」
「あの」と言ったまま黙ってしまった慶子さんを促すように、和菓子屋さんが問う。
「あ、はい。実は、裏道にある大きなダクトからスポンジケーキを焼くような甘い匂いがしたので、なんだろうと思ってうろうろしていました」
「あぁ、そうなんだ。なるほどね」
和菓子屋さんは、意表を突かれたような顔をした。
「その匂いから、洋菓子店だと思われたのですね」
「はい。すみません」
そうなのだ。 慶子さんは、ケーキ屋さんがあるのだろうと、思ったのだ。
「お時間は、ありますか?」
和菓子屋さんが慶子さんに聞いてきた。
「よければ、店を少しのぞかれませんか」
慶子さんは、和菓子屋さんにそう誘われた。
開店前のお店。
しかも、和菓子屋さんに入るなんて、特別なことのように思え、慶子さんはどきどきした。
お店に入ると、まさにさっきのスポンジケーキの匂いがした。
「ここで待っていてください」
和菓子屋さんに椅子をすすめられた慶子さんは、大人しく腰かけた。 そして、座りながら店内を眺めた。
はっきり言って、慶子さんと和菓子の間には、今までの人生において接点はなかった。せいぜい、おはぎと柏餅くらい。
しかも、柏餅に関してはあまりいい思い出はない。
慶子さんの名字は「柏木」というのだが、その名字ゆえに、小さい頃のあだ名は柏餅だった。
さらに言うと、柏餅をめぐっては、幼いころに苦い出来事があり。 柏餅は好きだし、怨みもないのだけれど、せめて自分が違う苗字か、柏餅が柏餅という名前でなければと、幼い慶子さんは思ったものである。
そんなことを思い出しながら、和菓子のショーケースを眺めていた慶子さんは、ふと、あるお菓子のところで目が止まった
それは桃色した、まさに桃を模したお菓子であった。
確かああいうのを「なんとか菓子」って言うのよねと、思いつつその「なんとか」が出てこない慶子さん。
実は慶子さん、その桃のお菓子そのものよりも、それに添えられた説明文に興味を惹かれたのだ。
――長寿を得られると言い伝えのあるお菓子です。
「お待たせしました」
声とともに、目の前には小さなお盆を持つ和菓子屋さんが立っていた。
そして、その上にはおしぼりとお茶ともう一つ。
「スポンジケーキの匂いの正体は、これです」
小さなどらやきがあった。
「どらやきですね」
あぁ、なるほど。
確かにどらやきの外側部分は、ホットケーキに似ている。 ホットケーキもスポンジケーキも、材料は似ているだろう。
「よかったら召し上がってください」
和菓子屋さんはそう言うと、お盆を慶子さんの隣の小さなテーブルに乗せた。 どらやきからは、いい香りが漂ってきた。
「いいんですか?」と、慶子さんは和菓子屋さんに聞くと「もちろん」という答えが返ってきた。
慶子さんはいただきますと言い、おしぼりで手を拭き、そしてどらやきを手に取った。
どらやきは、慶子さんの手の中にすっぽりとおさまった。 そして、ほんのりと温かい。
「小鳥みたい」
昔飼っていた文鳥の温かさと、それは似ていた。
そして、慶子さんは、どらやきを一口ぱくりと食べた。
ふわりと口の中に幸せが広がった。
外の生地の微かな甘さと柔らかさ。
そして、それと馴染む餡子のつぶつぶ感。
「おいしいです」
なんておいしい食べ物だろうと、慶子さんは思った。
ちっとも特別じゃない「どらやき」という食べ物なのに、どう考えてもそれはちっとも普通じゃないおいしさだったのだ。
「ありがとうございます」
慶子さんの言葉に、和菓子屋さんは嬉しそうな顔をした。
そして、そのまま慶子さんは無言でどらやきを食べ終わると、お茶をぐいっと飲んだ。
びっくりして、湯呑の中を見る。
見た目は普通のお茶だ。
「お茶までおいしいです」
考えてみたら、そりゃいいお茶の葉を使っているのだろう。
慶子さんのところの安いお茶とは、単価が違うのだろうと思った。
慶子さんの言葉に、和菓子屋さんはにこりと笑った。
その顔を見て、またしても慶子さんは失礼にも、バランスが悪いと思ってしまった。
一体、この親切な人のどこが、慶子さんにそう思わせるのか。
うむむと思いながらお茶を飲みほし「ごちそうさまでした」と言った慶子さんの視界に、再び桃のお菓子が入った。
「あの」
「はい」
「お店は何時に開店でしょうか」
「十時に開店でございます」
「あの」
「はい」
「お菓子の予約をしてもいいですか? 開店時間になったら買いに来ますので」
「はい。どらやきですか?」
「どらやきも買いたいのですが、あの桃のお菓子が欲しいのです」
そう言って慶子さんは目当てのお菓子を見る。
すると、和菓子屋さんもその視線を追うように、桃のお菓子を見た。
「桃。『仙寿』ですね」
「せんじゅ」
「はい。仙人の仙に寿と書いて『仙寿』です。中国には食べると長寿になると言われていた桃がありまして。仙女が持つ園に三千年に一度だけ実をつける桃なんですけどね。これは、それにあやかって作られた上生菓子なんですよ」
「上生菓子」
「え?」
「いえ。ああいった和菓子って名前があったよなぁと思ったんですけど、思い出せなくて」
上生菓子。そうだ、そうだ。確か、そんな名前だった。
「仙寿は、おじいさまや、おばあさまにですか?」
「いえいえ。でも、そうですよね。普通は」
そう言うと、慶子さんは話すのを一瞬ためらったあと「母です。母にです」と話し出した。
「実は、わたしの母はずっと体を悪くしていて、入退院を繰り返していたんですけど。でもようやく先週、もう自宅療養でいいってことになって。ほんと、日に日に回復して。で、すごく嬉しくて。先生も、もう大丈夫って言ってくださって。家では母もリハビリだからってお料理も少しずつしだして。で、わたしにも高校生らしい生活をしてね、なんて言ってきて。部活に入れだとか、おけいこ事でもしたらとかうるさくて。でも、もう私は高校三年なので、部活もないだろうって話なんですけれど。大学付属の高校なんで、受験はないからそういう面ではいいんですけど。でも、いまさら初心者の高三を受け入れてくれる部活なんて、ないですよね。あったらどこにでも入りますって。で、あぁ、そんな話じゃなくて。ええと。つまりですね。あのお菓子は母の為に。母に食べてほしくて。そりゃ、先生は大丈夫っておっしゃったけれど、ええと、だって。……お母さん、すごく痩せちゃって」
涙がぽろりと出た。
医者は、大丈夫だと言う。
母親もリハビリ代わりと言い、料理を始めた。
でも、その母親の腕は、慶子さんの知っている腕よりも一回りは細くなっていた。
大丈夫、大丈夫と呪文のように唱えても、それでも、慶子さんは不安だったのだ。
こんな「気持ちのところでの話」は、家族にもしたことがなかった。
と、いうよりも、家族にこそできない話なのだ。
中学一年生の冬に母親が倒れてから、高校三年生にあがるこの春まで、慶子さんはひたすら耐えた。
病院にいる母親を心配させないために、母親を支える父親に心配をかけないように。
慣れない料理もしたし、洗濯もした。
付属とはいえ、あんまりな成績をとるわけにもいかず、それなりに勉強もした。
そして、病院へのお見舞いもできるだけ行った。
冬に眠っていたのは、木々の芽だけではなかった。
木々の芽が耐えた冬よりももっと長い冬を、慶子さんという木の芽は耐えたのだ。
そして今。
暖かな日差しではなく、どらやきの甘い匂いに誘われて入ることになった和菓子屋さんで、慶子さんの木の芽は緩んだのだ。
「予約は、不要です」
和菓子屋さんは、するりとショーケースの裏側に入った。
「おいくつ、ご用意しますか?」
「み、みっつ!」
家族三人分だ。
慶子さんは涙を拭きながら慌てて立つ。
「開店前なのに、いいんですか?」
「一期一会ですから」
「え?」
慶子さんの疑問には答えぬまま、和菓子屋さんは手早く仙寿を三つ取ると箱に入れた。
そして、その箱にお店の包装紙をくるりと巻いた。
「おいくらですか」
慶子さんの言葉に和菓子屋さんは少し考えた後「一つ二百五十円ですので、三つで七百五十円でございます」と言った。
慶子さんが千円札を出すと、和菓子屋さんはお釣りを渡してきた。
和菓子屋さんは、箱を小さな紙袋に入れると、それを持って慶子さんの側までやってきた。
「仙寿は、三月のお菓子なんです」
和菓子屋さんは、ショーケースを見た。慶子さんも見た。
「仙寿だけでなく、この緑色した菜の花も、三月のお菓子です。もちろん、通年ご用意しているものもありますが、和菓子は季節とともに移り変わっていくのです。ですから、次回来た時に買おうと思っていても、季節が変わるともうなかったり。そのお菓子を食べるためには、次の年を待たなくてはならない時もあります」
「次の年、ですか」
「そうです」
だから、一期一会。
「ここの上菓子を全種類食べるには、一年かかるってことですよね」
慶子さんがそう言うと、和菓子屋さんの目がびっくりするように開いた。
「そうです」
「それは、すごく楽しいですね。命がぐるぐると繋がっていく感じがします」
慶子さんは素直にそう思った。
和菓子屋さんの説明を聞いたとき、来年もその次の年も、慶子さんは仙寿を買いたいと思ったのだ。 母親のために、そして母親の健康を願う、父親や自分のために。
大切なひとの長寿を願う気持ちは、昔も今も変わらない。その想いにより、このお菓子は生まれ、いまもここに存在している。慶子さんは、一個の和菓子に、永遠ともいえる時の繋がりを感じたのだ。
どらやきは出来上がっていなかったので、また次の機会となった。
帰宅した慶子さんは、聞いたばかりの仙寿に関するうんちくを両親に話しながら、帰りがけに和菓子屋さんに教えてもらった通り、丁寧にお茶をいれた。
そして、家族三人で仙寿を食べた。
桃の実を模した甘いそと側と中身の餡とが、口の中でほろりと溶けた。仙寿は、どらやきを食べた時のおいしさとは、また違ったおいしさがあった。
けれど、その違いをうまく言葉にできない慶子さんだった。だから、それは謎のままで、慶子さんは心の引き出しにしまった。
慶子さんはよく、心の引き出しにこういった謎をしまっておく。
物事を今直ぐこの瞬間に解決したい人もいるだろうが、慶子さんはそうではなかった。引き出しにしまって、そしてそれを時折取り出しては考える。
慶子さんはそういう性質だったのだ。
ちなみに、和菓子屋さんのお顔についても、その引き出しにしまっていた。
三月のある日、いつもと違う道を歩いた慶子さんは、いつも通る道の和菓子屋さんと縁ができた。そこで、慶子さんは和菓子に魅せられた。小さな甘い菓子に込められた願いが、自分の想いと重なると知った。
それを教えてくれたのは、背の高い和菓子屋さんだった。慶子さんは和菓子屋さんに対し、尊敬という想いがわき上がってくるのを感じた。
その結果、慶子さんは「和菓子屋さん」を「和菓子さま」と、心の中で呼ぶようになったのだ。
慶子さんはその後も、何回か和菓子屋さんに行った。
和菓子さまは、いる時もあれば、いない時もあった。
いないときは、和菓子さまの母上と思われる女性が接客してくれた。
そして、和菓子さまがいるときは、慶子さんは和菓子についての知識を深めるのだった。
若者のわりには落ち着いた声の和菓子さまは、その所作も落ち着いたものだった。
前髪はばっちり帽子の中に収まっていて、昨今の男子のように前髪が「М」でもなければ、腰パンでもない。
きっと、立派な跡取りさんになるのだろうと、慶子さんは思った。
と、思う反面。
和菓子さまの、すっきり爽やかとは言い切れない顔のバランスについて、つい悩んでしまう慶子さんでもあった。一体、和菓子さまのお顔の何に、そんな印象を受けるのだろうか。
慶子さんに、神のお告げのごとく閃く雷神が落ちたのは、ある日のことである。 家族そろって夕飯を食べ、テレビを見ながら食後のコーヒーを飲んでいた慶子さんは、ある俳優さんの目もとに、はっとした。
そっか、そうだよ。
まさに、ガッテンと手を叩いてしまいそうになる慶子さん。
ほくろ、だ。
和菓子さまの左の目もとにも、小さなほくろがあったのだ。
そのほくろが、和菓子さまの顔立ちから「すっきり爽やか」だけでは表現できない、何かを醸し出していたのだ。
そこまで分かったのはいいけれど、それがなんというものなのかが慶子さんには思いつかなかった。
まぁ、いいや。
一歩進んだ和菓子さまのお顔への認識を、それをそのままの形で再び慶子さんは心の引き出しにしまった。
ちなみに、慶子さんは与り知らぬことだが、和菓子さまは「マダムキラー」として、ご近所では知る人ぞ知る存在だった。
つまり、慶子さんにはまだ認識できない、和菓子さまのお顔の様子を一言で言うならば。
――色気。
食い気で一杯の慶子さんには、まだまだ高いハードルである。
まぁ、ともかく。
こうして、少しずつ慶子さんにも「青春」らしきものが漂いはじめてきた三月が過ぎ。
そして、四月。
慶子さんは、めでたく高校三年生になった。
教室で、新しいクラスでの自己紹介も終わり、授業選択や保護者への手紙などのプリント類が、どんどんと配られ始めた。
「全部受け取った人から、適宜、帰宅してね」
担任の先生の声がする中、慶子さんの机の上に、ぱらりと一枚の紙が載せられた。
「柏木さん、空欄にサインして」
左隣の席の男の子にプリントと渡される。こりゃまた面倒だと思いつつ、慶子さんは筆箱からボールペンを出すと、その紙にサインをした。
「入部ありがとう」
「え? 入部?」
「うん。柏木さん、クラブどこも入ってないでしょ」
彼は、確か鈴木 学君といったはずだ。慶子さんがサインした紙を、鈴木君はひらりと取り上げた。クラブは入れてくれるならどこでもいいから入ってみたいと、確かにそんな気持ちは少しはある。けれど、そんなことは自己紹介で、言わなかったはずだ。
「わたしたち以前、同じクラスだった?」
それだったら、どこかで慶子さんが部活をしていないという噂を聞いたのかもしれない。
「いや。クラスは今回初めて一緒」
ふっと笑いながら、隣の席の鈴木君は慶子さんのことを眺めている。
「一期一会だよ、柏木 慶子さん」
そう言うと、鈴木君は片手で前髪を上げた。
すっきりとしたお顔の目もとに、ほくろが一つ。
「わっ、和菓子屋さん」
「正解。で、ようこそ剣道部に。初心者大歓迎だよ」
和菓子さまこと鈴木 学君は、慶子さんがサインしたプリントをカバンに入れると「詳しいことはまた後日」と、教室から出て言った。
残された慶子さんは、腰が抜けるほど驚いていた。
けれど、クラスはざわめいたままで、そんな慶子さんの様子に誰ひとりとして気がつかないようだった。
柏木慶子さん、高校三年生の春。
和菓子と剣道に。
未知との遭遇。
和菓子の美しさに惹かれ、物語を書きました。
読んでいただき、ありがとうございます。