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16・春隣、恋隣 / (一月)

今回の物語は、事故や病気についての記述が多くなりました。

読まれるかたのお立場によっては、辛い思いや、気分を害する可能性があります。

ですので、申し訳ありませんがご自身の判断で読んでいただきたいと思います。

尚、次回の物語の前に、今回の簡単なあらすじを載せることで今回お読みいただけなかった方へのフォローとさせていただきたいと思います。

よろしくお願いします。

 睦月、一月、はじまりの月。

 高校生活も、あと三月みつき足らず。


「ややっ、大変だって!」 

 福地ふくち 裕也ゆうや君が焦ったように剣道場にやってきた。彼は、道場に入る前に素早く一礼をすると、稽古が終わり面を外している部員に向い焦ったようにそう言った。

「遅いよ。練習中に職員室に呼ばれるなんて、福地、なにしたわけ?」

 頭に巻いた手拭いを外しながら、山路やまじ あかねさんがあきれたように聞く。

 冬の道場は底冷えがする。袴越しに感じる床の温度は、剣道を始めたことで初めて知った冷たさだった。和歌山わかやま 真司しんじ君が、顧問の山田 正文(やまだ まさふみ)先生に「床暖房にして下さぁい」と直訴したのは、一昨日だ。慶子さんはそのやりとりと思い出しくすりと笑った。

「や、や、や、山田先生が」

 慶子さんは、自分の頭の中を読まれたかのような「山田先生」の名前にどきりとした。みなが一斉に顔を上げ、福地君を見る。

「落ち着け、福地」

 低い声で北村きたむら はやて君が言う。

「あぁ、うん。ええと、先生がさ、山田先生が、学校のすぐ側に横断歩道があるだろ、あそこを渡っていたら、車にはねられたって」

 道場がしんと静まる。

「あんたが職員室に呼ばれたのって、そのことで?」

「そう。それで、救急車で運ばれたって。な、なぁ。山田先生、大丈夫だよなぁ、なぁ?」

 そう福地君から投げられた言葉を返せる者は誰もなく、慶子さんも隣に座る安井さんと顔を見合せながらも、何も言えなかった。


 その後みなで寄った職員室でも、それ以上の情報は入っておらず、剣道部の面々は不安な思いを抱えたまま帰路に着いた。

 

「……救急車」

 自身の手で救急車を要請したことがある慶子さんは、暗い気持ちになった。

 そして、ぶるっと震えると、首元に入りこむ風を避けるためにマフラーの位置を少し上にずらした。

 倒れた母親が救急車で運ばれ、のちに入院、そして手術となり。

 ――手術。

 慶子さんは、手術に関するあれこれも思い出していた。

 手術の前に署名をする、いくつかの書類。

 手術は勿論のこと、輸血や麻酔に関しても、生じる可能性のあるデメリットがそこには記されていた。

 それを初めて目にした時のおののき。

 慶子さんは小さく首を振ると、母親に頼まれた買い物を思い出し、駅近くの文具屋に寄った。手袋とマフラーを外しカバンにしまい、店の入り口で小さな買い物かごを手にする。そして、真っ直ぐとお目当てのコーナーへと向った。そこには、最近、母親お気に入りのメモ帳があった。慶子さんは、何冊か手に取るとそれらをかごに入れた。

 その後もつらつらと店内を見ていた慶子さんは、あることを思いつき、店の奥へと進んだ。そして、しばらくその場で考えた末、小さめの折り紙の束を、あるだけ全てかごに入れた。


「あれ? 柏木さん?」

 ふいに後ろから声をかけられた。和菓子さまだった。

 和菓子さまは、視線を慶子さんから、そのかごの中へと落としていた。かごの中には、こんもりと積まれた折り紙がある。

「もしかして、山田先生に?」

 和菓子さまは慶子さんの返事も聞かずに、その買い物かごを慶子さんの手から取った。

「この色紙しきしも、山田先生への寄せ書き用なんだ。福地からメールがきてさ、自分が買い忘れたからって。ぼくに買えって」

「折り紙は、山田先生用ですが、これはわたしが個人的に買うつもりだったんです」

 慶子さんは和菓子さまに取られたかごに手を伸ばした。和菓子さまは、ふいとかごを慶子さんの手の届かない方へと動かす。

「千羽鶴ってさ、本当に千羽折るのかな?」

「わたしは、そうしました」

「ふーん、そうなんだ。千羽か。となると、まぁ、部員一人当たり何羽折ればいいんだ。あぁ、でも、部員だけじゃなくて、学校全体に呼びかければ、簡単に集まるか」

 そう言うと和菓子さまは、ぶつぶつと計算を始めた。

「それは違うと思います」

「どういうこと?」

 和菓子さまは、ん? という顔で慶子さんを見た。

 その和菓子さまの顔を見ると、慶子さんは今から自分が言おうとした言葉が、お腹の底まで引っ込んでしまったのを感じた。

 言わないほうがいいのだろうか。――でも。

「ノルマじゃないので」

 慶子さんは弱々しい声でそう言うと、直ぐに俯いた。こんなことを言って、偏屈者だと思われただろうか。

 言ったことは後悔してはいないけれど、でも、それとは違う気持ちで、こんなことを言う自分は融通がきかないようで嫌だった。

「ノルマか。……ほんとだね」

 しかし、和菓子さまから返ってきた言葉は、慶子さんの意見を否定するものではなかった。 慶子さんは顔を上げた。自分の気持ちが通じたのだろうか。

「ごめん。ぼくは、焦ってた。柏木さんが折り紙をたくさん買っているのを見て、あぁ、そうか、折り鶴かって思って。そう思ったら、一刻も早く、それこそ明日にでも、それを山田先生に届けたくなってさ。でも、そうだよな、ダメだよな。そんな折り鶴じゃ、意味ないな」

「早く届けたい気持ち、わかります」

「柏木さんに、嫌なこと言わせた。ごめん」

「そんな、とんでもないっ」

 慶子さんは、自分の思いが和菓子さまに伝わり嬉しかった。嬉しくはあるものの、こうして二人で向かい合っている状況は、恥ずかしくもあった。

 許されるものなら、この場から逃げだしてしまいたいほどだった。しかし、そういった行動はあまりにも不審である。

「つまりさ、ノルマじゃなきゃ、いいんだよね。……というか。まさか柏木さん、一人で千羽もの鶴を折るつもりだったの?」

 和菓子さまの言葉に、慶子さんははっとした。

「一人で折るとか、そこまでは、考えていなかったです。とにかく、千羽鶴を山田先生に渡したい思いと、だったら折り紙を買わないとって思って」

 事実慶子さんは、大量に折り紙をかごに入れたものの、その先の展開についての具体的なプランは全くなかったのだ。

 家に帰ったら、早速折ろうとは思っていたが。

「うん、わかった。なら、ぼくは賛同者ね。で、色紙を買えって言ったくらいの福地だから当然奴も賛同すると思うし」

 和菓子さまはそう言うと、なにかを考えるかのように黙った。

「……たとえば、部内でも学校でも、有志ってことで気持ちのある奴らにお願いするっていうのはどうかな。ぼくがさっき言ったような、一人何枚とかいったノルマはなし」

 どうだろうかと、和菓子さまは慶子さんの顔を覗き込んできた。

 顔を逸らしたいと思いつつ、そうするのはとても失礼だという気持ちもあり、慶子さんはかろうじてなんとか顔の位置を動かさずに、和菓子さまの言葉に頷いた。  

「はぁ、よかった。じゃ、折り紙と色紙は、ぼくがまとめて払うってことで。……あれ、これ」

 和菓子さまの言葉に、慶子さんはかごの中に母親に頼まれたメモ帳が入っていたことを思い出した。

「それ、わたしのです」

 そう言う慶子さんに、和菓子さまはかごからメモ帳だけを取り出し、渡してくれた。


「そういえば、柏木さん。お正月に風邪を引いたんだってね」

「そうなんです。だから『花びら餅』の受け取りは、母にお願いしたんです」

 新年の上生菓子である「花びら餅」は、紅色の薄い菱餅の上に甘く煮たゴボウとみそ餡を載せ、餅でぱたりと閉じた上品なものである。

 花びら餅は葩餅はなびらもちとも書き、菱葩ひしはなびらという正月の行事食に由来しているという。

 菱葩の歴史を辿ると「歯固はがため」に至り、それはその名の通り、猪、鹿、大根、瓜、押鮎おしあゆなどの固い食材を食べることで長寿を願ったもので、菱葩はその「歯固」が、儀式化する過程で生まれたそうだ。

 現在のようなかたちになったのは江戸時代とされ、中に入るゴボウは押鮎の見立てらしい。

 また、ゴボウは深く地に根を張ることから、家の土台をしっかりし一家の繁栄を築くとされ、その長さは長寿にも繋がり、縁起のいい食材とされ使われたようだ。

「寿々喜」では、「花びら餅」は毎年予約制だそうで、慶子さんは張り切って注文した。ところが、当日に慶子さんも父親も揃って咳の酷い風邪を引いてしまったため、急遽、受け取りを母親に頼んだのだった。

 そこで慶子さんは、はたと思った。

 確かに慶子さんは、風邪を引いていた。

 けれど、それをどうやって和菓子さまは知ったのだろう。

 母親が、わざわざそのことを和菓子さまに伝えたとは、どうしても考えられない。

 窺うような眼差しを、慶子さんは和菓子さまに向けた。

「お母さんがいらしたとき、聞いちゃったから。『柏木さん、風邪でも引いたんですか』って。そしたら、お母さんが頷かれて」

 あぁ、そういうことか、と慶子さんは少し安堵した。

 和菓子さまもそれ以上の話はしてこなかったので、この話はそこで終わった。

 

 

 昼休み、三年B組の教室の入り口に、二人の女子生徒が立った。

「柏木さんっている? 山田先生の千羽鶴を折りたいんだけど」

 慶子さんは、席から立ち上がり訪ねてきた二人にぺこりと頭を下げると、折り紙の入った袋を持ち教室の入り口へと向かった。

 休み時間になると、こうして同じ学年の生徒たちが慶子さんのところにやって来るようになった。

「とりあえず、五十枚欲しいな」

 慶子さんが言われた枚数を手早く数え渡す。

「折った鶴は、うちのクラスの前にあるあの段ボール箱に入れてください」

「了解。なるべく早く持ってくるわ」

 女子生徒たちは、教室の前に置かれた段ボール箱を確認すると、自分たちの教室に戻っていった。

 幸いにも山田先生の怪我は命にかかわるものではなく、その報せを福地君から聞いた剣道部一同は、ほぉと安堵したものだ。

 しかし、全身を強く打ったためにできたあちこちの打撲と足の骨折により、そのまま入院という運びになったらしい。

 先生の骨折箇所は大腿部で、結果としては手術をしなくてはならなかったようなのだが、それも上手くいったようで術後の様子も良好だという話だった。

 他の先生にも相談し、剣道部としてはもう少し先生が落ち着いてからお見舞いに行くことに決めた。千羽鶴を持って。


 有志で折る千羽鶴の事は、まず慶子さんと和菓子さまが担任の今井いまい 洋子ようこ先生に相談をした。今井先生と山田先生は、職員室で隣同士の席なのだ。

 そして、担任から校長に上がり許可が出たため、慶子さんたち剣道部が窓口となって山田先生への千羽鶴の呼びかけを行うことになった。

 しくみも作った。折られた鶴は、学年ごとに段ボールで集める。段ボールの設置場所は、剣道部員の折り鶴担当者のいるクラスだ。

 箱は、登校した折り鶴担当者が、毎朝職員室から自分のクラスに持ちこみ、下校の際は再び職員室に戻した。職員室には、さらに大きな箱があり、毎日集まった折り鶴はそこに溜められた。

 山田先生とは接点のなかった慶子さんのクラスメイトも、慶子さんが休み時間に鶴を折る姿を見て「参加させて」と、声をかけてきてくれた。

 休み時間になると、慶子さんの周りには人が集まり、そして、おしゃべりをしながら折り鶴を折る。そんな光景が日常になっていた。

 慶子さんは鶴を折る前に、折り紙の内側に言葉を書いていた。それは「早く治りますように」だったり「痛みがなくなりますように」というものだ。当然、折ってしまえばその言葉は見えない。

 そんな慶子さんの折る鶴を、クラスメイトたちは「祈りいのりづる」と名を付けた。そして、それもまたたくまに学校中に広まり、山田先生への折り鶴には、生徒たちからの隠れたメッセージが込められるようになっていったのだ。

 

 放課後、稽古が終わった後、一年生の女子部員たちが慶子さんと女子部部長の山路やまじ あかねさんの周りに集まってきた。

「山路先輩、柏木先輩。お話があります」

 何かを察した山路さんは、表情を部長の顔に変えると「どうしたの?」と問う。慶子さんも、いよいよかと思った。

「女子部の部長、副部長を決めました」

 緊張した顔でそう話すのは、安井さんだ。山路さんは安井さんの顔を見ながら頷くと、話を先に進める様に促した。

「部長は、わたし、安井がします。そして副部長は」

 そう言うと安井さんは、隣にいた一年生の背中を押した。

「佐藤がやります」

 佐藤さんは、今年入部した剣道初心者の一年生だ。

 正直、経験者の八坂さんがやるものだと思っていた山路さんと慶子さんだったが、安井さんはじめ一年生の顔を見ると、これはこれでいい選択だったのだろうと思った。

「山路先輩と、柏木先輩を目標にがんばります」

「うん、頑張って」

 山路さんは、短いながら一言一言に力を込め、一年生にエールを送った。                

 

 制服に着替えた慶子さんと山路さんは、寒空の下駅への道を歩いていた。

「はぁ、いよいよ引退かぁ」

 さっきの凛々しさは何処へ。首に乱暴にマフラーを巻きつけた山路さんは、ふにゃふにゃと体を揺らしながら、慶子さんにそう言った。

 今月で三年生は引退だ。

 多くの部では、既に三年生は引退をしていたので、一月引退の剣道部は特別といえた。

「その頃には、山田先生も退院できるでしょうか」

「心配だよね。わたしたち、山田先生を幽霊顧問なんて言っていたけど、まぁ、確かに幽霊顧問なんだけど、感謝もしてるんだ」

 山路さんは少し照れたようにそう言った。

「あの先生、全くの文系で運動なんて苦手も苦手で。先輩に聞いたところによると、定年で辞めた顧問の後に誰も適任者がいなくて。体育の先生や運動の得意な先生は既に他の部の顧問だったらしくて。そんな中で先生が顧問になってさ。確かに稽古にはあまり顔を出さないけど、対外的なこととかそういったことは丁寧にやってくれたもん」

 山田先生が和菓子さまの進路問題で担任からの相談を受けていたり、仲裁に入ったことは記憶に新しい。

「幽霊顧問」でも、山田先生は生徒からは信頼されている先生なのだ。

「それにしてもさ! 柏木さんって凄いよね!」

「凄い?」

 何か凄いことをしただろうか。慶子さんは今日一日の自分の行動を振り返る。

「折り鶴よ。あ、違うか。祈り鶴、だっけ? 学校あげてのキャンペーンみたいになったじゃない。不謹慎だけど、剣道部の好感度急上昇中よ」

「それは、なんというか、わたしだけじゃなくて、みんなが協力してくれたから」

「みんなじゃないでしょう。鈴木の旦那ね。あいつ、やるときはやる男だね」

 山路さんの言葉に、慶子さんはなんだか恥ずかしくなった。

「あと、柏木さんがやってた折り紙の裏に書く言葉? 普通はさ『元気になって下さい』とか書くじゃない? なのに福地ったら『あんまん奢って下さい』だって。わたし、びっくりして、あんた何書いてんのよ! って怒鳴ったら『だって、奢ってくれるってことは元気になったからこそできることだし』なんて言って。そしたら、他の男子もそれを真似して、『焼き肉』とか『ふかひれ』とか。折り紙がまるで食べ物屋さんのオーダーみたいになっちゃったのよ」

 怒りながらも、山路さんは楽しげだ。

「山路さんは、なんて書いたの?」

「……えっ。やだ、柏木さん。わたしがそんなこと書くわけないでしょう」

 慌てる山路さんを、慶子さんは面白いなと思いじっと見つめた。

「あ、あぁ! 書きました。ショートケーキって書いちゃいましたよ。柏木さん、わたしの事を食いしん坊だと思ったでしょ?」

 くすくす笑う慶子さんのわき腹を、山路さんはつんつんとつつく。

「ま、いいんだけど。だからさ、つまり、そういった発想っていうの? 折り鶴だけじゃなく、折り紙にメッセージって。それ、いいなぁと思って。わたし、柏木さんのそういうところ、ほんと尊敬する」

 慶子さんは、少し黙ったあと、大きく一度深呼吸をした。


「わたし、以前にメッセージ付きの折り鶴を折ったの」

 山路さんが慶子さんの顔を見る。

「あのね、わたしの母は、長いこと病気で入退院を繰り返していたの。わたしは、『祈り鶴』を母の為に折ったの」

 慶子さんを見る山路さんの目がまんまるになった。でも、その目の中には、憐れみも好奇心も、そういった慶子さんが恐れていたものはなかった。

 慶子さんは、山路さんの姿に、初めて会った時の和菓子さまを思い出した。

 あの時は、まさか同級生だとは思わずに、母親の話をしてしまった。

 山路さんと和菓子さまは同じだった。

「中学一年生の時なんだけど、母が倒れたの。母の体調がすぐれないっていうのは、前々からわかってはいたんだけど、わたし、あまりそのことをシリアスに考えてなくて。たまたまそうなのかな、すぐに元気になるのかなぁ、位にしか考えてなくて。ある日、学校の帰りに、本屋さんやら図書館やら散々寄って家に帰った時があって。そうしたら、玄関を開けたら」

 慶子さんは、ふぅと息を吐いた。

「玄関に、母が倒れていて。母は、病院に行こうとしていたみたいで、保険証とか診察券とか側に落ちていたカバンにあって。遅くなったとはいえ、父もまだ帰ってくる時間じゃなくて。でも、母の様子は、明らかにおかしくて。父を待っている場合じゃないって、救急車に電話して」

 山路さんが慶子さんの左手をそっと握った。

「それから、検査とかいろいろあって。そうしたら一つじゃなくて、なんかいろいろ病気が見つかって」

 山路さんの手を慶子さんがぎゅっと握り返す。

「入院とか手術とか、ドラマでしか見たことがない生活が始まって。それが落ち着いたのが、高校二年生の終わりかな」

「それで、お母様。今は、どんな状態なの?」

 静かな声で山路さんはそう聞いてきた。

「うん。落ち着いている。勿論、病院には定期的に通って、検査もしているんだけど。病気によっては、手術して数カ月で診察も終了って場合もあるそうだけれど、母みたいに、何年か続けて通わないといけない病気もあるみたい」

 そう山路さんに母親の様子を話しながら、慶子さんはいつになく心が穏やかで軽くなるのを感じていた。


 ――もうすっかりよくなったの?


 母親の友人や、親戚からでさえよく掛けられるこの言葉を、慶子さんは苦手に感じていた。 その言葉は、慶子さんに「YES」しか求めていないように思えたからだ。また「すっかりよくなる」という言葉の意味が、慶子さんにはよくわからなかった。

 何をもって、すっかりよくなるという状態なのか。

 そして、すっかりよくならないと、いけないのか。

 母親が自分たちのところに帰ってきてくれただけでも、本当に嬉しい慶子さんにとって、その質問には何の意味も見いだせなかったのだ。

「山路さん、あのね」

 そう言うと慶子さんは、母親が今も抱えているある状況について、初めて自らの意思で人に話しだした。

 

 山路さんと話し込んだ慶子さんは、「寿々喜」の閉店時間近くに暖簾をくぐった。お店には、女将さんがいた。すっかり馴染みの挨拶を交わし合う。

 慶子さんは、店内の暖かさに顔をふぅと緩めると、上生菓子の前へと歩き出した。菓子はかろうじて、各種、一つずつ残っていた。 

 一つ目は、流線形の白い練り切りに、緑と黄色のぼかしの入った蕾のような菓子。名前はカタカナで「スノードロップ」とある。このモダンさは。

「先代が作った『スノードロップ』です。この時期に咲く、可愛らしいお花なんですよ。厳密に言うと違うらしいのですが、日本名では『待雪草』や『雪の雫』と呼ばれることも多いそうです」

「スノードロップ」はその名の通り、今にもしたたり落ちそうな雪の雫のように慶子さんには思えた。

 その落ちる少し前の姿が花となり、菓子となり、永遠となり……。

 もう、これは絶対に買わねばと、慶子さんは鼻息を荒くした。


「母さん、電話だよ」

 その声とともに、和菓子さまが子機を持ち女将さんの後ろからひょいと顔を出した。  そして、慶子さんを見るとぺこりと頭を下げてきた。

「学、お店をお願いね」 

 女将さんは慶子さんに頭を下げると和菓子さまの背を押し、慶子さんの前に立たせた。

「いらっしゃいませ」 

「こんばんは」

 和菓子さまも帰ったばかりのようで、制服の上着を脱いだだけの姿だった。 

 しーんと静まり返った店内。

 柱時計だけが、元気に時を刻んでいた。

 慶子さんは黙ったまま「スノードロップ」の隣にある「丹頂」と名のある、白くてまん丸な菓子を見た。 

 その視線に気がついた和菓子さまが「雪平せっぺいで中は白餡です」と説明をしてくれた。

 雪平、雪平、と慶子さんは頭の中で繰り返す。

 先日買った本の中に、雪平の説明があったはずだと思い出す。

 雪平とは、白玉粉と砂糖で作った求肥ぎゅうひに、卵白で泡だてたメレンゲを入れ、さらに白餡を入れて作ると書いてあった気がする。

 洋菓子でも使うメレンゲを和菓子でも使うんだなぁと思った記憶が、蘇った。

「丹頂」は、鶴をかたどった菓子だった。赤いくちばしと小さな黒い目が可愛らしい。

 ふふふ、と思いながらその横に視線を移すと、きんとんでできた「春隣はるとなり」という菓子があった。

 黒いきんとんの上には、緑色と黄色のきんとんがちょこんとのり、その上には金粉がちらちらとかけられていた。

「春、ですか?」

「春の隣にある季節。すなわち、冬っていう意味です。土の中から福寿草が顔をのぞかせる様子なんですよ」

 春隣。

 あぁ、なんて希望のあるいい名前なのだろう。

 寒く辛い季節を乗り切りたいと願う人々の思いが詰まっている。

 思えば、病気や怪我もそうだ。

「痛みがなくなりますように」と願うのは、今その人が痛みを感じていると思うから。

「元気になって下さい」と願うのは、今その人に元気がないからだ。


「柏木さん」

 和菓子さまが、同級生の声でそう話しかけてきた。

 珍しいなと思い、慶子さんは「はい」と返事をした。

「ぼくは、柏木さんのお母さんと話したことがあるんだ。もう、随分前。中学の入学式だった」

 思いがけない話の展開に、慶子さんはびっくりした。

「柏木さんが同じ中学だっていうのは、入学式に向う途中に、ぼくたちが使う駅で見かけて知っていた。やけに仲のいい親子だなって思ったから。うちは、店があるから、来たのは母親だけだったけど」

「中学校の入学式ですか? たしかに、父と母と三人で行きました」

 けれど、慶子さんの記憶の中に、和菓子さまはいない。

「その駅で、母親同士は子どもが同じ学校だって気付いたみたいで、お互い頭を下げていたよ」

「そうだったんですね。すみません、わたし、自分のことで頭が一杯だったと思います」

 入学できたのは大金星だと言われ、緊張して臨んだ入学式だった。母親同士のやりとりさえ見ていなかった。慶子さんは青くなった。

 和菓子さまの話はまだ続く。


「入学式が終わって、母親と正門で待ち合わせしていたとき、柏木さんたち家族が通って。そこで、柏木さんのお母さんが、わざわざ戻ってきてぼくに言ったんだ。『同じ駅だったよね。うちの娘はカシワギ ケイコっていうの。よろしくね』って」

「そうだったんですね。すみません。母は、とてもフレンドリーなんです」

 慶子さん、今度は赤くなった。

「明るいお母さんだよね。でもさ、同じ学校っていっても同じクラスでもないし、よろしくと言われてれも、一体どうすればいいのかわからなかった」

 和菓子さまの言葉に、慶子さんはそれもそうだろうと共感した。もし、逆の立場でも、慶子さんが和菓子さまに「よろしく」するなんてことは、考えられないだろう。

「しばらくして、柏木さんの表情が、入学式の頃とは変わってきたことに気が付いた。もしかして、クラスで何かあったのかなって、柏木さんには悪いと思ったけど、柏木さんと同じクラスだった奴に訊いたこともあるんだ」

 和菓子さまが、自分の心配をしていた? 

 慶子さんは、驚きを通り越し、なにも考えられなくなった。

「心配するような事実はなかった。それには、安心したんだけど。でも、ぼくがそんなことで安心したからって、柏木さん表情が明るくなるってことでもなくて」

 自分が知らないところで、案じてくれる人がいた。慶子さんは、胸がしめつけられるような気持ちになった。


「でも、何もできなくて。そうこうしているうちに、ぼくの両親から産みの母親の事を聞いて。……受け入れるしかないんだけど。でもどこかで、このどうしようもない思いをぶつけたいって気持ちもあって。そんな時、自分の顔を鏡で見て驚いたんだ。この表情は、同じだって。柏木さんと同じだって。悲しいとも、苦しいとも、悔しいとも。でも、それを受け入れるしかない顔だって」

 慶子さんは、和菓子さまの声に耳を傾け続けた。そして、その時の自分の心情を思い出していた。

「そうしたら、いろんなことが繋がった。うちの店の前を、買い物袋やクリーニングの袋を重そうに持って歩く柏木さんがいたなぁとか。保護者会には、柏木さんのお父さんが来ているって話を聞いたなぁとか。そんな漠然と見知っていたことが、ようやく繋がった。もしかして、柏木さんのお母さんに、何かあったんじゃないかって思った」

 まさにその通りの状況だった慶子さんは、またまた驚いた。

 けれど、髪を振り乱し、買い物袋やクリーニング済みの服を運んでいる姿を見られていたことはショックだった。時間をまき戻したい。

「そうなると、また柏木さんのお母さんの言葉を思い出したりして。ぼくは産みの母の話を聞いたあと、気持ちがくさくさして、荒れて。でも、そんな時でも部活に行くと、変な奴らばっかだけど、一緒にいると気分が紛れて、気持ちが救われたから。だから、柏木さんにもそんな場所があれば少しはいいのかなぁと思って。……そう思うだけだったんだけど。でも、あの日、高三になる春休み。柏木さんがうちの店の前をうろうろしててさ。心臓が止まりそうなくらい驚いた」

 つまり、あのとき、和菓子さまはすでに慶子さんが誰だか知っていたのだ。

「見たら、柏木さんの表情も穏やかになっていて、部活にも興味がありそうだったから、だったら剣道部に誘えって思ってさ。ぼくが柏木さんを剣道部に誘った理由、曖昧なままにしていたけど、これがそうなんだ。ただ、ぼくが部活を休む理由にも使ってしまって……。それは本当に反省している」

「いえいえ」

 慶子さんは手を振った。そして、まじまじと和菓子さまのことを見た。

 不思議だなと思った。

 慶子さんが和菓子さまを知らない頃から、和菓子さまは慶子さんを知り、慶子さんの様子の変化を心配してくれていたのだ。

 どれほど、目の前のこの人に、自分は心配をかけてきたのだろうか。

 そして、自分はこの人に何を返すことができるだろうか。

「これ、お正月に柏木さんのお母さんからいただいたんだ」

 和菓子さまはそう言うと、ポケットの財布から一枚のメモを取りだした。

 それは、慶子さんがこの間文具店で買ったものと同じ柄。

 

 知っているのだ、和菓子さまは。

 

 メモに書かれた「ありがとう」。

 それは、母親の筆跡だった。

 

 慶子さんの母親は、病気の後遺症で声帯の機能に問題が生じた。声が出すのが困難になったのだ。山路さんに伝えた、慶子さんの母親が今現在抱える状況とはそういうことだ。

 おしゃべりだった明るい母親の声は、失われた。代わりに、聞きとりが困難な擦れた「音」のような声しか母親はだせなくなった。けれど、母親は諦めなかった。リハビリを続け、なんとか「声」を手に入れた。

 とはいえ、その声の大きさは、限りなく微かだ。

 基本、電話での会話は無理だ。会話も、静かな場所でその声に聞きなれた家族ならばできる程度のものだった。雑音の多い外で人と話すのは、母親の声がそれらによってかき消されてしまうため困難であった。

 そのためのメモ帳だった。

 とはいえ、外でそのメモが使われるときは、買いたいものや要望を示すためであり、こうして自分の気持ちを家族以外に向けて書くということは、非常に珍しいことだと思えた。


 でも、母は書きたかったのだろう。

 慶子の母親として「ありがとう」と。

 母親もまた、彼を覚えていたのだ。


 慶子さんは、和菓子さまをまっすぐに見た。

「ありがとうございます」

 メモを見せてくれて、そして母親からのメモを受け取ってくれて。そんな気持ちを込めてお礼を言うと、和菓子さまは、少し困ったような顔をした。

 この話をするのは、和菓子さまにとり、相当に勇気がいったことだったのではないだろうか。母親が和菓子さまにメモを渡さなければ、中学の入学式からの一連の話をする必要はなかったのだから。

 いや、違う、と慶子さんは思った。和菓子さまには、言わない選択だってあったはずだ。

 でも、話してくれた。


 慶子さんは、自分が和菓子さまを深く信頼していると自覚した。

 いや、違う。信頼だけじゃない。

 彼に対して、それ以上の想いがあることに、自分の心のありかに、慶子さんはようやくたどり着いたのだ。


 わたしは、和菓子さまがとても好きなんだ。


 冬の隣に、春があるように。

 慶子さんの恋も、いつのまにか隣にあった。

 そう、まるで二つ並んだ教室の机の様に。



 睦月、一月、はじまりの月。 

 春隣、恋隣。        

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