9・夜舟は密やかに(後編 下)
そして、いよいよ山路 茜さん企画のイベント、おはぎ作りの準備が始まった。おはぎ作りは、夕食後に行われることになっていたが、材料の確認や道具の準備は、夕食前に行うことになっていた。
おやつ副番長の最後の仕事として、師匠から餡を受け取る役目を仰せつかっていた柏木 慶子さんは、和菓子さまこと鈴木 学君から伝えられた予定時刻の少し前に玄関へと向かった。
日中の暑さの名残はあるものの、夕暮れどき特有のさらりとした風もふき、カナカナカナと鳴く蝉の声も耳に優しかった。
玄関の扉は開け放たれていた。慶子さんが宿泊所備え付けのサンダルを履き表に出ると、砂利道を一台のバンが進んでくるのが見えた。バンは、慶子さんの前で静かに停まった。サイドに「寿々喜」の名前がある。
運転席からひょいと、師匠が出てきた。慶子さんがぺこりと頭を下げると、師匠は口だけで笑った。そして、そのまま、後ろの扉を開け、大きな銀のバットを出した。
「あぁ、いいよ。重いし。入り口まで運ぼう」
師匠は受け取ろうとした慶子さんの横を通り、玄関へと進んだ。師匠は玄関まで入ると、周りを少し見渡した後、バットを床に置こうとした。
「ちょっと待ってください。わたしが受け取りますから、そのままで」
師匠を待たせたまま、慶子さんは急いでサンダルを脱ぐと、玄関に立ち、そして銀のバットを受け取った。
「あの、すみません。つまり、口に入るものなので、床に置くよりは直接受け取ったほうがいいと思いまして。それに、床に置くと、これを持ち上げるのも大変になる気がして」
「いや、いいんだ。そうか、ありがとう」
餡はずしりと重かった。
「柏木さん、だよね。団扇、作って待っているから、また店に遊びに来てください」
団扇?
慶子さんのきょとんとした顔を見て、師匠が笑う。
「また、お店で」
そう言うと師匠は、バンに乗りこんだ。
団扇、団扇って、つまりが団扇なんだろうか。
そう慶子さんが考えていると、「持ってく」と言う声とともにバットを持つ手が軽くなった。
北村 颯君だった。
「ありがとう」
慶子さんのお礼に、北村君は軽く頭を下げると、彼女を置いて一人食堂に向ってスタスタと歩きだした。慶子さんも後に続こうとしたその時、開け放たれた玄関から、砂利道を歩いていく男の人の姿が見えた。建物の右から出てきたその小柄な男の人には、見覚えがある。あの人は、和菓子さまの対戦相手の蝶先輩だ!
胸騒ぎがした慶子さんは、食堂には行かずに、再びサンダルを履き、蝶先輩が来た方向へと駆けだした。
ぐるりと建物を回ったところに、案の定、和菓子さまがいた。和菓子さまは、片手でジーンズについた土を払っている。
明らかに普通じゃないその様子を見て、足が岩になったかのように重くなり、動きがとれなくなった慶子さん。
「え、柏木さん?」
人の気配を感じたのだろう、和菓子さまが顔を上げた。和菓子さまの口の端からは、血が出ている。なんてことだ! 慶子さんはスイッチが入ったかのように和菓子さまに駆けよると、ポケットからハンカチを出し、それを差し出した。
「あ、ええと」
珍しくうろたえた様子で、ハンカチを受け取ろうとしない和菓子さまに、慶子さんはしびれをきらした。
「少しだけ屈んでください。これあてたら、姿勢、戻していいですから」
慶子さんは、素直に従った和菓子さまの口元をハンカでそっと押さえた。
「こすらないで、このままで押さえていて下さい」
和菓子さまの手をとった慶子さんは、彼の手をハンカチの上にのせた。慶子さんは、和菓子さまが自分でハンカチを押さえたことを確認すると、手を離した。そして、じっと和菓子さまの顔を見た。
切れているのは、口。
それだけのようだ。
次に、和菓子さまの全体の様子も眺めた。
特にお腹をかばっている様子もなければ、腕も大丈夫そうだ。
口の止血さえ済めば大丈夫だろう。
和菓子さまを座らせる場所はないかと、きょろきょろとした慶子さんの目に、裏口へと続く階段が映った。慶子さんは和菓子さまの背中に手を当てると、そこへ座るようにと、一緒に歩き出した。
和菓子さまは慶子さんに言われるまま、階段に大人しく座った。慶子さんはその側に立っていた。
そのまま二人は無言だった。
カナカナカナと鳴く蝉の声だけが、相変わらず響いているだけだった。
しばし、無言の時が流れた。
そして、ようやく慶子さんが動いた。
慶子さんは、ハンカチを押さえる和菓子さまの顔を覗くと、彼の手をそっと取り、ゆっくりとハンカチを外して傷を見た。さっきまで滲んできていた血は止まったようで、慶子さんは安堵のため息をついた。
しかし、改めて和菓子さまの口元をよく見ると、うっすらと青くなっていた。
今度は冷やさないと。
そう思った慶子さんは、ハンカチを水で濡らしてこようと――。
「待った、待った」
階段から立ちあがった和菓子さまが、動き出した慶子さんの腕を掴んだ。
すると、その腕を引っ張る強さに、慶子さんの体がよろけた。
焦った和菓子さまは、慶子さんを支え……結果。
和菓子さまが慶子さんを後ろから抱きしめるという、わけのわからない状態になってしまった。
が。
当の慶子さんといえば、和菓子さまに抱きしめられている今の状況よりも、一連の動きで地面に落ちてしまったハンカチに気持ちがいっていた。そのため、和菓子さまに拘束されながらも、ハンカチを拾おうと手を伸ばすのだ。
それを察した和菓子さまは、慶子さんを抱きしめていた腕をゆっくりと離した。
ようやくハンカチを拾うことができた、慶子さん。
何事もなかったような顔をしている、和菓子さま。
「これ、水で濡らしてきますから」
「ありがとう」
つまりが、慶子さんの当初の行動は、そのまま実行されたわけですが。
つまりが、まるで何も起こらなかったかのようですが。
「俺。胸がキュンキュンしちゃった」
「俺もだよ」
そう話しているのは、裏口がばっちり見える二階の窓辺に集う、福地 裕也君や山路さんをはじめとする三年生軍団。おはぎ作りの用意をするため、揃って一階に下りようとしたところ、偶然裏口で起きた「鈴木 学の呉田による暴力事件と、胸キュン柏木さんの変」の一部始終を見ることになったのだ。
和歌山 真司君が、したり顔で話し出す。
「まぁ、呉田先輩とのことは、ある意味、鈴木の自業自得だよね。先輩はさ、さっきの試合で、自分は今までずっと、鈴木に手加減されていたって、知っちゃったわけだから」
それに答えるように、他の三年生部員も次々と語りだした。
「だからって、殴るのはおかしい。顧問に言うよ。あれ、出入り禁止もんだよ」
「山田先生は幽霊顧問だけど、そういったことは、きちんと対処してくれるよ」
「鈴木の嘘に気がつかない、呉田先輩にも問題あると思うけど」
「それを言うなら、知ってて何もしなかった俺らはどうよ」
「んなの、本人の自覚に任せるしかないだろ? 勝てる試合を勝たない人もいれば、それを見抜けない人もいるってことだ」
「まぁ、それにしても柏木さんだよ」
その言葉に、頷く面々。
はぁ、と一人だけ大きくため息をついたのは、部長の福地君。
「いくら俺が、呉田先輩を一度ちゃんとコテンパにしてしまえ、って。それが、一番の解決方法なんだって言っても、びくともしなかったあの鈴木が。俺の今までの愛は、無駄だったのかぁ」
男子部員のやりとりを黙って聞いていた山路さんが、口を開く。
「福地、なに気持ち悪いこと言っているのよ。あれは単に、鈴木が柏木さんの前で嘘をつきたくなかったってシンプルな話でしょう。彼もこれでようやく人並みになったってことでしょ」
ほらほら下に行くよと、山路さんが男子部員をせかす。
「人並みかぁ。我ながら、言い得て妙だわ」
ぞろぞろと歩く男子に、しっしっと手で払うゼスチャーをした山路さんは、窓の向こうで慶子さんがハンカチを持ち走っていく姿を眺めていた。
わいのわいのと始まる、おはぎ&ホットケーキ作り。
ほとんどの部員が珍しさもあって、おはぎ作りを希望していた。
福地君が慣れた手つきで、ホットケーキをひっくり返す。
「確かにこっちは人気薄だけどさぁ。だからって、焼き担当は俺と北村ってどうなのさ」
花がないんだよ、花が。ぶちぶちぼやく福地君の側に、一年女子部員三名がやってきた。ちなみに彼女たちは、餡が苦手だったこともあり、山路さんからホットケーキ組の盛り上げ係の特命を受けた面々だ。その報酬として、山路さんの高校一年の時のテスト問題を受け取ることになっているとか。
「うわぁ、部長。上手いです」
福地君の仕事を見て手を叩く。
「え、あ、そう?」
途端に元気になる福地君。
「よし、俺様の華麗なコテさばきを見よ!」
そう言うと、宙高くホットケーキが舞った。
「え、コテって。それって、ヘラっていうんじゃないんですか?」
「うそ。うちではテコって呼んでる」
「えええ! うちではフライ返しだけどぉ」
ホットケーキよりも、その道具の名前で盛り上がるホットケーキ組。
「なぁ、北村はなんて言ってる?」
福地君の問いに、職人さんのように無言でひたすらホットケーキを焼いていた北村君は少し考え「ひっくり返すやつ」と、答えた。
「おまえ、小学生か」
福地君の言葉に、その場の全員が笑った。
一方、こちらは、おはぎ組。
「軽くつぶしてくれればいいから」
和菓子さまが見本として、炊きあがった米を静かに塩水につけたスプーンの背を使いつぶしだした。
それに習って、何人かが真似をしはじめる。
「おはぎって、ぼた餅とも言うじゃないですか。餅だから、ぺったんぺったんとつくのかと思ってました」二年男子が言う。
「俺もそうです。杵とか臼とか必要だろうって。こんなスプーンでつぶしてできるなんて」戸惑いの表情を浮かべる部員もいた。
「でも、そう言われれば、おはぎの餅って、米粒の形が残っているもんな」
「なんか、意外と簡単というか」
「クッキーやケーキを焼くより楽かもしれません」
その意見に、同意する声があがった。
クッキーもケーキも、焼いたことがない慶子さん。けれど、おはぎ作りに関しては、みなと意見は同じだった。
手作りお菓子=洋菓子という認識があった。「和菓子」はお店で買うもので、自分で作るのが難しいと線を引いていた。
確かに、職人さんしか作ることのできない和菓子だってたくさんある。けれど、和菓子さまと一緒に作るおはぎは、お菓子作りビギナーの慶子さんにも出来そうなことだった。
「そういえば、これ、おはぎっていうんですか? それともぼた餅っていうんですか?」
米をつぶしながら、一年男子が和菓子さまに尋ねた。
「そうだな、一般的には『おはぎ』や『ぼた餅』は、みんなが今作っているように、もち米とうるち米とを混ぜて、まぁ、好みによっては混ぜなくてもいいけど、そうしたもので作った餅を餡で包んだものを指すんだ。一般的って言ったのは、それこそ地方や時期や材料、作り方によって、一概にはそれでくくれないことも多いから。まぁ、そこらへんは割愛させてもらって。で、さっき訊かれたように、おはぎにはいろいろな名前がある。よく聞くのは、春は牡丹の花でぼた餅、秋は萩の花でおはぎ。で、今の季節の夏は、『夜舟』って呼ばれることがあるんだ」
「夜舟」
慶子さんがつぶやく。
いつか、和歌山君が言っていた。
「夜は暗くて、舟はいつ着いたかわからない、だろ?」
和歌山君が言う。
それでも、みなの顔には、はてなマークが浮かんでいる。
「だよなぁ。俺も最初聞いた時、はぁ? って、思ったもん」
わかりにくいよなと、和歌山君が笑う。
「はいはい。笑って下さいよ」 和菓子さまは苦笑い。
すると、閃いたような顔をした一年男子が、手をあげた。
「鈴木先輩! もしや、舟が『着いた』と餅を『ついた』をかけているとか?」
和菓子さまと和歌山君が、手を叩く。
「それで、それで、スプーンでつぶせるくらいで、杵も臼も必要ないから、いつ『ついた(着いた)』かなんて他の人にはわからないってことじゃ」
閃きの一年生がわくわくとした顔で和菓子さまを見た。
「大正解」
うっしゃーと言い、ガッツポーズをとる一年生に、慶子さんもみなも思わず拍手だ。
「言葉遊びなんだねぇ。同じ言葉の響きでも意味はいろいろ、ってことよね。でも、なんで夏なんだろ」山路さんの疑問に、慶子さんも同意する。
「俺もそれ思った。で、鈴木に訊いたら、そこまではわからんって言ってたよ。……あれ。『同じ言葉の響き』かぁ。俺、天才かも。すっごくいいこと思いついた」
「やめときなさい。どーせろくなことじゃないんだから」
そんな、些細な事で揉めだした山路さんと和歌山君をよそに、おはぎ作りは進みに進み。
「ラップの上に餡をこのくらい広げて、その上に餅をのせて」
和菓子さまはみんなに見えるように、餡の上に俵型にした餅をのせくるりと包んだ。次に、ラップをはがしながら、できたてのおはぎをお皿にのせた。
「おお! おはぎだ、おはぎ!」
「だから、おはぎじゃなくて、夜舟だろ」
「わぁ、売り物みたい!」
興奮が一通り収まると、今度はみなで、和菓子さまの説明通りにラップを使い、おはぎを作りだす。
中に入れる餅の形は、自由ということだったので、まん丸の人もいれば、おにぎりのように三角の人もいた。
「柏木さん、さっきはありがとう」
きっちりと俵型の餅を作り、餡をつけることに集中していた慶子さんに和菓子さまの言葉が降ってきた。
慶子さん、気になっていた和菓子さまの口元をぱっと見た。
……見た。
そして、再び製作中のおはぎに視線を落とし「はい」とだけ言った。
それきり黙る慶子さん。
その慶子さんの側に立ったままの和菓子さま。
「鈴木、助けて~」
おはぎと乱闘中の山路さんが、たまらずにヘルプを求めた。
「山路が終わったら、こっちも見てくれ」三年生男子からもヘルプ要請だ。
餅を餡で包むのは、得手不得手があるようで。
和菓子さまがいなくなったことに、ほっとしたような、そうでもないような、不思議な気持ちの慶子さん。
そんなドタバタの中、和歌山君はようやく「すっごくいいこと」を実践するために、ターゲットである同級生男子を部屋の隅に誘った。和歌山君は、いつになく真面目な顔をして、目のまえの鈴木 学君を見た。
「コホン。キミってさ、最近部活を休みがちだったけど、こうして合宿に参加してくれて、副部長として俺は嬉しいと思っているんだ」
「気味が悪い。なにが始まるんだ」
「おいおい。疑い深い性格はよろしくないぞ。まぁ、いいや。うん。つまり、キミは剣道が好きだ」
「……」
「おい、おい、黙るな。そこは『うん』とか『はい』だろう?」
「何なんだよ」
「だからぁ、つまり合宿に参加した剣道好きなキミは、当然、稽古も好きだよな」
「……」
「稽古」
「……」
「だからぁ」
「引っかからないよ」
「げろっ」
涼しい顔でおはぎ作りの現場に戻るターゲットに「おまえ、かわいくないよ~」と、和歌山君が叫んだ。
山路さん企画のイベントは大成功だった。
福地君と北村君のホットケーキ組は、道具について実りあるディスカッションをした。作業も楽しく、出来上がったホットケーキは、メープルシロップやチョコレートソースをかけ、おいしくいただいた。
(そして、慶子さんはホットケーキミックスの正体を知った)
ホットケーキ組は、おはぎ組の為に手のひらサイズのミニホットケーキを大量に焼いてくれていた。餡を挟めば「なんちゃってどらやき」の完成なのだ。
今回、おはぎ作りを希望した部員の全員が、今までおはぎを作った経験がなかった。餡で包むのに苦戦した人たちもいたが、これを家で作ればポイントが高いってことは分かっている。
餡は自分で作らなくても、市販品を買えばいい。
家で「おはぎを作る」っていうのが、ちょっといい。
そう思えたのも、今回のおはぎ作りがとても楽しいもので、また作りたいという気持ちになったからでもあった。
みんな良く食べ、よく笑った。
お腹だけでなく、心もいい気持ちで一杯になった剣道部。
その晩、慶子さんは夢を見た。
慶子さんは、船に乗っていた。その船で、彼女は世界のあちこちを見て回っていたのだ。
静かな夜だった。船は凪いだ水面を滑るように進んでいく。海も空もわからない暗闇の中、甲板に立つ慶子さんは、頬に潮風を受けながら、次の港が自分にとっての終着点だということを知っていた。港には、自分を待っている人がいるのだ。
音もなく港に着いた船。それと相反して、慶子さんの胸の高鳴りは激しく、どきどきしながら船を下りた。
するとそこには、ずっと長いこと慶子さんを待っていた人がいた。慶子さんにとっての、たった一人の人がいた。 その人は、慶子さんが何か言うよりも早く「おかえり」と言ったのだ。
おかえり。
―― おかえり。
目が覚めても、慶子さんの頭にはその情景と、おかえりの声が残ってた。
宿泊所を引き上げるため、慶子さんと山路さんは、自分たちが泊まった部屋の片づけをしていた。ところが、いつも元気な山路さんの動きが、どこか鈍い。リネン類をまとめた山路さんが、うらめしそうな顔で慶子さんを見てきた。
「柏木さん、やけにすっきりした顔をしてるけど、お腹、重くない? 痛くないの?」
「わたしは大丈夫よ。むしろ、山路さんの顔色が良くないような。調子が悪い?」
「食べ過ぎ。夕飯のあと、おはぎでしょう、ホットケーキでしょう、どら焼きでしょう。もう、全部もおいしかったんだもん。食べないわけにはいかなかったのよ」
山路さんはお腹をさすった。
部屋の掃除のあと、管理人さんと食堂のおじさんおばさんに挨拶をした山田先生と剣道部一同は、いろいろとあった宿泊所をあとにした。次の稽古は、学校が始まってからになるので、しばらくのお別れだ。
帰り道、話題になるのは、終わっていない宿題やレポートについて。慶子さんも帰宅したら、すぐに図書館通いをする予定でいた。
電車で他の部員と別れ駅を降りると、慶子さんと和菓子さまは並んで歩きだした。帰る方向が同じなのだから、当たり前といえば当たり前だ。逆に、こんなにご近所さんなのに、今まで、一緒にならなかった方が、不思議なのかもしれない。
しかし、なんというか、いつもと同じ道なのに、違うように感じてしまう慶子さん。昨日の夜から、どうも和菓子さまの顔というか、口元を見ることができなくなっていた。昨日の夕方は、口に怪我をした和菓子さまの顔を、ガンガン見ていた慶子さんだったのに。
なんというか。なんだというのでしょう。
「朝顔、水羊羹。あとは、団扇だったかな」
歩きだしてしばらくすると、和菓子さまが話し出した。
「団扇って、もしかしてお菓子の名前ですか?」
「そうだよ。八月の菓子だ。水羊羹は、まぁ、水羊羹だよね。柏木さんも家で作れるよ」
和菓子さまが言う。
「水羊羹も家で作れるんですか?」
「寒天と餡を使えば出来るよ。柏木さん、合宿で寒天を溶かすのが上手かったから、きっと水羊羹もおいしく作れるよ」
そういえば、おはぎだけじゃなくて、寒天のお菓子も作ったんだったと、慶子さんは思い出す。充実した合宿生活だった。
何より慶子さんが驚いたのが、二日目以外、家の事を思い出さなかったということだ。 こんな風に、自分のことだけを考えて過ごした日々は、久しぶりだった。
「『朝顔』は、練り切り。綺麗だよ」
朝顔の色や形を想像して、慶子さんはわくわくした。
「それであの、その『団扇』っていうのは――」慶子さんが和菓子さまに訊こうとした、その時だ。
「おう、帰って来たか。おかえり、お疲れさん」
師匠は、慶子さんと和菓子さまの前で「寿々喜」の店先に暖簾をかけた。
おかえり。
師匠のその言葉に、昨夜の夢が重なり、慶子さんの顔は熱くなった。絶対に赤くなっているだろう自分の顔を、恨めしく思った。
そして思った。
夢の声。
そして、そこに出てきた人。
「おかえり」と言われたからかもしれないけれど、その人は師匠に似ていたような気がする。
さすがの慶子さんも、はっとした。
そんなの、とんでもない話だ。
不謹慎だ。
そんな夢を見たかもしれない自分が信じられない。
動揺する慶子さんをよそに、師匠は和菓子さまに、早く着替えて店を手伝うように言った。
「柏木さんは、店に入って。約束していた団扇を渡そうか」
そう慶子さんに声をかける師匠に、今度は和菓子さま動揺したような顔をした。
「学は、いつまでここにいる気だ。家に入れって。母さん待っているから。で、柏木さんはこっち」
師匠の勢いに押され暖簾をくぐる慶子さん。追いやられる和菓子さま。
「ま、座って座って」
いつか和菓子さまに勧められた椅子に、再び腰かける。
師匠は箱にいくつかの和菓子を入れているようだった。
それに気付き、カバンからお財布を取り出す慶子さん。
「あぁ、何やってんの。これは、今回は特別。次からはお代をちゃんと頂くから」
そう言うと師匠は、箱を開けたまま慶子さんの前に持ってきた。
「これね。団扇。上用饅頭で団扇の形に作るわけ。で、上にも、こう団扇の模様をね。今回、中は紫芋の餡で作ってみたんだよ」師匠が言う。
「涼しそうですね」
和菓子で団扇。
なんて面白いんだろうと、慶子さん先程までの「不謹慎」を忘れて見入る。
「で、これが朝顔。昔、学が小学校から持ち帰ったのがモデルだな」
それは、ピンクとも紫ともいえない、綺麗な色をした朝顔だった。
和菓子さまが育てた朝顔。
和菓子さまの小学校時代を想像してほほ笑む慶子さん。
「最後は水羊羹ね。どこの店でも作るもんだけど、だから難しいねぇ」
師匠はそう言うと、箱のふたをしめて、ビニール袋にそれを入れて慶子さんに渡してきた。慶子さんは、困った。お菓子は素敵だけれど、無料で受け取るわけにはいかない。
「餡のお礼だよ。柏木さん、餡を大事にしてくれたろ。餡は、店の命だからな」
大事に? いつのことだろうと、慶子さんは首をかしげる
「あぁ、あの時もわかっていなかったもんなぁ。ま、いっか。あんまりくどくど言うのも野暮だからな。」
そう言って師匠は慶子さんを立たせた。
「まぁ、理由なんてなんでもいいんだ。柏木さんに食べてもらいたくて作ったんだ。お父さんやお母さんと仲良く食べてよ」
「わかりました。ありがとうございます。大切に食べます」
「うん。あなたなら、そうだよね。で、これからも、学と仲良くしてやってください」
師匠が頭を下げてきた。
「そんな、仲良くなんて……。わたしが、一方的に、色々とお世話になっているんです」
「そうですか。学が世話をしていますか」
「はい。それは、もう、たくさん」
そう言いながら、本当に自分は多くの事をお世話になったと慶子さんは思う。
「たくさんですか。そりゃ、すごい」
師匠はそう言うと、目を細めて笑った。
実り多き合宿を終え、不思議な夢も見た慶子さん。
言葉にしがたい思いはあるけれど、それはいつものように、心の引き出しにそっとしまう。
行きより和菓子三つ分重くなった慶子さんの荷物。
けれど、慶子さんの足取りは軽く。
両親の待つ家へと、元気に進んでいったのでありました。