↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

一週間で帰ると言った父が、迷宮から二十七年ぶりに帰ってきた

作者: 菊丸
掲載日:2026/09/09

父の帰還札を、俺は七年前にギルドから盗んだ。


今日、その片割れを持った男が北門に現れた。



「第三坑道、《銀狼の牙》四名、帰還!」


門兵の声が飛ぶ。俺は帳簿を開いた。冒険者が迷宮へ入る時、《帰還札》は二つに割られる。


片方は本人が持ち、片方は北門に残す。持ち主が死ねば、二枚とも黒く焦げる。帰ってきた時は、二つを合わせればいい。


「名前」


「ダリオ」


「ミナ」


「ロック」


「エッダ」


台帳と札を照合する。一人ずつ、門に残してあった半札を出す。カチリ。木目がつながり、青白い光が一度だけ走った。


「帰還確認」


次。


「帰還確認」


最後の一枚を合わせる。


「帰還確認。お疲れさん」


「それだけ?」


エッダが言った。若い女剣士だ。左肩に包帯を巻いているくせに、口は元気らしい。


「命懸けで帰ってきたんだけど」


「見れば分かる」


「おかえり、とかないの?」


「追加料金一銀貨」


「高っ」


仲間が笑った。四人は、風呂が先だ酒が先だと言い合いながら門の向こうへ消えていく。


俺は次の帳簿を開いた。


北門の帰還係を十二年やっている。帰ってくる奴も、帰ってこない奴も珍しくない。


机の一番下の引き出しは、仕事では使わない。そこに古い半札を一枚だけ入れている。


《ローディ・ベルン》


俺の父親だ。



父が迷宮へ入ったのは、二十七年前。俺が七歳の時だった。父は第六層の測量隊に入っていた。


八人で新しい水脈を調べ、一週間ほどで戻る予定だった。


出発の朝、父は玄関で革靴の紐を結びながら言った。


「一週間で帰る。帰ったら、剣の握り方を教えてやる」


「ほんとか?」


「ああ」


「前も言った」


「今回はほんとだ」


母は台所にいた。いつもなら玄関まで出てくるのに、その日は来なかった。俺は気にしなかった。


「水筒」


母の声がした。父が腰を触る。


「あ」


俺が台所へ取りに行き、父へ渡した。


「助かった」


「母さんに言えよ」


父は台所の方を見た。


「じゃあ、行ってくる」


少し間があった。


「行ってらっしゃい」


母の声だけが返ってきた。


俺は木剣を持ったまま、


「絶対、剣だからな!」


と叫んだ。父は振り返らず、手だけ上げた。


五日後、第六層で大崩落が起きた。


測量隊八名が消えた。八枚の帰還札は、全部白いままだった。


生きている。


少なくとも、その時は。


ギルドはすぐに救助隊を出した。最初の十日間は、昼も夜も北門を人が出入りした。坑道技師、土魔術師、神官、荷運び屋。


俺と母も毎日門へ行った。


「今日はここまで掘った」


「南側から回り込んでいる」


「地下水が多い。少し時間がかかる」


担当者は、子供の俺にも地図を見せて説明した。


二ヶ月目の夜。


旧第六層の岩盤から、三度、音がしたという話が出た。人が石を叩いたような音だったらしい。


救助隊は場所を変え、そちらへ掘った。母は三日間、ほとんど北門から離れなかった。四日目の朝、その救助坑が潰れた。


音は聞こえなくなった。


半年後、測量隊の一人の札が黒くなった。


その妻が北門で崩れ落ちた。母が俺の頭を自分の腹へ押しつけた。


一年目の冬。


別の救助坑が崩れた。今度は救助隊側の札が一枚黒くなった。救いに行った人間が死んだ。


その晩、母は家へ帰ると、市場の前掛けを椅子の背に掛けた。


「明日から店に戻る」


「父さんは?」


「朝、札を見てから行く」


「救助の話、聞けないじゃん」


「毎日ここにいたって、私が岩をどかせるわけじゃない」


「父さん生きてるんだぞ」


「分かってるよ!」


母が初めて声を荒らげた。しばらくして、俺の靴を指した。踵の底が剥がれかけていた。


「それも直さないといけない。家賃も来週」


俺は何も言えなかった。


翌朝、母は北門で父の札が白いことだけ確かめて、市場へ行った。


救助隊はその後も二度掘った。


二年目の春、ギルドは家族を集めた。


長い机の向こうに、迷宮管理局の責任者と坑道技師長が座っていた。白い札は、その時には四枚になっていた。


「今の技術では、旧第六層へ安全に到達できません」


誰かが怒鳴った。


「まだ生きてるんだぞ!」


「分かっています」


「なら、助けてくれよ!」


技師長は黙った。代わりに、迷宮管理局の責任者が言った。


「次に崩れれば、今度は救助隊の家族にも、ここで同じ説明をすることになります」


救助は常時編成から外された。記録上は《生存反応あり・救出不能》になった。



それから、北門へ来る家族は少しずつ減った。三年目、一枚が黒くなった。五年目、もう一枚が黒くなった。


残った家族の一人は、しばらくして街を出た。


「鐘が鳴るたび期待するのに疲れた」


そう言っていた。


七年目。


母が北門で父の名を告げると、新しく配属された帰還係が帳簿をめくった。


「ローディ……綴りは?」


昔は、門にいる誰もが父たち八人の名前を知っていた。母は一文字ずつ答えた。


「白いですね」


「そう」


それだけ聞いて、市場へ向かった。


十一年目。


最後から二枚目の札が黒くなった。白く残ったのは、父の札だけになった。


大きな地震の後には旧第六層が再測量された。


俺がギルドへ入ってからも三度、調査隊が出た。三度とも、道はつながらなかった。


その後も、母は市場の仕事を続けた。


俺の背は伸び、靴は毎年小さくなった。


俺が十二の時、母は父の革鎧を売った。


家へ帰ると、壁に掛かっていた鎧がなくなっていた。


「売ったの?」


「売った」


「父さんのだぞ」


「知ってる」


「帰ってきたらどうすんだよ」


母は天井を指した。雨漏りの染みが広がっていた。


「屋根代」


「だからって」


「鎧着て屋根は直せないでしょ」


その冬、屋根は新しくなった。


父の外套は、その翌年には雑巾になった。寝室は物置になった。父の靴もなくなった。


月に一度くらい、母は北門へ寄った。


「ローディ・ベルン、白い?」


「白いです」


「そう」


それで帰る。



俺が十五になった頃、一度だけ父のことで母とまた喧嘩した。


父がいなくなって八年目だった。何がきっかけだったかは覚えていない。


俺が、


「もういいだろ。父さんのことは」


と言った。母の顔が変わった。


「私も、似たようなこと言った」


「いつ」


母は台所の椅子に座った。


「出ていく前の晩。喧嘩したの」


父が第六層の仕事を引き受けたことを、母は嫌がったらしい。前の月にも第四層で落盤があった。


それなのに父は、危険手当がつくからと笑った。屋根も直せる。お前の靴も買える。そう言った。母は余計に腹が立った。


「誰がそんな金ほしいって言ったの、って」


母は言った。


「それで、そんなに迷宮が好きなら、もう帰ってこなくていいって言った」


出発の朝、母が玄関へ来なかった理由を、その時初めて知った。


「でも、行ってらっしゃいって言ってたじゃん」


「うん」


「じゃあいいだろ」


「……そうかな」


母はそれ以上、その話をしなかった。



俺はギルドに入り、二十二で北門へ回された。


それから母は、自分で門へ来なくなった。家へ帰ると、ときどき聞いた。


「今日も白い?」


「白い」


「そう」


夕飯の話の方が長かった。市場の肉屋が値上げしたとか。向かいの店の娘が結婚したとか。俺がいつまで独り身なのかとか。


ある晩、豆の煮込みを食べて、俺が言った。


「硬い」


母が露骨に嫌な顔をした。


「そこまで父さんに似なくていいのに」


「父さんも言ってたの?」


「豆が硬い、塩が薄い、肉が少ない。全部食べるくせに文句だけは多かった」


そう言いながら、母は鍋から俺の皿へ肉を一つ足した。


母が病気になったのは、父が消えて十八年目だった。


最後の半年は、寝たり起きたりだった。料理も俺がするようになった。


ある夕方、寝室から声がした。


「豆、水につけた?」


「朝からつけてる!」


「火、強くない?」


「寝てろよ!」


「硬くしたら、あの人また文句言うから」


俺は鍋の蓋を閉めた。


「帰ってきたら自分で作れよ」


「私はもう無理かもねえ」


その言い方があまりに普通だったので、怒るタイミングを逃した。


数日後。


母は窓の外を見ながら聞いた。


「今日も白い?」


「白いよ」


「そう」


しばらくして、また言った。


「ねえ、カイル」


「何」


「あの朝の『行ってらっしゃい』、あの人聞こえてたと思う?」


「聞こえてただろ」


「そうかな」


「家の外まで聞こえてたよ」


母は少し笑った。


「なら、いいや」


「帰ってきたら何て言うの」


「まず怒る」


「何て」


「遅い、って」


「それだけ?」


母は目を閉じた。


「その先は本人に言う」


三日後、母は死んだ。父の札は白かった。


二年後。


未帰還から二十年を過ぎた記録は、北門の現役棚から《長期未帰還保管庫》へ移す規則になっていた。


父の名も一覧に入っていた。俺が処理担当だった。帳簿には、


《長期未帰還保管庫へ移管済》


と書いた。札は、机の一番下の引き出しへ入れた。七年間、誰にも言っていない。



父が消えて二十七年目の初夏。


南坑道の掘削路が、旧第六層の裏側にある空洞へ抜けた。ギルドは二十五年ぶりに正式な救助隊を組んだ。


古い《生存反応あり・救出不能》の記録も引っ張り出された。


ひと月半前、俺は北門で救助隊の出発手続きをした。


救助隊が出た後も、仕事は変わらなかった。朝になれば門を開け、帰還者の札を合わせた。


そして今日。


迷宮側から鐘が三回鳴った。


「旧第六層救助隊、帰還!」


探索隊が見えてくる。泥だらけの冒険者。坑道技師。負傷者を乗せた担架。荷車。一人ずつ札を処理する。


「帰還確認」


「帰還確認」


「お前、腕どうした」


「折った」


「治療所行け」


最後の方で、救助隊長が俺の前に立った。


「カイル」


普段、隊長が帰還係を名前で呼ぶことはない。俺は顔を上げた。隊長が脇へ退いた。その後ろに、一人の男がいた。


六十前くらい。白髪混じり。頬は痩せ、左の眉からこめかみに傷が走っている。古い革鎧は何度も縫い直されていた。


俺の知っている父は三十二歳だった。目の前にいるのは、知らない老人に近かった。隊長が言った。


「旧王国の貯水施設跡で発見した。地下水と光茸、地底の盲魚がいた。測量隊は、そこでかなり長く生き延びてたらしい」


「他の人は」


「墓が七つあった」


そうか。


札の通りだ。


隊長は続けた。


「それと、お前の親父、まだ測量してたぞ」


「え」


「空洞からこっちへ伸びる古い測量印が、そこら中にあった。崩落のたびに引き直したんだろうな。一番新しい印は、俺たちが入る少し前のものだった」


隊長は俺の肩を一度叩いて離れた。男が一歩、前へ出る。胸元から紐を引っ張り出した。古い半札が下がっていた。


泥で黒ずみ、角が欠けている。それでも名前は読めた。


《ローディ・ベルン》


俺は机の下へ手を伸ばした。一番下の引き出し。白い半札を取り出す。男の目が、それに止まった。


「……それ」


「何だ」


「二十年で、長期保管庫行きじゃなかったか」


「よく知ってるな」


「昔、説明された」


「じゃあ黙ってろ。職を失いたくない」


男の口元が少し緩んだ。俺は札を机へ置いた。


「名前」


「ローディ・ベルン」


「所属」


「当時は《青鹿》測量隊」


「出発日」


男は年月日まで正確に答えた。俺は二十七年前の帳簿を開いた。


「本人確認」


男が困った顔をした。


「何を言えばいい」


「知らん。俺が最後に見たあんたは三十二だ」


「お前は七つだった」


男の声が止まった。


「カイル、だよな」


「そうだよ」


「大きくなったな」


「二十七年あるからな」


男は視線を落とした。


「母さんは」


「九年前に死んだ」


男は動かなかった。


「病気だった。最後の半年は寝たり起きたり」


「……そうか」


父はそれだけ言った。しばらくして、半札を握っていた手を開いた。掌に木の角が食い込んだ跡が残っていた。


「隊長が、まだ測量してたって言ってた」


「ああ」


「ずっと出口を探してたのか」


父は少し考えた。


「ずっとじゃない」


「最初は八人で崩落箇所を掘った。二ヶ月くらいした時、壁の向こうから三回、石を叩く音がした」


俺は顔を上げた。


「三回?」


「ああ。こっちも全員で叩き返した。一晩中やった。次の日から聞こえなくなった」


あの救助坑だ。四日目に潰れた坑道。父は知らないまま続けた。


「力じゃどうにもならないって分かってからは、水の流れと風を測った。外につながる隙間があるなら、どっちかは動くからな」


父は首を振った。


「仲間が死んだ日は何もしなかった。何ヶ月も地図を触らなかった時もある。最後の一人が死んでからは、何年か数えるのもやめた」


父の仲間の最後の札が黒くなったのは、十六年前だ。


「でも岩が大きく鳴ったら起きた。風向きが変わったら測った。水位が下がったら水路を潜った。崩れたら、地図を描き直した」


父は自分の手を見た。爪が二本、途中から歪んでいる。


「外へ出られるかもしれない日だけは、見逃したくなかった」


札を持つ。父も、自分の半札を外した。


二十七年ぶりに、二枚を合わせる。


泥で削れた分、少しずれている。指で位置を直した。


カチリ。青白い光が走った。毎日見ている光だった。帳簿へ書く。


《ローディ・ベルン》


出発。


二十七年前。


帰還。


今日。


最後に判を押す。


「帰還確認」


父は、合わさった札を手にしたまま立っていた。


「終わったぞ」


「そうか」


「……おかえり」


父が顔を上げた。


「ただいま」



その日の仕事を代わってもらい、父を家へ連れていった。


街を歩くたび、父はいちいち止まった。


「ここ、何だ」


「教会」


「パン屋だったろ」


「十五年前に潰れた」


「この道、こんな広かったか」


「馬車が増えたから広げた」


「あの鐘楼は?」


「戦争で壊れた」


「戦争あったのか」


「二回」


「二回?」


「家で聞け」


「家、あるのか」


「あるよ」


家の前まで来る。父は屋根を見上げた。


「直したんだな」


「二回」


「俺、出る前にそれで喧嘩したんだよ」


「知ってる」


父が俺を見る。


「母さんから聞いた」


「……どこまで」


「帰ってこなくていい、まで」


父は黙った。


俺は玄関を開けた。父は中へ入ると、台所の方を見た。


誰もいない。


それでも少しだけ、そこに立っていた。


「最初の修理代、あんたの鎧だからな」


「売ったのか」


「母さんが」


父はもう一度屋根を見た。


「そりゃ怒るわ」


「今さら反省すんな」


自分の部屋だった場所には、乾燥豆の袋と古着と薪が詰まっていた。


「俺の部屋」


「豆の部屋だ」


「寝る場所」


「今日は俺の寝床使え。明日、自分で片付けろ」


「帰還初日に労働か」


「二十七年分溜まってる」


父は乾燥豆を見た。


「腹減った」


「何食いたい」


「豆の煮込み」


「やっぱりな」


鍋を出した。豚肉を切る。玉ねぎを刻む。豆は、明日の分に朝から水につけてあった。


父は台所の椅子に座り、ずっと俺の手元を見ていた。


「母さんに習ったのか」


「病気になってから」


「そうか」


煮込みを皿へよそう。


二つ。


父が一口食べる。黙って噛む。


「どうだ」


「母さんのと違うな」


「作ってる奴が違う」


もう一口食べる。


「豆、ちょっと硬い」


「母さんが言ってた。あんた、豆が硬いって文句言うって」


父の匙が止まった。


「……もう一回、あいつの作ったの食いたかったな」


父は匙を置いた。しばらく、皿の湯気を見ていた。やがて鼻をすすって、もう一度匙を持った。


「母さん、死ぬ前まで気にしてたぞ」


「何を」


「出る前の晩に、帰ってこなくていいって言ったこと」


父は少し眉を寄せた。


「それと、朝の『行ってらっしゃい』。あんたに聞こえてたかって」


父はしばらく何も言わなかった。


「聞こえてたよ」


「そうか」


「あれは喧嘩の最中だ」


父はもう一口食べた。


「朝は、行ってらっしゃいだっただろ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
自然と目に熱いものがこみ上げてきました…… 二十七年後の帰還……お母さんがもしと考えたら、でも通じ合っていたんだなと 最後の会話は反則ですよ……一気に崩壊しました、抑えていた物が…… 素敵な物語をあり…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。