17・それは、メジロか鶯か/ (二月)
先月の物語を、注意書きによりお読みになれなかった方のために、あらすじ「春隣、恋隣」をアップしてあります。
該当される方、どうぞご利用ください。
窓の外は雪景色。
二月、如月、冬の月。
そして、勝負の月。
二月のある土曜日の午後。
友人の山路 茜さんの自宅に招かれた柏木 慶子さんは、はらはらしていた。今月の最重要行事ともいうべき、バレンタインデーを遂行すべく、チョコレート作成を目的にこうして集った二人だったけれど。どうにもこうにも、山路さんがチョコレートをテンパリングする勢いが激しすぎるのだ。
「あぁ、悔しい! 悔しい! 悔しい!」
「あっ、山路さん、危な――」
慶子さんの声と同時に、山路さんが持っていたボウルはぐるんとバランスを崩し、ひっくりかえった。ぶちまけられたチョコレートは、机の上へゆっくりと広がり、部屋は濃厚なカカオの匂いに包まれた。
しばし、訪れる静寂。
「かーっ!! ほんと、あったまくる!」
そう言うと山路さんは、流れ出したチョコレートを、さらに手でうわっと広げた。
「大丈夫? 山路さん」
「ごめん。つい興奮してしまって」
混乱のあとの休憩タイム。
チョコレートまみれになった台布巾を何枚かゴミ箱に捨てた後、二人は隣の和室で炬燵にあたることにした。
山路さんが*雪見障子を開けた。すると、窓ガラスの向こうに、昨晩から今朝にかけて降り積もった雪が融け始める様子が見えた。
一月末で、慶子さんも山路さんも、剣道部を引退した。稽古の最終日には、なんと松葉杖をついた山田先生も道場に顔を出し、みなで泣いたり笑ったりしたものだ。
受験組は、いよいよ大学試験本番を迎えるわけだけれど、付属大学進学組は、のんびりとした時間が増えて行った。
さて、バレンタイン。
慶子さんは毎年、駅前の洋菓子店で買ったチョコレートを父親に渡していた。今回、山路さんから、剣道部のみんなへ渡すバレンタインのチョコレートを作ろうと誘われて来たのだが、どうにも彼女の様子がおかしい。
「聞いてよ、柏木さん! わたしが塾で英語を習っているの知っているでしょう」
「将来、旅行会社の添乗員さんになって世界中を回るって聞いたわ」
「そう。この間、その塾の小テストで、妙な賭けがあって。最低点の人が最高点の人にチョコレートをあげるって。わたしは、その賭け、直前に知ったの。せめて知らなければ、しらばっくれることもできたのに」
「山路さん、負けてしまったの?」
「その通り。はっきり言って、出来レースよ。だって、わたしはあのクラスでいつも一番ビリなんだもん。で、トップもいつも同じ奴」
なるほど。それにしても、山路さんはよほど悔しかったのだろう。ふと、慶子さんはチョコレートのラッピング用品に目がいった。バレンタインのチョコレートは、そのほとんどを男子にあげるつもりで用意していたので、多くがブルーやグリーンである。ピンク色もあるにはあるが、数は少ない。
「その一番の子って、女の子だったの?」
「男よ」
「……出来レースだったのよね?」
「そう。やる前から、結果はわかっていたはず!」
それはもしや、テストで一番の男の子が山路さんからチョコレートをもらうために仕掛けたのでは? 恋愛にうとい慶子さんでも、単純すぎるその図式にぴんときた。けれど、山路さんはそうでもないようだ。
二人の間に再び訪れる静寂。
「かーっ!! ほんとっ! あったまくる!」
そう言うと山路さんは、今度はラッピングのために用意したリボンを、宙に放り投げた。
休憩後の仕切り直し。慶子さんと山路さんは、残った材料と作る個数の確認を始めた。
「やばい。やっぱり、チョコレートが足りない」
「わたし、今から買ってこようか? 山路さんの家に来る途中にスーパーがあったよね」
「とんでもない。買いに行くなら、わたしよ。でも、待てよ。……別に、チョコレートにこだわらなくてもいいよね。クッキーとかケーキとか、そっちに変えちゃおう」
「山路さん、申し訳ないけど、わたしは全く自信がないわ」
萎れる慶子さんに、山路さんはいいものがあると言って台所に走ると、クッキーミックスとパウンドケーキミックスを持ってきた。
「これさえあれば、どうにかなるって。たぶん」
そのミックスの文字に、慶子さんは夏合宿で知ったホットケーキミックスを思い出した。和菓子さまは、さぞかしおかしかっただろう。慶子さんはあの日を、随分遠くに感じた。
慶子さんは、パウンドケーキの種を作ることにした。山路さんのアドバイスを聞き、箱の裏に書いてある通りに進める。量りを慎重に使い、グラムをきっちりと合わせ、山路さんが出した卵やバターも、箱の裏に書いてある説明書き通りに用意をした。
山路さんと慶子さんは、職人のようにもくもくと作業を進めた。パウンドケーキを焼き、チョコレートをアルミの小さなカップに流し込んだ。焼きあげたパウンドケーキの荒熱を取る間に、クッキーを焼いた。
チョコレートの固まり具合の確認をしながら、ラッピングの用意を始めた。ラッピング用の小さなビニール袋を人数分用意すると、その口を結ぶリボンを、同じ長さに切り始めた。ビニール袋の中に、中敷きとして白いレースのついた紙を入れるのも忘れない。
「おっと、常盤の分を忘れるところだった」
山路さんは、袋を一枚取り出し「常盤の分」と付箋を貼った。
常盤さんは、他大学受験組だ。山路さんがチョコレートを作ることを知った常盤さんは、わざわざその催促メールをいれてきたそうだ。
「家にいなかったらポストに入れといて、だって。あの子の家、わたしが通う塾の近くなんだよね」
山路さんの表情には常盤さんへの労わりの色が見えた。そのチョコレートを、常盤さんが楽しみにしていることを知っているからだ。
――自分たちの仲間が、人生の岐路に立っている。
その事実は、慶子さんと山路さんを、どこか落ち着かない気分にさせた。とはいえ、何が出来るというものでもないことは、十分にわかっていた。
自分たちに出来るのは、応援しかないのだ。そして、もしこのチョコレートがそれになるのなら、とても嬉しいことだと慶子さんも山路さんも思っていた。
なんだかんだ言いつつも、任務を果たした慶子さんと山路さん。疲労はあるものの、それを上回る達成感で、気分は高揚していた。
二度目の休憩のお供は、「寿々喜」の上生菓子だ。山路さんのお宅にお邪魔するにあたって、慶子さんが持参した。
山路さんは、七人家族だ。ご両親に加え、四人のお兄さんがいる。男の人が五人もいれば食べる量も半端ないだろう。以前、学校で、福地君と昼食を食べた時、彼は食欲がないといいつつパンを六つも食べていた。
土曜の朝一番に、雪を踏みしめながら慶子さんは「寿々喜」の暖簾をくぐり、上生菓子に加え餅や饅頭にどらやきなど、どっさりと購入した。
「それにしても、日本の職人さんの技はすばらしいね。しかも、これを作ったのが、同級生のお父さんときたもんだ」
「美しいですよね。毎回、もう、本当に、うっとりします」
「だよね。柏木さんは、和菓子で大学の学部まで決めたんだもんね」
「ご縁がありました」
「……ご縁。うん。それは、もう、ほんと、一生ものだと思うよ」
そういえばと、山路さんがテーブルの前に置かれた菓子を指す。
「この四角い菓子の名前は、なんだっけ」
「『未開紅』です」
未開紅は、名前の通り開きかけの紅梅を表したものだ。以前食べた、「藪柑子」と少し似た、折り紙のようなデザインをした菓子だった。
正方形に広げられた練り切りの四隅を中心に向い折ったその菓子の中央には、黄色の*しべがちょこんと載っていた。 (*しべ→雄しべと雌しべ)
ただ「藪柑子」と違い、包まれた餡は外からはほとんど見えず、練り切りの色も緑でなく淡い紅と白の二層になっていたため、「藪柑子」のようなシャープさはなく、寧ろ可愛らしいものになっていた。
そして、慶子さんの前には、今にも囀りだしそうな鶯の菓子「よろこび」が置かれていた。
――「菓銘がついて、はじめて菓子になるんだ」
それは今朝、和菓子さまから聞いた言葉だった。
鶯の姿をした菓子に「よろこび」の名がついていることへの不思議を、慶子さんが尋ねたことからだった。
最近では、「寿々喜」以外の和菓子屋も覗くようになった慶子さん。二月が近づくと、和菓子屋さんのショーケースには、鶯をモチーフにした菓子が増えてきた。
青えんどうのきな粉がたっぷりとまぶされた「うぐいす餅」や、上用饅頭に鶯の焼き印が押されたもの、そして勿論、鶯の姿をした上生菓子もあり、それらの多くは「春告鳥」や「うぐいす」の名前で出ていた。
今のところ慶子さんは「寿々喜」がつけたようなネーミングの鶯の菓子は、見たことがなかったのだ。
鶯に見えるけれど、鶯が歌っているように見えるけれど、これは違うものなのだろうか。
慶子さんは、そう考えてしまったのだ。
すると、和菓子さまが言ったのだ。
「菓銘は、多くの人が考えるよりもとても自由なんだ」
そして「よろこび」の名には、鶯が歌う喜びと、人がその歌を聞くことで春の訪れを知る喜びの二つの意味が込められているのだと話してくれた。
そうした菓子の名――菓銘がつくことで、菓子は菓子としての命が与えられ、完成するのだと和菓子さまは言った。
逆に言えば、銘の無い菓子はなく、銘のつけかた一つとっても、十人十色なのだ。
そういえば、御隠居さんが作られた菓子「スノードロップ」はカタカナだった。
和菓子には、伝統と自由がある。
その時慶子さんは、悟ったのだ。
他の店の菓子を知ることは、巡り巡って「寿々喜」の菓子を知ることになるのだ。
――「うちだけが、和菓子を売っているわけじゃないから」
「寿々喜」の菓子しか知らないで、それで満足していた慶子さんは、和菓子さまから見たら井の中の蛙だった。
そう思った時、慶子さんは、和菓子さまが誰から何を言われても大学に進まずに、和菓子の道へと進むという決意を、理解できたような気がしたのだ。
日はすっかり暮れていた。
山路家の和室には、小さなラッピングの袋がいくつもでき、まるでお店屋さんのようだ。出来あがったもの全ては、来週のバレンタイン当日に山路さんが学校へと持ってきてくれることになった。
駅まで送るとの山路さんの申し出を断ると、慶子さんは玄関でブーツを履いた。
「柏木さん、足元に気をつけてよ。雪で滑らないようにね」
「うん、大丈夫。このブーツ、滑り止め機能がついた優れものなの。山路さんこそ、バレンタインは荷物多いから大変だと思う」
「わたしは全然大丈夫。いざとなれば、お兄さんに車で送ってもらうわ。あと、柏木さん。今日は、文句ばかりいってごめん。あれ、本当は塾の男子というよりは、自分に腹が立ったの」
「山路さんが、自分の何に腹を立てたの?」
「ツアコンになりたいって目標があるのに、怠けていた。どうにかなるって、甘えていた自分が嫌になったの」
「そうだったのね。でも、山路さんには目標がある。それが、わたしには、とても眩しい」
和菓子さまに、常盤さんに、山路さん。彼らと比べると、慶子さんは途端に情けない気持ちになってしまった。自分が空っぽなような気持ちになったのだ。
山路さんは忘れ物があると言い、部屋の奥へ行くと、丁寧にラッピングされたチョコレートの袋を一つ持って来た。
「柏木さんの家と、鈴木の家って近くなんだよね。わたし、学校に持って行く荷物を減らしたいから、これ、帰りに届けてもらっていいかな。ご協力よろしく」
山路さんの家から駅は近く、しかも一本道だったので慶子さんはなんなく駅に着くことができた。日中の暖かさのお陰か、雪はほとんど残らず、山路さんが心配するようなことは起きなかった。
慶子さんは電車に乗った。慣れない街の暗い景色が目の前を通り過ぎていく。
山路さんとのチョコレート作りは、楽しかった。彼女が腹を立てていた、塾の出来レースの男の子の存在も気になる。
「寿々喜」の菓子を、山路さんと食べたのも楽しかった。慶子さんは、「寿々喜」で購入した菓子を食べるつもりはなかった。けれど、山路さんのお母さんから「お兄ちゃんたちに見せても菓子の良さはわからないだろうから」と、勧められ、ついつい、いただいてしまったのだ。
慶子さんは、饅頭やどら焼き、「よろこび」と「未開紅」のほかに、花をモチーフにした「水仙」と道明寺を二枚の椿の葉で挟んだ「椿餅」を持っていった。
鶯の菓子である「よろこび」には、二つの喜びがあると和菓子さまは言った。けれど、実際に「よろこび」を口にして、慶子さんは三つ目の「食べて楽しい」喜びを知った。
菓子の銘についても、慶子さんは考えていた。
銘、つまり名が付くことで、そのものの存在が明らかになるのは、菓子だけの話じゃないと思ったからだ。
慶子さんは、和菓子さまへの想いが恋であると自覚した。
自分の気持ちに、名前をつけたのだ。
そうしたことで、その想いから慶子さんは逃げられなくなった。
誤魔化せなくなった。
自分の想いと、その想いを抱く相手との関係に、折り合いをつけなくてはならなくなった。
――悟られてはいけない。
それが慶子さんのつけた、折り合いだ。
この想いは、悟られてはならない。
和菓子さまは、慶子さんがとてもお世話になった人だ。
慶子さんの事情を感じ、気遣ってくれていた優しい人だ。
もし、慶子さんの気持ちがばれてしまったら、さらに気を遣わせてしまうことになるだろう。それは、恩を仇で返すようなものだ。
――和菓子さまには、何も知られてはいけないし、知らせる必要もない。
慶子さんにとり恋とは、そういうものだった。
改札を出ると慶子さんは家にメールを入れた。今日は父親が仕事の為、家には母親一人だけだった。母親からはすぐに、今日の夕飯はおでんだと返事が来た。
そのメールを見て、楽しみだなと思いながら携帯を閉じた時、視界に誰かが入ってきた。
予感とともに顔を上げると、そこには果たして和菓子さまがいた。
「……こんばんは。偶然ですね」
「山路から電話があった」
「これから山路さんのお宅に行くんですか?」
暗いけれど、電車に乗りさえすれば、山路さんの家は駅からすぐだ。
「荷物、持つよ」
和菓子さまは、慶子さんの質問には答えずに、彼女の荷物を持った。とはいえ、紙袋には、チョコレートしか入っていない。たいしてどころか、全く重くはない。けれど、慶子さんはついつい和菓子さまにそれを渡してしまったのだ。
「柏木さん、どっか、寄るところはあるの?」
「わたしは、『寿々喜』さんに行こうと思っていました」
「うちに? なにか、買い忘れ?」
「山路さんと剣道部のみなさんにバレンタインのチョコレートを作ったので、届けに行こうと思ったんです」
「そっか。なら、あとでもらう」
和菓子さまが慶子さんの荷物を持ち歩き出す。
「あの、山路さんの家には行かなくていいんですか?」
すると、和菓子さまは慶子さんの顔をじっと見た後、視線を逸らした。
「どうしてそう思うのかなぁ。山路の家には行かないよ。ぼくは、柏木さんを迎えに来たんだ」
「わざわざ、わたしを迎えに来てくれたんですか?」
「そうだよ。山路から、柏木さんが帰るって電話が入ったんだ」
誰かに迎えに来てもらったことなんて、慶子さんはここ数年なかった。
――なかったのだ。
慶子さんの胸が、ギュッと苦しくなった。
和菓子さまが振り向く。
慶子さんは、小さな笑顔を見せると、和菓子さまの後をついて歩きだした。
バレンタイン当日、山路さんから「チョコレートが欲しい人は来るように」と招集をかけられた剣道部員面々は食堂に集まり、みなでお昼ご飯を食べた。慶子さんと山路さんで、集まったメンバーにせっせとチョコレートを配る。
「あぁ! 学校に来てよかったぁ」
福地 裕也君から、大げさなお礼の言葉が返ってきた。袋を開けた福地君が驚く。
「すごい。チョコレートのほかに、クッキーやケーキもあるじゃん」
「ふふ。チョコレートだけじゃつまらないと思って、わたしたち、いろいろと考えたのよ。ねぇ、柏木さん」
「ほんと、すごく、考えましたよね」
慶子さんと山路さんは、顔を見合わせて笑った。
「そういえば鈴木の姿が見えないな。柏木さん、なにか聞いてない?」
「今日は、学校をお休みでしたよ」
慶子さんの隣の席の和菓子さまは、学校を休んでいた。
「福地さぁ、鈴木、鈴木って。あんたは鈴木が好きよね。女房か」
「山路って意地が悪いよな。柏木さんも、何か言ってやってよ」
福地君が泣きまねすると、山路さんが手でシッシと払いだした。
和歌山 真司君が、チョコレートを食べながら話し出す。
「まぁ、でもさ。受験関係なしに、来ない三年も多いじゃん。もう卒業には、いろいろと足りているしね」
「今日は高校入試の準備で半ドンだし。一、二年はともかく、学校に来る三年は少ないよな」岡山君もそう言った。
「鈴木はさ、大学にも進まないんだからさ、学校くらい休まずに来いって俺は言いたいよ」
福地君が、また和菓子さまが大学に進まないことを、愚痴りだした。慶子さん以外のみなは、呆れたような顔で福地君を見る。
「そういえば鈴木。近々京都に行くって言っていたよな。それが、今日なんじゃないの?」
北村 颯君の言葉に、福地君がわざとらしくため息をついた。
「はぁ。もう、そっちの人、気取りですか」
そう言うとチョコレートを乱暴に口に入れた。
「聞き捨てならないな。そっちの人って、どういう意味よ」
山路さんは、福地君に問いながらも、慶子さんの顔を見た。慶子さんは知らないとばかりに、首を振る。
「鈴木、春から京都だろう。東京の店か京都かで迷っていたらしいけど、京都だってさ。京都だよ? 柏木さん、なんで鈴木を止めなかったの」
「ごめんなさい。わたし、知りませんでした」
和歌山君が丸めた雑誌で、福地君の頭を叩く。ポンと鳴る軽快な音とは反して、その場はしんと静まった。
京都。
あぁ、そうか。京都か。
京都。
和菓子さまは、一人、京都に行くのだ。
学校の帰り道、まだ明るい町を慶子さんは歩いていた。両手には、冬の風に揺れるスーパーの袋。寒さと考え事のため、俯きがちだった慶子さんの鼻に、ふいに爽やかな花の香りが舞い込んできた。
ぱっと顔を上げると、こぼれるほどの白い花をつけた、しだれ梅だった。梅はまるで自分の生命力を誇るかのように、冬の青い空の下で白き花を咲かせていた。
梅の枝には二羽の緑色した鳥がとまっていた。鳥はその嘴を、繰り返し梅の花の中に入れていた。
――鳥が、花の蜜を?
びっくりして立ち止った慶子さん。しかし、なんとその鳥の可愛らしいことか。緑色の鳥だから、鶯だろうか?
「メジロは、梅の蜜が大好きなんだよ」
「――こんにちは」
慶子さんに話しかけてきたのは、洒落た着物姿の御隠居さん。「寿々喜」の先代で、和菓子さまのおじいさんだ。
「こんにちは、柏木さん。メジロだけでなく、ぼくもここの梅ね、毎年楽しみなんだよね」
「わたし、鳥が花の蜜を吸うなんて知りませんでした」
そう言いながら慶子さんは、花から花へと移り、蜜を吸うメジロを眺めた。
「そうだね。ぼくも、以前は知らなかったよ」
御隠居さんは慶子さんに合わせるかのように、そう言った。
「メジロと梅、絵のようにきれいです」
「そうだね。ぼくも、しばらく見惚れちゃったよ」
ふふふと、御隠居さんが笑う。
「わたし、もしかしたらこの鳥は鶯なのかなって思いました」
「鶯はね、歌は聞かせてくれても、姿はなかなか見せてくれない恥ずかしがり屋さんなんだよ。その点メジロは、自由で大らかだね。柏木さんは、どっちなのかなぁ」
御隠居さんは、慶子さんを見下ろしてきた。
「わたしは、鶯でもメジロでもないです。わたしは、何者でもないんです」
まだ自分は何者でもない。ようやく、学びたいことを見つけただけで、山路さんや、常盤さんが持つような目標はまだない。
「学君、京都に行くって決めたね」
御隠居さんの、自分とは違う色の瞳を慶子さんは見つめた。
慶子さんは、その深い深い瞳の中に、落ちてしまいそうになった。
何もかも話してしまいたいような、そんな気持ちになった。
――何も知られてはいけないし、知らせる必要もない。
慶子さんは、ぎゅっと口角を上げた。
「はい。剣道部のみんなで、応援しています」
「そう。ありがとうね」
御隠居さまは、ふっと目じりを下げた。その顔は、確かに笑っているはずなのに、どこか悲しそうにも見えた。
そして、二月の終わり。
「柏木さん! 常盤が、やったよ、やりましたよ!」
山路さんの声が朝の空にとける。彼女の後ろでは、長い試験を乗り切った常盤さんが照れくさそうに笑っていた。
学校に向う道の途中での吉報に、慶子さんは思わず常盤さんに抱きついた。
二月、如月、冬の月。
少女たちの季節は、大きく動き出した
*こなし…あんと小麦粉や米粉と混ぜ、蒸したもの。しっかりとした歯ごたえ。
*練り切り…あんの繋ぎに求肥、寒梅粉、つくね芋を使い、練り混ぜたもの。「和菓子の絵事典」(PHP研究社)より要約
☆一般的には、「こなし」は京都を中心とした関西方面で、「練り切り」は関東で、ともに上生菓子を作る時に使われますが、関東でも京都から移ってきたお店や、修業先が京都だった場合は「こなし」を使われる場合もあるようで、いろいろです。ちなみに、「虎屋」さんでは「こなし」のことを「羊羹製」と呼ぶそうです。
*雪見障子…障子の一部が(私は知っているのは下の方が)ガラスになっていて、障子部分を上下に開け閉めできるもの。障子を開けなくても、下の部分を上げると、外が見えるのです。便利。