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12・秒速12センチの紅葉/(十月)

 十月、衣替え、神無月。

 学生服は冬物へ。

 そして、三年間お世話になった夏服は、箪笥の中へ。

 

 

 日曜日のお昼前、柏木 慶子(かしわぎ けいこ)さんの部屋にノックが二回。

「慶子、ちょっと下まで来て」

「うん。あ、はぁい」

 二階の自室で本を読んでいた慶子さん、切りのいいページに栞を挟むと、階段を下りた。スリッパの音をパタパタとさせ廊下を歩く慶子さんに、和室から顔を出した母親が手招きをする。

「そっちなの?」

 珍しいと思いつつ和室に入ると、三枚の着物が衣紋掛け(えもんがけ)に掛けられていた。どの着物にも見覚えがある。

「慶子、来たか、来たか。いやはや、豪華だろう」

 父親が母親の振袖を指す。振袖は、黒地で朱や金の花が競うように咲いていた。

「いやぁ、これを着たお母さんは、二十歳とは思えぬほど迫力満点だった」

「お父さんとお母さんは中学校のときの同級生だもんね。成人式も二人そろって行ったの?」

「あぁ、そうだよ。ちゃんと、お母さんをエスコートしてね。エスコートというよりは、お伴か? ぼくは、あねさんに仕える子分って感じだったかもな」

 父親の話しに、母親はそうだと言わんばかりの芝居がかった笑顔で頷いている。振袖といえば、赤やピンクや水色といった可愛らしい色が多い中で、黒を選ぶとはなかなかのチャレンジャーである。以前、慶子さんは母親に、どうして黒にしたのかと尋ねたことがあった。

「だって、他の人と同じじゃつまらないでしょう」

 さも、当たり前とばかりの答えだった。着物を選んだ理由はともあれ、この振袖は母親にとても似合っていた。

 けれど、黒い振袖を前に、慶子さんは複雑な気持ちになった。あと、二年。自分も二十歳になったらこれを着るのだ。うむむむむ。想像がつかない。

 慶子さんの母親は明るく、ユーモアがある。娘からみても、はつらつとした女性なのだ。母娘だけれど、性格は似ていない。果たして、この着物が着こなせるのだろうか。自信はない。

 ふいに、慶子さんは肩を叩かれた。母親が、卵色した無地の着物を指している。黒い振袖とは一転したやわらかない色合いの着物には、柏木家の紋がついていた。母親の嫁入り道具だ。

「あぁ、これは慶子をお宮参りに連れていった時の着物だな。慶子、ぐっすりと寝ていてさ。こりゃ大物になるなぁと、みんなで話したもんだ」

 はははと笑う父親に、母親も大きく頷く。

 大物。何をもって大物と言うのか。それとも両親の中で既に自分は大物なのか、ちょっと悩む慶子さん。


 そして、着物はもう一枚あった。前の二枚と比べるとこぢんまりとした、若草色の子ども用の着物である。

「懐かしいなぁ。慶子が七歳の時に着た七五三の着物だろ。これ、お母さんのお下がりだけど、慶子に似合っていたな。髪も結って、少しお化粧もして。神社に来ていた外国人の人たちに、写真を撮ってもいいかって訊かれて。慶子は、覚えているか?」

「覚えてないな。それ、本当なの?」

 慶子さんは、そう答えたものの、その神社に行く前までの記憶はあった。美容院に連れて行かれて、髪を結われて、紅を差して。けれど、その紅が唇でもったりとしたのがやたらと気になったせいだろうか、それ以降の記憶は消えているのだ。

「あんなにモテモテだったのに、覚えてないのか? 慶子と同じくらいの年の外国の男の子が、しきりに慶子のことを『可愛い、可愛い』って言って、抱きつかんばかりで。もう、ぼくはその子を追い払うので、大変だったんだよ」

 可愛い娘を持つと大変だぁと、親ばか満載の父親。

「この七五三の着物も、若草色が慶子にとても合っていたんだ。そうだ、慶子、あててみるか? あの時のことも思い出すかもしれないぞ」 

 そんな父親の言葉に、戸惑う慶子さん。父親に悪気がないのはわかっている。けれど、十八歳の自分が、振袖ではなく七五三の着物を勧められたことに、なにかしら思うところはある。

「着物をあてても、思い出さないわよ。だって、思い出せるようなことを、覚えてないんだもん」

 思わず強く言い返してしまった慶子さん。

 そして「覚えてない」と、言葉にしたことで、以前交わした和菓子さまとのやりとりを思い出した。

「お父さんは、七五三のこと、そんなにわたしに思い出してほしいの? 子どもが小さい頃の出来事を忘れてしまうのは、親にとって嫌なことなの?」

 慶子さんの問いに、父親と母親が顔を見合わせる。そして、母親が父親のおでこをぴちりと叩いた。

「ごめん、ごめん。からかい過ぎた。嫌だなんて、そんなわけないだろう。子どもが、小さな時のことを覚えていないのは、当たり前だよ。慶子に着物を勧めたのも、深い意味はなかったんだ」

「でも、覚えてないってことは、子どもにとっては、その事実はなかったってことになるでしょう」

 ――そこらへんのごたごたを覚えていなかったんだ。

「覚えてないと、つまりが、知らないってことになっちゃうでしょう」

 ――ぼくも知らなかったんだ。お袋が実の母じゃないって。

「本当は知っているのに、知らないってことになってしまう」 

 ――知らないっていうのは、変か。正しくは、忘れていたというか。

「それは、悲しい」

 和菓子さまのあの言葉を聞いた時、慶子さんはとても悲しくなった。和菓子さまには、産みのお母さんとの思い出がないのだ。

「慶子。たとえ、子どもだけでなく親さえも忘れた記憶があったとしても、その時過ごした事実は消えない。確かに、存在した時間なんだよ。そういった思い出たちは、きっとぼくたちの意識の下の下にあって、思い出しこそしないけれど、今へと繋がる行動のもとになっているとぼくは思うよ」

 母親が慶子さんと腕を組んできた。

「思い出せない思い出ででも、消えてはないってことかな」

 母親が頷く。

 和菓子さまにも、誰かが、こんな風に話してくれたらいいのに。父親と母親の顔を見ながら、慶子さんはここにはいない和菓子さまを想った。

 


 

 今日も今日とて「寿々喜」の暖簾をくぐる慶子さん。両親から、お三時の菓子を買ってくるようリクエストがあったのだ。

「こんにちは」

「いらっしゃいませ」         

 お店にいたのは、師匠だ。師匠とは、夏の合宿帰り以来の顔合わせだ。慶子さん、合宿中に見た不埒な夢のため、一瞬身構えたものの――はて。これが、嘘のようになんともなかった。師匠は師匠で、和菓子屋さんのご主人以外の何者にも見えない。  

「あぁ、柏木さん、お久しぶり」

「夏合宿ではお世話になりました」

 慶子さんは、ほっとした思いで、いつものようにガラスケースに近づき。そして、目がまん丸になった。ケースに並べられた菓子と、師匠の顔を交互に眺める。

「やっぱり、驚いたか。学の言うとおりだ。これね、『山路の茜』。色づく山の秋の夕暮れを表してるんだ」

 師匠の言葉に、はぁ、と頷き、再びじっと菓子を見る慶子さん。

「で、この菓子はね、棹物さおものって言ってね、羊羹を作る細長い器で作るんだ。この上と下のスポンジみたいな生地は浮島うきしまだ。餡に卵や砂糖や小麦粉を混ぜて作ったもの。食感はしっとりとしている。もしかしたら、それとは知らずに食べたことがあるかもしれないねぇ。で、間にあるのは赤い羊羹、夕映えに染まる小路だ。ところどころに小豆も入れてね。で、それを一個一個、小分けにしたんだな。この小分けっていうのは、珍しくも学からの提案だ」  

 慶子さんの目がらんらんと輝く。これは、絶対に買わねば。買って、山路さんと常盤さんに食べてもらいたい。小分けで良かった。さすが、和菓子さまだ。おかけで、学校に持っていきやすい。

「いやはや、本当に嬉しそうだなぁ」

 つぶやくのは師匠。つぶやきなだけに、慶子さんには聞こえず。


 慶子さんは、視線を「山路の茜」から隣に移した。

 そして、これまたどきりとした。

 そこには、紅葉もみじの葉の形をした、上生菓子があった。けれど、その葉はまだ紅葉こうようは、していない。慶子さんの七五三の着物を菓子にしたような、若草色だった。ついさっき、慶子さんは若草色の七五三の着物を父親に勧められた。あれは冗談だと言われたけれど、やはり少し引っ掛かってはいた。

 菓子の名前は、「初紅葉はつもみじ」とある。 

「まだ紅葉してないのに、緑色なのに紅葉ですか?」 

「あぁ、これね。『まだ紅葉していない』っていうのは、違うんだよな。この葉は、『まだ紅葉してない』のではなく、『もうすぐ』紅葉するんだ」

「『まだ』と『もうすぐ』の違いって、なんですか?」

「言葉選びのセンスの問題かな。『まだ』は、そうだな。例えば、春だ。春に、この菓子を作っても似たような色になるかもしれない。春に作るときは、緑が芽吹いてくるそんな様子を思いながら作る。葉はまだ、当然青い。それでいい。だから『まだ』だ。でも、この緑色した紅葉もみじは、こうみえても既に紅葉こうようする準備ができている緑なんだな。だから『もうすぐ』だ。同じに見えても、内に込めた思いが違うんだよなぁ。でもまぁ、見る人にとっては同じかもなぁ」

 ――見る人にとっては同じ緑。

 でも、心の目で見れば、紅葉こうようする準備はできている紅葉もみじなのだ。

 その師匠の言葉を聞いて、慶子さんは自分も勇気づけられた気がした。背中がしゃんとした。それに、よくよく見れば、ほんの少しだけ、紅葉もみじの葉の先に黄色が入っていたのだ。ふっと笑顔がこぼれる。

 慶子さんは、「初紅葉はつもみじ」の隣にある、もう一つの菓子を見た。

 きんとんで作ったいがの真ん中に、栗の実が一粒どんと入っている。名は「実り」という。菓子のころんとしたその様子がとてつもなく可愛らしい。慶子さんは、ガラスケースにのめり込んでしまうほど菓子を眺めていた。

「本当に、好きなんだなぁ」

 再びぼそりと師匠が漏らした言葉は、やはり菓子に夢中の慶子さんの耳には入らず。そんな慶子さんの様子を見ていた師匠の口の横の皺は、ふっと深くなった。

 


 

 昼休み、慶子さんのクラスに山路やまじ あかねさんが弁当持参でやってきた。

「交流戦のプリント、草稿を作ったから柏木さんに見てもらおうと思って。毎年、文化祭で交流のある高校を招いて試合をするのよ」

 山路さんがおにぎりを頬張りながら、慶子さんにプリントを渡す。渡された紙には、交流戦の日時と、慶子さんたちの学校までの交通機関と駅からの簡単な地図。そして、当日のタイムスケジュールなどが書かれていた。これを、相手校にも送るらしい。

 そんな慶子さんと山路さんに混じるように、廊下側の窓から体を乗り出すのは常盤ときわ 冬子ふゆこさん。受験生ながらも、剣道部に再入部した人物だ。彼女はミス学園だっただけに、その姿は美しく、廊下を歩く男子もちらちらと視線を向けていた。

「山路ぃ。いまどき、プリントでのお手紙なんて、貰う方も面倒よ。あそことの試合は毎年のことなんだし、メールでいいじゃない。ちょちょっと打ってぴっと送りなさいよ」

「そうもいかないの。顧問の山田先生から、書面で出すようにって言われているんです。ところで、常盤、あんたお弁当をもう食べ終わったの?」

「カロリーバーを食べたから大丈夫。ただいま優雅に、食後のコーヒータイムでございますの」

 常盤さんの手には、自販の三角パックのミルクコーヒーがあった。

「常盤さぁ、薬剤師を目指しているあんたが食べているもんに、わたしがあれこれ言うのも変だけど。食事ってさ、栄養をとればいいってもんでもないでしょう。」

 山路さんは、おにぎり一つをお弁当箱の蓋の裏に乗せ、常盤さんの食べる様に言った。

「常盤さんは、薬剤師を目指しているんですね。知りませんでした」  

 慶子さんは感心しきりだ。

「あれ? 薬剤師、周りに一人くらいいない?」

「わたしの家族にも親戚にも、医療関係者はいません。だから、そういった人たちは、別世界の凄い人たちだと思っていました」

「柏木さん、大正解よ。だって、ほら、わたしは凄い人だから」

 ふふん、と常盤さんが笑う。

「待った、待った。この話、そこで終っちゃダメよ。そりゃ、医療関係者の方々には、感謝していますよ。大切なお仕事だよ。でもね、それと、個人の性格とか、そういったものは別だから」

 山路さんが常盤さんを指す。常盤さんと山路さんのやりとりは、軽妙で面白い。

「常盤さん、でもどうして、薬剤師を目指そうと思ったんですか?」

 慶子さんの問いに、常盤さんがきれいにほほ笑む。

「わたし、小さい頃は体が弱くて。苦い薬がほんと辛くて、そんなときに近所の薬局の薬剤師さんが、どうやったら飲めるかなって一緒に考えてくれたことがあったの。子どもながらに、すごく嬉しかったんだよね」

「はん。どうせなら口の悪さも治してもらえばよかったのに」

「ふふ。凡人山路にはわからないでしょうけど、口の悪さを治すと、副作用として美貌も損なうって話だったの」

「かーっ! あんたは美人ですよ。ですけどね、あぁ、なんとか言ってやってよ、柏木さん」むしゃむしゃとおにぎりを頬張りながら、慶子さんに助けを求める山路さん。

「え。あ、ええと。あぁ、白衣が似合いそうですね!」

「ふふ。柏木さんってば、またまたホントのことをっ」

 常盤さんは、優雅に三角コーヒーを慶子さんに差し出すと「飲む?」と訊いてきた。それを慶子さんは丁寧に断り「よかったら、これもどうぞ」と、山路さんのおにぎりの横に慶子さん母特製の唐揚げと卵焼きを取り並べた。

 それらをじっと見る常盤さん。

「まぁ、あなたたちが、そんなにわたしに食べて欲しいっていうのなら、食べてもいいわよ」そう言うと、常盤さんは慶子さんと山路さんがいる教室に入って来た。

「柏木さんの横の席に座ってもいいかしら」

「そこ鈴木の席だから。座ろうが立とうが寝ようが踊ろうがご自由に」山路さんが言う。

「あぁ、そうか。鈴木と柏木さんは、隣の席だったのよね。そっか、そっか。始業式に誘われたんだっけ? びっくり。鈴木って、手が早いのね」

「あいつの、時折見せるあの思い切りの良さって、怖い。振り切れかたが、半端ない。そのおかげで、柏木さんをゲットできたのよね。もし、この席順じゃなければ、柏木さんは剣道部にいなかったの? やだ、やめて」

「席順の神様に感謝ね」

「とりあえず、鈴木と柏木さんの席に拝んでおくわ」

 山路さんは言葉通り、慶子さんと和菓子さまの席に拝んでいる。常盤さんはその隙に、山路さんのお箸で唐揚げと卵焼きを食べだした。

 

 なんともいえない居心地の悪さを感じつつも、そういえばと、慶子さんは慌てて手さげ袋から昨日買った「山路の茜」を二つ出し、机に並べた。

「忘れるところでした。これ、どうぞ」

「和菓子? すごく綺麗」常盤さんが目を丸くする。

「もしかして、鈴木の家の?」山路さんに聞かれる。

「そうです。昨日、山路さんと常盤さんと食べようと思って買いました。実はですね、この和菓子には、名前があるんです」

 慶子さんは、悪戯をする子どもみたいなわくわくとした気持ちになりながらそう言った。

「名前? 和菓子に?」山路さんと常盤さんが首をかしげる。

 慶子さんは、菓子の一つを取りそっと傾け、プラスチックケースの裏にある製造シールをぺりっと剥がし二人に見せた。

「えっ。山路の……茜」

 文字を読んだ山路さんが、驚く。

 慶子さんは、ふふふと笑う。

「山路、良かったわね。和菓子の名になるなんて」

「うむむ。まぁ、渋い名前だとは存じておったが、むむむ」

 山路さんはそう言うと、お菓子をじっと見た。

「食べてもいいの」常盤さんから聞かれ、慶子さんは頷く。

「常盤、待って。柏木さんの分がないわ」

「わたしは、昨日家族でお先にいただきました」

 すると、山路さんが胸を押さえ「く、食われたかぁ」と、芝居がかった動きをした。

 山路さんと常盤さんが「山路の茜」を口に運ぶのを、慶子さんはどきどきとしながら見守った。そして、二人の口角が上がるのを見て、慶子さんは心底嬉しくなった。

「なんだか、共食い気分だけど、おいしい。菓子に名前があるのっていいね。想像が広がる」「わたしの名前の菓子もないかしら? この美貌で鈴木に迫って、頼んでみようかな」

「ミスター鈴木といえばさ、交流戦に出るのな? だったら、そろそろ部活にも出てくれないと、と。……噂をすれば」

 のそのそと教室の入り口をくぐり、噂の主が自分の席へと戻ってきた。和菓子さまは、山路さんと常盤さんが何を食べているのか気が付いたようだ。

「鈴木、わたしの名前の使用料を払いなさいよね。で、名前の使用料の代わりといってはなんだけど、部活に出なさいよね」

「うん。出るよ」

「え? なに? 本当に部活に出てくるの?」

 思いがけない答えに山路さんだけでなく、常盤さんも慶子さんも驚いた。

「ややや、なに、本当! 本当に、出てくるのね。ってことは、これでもう柏木さんが福地に廊下で押し倒されたり、鈴木へ色仕掛けを命じられたりすることはないのね」

 山路さんの言葉に慶子さんの動きが止まる。その表現は、どう考えても少しおかしいような。

「これは早速、あの熱血部長に報告せねば。常盤、行くよ」

「あいよ」。

「ごちそうさま」と、常盤さんは手を合わせてお弁当箱の蓋を山路さんに返すと、柏木さんに手を振り二人でそそくさと教室を出て言った。


「部活に出るって」「福地が廊下で」

 慶子さんと和菓子さまの声が重なる。

 和菓子さまは慶子さんに「先にどうぞ」と言うと、常盤さんがいなくなった自分の席に座った。

「お母さまのお手伝いは、もう大丈夫なんですか? わたしが、山路さんの名前に似たお菓子を持ってきてしまったから、そのせいで出なくちゃって思ったんですか?」

「菓子とは関係ないよ。それに、母の手伝いも、もう、大丈夫。それに、どちらかというと手伝いというよりは……。いや、ごめん、なんでもない」

 和菓子さまが首を振る。

「あ、では、どうぞ」慶子さんは、和菓子さまに会話を譲った。

「さっき、山路が言ってたことだけど。福地が」

「福地君が?」

「いや、だから、福地が柏木さんを」

 和菓子さまの言葉とチャイムが重なり、結局それはうやむやのまま終わった。

 


 部活に行くと、福地ふくち 裕也ゆうや君が仁王様のように道場の入り口に立っていた。

「ありがとねっ、柏木さん!」

 福地君がにこやかに慶子さんにお礼を言う。慶子さんは、なんでしょう、と福地君の顔を見る。

「柏木さんが鈴木に『部活に出て、お願いっ!』って頼んでくれたんでしょう」

 えっ、と慶子さんが思った時「アホか」と背後から声がした。

「おう、鈴木クン! 元気ですかぁ!」

 周りが呆れるほど、福地君の機嫌はいい。

「あのな。おまえ、なにアホなこと――」

 和菓子さまの言葉を遮る様に、福地君が和菓子と肩を組んだ。

「いやぁ、今日はみんな揃ったなぁ」

 道場を見渡す福地君にならうと、慶子さんの見知らぬひょろりとした男子が「やぁ」と手を振りながら近づいてきた。

「俺、岡山おかやま 康弘やすひろ。柏木 慶子さんだろう。ようこそ、剣道部へ。山路が喜んでいるって聞いたよ。よろしくね」

「こちらこそ、初心者で、みなさんに教えていただくことばかりですが、よろしくお願いします」

 岡山君を、福地君と和菓子さま、和歌山わかやま 真司しんじ君や北村颯きたむら はやて君も囲んでいる。その様子に、なんだか慶子さんは胸があつくなった。

「みんな、ごめんな。俺さ、進路のことで親と揉めていてさ。ストレスが胃にきて、大変だったんだ。進路もなんとか、折り合いつけて、体も薬で良くなってきて、で、部活にもめでたく復活ってわけよ」

「進路って、以前から岡山は公務員を目指すって言ってたよな」和菓子さまが聞く。

「それが、ちょっといろいろあって、方向転換なんだな。ちゃんと決まったら、言うよ」

「そうか。大変だったな」

 和菓子さまは、なにやら思案顔だ。 

「そういや、明日だよな。内部進学者向けの学部説明会」と、福地君。

「ほほぉ。学部説明会ですと? あぁ、暢気よね、キミタチはさ」と、言ってきたのは、常盤さん。

「暢気なんて言ってるけどさ、おまえも交流戦に出るだろ。団体戦だからな、常盤がいれば、女子部は心強い」

 他校との試合も団体戦も観たことがない慶子さんは、とにかく交流戦が楽しみだった。

「出るわよ」

 常盤さんの視線は、福地君ではなく、なぜか慶子さんに向けられていた。



 充実した稽古を終え、山路さんと常盤さんとともに部室へと向う慶子さん。半地下の道場から地上に上がったところで「見て、山路の茜よ!」と、常盤さんの声があがった。

 慶子さんと山路さんと常盤さんの目の前には、空一杯に広がった夕焼けがあった。夕焼けは空を染め、雲に朱を差し、学校の校舎や樹木を優しく照らしていた。

 あぁ、綺麗だ。慶子さんは言葉もなく空を眺めた。疲れた体に、夕焼けは優しく染みてくる。

「うむ。夕焼けの『茜』はともかく、さすがにここには『山路』は、ないわね」

「じゃ、山路がそこに立てばいいじゃない。で、夕日を浴びて山路 茜」

 常盤さんが、にやっと笑う。ふたりのやりとりを聞きながら、慶子さんは、緑色の紅葉もみじが夕日に染まる様に視線を移した。

「あら。紅葉もみじちゃんの紅葉は、まだね。ところで、知ってる? 紅葉前線の南下速度って、秒速12センチなんだって」と常盤さん。

「は? 紅葉前線? 南下? 聞きなれない言葉ね」

「桜は北上、紅葉は南下。桜が徐々に花開くように、紅葉にも平地で進む速さってもんがあるのよ」

 秒速12センチ。12センチと言えば、これくらいかなと慶子さんは、親指と人差し指でその長さを作った。そして、いま、この瞬間にも、緑の葉が紅色に染まっていくのかと思うと、不思議な気持ちになった。

「常盤ぁ。それ、男から聞いたんでしょ?」

「お答えできませんわ」

「そんなうんちく言う男、信用しないほうがいいよ。特に、あんたは下手にプライドが高いから、自分より知識があるっていうだけで、コロリといきそうだし」

 慶子さんは、ギクリとした。

 ――自分より知識があるっていうだけで

 プライドは高くはないと思うけれど、でも、思い当たる……ような。 山路さんの言葉は、常盤さんでなく慶子さんのハートに矢のように刺さった。

 

 

 二人と別れ電車に乗る慶子さんは、窓の外に視線を置きつつもその瞳は景色を見てはいなかった。

 ――自分より知識があるっていうだけで

 思えば、ひとり娘の慶子さんは、常に両親に何かを教えてもらう立場だった。そして、母親が病気になってからは、医者や看護師や親戚の助けを得るために、以前と比べて大人に囲まれ、接する機会も増えて行った。思い返せば、自分は常に誰かに何かを訊き、答えをもらう立場だったのだ。

 初めて師匠を見た時、強面ながらも信頼できる人だと思えたのは、それは母親の主治医に似ていると思ったからだ。自分の話に耳を傾け、答えをくれる人だと。


 山路さんが福地君や剣道部のメンバーと親しく対等に話すような、そんな付き合いを慶子さんはしてこなかった。 

 自分は、立場が違う人との付き合いしかできないのだろうか。

 そう思う慶子さんの脳裏に、山路さんと福地君の泣きそうな顔が浮かんだ。彼らは、福地君と和菓子さまの騒動に、慶子さんを巻き込んだことについて話してくれた。

 あのとき、慶子さんは誰の教えも請わずに、自分の考えで自分の行動を決めた。剣道を続けたかった。みんなと一緒に、いたかった。きっけかはどうであれ、その思いを二人に伝えることができた。

 そして、常盤さん。彼女は、剣道部への再入部に関して、入部したばかりの慶子さんの意見を気にした。

 ――山路や柏木さんがわたしを受け入れてくれるっていうなら

 あのとき常盤さんは、山路さんだけでなく、慶子さんの名前もあげてくれた。それまで、明らかに慶子さんをお客様扱いしていた常盤さんの意識を変えてくれたのは、和歌山君をはじめとする剣道部のみんなだ。

 ――あの人たちが言うには、柏木さんは、柏木さんなんだって。誰の代わりでもないんだって。

 意識が変わったのは、慶子さんも同じだ。

 剣道部での経験がなかったら、山路さんの言葉も自分の上を素通りしていたと思う。剣道部に入り、みなと同じ立場で考え悩み、自分なりの答えを出す経験を重ねたからこそ、刺さった言葉なのだ。

 慶子さん、冷や汗がたらりと流れた。そして、頭の中で「セーフ」という声が聞こえた。 よかった、高校生の間にこんな自分に気がつくことができて。

 ほぉ、と大きく息を吐き、すっきりとした気持ちで電車を下りて街を歩きだした慶子さんの目に、「大学案内揃えています」との本屋さんの張り紙が飛び込んできた。


 そういえば、明日は大学の学部説明会だった。大学生かぁ、と慶子さんは思った。ようやく、高校生活を始めた気分だったので、大学はまだまだ遠い存在でいて欲しかった。とはいえ、そんな暢気なことも言っていられないだろう。学部もそろそろ決めなくてはならない。

 何を学び、どんな将来を見据えて選ぶか。

 既に進路のことで親と揉めたり、他大学受験を考え勉強したりする同級生もいるというのに、自分は……。

「柏木さん、受験、するの?」

 突然名前を呼ばれ振り向くと、和菓子さまがいた。

「まさか、しません。勉強は、今でも大変なことになっているのに、受験勉強なんてとんでもないです」

 言わなくてもいいことまで、つい正直に言ってしまった慶子さん。和菓子さまが笑う。

「でも、すごく真剣な顔をしていたよ」 

「この張り紙を見て、明日、大学の学部説明会があるなと思って」

「学部決めたの?」

「それが、まだなんです」

「ぎりぎりまで考えればいいよ。時間はまだあるんだから」

 時間、あるのだろうか。にわかに焦る慶子さん。

「柏木さん、本屋に寄るの?」

「いえ、帰ります」

「じゃあ、一緒に帰るか」

 和菓子さまの言葉に慶子さんは頷いた。


 和菓子さまとこうして歩くのは、二度目だ。あの、夏合宿の帰り以来だと思うと、師匠への勘違いを思い出し、あいたたたな気持ちになる。

「福地や北村にいろいろと聞いたよ。ぼくが部活に出てくるように、柏木さんは頼まれたらしいね。迷惑かけてごめん」

「そんなこと、ありません。福地君はとても部活に熱い思いがあるから。今日、岡山君も復帰して全員そろったって、嬉しそうな顔を見て、なんだか自分のことにように嬉しい気持ちになりました」

 和菓子さまは、慶子さんの言葉を聞くと、黙ってしまった。なにか言ってはいけないことを言っただろうか。いつになく、気まずい沈黙が続く。慶子さんは、彼からピリピリとした緊張した空気を感じていた。

「柏木さんは、スケープゴートじゃない」

 突然、きっぱりとした口調で、和菓子さまが言った。

「そんな理由で、ぼくは柏木さんを剣道部に誘ったわけじゃないんだ。でも、ぼくは部活を休まないといけなくて……。だからその点では、利用した。言っていることが、支離滅裂で信じてもらえないのはわかっている。だから、ただ謝るしかない。ごめん」

 和菓子さまが立ち止まり、頭を下げた。

「やめてください。謝らないでください。あの、全部、終わったことです。福地君と山路さんから聞いて、もう、解決したことなんです」

「終わってない。解決もしていない。ぼくが初めからちゃんと伝えるべきだった。それをしなかった自分が、傲慢で、恥ずかしい。ぼくも、福地と同じなんだ。柏木さんがなにも知らないままで、それで過ごしてくれるなら、それがいいって。自分の責任から逃げていた」

「でも、わたし、剣道部に入ってよかったんです。誘ってもらって、よかったんです」

 慶子さんは、福地君から話を聞いた時でさえ、剣道部に誘われたことを怨むような気持ちはなかった。慶子さんが悲しかったのは、自分がほいほいと誘いに乗ったことで、福地君や他の人の気持ちを潰してしまったと思ったからだ。

「柏木さんは、いい人すぎる」

「山路さんや常盤さんの方がいい人ですよ」

「常盤をそう呼ぶのは柏木さんくらいだと思うな」

「福地君や和歌山君や北村君も、いい人だと思います」

 ふっと和菓子さまが笑う。その笑い声を合図に、慶子さんと和菓子さまは歩き始めた。

「柏木さんのいい人基準の甘さが心配だな。うん、甘すぎる。もっと、反発っていうか、反抗っていうか、怒っていいんだと思う。もしかして、柏木さんは、親と喧嘩をしたこともないでしょう」

「喧嘩ですか。喧嘩というか、この間もちょっと父に強く言ってしまいました」慶子さん、着物の事で父親に強く言ってしまったことを思い出す。

「へぇ、あるんだ」

「ありますよ」 

「そういえば、この間、柏木さんのお父さんが店に来てくれたな」

「『衣かつぎ』ですか」

「うん。菓子の名前を聞いてくださって、一生懸命メモされてた。だから、箱の下の製造シールに菓子の名前が書いてありますよって言えなくて」

 慶子さんは、あの日父親がジャケットのポケットからメモを出し、菓子の説明をしてくれたことを思い出した。きっと和菓子好きの娘ためにと、してくれたことなのだろう。

 そんな父親の姿を思い浮かべ、慶子さんは泣きたいような、笑いたいような気持ちになった。


「言えないといえば。さっき、昼休みのことなんだけど」

 昼休みのこととはなんだろうと思いつつ、慶子さんは「はい」と相槌をうった。

「柏木さんが、母の手伝いをしなくて大丈夫なのか、って聞いてくれた時、言えなかったことがあるんだ。手伝い、じゃなかったんだ。ぼくが母や弟の面倒を見に行ったのは、そんな立派なもんじゃないんだ」

 慶子さんは驚いて和菓子さまを見た。和菓子さまはじっと前を向いたまま、慶子さんの隣をゆっくりと歩いている。

「ぼくは、自分の為に行っていたんだ」

 一体どういうことなんだろうと、慶子さんは耳を傾ける。

「生まれた弟に、(すすむ)って言うんだけど、あの子に昔の自分を重ねて見ていたんだ。母親が進に接する姿を見たかった。それを見て、ぼくにもそうだったのかなぁって、知りたかった」

 慶子さんは、はっと息を飲んだ。

 覚えてないこと。知らないこと。……忘れていたこと。

「こっちが何か言ったわけじゃないけど、母親も学の時はどうだったとか、そういった話もしてきて。で、もう十分だと思った。もう、進に母親を返さないとって。でも、どんな理由でも、ぼくが行くことでちょっとは役に立つんだって理由をつけて、ずるずると通っていたけれど」

「お母さまも、お話しができて嬉しかったと思います」

「うん、そんなこと言ってたな。ぼくとしても、このひとは本当に自分の母親で、短い期間だったけれど、一緒に過ごしたんだなって思ったら、なんか、納得した」

 そう言うと和菓子さまは立ち止った。側には紅葉の木があった。

「もう、手伝いなくても大丈夫そうだし。それに、こっちもそろそろやっておきたいこともあるし」

 その葉を和菓子さまはつんとはじくと、再び歩きだした。

「進路、ちゃんと決めないといけない」

「まだ、決まってないんですか?」

「いや、決まっている」

 決めないといけないけど、決まっている。謎解きのような和菓子さまの言葉だ。和菓子さまの隣を歩きながら、慶子さんはとても不思議な気持ちになっていた。例えるのなら、色とりどりの着物が心の中に広がっていくような、いろんな感情が、心の中からこんこんと湧き出てくるのを感じたのだ。

 もう決めていると言う、和菓子さまの進む学部はどこだろう。大学生になっても、こうして並んで歩いて、お話しができるのだろうか。慶子さんは、和菓子さまの話をもっと聞きたいと思った。そして、自分も話も聞いてほしいと思った。

 以前は、あまり学生服姿の和菓子さまは得意ではなかった。お店や道場にいてくれる和菓子さまのほうが、いいと思っていた。

 自分に和菓子のことを教え、剣道の先輩としての姿を見せてくれているほうが、話しやすいと思ったのだ。



 少しずつ、でも、確実に、紅葉前線は南下していた。

 そして、同じように、慶子さんの心もゆっくりと何かが変わり始めていた。  


紅葉前線の速度については、2010年11月6日の朝日新聞を参考にしています。

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