14・しんぼうの木練柿(後編)
柏木 慶子さんは、付属大学への進路希望用紙に「文芸学部 文化史学科」と書き込むと、父親に渡した。その用紙を母親が覗き込む。
「決めたんだな。よし、頑張って」
父親が保護者欄にサインをする。慶子さんは、気が引き締まる思いがした。
先月行われた、大学の学部説明会で、慶子さんは嬉しい出会いをした。文芸学部文化史学科だ。事前に配られた資料には、過去から現在においての人々の暮らしに密接した風習や風俗について学ぶとあった。
和菓子をきっかけに、日本の行事にも目が向きだした慶子さん。ひそかに、文化史学科の説明会を楽しみにしていた。
その説明会で、なんと菓子に触れる映像が出てきたのだ。一瞬ではあったが、慶子さんは見逃さなかった。自分が興味を持てることと、所謂「学問」とが重なる経験は、今までなかった。
興奮しながらその日のうちに、説明会で聞いたことを両親に話した慶子さん。大学では是非ここに進みたいと伝えた。しかし、両親からはストップがかかった。
一時の思いで決めるのではなく、少し冷静になって他の学部や学科も検討するようにと、言われたのだ。
言われてすぐには、素直にそうは思えなかった慶子さんだった。けれど、自分と同じように進路で迷うクラスメイトや部活の仲間との会話の中で、両親の意図も理解することができた。
また「何がなんでもこの学部」と、熱くなっている同級生の姿に自分を重ね、客観的にもなれた。慶子さんは、改めて各学部についての説明を読み、ネットでも調べ、先生にも話を聞きに行き、希望者が参加できる現役大学生を囲んでの座談会にも出席した。
それでもやはり、文化史学科で学びたいと思った。考えに、考えて出した慶子さんの答えを、今度は父親も母親も応援すると言ってくれた。
「亥の子餅、亥の子餅」
呪文のようにつぶやきながら、慶子さんは軽やかな足取りで「寿々喜」に向っていた。
遅まきながら購入したイラスト付きの和菓子の本に、十一月の和菓子として「亥の子餅」が紹介されていたのだ。
イラストによると、「亥の子餅」はふっくらとした鶏卵に形が似ていた。餅の形も素材も、例のごとく時代や場所により違うらしいが、最近目にすることのできる多くは鶏卵型で、餅のまわりにはきな粉が付いているようだ。
きな粉かぁと、慶子さんは思う。そろそろ、切り餅を買う季節になってきた。その時は合わせてきな粉も揃えたい。きな粉の付いた甘い餅を口に含んだことを想像すると、幸せな気持ちになってしまう。そこで、明らかににやついているであろう自分に気付きはっとした。このにやにや顔で歩き続けていたら、怪しい人になってしまう。
慶子さんは、努めて思考を真面目な方へと戻すべく、さっき本で読んだ「亥の子餅」についてのおさらいを始めた。
「亥の子餅」とは、旧暦十月の初の亥の日食べる餅で、万病を払う意味と、多産な猪にあやかり子孫繁栄の意味もあるそうだ。源氏物語にも出てくる菓子だということで、どんな場面に出てくるのか、読んでみたいと慶子さんは思った。
読んではみたいが古典だしと、躊躇していたところ、母親から「源氏物語の現代語訳」を勧められた。そうか、その手があったのか。思わず膝を叩いてしまった慶子さん。以前、授業で一部分だけしか読んでいなかった源氏物語と、再び出会う機会が来るなんて慶子さんは思いもしなかった。
和菓子を好きになってよかった。和菓子を好きになったことで、それに繋がる世界にも興味を持つことができるようになった。
今回の進路先然り。
慶子さんは、自分の世界がぐんぐんと広がっていくのを感じていた。
「寿々喜」の暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませ」と、女将さん。
慶子さんの「こんにちは」に、女将さんの目じりが下がった。
慶子さんは、ショーケースに「亥の子餅」があることを確認し満足そうにほほ笑むと、その隣にある柿に目を留めた。
柿の色はとても濃いもので、菓子の名は「木練柿」とあった。読めない人も多いということか、「こねりがき」のふり仮名もある。当然、慶子さんも読めなかった。
「木練柿とは、どういった柿ですか?」
「柿の実が木の枝になったまま熟したもののことを、こう呼ぶんですよ。昔は、お茶の席で菓子として出されたと聞いたことがあります」
「枝になったままの柿の実ですか」
そういえば柿は、買った時から柔らかく熟しているものを除けば、自宅で追熟してから食べることが多かった。つまり、収穫時はそれ程には熟していないのだ。
そして思った。実際の「木練柿」とは、どれほどの甘さなのだろうかと。
「『木練柿』といえば、聞こえはいいけれど、実際に柿の実が枝になったままだと、鳥も食べにくるし、おまけに時期を逸すると熟しすぎて実が落ちてしまうし。なかなか大変みたいですよ」
「本当にそうですよね。どのタイミングで収穫するのか、見極めが難しそうです」
「ふふ。おいしい柿を得るためには、辛抱が必要なんですよね。実が色づくとすぐにでも収穫したくなるのが人情でしょうから」
辛抱か。先日の剣道の試合で、やみくもに打ちに行ってしまった自分は、まさに辛抱が足りなかった。こんな自分では、とてもじゃないけれど「木練柿」は育てられないだろう。
その時、お店の奥から音がした。
「じゃあ、行ってくるから」
リュックを肩からかけた和菓子さまこと鈴木 学君が、ひょこりと顔を出し、女将さんに挨拶をした。和菓子さまは慶子さんに気付と、ぺこりと頭を下げた。慶子さんも急いでそれに倣った。和菓子さまは、どこに出かけるのだろう。
「学、よろしくね。あら、そうだわ。柏木さんもよければ、学と一緒に行ってみたらどうかしら」
和菓子さまと、お出かけ? 女将さんの言葉に、慶子さんはどぎまぎとした。
「どちらに行かれるんですか?」
「学は、酉の市に行くんですよ」
とりのいち、あぁ、酉の市。
十八年の人生の中で、ついぞ出できたことのない単語だった。
「あの、酉の市はこの間もやっていたような気がしますが」
慶子さんは、女将さんと和菓子さまの間で視線をさまよわせる。少し前の、天気予報のコーナーで、色鮮やかな熊手が並ぶ映像を見たことを思い出したのだ。
「それは一の酉だ。今日ぼくが行くのは、二の酉。今年は、二回、酉の市が立つんだ」
酉の市とは、十一月の酉の日に行われる祭りのことを言い、縁起ものの熊手などが売られる。暦によっては、三回ある年もある。
そういえば、テレビでもそんな話しをしていたと思うと同時に、自分とは縁のなかった「酉の市に行く」という行為が、和菓子さまを通して、急に身近なものに感じられた。
「学に、店の熊手を取りに行ってもらうんですよ。もし、柏木さんが酉の市に行ったことがないのなら、話の種に一度行ってみたらどうかしら。楽しいですよ。うちの菓子なら、お取り置きしておきますから」
話を聞くうちに、酉の市に興味を抱いた慶子さん。しかし、乗り気なのはあくまで女将さんで、市に行く和菓子さまに誘ってもらったわけではない。
悩んでいる慶子さんを横目で見つつ女将さんは「学、『最中』と『切山椒』を忘れずに買ってきてね」と、言った。
「あのね、柏木さん。神社の側にね、熊手の模様がついた、最高においしい『最中』を売っているお店があるんですよ。図柄も可愛いの。そして、『切山椒』っていうのは、酉の市名物の菓子で、ちょっと大人の味がするんですよ」
ごくんとつばを飲む慶子さん。菓子の話を聞いては、黙っていられない。最中、切山椒。見たい、食べたい。是非とも、お伴したい。慶子さんは、まだそこにいる和菓子さまの顔を見上げた。
「あの、ご一緒してもいいでしょうか」
慶子さんのお願いに、和菓子さまは黙って頷いた。
慶子さんはお店の電話を借りて、父親に酉の市に行くことを伝えた。すると、父親からは一番小さいのでいいので熊手を買ってきて欲しいとリクエストを受けた。
酉の市といえば、東京なら浅草の神社が有名だ。江戸時代から続き、人出も日本一で七十万人とも八十万人とも言われる。慶子さんがテレビで見たのも、ここでの様子だ。
一方「寿々喜」は、毎年、地元の神社に行っているとのことだった。聞くと、店から歩いて二十分もかからない慶子さんも知っている神社だった。ただ、神社は、駅とは反対方向にあるため馴染みがなく、慶子さんはそこに酉の市が立つことさえ知らなかった。
和菓子さまと二人でつらつらと歩くうちに、道路沿いにお祭りでお馴染みの屋台が出ているのが見えてきた。人も増えてきた。神社に近づいて来たのだ。「とうもろこし」「お好み焼き」「ベビーカステラ」などなど、その賑やかさに心も浮き立つ。
神社の入り口の近くに、慶子さんお目当ての「切山椒」の屋台が出ていた。
「いらっしゃい、いらっしゃい! 食べてって!」
お店の女性が、大きな四角い餅をヘラで拍子木のように切ると、さいの目状まで小さく切り屋台の前に置いた皿に載せた。試食用らしい。色は、赤、白、緑と茶もあった。
「いただきます」
和菓子さまが一つ取り、慶子さんを見た。慶子さんも倣って「いただきます」と、手にした。「切山椒」の食感は、のし餅やすあまに似ていた。けれど味は、全く違う。慶子さんの口の中に、ほのかな山椒の味が広がっていった。
慶子さん、目を大きく開いて和菓子さまを見た。和菓子さまが、目を細めて笑う。確かに、これは女将さんの言う通り、大人の味である。
「柏木さんも、買う?」
「はい。是非」
「了解。すみません、二袋下さい」
「まいどね」
和菓子さまとお店の女性のやりとりも、軽快だ。「切山椒」の袋には、おたふくの絵が描かれている。それだけでも、ご利益がありそうな、おめでたさを醸し出していた。
和菓子さまは、買った「切山椒」を慶子さんの分までリュックに入れた。
「自分で持ちます」
「なんで? 帰りも一緒でしょう。ついでだからいいよ。それより、お参りを済ませちゃおうか」
和菓子さまの親切に、慶子さんは甘えることにした。
境内の中も、まるでお正月かと思うほど人が多く、お参りも当然のように並んだ。慶子さんの視線の先に、コートを着込んだ人たちが背中を丸め拝む姿が見えた。
今まで、慶子さんが神様にお願いすることといえば、母親の健康だけだった。けれど、母親が元気になってきた今、改めて何かをお願いするとなると。――成績だよね。
そう。成績の事しかないだろう。実は、来月に行われるテストまでが、大学進学に関係してくるのだ。進学への意欲も満々な今、失敗は許されない。
順番が来た慶子さんは、お財布からごそごそと五円玉を出すと、どうか赤点だけはとりませんようにと祈った。
お参りが終わったので、目的の熊手を買うために参道の脇へ行くと、大きな熊手がトンネルのように道の両側から高く、そして覆いかぶさるようにわさわさと飾られていた。赤や金の飾りをつけた熊手は、とても華やかだ。
夜を待たずに下げられた数多くの提灯には、灯りがともっている。陽の光でもない、かといって蛍光灯の白く明るい光でもない柔らかなオレンジの光が、慶子さんを包んだ。
まるで、おとぎ話の世界に迷い込んだようだ。初めて来たのにどこか懐かしく、それでいて、日常とはほんの少しずれている。この世でも、あの世でもない、違う場所。そんな世界に、慶子さんは浸った。
しかし、妄想は突然終わりを告げた。
慶子さんのすぐ側で「いよぉー!」と、大声が上がったのだ。
熊手を持ったお客さんを囲むようにお店の人が並び、三本締めを打ちだした。三本締めは、客とは関係のない周りの買い物客までが一緒になり、打っていた。外国人観光客が、その様子をカメラに収めている。
「柏木さん、こっち」
ふいに和菓子さまの声が降ってきた。
背筋がすっと伸びた和菓子さまは、おとぎ話から抜け出てきた公達のようだ。 和服を着ていたら、さぞかしこの場に似合っただろう。
「いま、ぼくを見て笑ってた?」
「見てません。じゃなくて、笑ってません」
「見てはいたのか」
「……すみません。つい」
「ついか」
和菓子さまは、ぼそり言うと、慶子さんに手招きをして歩きだした。そして、とある熊手の店の前まで慶子さんを連れてきた。店には、師匠と同じ年恰好の男性がいた。日に焼けた顔は、和菓子さまを見ると、にやりと笑顔になった。
「おお、寿々喜の若旦那。毎度! とびきりいいの、できていますよ!」
おじさんは大きな熊手を和菓子さまに渡した。熊手には「寿々喜さん」の文字が入っている。
「あれれ、今年は、大将は?」
「腰痛で、へばってます」
なんと、師匠は腰痛だったのだ! おじさんだけでなく、慶子さんもびっくりした。
「会えるのを楽しみにしていたのにな。大将がそんなんだと、お店、大変でしょ」
「ちょうど、じいさんが帰って来るんで、大丈夫ですよ」
じいさん? 和菓子さまのお爺さんという意味だろうか? そういえば、今までお店には、和菓子さまと師匠と女将さんの三人しかいなかった。
熊手を持った和菓子さまと、その隣に立つ慶子さんは、さっきの買い物客のようにお店の人たちにぐるりと囲まれた。その迫力にたじろぎ、慶子さんは思わず、和菓子さまのコートの袖を握りしめる。
「家内安全! 商売繁盛! ますます繁盛! よぉ、」
おじさんの勢いのある掛け声のあと、三本締めが行われた
「若旦那! 可愛い彼女ちゃんと仲良くなっ! ほら、若旦那。彼女ちゃんに袖なんか掴ませてないで、手を繋いでやれよ」
慶子さん、慌てて和菓子さまの袖を掴んでいた手を離した。顔から頭から汗が出る。すると和菓子さまが、自分の手の平を差し出し涼しい顔で慶子さんを見てきた。
……これは、どういう意味だろう。犬の「お手」を思わせる手つきでもある。まさか、手を繋ごうとかと言っている? まさか、まさか。
和菓子さまの顔を見ていられない。段々と顔が下を向いてしまう。鑑などなくても、自分の顔がみるみる赤くなっているのがわかった。口だって、真一文字だ。
慶子さんは、ちらりと和菓子さまを盗み見た。すると、上に向けられたその手はすでになく、彼は慶子さんから顔を背けて笑っていた。
「からかってますよね」
「からかってないよ」
「いじわるですよね」
「それは、そうかも」
慶子さんは、目を丸くした。和菓子さまなのに、いじわるなんて! でも、考えてみれば、彼は慶子さんと同じ年の男の子なのだ。わかっていたけれど。そうだけれど……。
そんなこんなで、神社の出口近くまで和菓子さまと歩いた慶子さんは、ようやくその頃になって両親に頼まれていた熊手を買い忘れていたことに気がついた。進もうとする和菓子さまを呼び止め、慶子さんは事情を話した。
「わたし、ちょっと買ってきます」
「一人で行ける?」
「もちろんです」
慶子さんは、和菓子さまと待ち合わせ場所を決め、境内に戻った。
出口に一番近い熊手屋さんに行く。並んだ熊手を見て、慶子さんは焦った。熊手に値段がついていないのだ。和菓子さまは、どうやって買っていただろうか。
焦る慶子さんの目の前で、親子連れが千円札を出して小さな熊手を買った。これだ! と思った慶子さんは、その親子連れがいなくなったあと、そそくさと小さな熊手が並ぶコーナーの前に行った。小さな熊手はかわいい。父親も、一番小さなサイズでいいと言っていた。けれど、いざ買うとなると、和菓子さまが買った熊手との大きさの違いに、慶子さんは躊躇してしまった。
「お姉さん、小さくても縁起ものだよ!」
お店のお兄さんの明るい声に、慶子さんの迷いは消えた。そして、熊手の中央に招き猫が飾られた品を選び買ったのだ。
「ありがとうございました! 来年も、どうぞよろしくね!」
お店のお兄さんが、熊手が包装されたビニールにお店の屋号のシールを貼った。千円の熊手ながら、シールのお陰で格が上がったようにも思え、得した気分になる。
慶子さんが待ち合わせ場所に行くと、和菓子さまが手を振ってきた。待っていてくれた。ただ、それだけのことなのに、慶子さんは嬉しかった。
「あとは、『最中』だ」
今度はこっちと、和菓子さまが慶子さんを呼ぶ。神社へと向かう人の流れに逆らうように、二人で人ごみを縫って歩いた。和菓子さまのあとについて、小道に入るとこれまた行列ができている。
「これくらいなら、すぐに順番は来るから」
和菓子さまと慶子さんは、列の最後尾に並んだ。
「『最中』のお店なんですか?」
「うん。そう。頑固なおやじさんが、しつこく『最中』だけを作って売っているんだ」
頑固といえば、師匠だってそんな感じだ。
「あの、腰痛は酷いんですか?」
「まぁ、そこそこね。毎年この季節になると痛むみたいでさ。ほら、急に寒くなるでしょ。立ち仕事だし、腰が冷えちゃうんだろうな。痛みが来るのがわかってるなら、対策をすればいいんだ。進歩無いというか」
「それは、心配ですよね」
「職人は体が資本だから、大切にしないといけないのにね」
あれこれ言うものの、和菓子さまも師匠が心配なのだ。そういえば、最中屋の頑固なおやじさんの話しをするときも、少し口が悪かった。
そうか、そうなんだ。
慶子さんの心は、ぽっと温かくなった。ほんの少しだけど、和菓子さまの心を覗けたような気がしたのだ。
列はどんどんと短くなり、あっと言う間に慶子さんたちの番が来た。
「柏木さんの分も頼んじゃうよ」
和菓子さまは慶子さんにそう言うと「四つずつを二つ作って下さい」と、注文した。
和菓子さまの注文を聞いたのは、最中屋の店主だ。年齢は、七十代の慶子さんの祖父に近い。和菓子さま曰く「しつこく『最中』だけを作って売っている」人だろう。
「寿々喜の若造、来たか。色気付いたかと思えば、お嬢さんの意見も聞かずに勝手なことして。独りよがりな男はもてないぞ」
「もてなくていいですよ」
「これ以上って意味か? 少し顔がいいからって、天狗になりよって」
最中屋の店主は、皺だらけの顔にますます皺をよせながら、和菓子さまに包みを二つ渡した。
「若造。大将が来ないってことは、また腰痛か」
「あのひと、学習能力がないんですよ」
「生意気言って」
「そういえば、近々うちのじいさんが戻ってきますよ。遊んであげてくださいよ」
「そうかい。あいつも、元気なんだな。しかし、また、店が大変になるな。近所のばあさんたちで溢れるぞ」
「賑やかでいいですよ」
慶子さんは、和菓子さまのおじいさんにますます興味が沸いた。
最中屋さんを出て、歩き出す。結局、最中も切山椒も和菓子さまのリュックの中だ。菓子の入ったリュックだけでなく、和菓子さまは大きな熊手を抱える様に持っていた。見るからに重そうだけれど、和菓子さまはなんなく持ち、歩いている。
「熊手屋さんも、最中屋さんも、みなさんお知り合いなんですね」
「ぼくは、店の跡取り息子ってことで、子どものころから、父や母に連れられて、あちこち回っていたからかな。柏木さんは、あまりこっちには来たことがない?」
「そうですね。もっぱら駅方面でした」
「歩いて来られる距離だから、最中も気に入ったら、また買いに行ってよ。親父さんも喜ぶ。あと、交差点の向こう。あそこにも、和菓子屋があるんだ。おじいさんとおばあさんが二人でやっているんだけど、仕事が丁寧で、団子とか、おはぎとか、赤飯もおいしいよ」
和菓子さまが指す方向を見ながら、今度行ってみようと慶子さんは思った。ふいに、和菓子さまが黙る。なにか、考え事をしているような顔つきだ。
「もしかして、柏木さんはうちの店でしか、和菓子を買ったことがない?」
「他のお店に行こうなんて、考えた事がありませんでした」
「どこのデパートでもいいから、地下の食料品売り場に行ってみなよ。京都や東京の歴史ある和菓子屋がずらりと店を出しているから。繊細で伝統的な菓子や、『寿々喜』では見たこともない多くの菓子が並んでいるはずだ。柏木さん、菓子が好きなら、うちにこだわるのはやめて、あちこちの店に行く方がいいと思うよ」
初めこそ、和菓子さまの話を頷きながら聞いていた慶子さんだったが、聞けば聞くほどに、胸が苦しくなっていった。和菓子さまの言う通り、いろんなお店の和菓子を見たり食べたりするのは、とても楽しいだろう。勉強にもなるだろうし、新しい発見や出会いもあるだろう。
それなのに、言葉にしがたいもやもやとした、この悲しさはなんだろう。慶子さんは、和菓子さまに突き放されたような、そんな気持ちになったのだ。
慶子さんにとり「寿々喜」は、なにものにも代えがたい特別な存在だ。けれど、「寿々喜」にとり慶子さんは、多くの客のうちの一人なのだ。
自分はうぬぼれていた。酉の市にも誘ってもらい、調子に乗っていたのだ。そういえば、酉の市に誘ってくれたのは女将さんであって、和菓子さまではなかった。そして、最終的には、慶子さんが和菓子さまにごり押しをしたのだ。
和菓子さまは、怒っているのだ。図々しくも、暢気で、なにも考えていない慶子さんにいらだっているのだ。慶子さんは、来店拒否をされたのだろうか。「寿々喜」には、もう行けないのだろうか?
――嫌だ。そんなの、絶対に嫌だ。
「わたし、この間の学部説明会で」
唐突に話し出す慶子さんに、和菓子さまは、驚いたような表情を浮かべた。でも、構わない。驚かれてもあきれられても、和菓子さまに伝えたいことがあるのだ。
「ようやく進路を決めたんです。文芸学部文化史学科です。日本の風習や風俗について学ぶ中で、『寿々喜』さんで教えていただいた行事と菓子の意味や関係についても学べそうなんです。わたし、勉強も得意じゃないし、好きな学科もないし。だから、初めてなんです。勉強したいって思ったのが。でも、『寿々喜』さんしか知らないわたしの視野が狭くて、今まで本当にみなさまに不快な思いをさせてしまったことは、事実だし、なんてお詫びしたらいいのかわかりません。おっしゃる通り、他のお店にも行き、いろんな和菓子を知りたいと思います。けれど、『寿々喜』さんが、わたしのすべての始まりなんです。お店の迷惑になっているの、わかります。だから、なるべく滞在時間を短くして、長居はしないですぐに帰ります。なので、お店に行くこと、許してください。お願いします」
慶子さんは、一気に話した。許してくれなんておこがましいけれど、ここでなにも言えないままだと後悔してしまう。
「ごめん。ぼくの言い方が悪かった。別に、うちの店に来るなって言いたいわけじゃない。そうじゃなくて、柏木さんにもっと和菓子を知って欲しいと思った。うちはうちで、信念をもって菓子を作っているけれど、同じように、どの店にも、それぞれの矜持がある。受け継がれた技や守ってきた伝統がある。それを、柏木さんに知ってほしかった。和菓子の在る世界を好きになって欲しいと思った。でも、それは、ぼくの勝手な思いであって、強要する話ではなかった」
「わたし、これからもお店に行ってもいいんですか?」
「もちろんだよ。ぼくのせいで柏木さんが来なくなったら、両親にボコボコにされる」
「ボコボコにされたこと、あるんですか?」
「ある。特に母親は容赦ない。成績悪いと、かなり面倒」
慶子さんは、和菓子さまが女将さんに叱られる様子を思い浮かべるが、どうもうまくいかない。
「成績は、耳が痛いです。わたし、さっき神社で、十二月のテストが上手くいくようにお願いをしました」
「柏木さんは、真面目に授業を受けているように見えるけど。一体、何が不得意なの?」
「万遍なく、不得意です」
「そうかな? 以前、作文や感想文で、柏木さんの名前を見た気がするんだけど」
「それは、稀に、そういった珍事が起こるんです」
「……珍事。そうなのかなぁ。読んだときに、良く書けているなぁと思った覚えもあるんだけど」
「いや、そんな。でも、最近はそんなことはないですし」
そうなのだ。確かに、ごく稀に取り上げてもらうことはあった慶子さんだったが、そう頻繁にというわけでもない。しかも、高三になってからは、なかった。
けれど、和菓子さまの口ぶりからすると、慶子さんの書いた文章を過去に読んだことがあり、しかもそれを覚えているようでもあった。慶子さんの書いた文章が、余程和菓子さまの興味を引く、印象的なものだったのだろうか。それとも、和菓子さまの記憶力がいいということだろうか。
「とても記憶力がいいんですね」
「どうかなぁ。……そういえば、お取り置きした菓子は、『亥の子』と『木練柿』と、あとなんだっけ」
「『初時雨』です」
「いいよね。あれ」
「初時雨」は、初冬の雨をきんとんで表した丸っこい菓子だ。綺麗な名前の菓子である。
その後、和菓子さまと慶子さんは、何を話すでもなく「寿々喜」まで帰って来た。和菓子さまは、店の前で足を止めるとリュックから「切山椒」と「最中」を出し慶子さんに渡してくれた。
慶子さんは和菓子さまを見上げた。そういえば、和菓子さまはどこの学部に進むのだろう。以前、進路は決まっていると言っていた。もし、同じ文化史学科ならとても嬉しい。
「大学で、進む学部は決められたんですか?」
和菓子さまが、はっとした顔をした。その表情に、慶子さんは胸騒ぎがした。
「ぼくはね、柏木さん。進学はしないんだ。大学には進まずに、うちではなくて、他の店で修業をするんだ。そう決めたんだ」
――進学はしない
和菓子さまの言葉が北風のように冷たく、慶子さんを襲った。
思いもよらないその言葉に、慶子さんは動けなくなった。