一週間で帰ると言った父が、迷宮から二十七年ぶりに帰ってきた
父の帰還札を、俺は七年前にギルドから盗んだ。
今日、その片割れを持った男が北門に現れた。
*
「第三坑道、《銀狼の牙》四名、帰還!」
門兵の声が飛ぶ。俺は帳簿を開いた。冒険者が迷宮へ入る時、《帰還札》は二つに割られる。
片方は本人が持ち、片方は北門に残す。持ち主が死ねば、二枚とも黒く焦げる。帰ってきた時は、二つを合わせればいい。
「名前」
「ダリオ」
「ミナ」
「ロック」
「エッダ」
台帳と札を照合する。一人ずつ、門に残してあった半札を出す。カチリ。木目がつながり、青白い光が一度だけ走った。
「帰還確認」
次。
「帰還確認」
最後の一枚を合わせる。
「帰還確認。お疲れさん」
「それだけ?」
エッダが言った。若い女剣士だ。左肩に包帯を巻いているくせに、口は元気らしい。
「命懸けで帰ってきたんだけど」
「見れば分かる」
「おかえり、とかないの?」
「追加料金一銀貨」
「高っ」
仲間が笑った。四人は、風呂が先だ酒が先だと言い合いながら門の向こうへ消えていく。
俺は次の帳簿を開いた。
北門の帰還係を十二年やっている。帰ってくる奴も、帰ってこない奴も珍しくない。
机の一番下の引き出しは、仕事では使わない。そこに古い半札を一枚だけ入れている。
《ローディ・ベルン》
俺の父親だ。
*
父が迷宮へ入ったのは、二十七年前。俺が七歳の時だった。父は第六層の測量隊に入っていた。
八人で新しい水脈を調べ、一週間ほどで戻る予定だった。
出発の朝、父は玄関で革靴の紐を結びながら言った。
「一週間で帰る。帰ったら、剣の握り方を教えてやる」
「ほんとか?」
「ああ」
「前も言った」
「今回はほんとだ」
母は台所にいた。いつもなら玄関まで出てくるのに、その日は来なかった。俺は気にしなかった。
「水筒」
母の声がした。父が腰を触る。
「あ」
俺が台所へ取りに行き、父へ渡した。
「助かった」
「母さんに言えよ」
父は台所の方を見た。
「じゃあ、行ってくる」
少し間があった。
「行ってらっしゃい」
母の声だけが返ってきた。
俺は木剣を持ったまま、
「絶対、剣だからな!」
と叫んだ。父は振り返らず、手だけ上げた。
五日後、第六層で大崩落が起きた。
測量隊八名が消えた。八枚の帰還札は、全部白いままだった。
生きている。
少なくとも、その時は。
ギルドはすぐに救助隊を出した。最初の十日間は、昼も夜も北門を人が出入りした。坑道技師、土魔術師、神官、荷運び屋。
俺と母も毎日門へ行った。
「今日はここまで掘った」
「南側から回り込んでいる」
「地下水が多い。少し時間がかかる」
担当者は、子供の俺にも地図を見せて説明した。
二ヶ月目の夜。
旧第六層の岩盤から、三度、音がしたという話が出た。人が石を叩いたような音だったらしい。
救助隊は場所を変え、そちらへ掘った。母は三日間、ほとんど北門から離れなかった。四日目の朝、その救助坑が潰れた。
音は聞こえなくなった。
半年後、測量隊の一人の札が黒くなった。
その妻が北門で崩れ落ちた。母が俺の頭を自分の腹へ押しつけた。
一年目の冬。
別の救助坑が崩れた。今度は救助隊側の札が一枚黒くなった。救いに行った人間が死んだ。
その晩、母は家へ帰ると、市場の前掛けを椅子の背に掛けた。
「明日から店に戻る」
「父さんは?」
「朝、札を見てから行く」
「救助の話、聞けないじゃん」
「毎日ここにいたって、私が岩をどかせるわけじゃない」
「父さん生きてるんだぞ」
「分かってるよ!」
母が初めて声を荒らげた。しばらくして、俺の靴を指した。踵の底が剥がれかけていた。
「それも直さないといけない。家賃も来週」
俺は何も言えなかった。
翌朝、母は北門で父の札が白いことだけ確かめて、市場へ行った。
救助隊はその後も二度掘った。
二年目の春、ギルドは家族を集めた。
長い机の向こうに、迷宮管理局の責任者と坑道技師長が座っていた。白い札は、その時には四枚になっていた。
「今の技術では、旧第六層へ安全に到達できません」
誰かが怒鳴った。
「まだ生きてるんだぞ!」
「分かっています」
「なら、助けてくれよ!」
技師長は黙った。代わりに、迷宮管理局の責任者が言った。
「次に崩れれば、今度は救助隊の家族にも、ここで同じ説明をすることになります」
救助は常時編成から外された。記録上は《生存反応あり・救出不能》になった。
*
それから、北門へ来る家族は少しずつ減った。三年目、一枚が黒くなった。五年目、もう一枚が黒くなった。
残った家族の一人は、しばらくして街を出た。
「鐘が鳴るたび期待するのに疲れた」
そう言っていた。
七年目。
母が北門で父の名を告げると、新しく配属された帰還係が帳簿をめくった。
「ローディ……綴りは?」
昔は、門にいる誰もが父たち八人の名前を知っていた。母は一文字ずつ答えた。
「白いですね」
「そう」
それだけ聞いて、市場へ向かった。
十一年目。
最後から二枚目の札が黒くなった。白く残ったのは、父の札だけになった。
大きな地震の後には旧第六層が再測量された。
俺がギルドへ入ってからも三度、調査隊が出た。三度とも、道はつながらなかった。
その後も、母は市場の仕事を続けた。
俺の背は伸び、靴は毎年小さくなった。
俺が十二の時、母は父の革鎧を売った。
家へ帰ると、壁に掛かっていた鎧がなくなっていた。
「売ったの?」
「売った」
「父さんのだぞ」
「知ってる」
「帰ってきたらどうすんだよ」
母は天井を指した。雨漏りの染みが広がっていた。
「屋根代」
「だからって」
「鎧着て屋根は直せないでしょ」
その冬、屋根は新しくなった。
父の外套は、その翌年には雑巾になった。寝室は物置になった。父の靴もなくなった。
月に一度くらい、母は北門へ寄った。
「ローディ・ベルン、白い?」
「白いです」
「そう」
それで帰る。
*
俺が十五になった頃、一度だけ父のことで母とまた喧嘩した。
父がいなくなって八年目だった。何がきっかけだったかは覚えていない。
俺が、
「もういいだろ。父さんのことは」
と言った。母の顔が変わった。
「私も、似たようなこと言った」
「いつ」
母は台所の椅子に座った。
「出ていく前の晩。喧嘩したの」
父が第六層の仕事を引き受けたことを、母は嫌がったらしい。前の月にも第四層で落盤があった。
それなのに父は、危険手当がつくからと笑った。屋根も直せる。お前の靴も買える。そう言った。母は余計に腹が立った。
「誰がそんな金ほしいって言ったの、って」
母は言った。
「それで、そんなに迷宮が好きなら、もう帰ってこなくていいって言った」
出発の朝、母が玄関へ来なかった理由を、その時初めて知った。
「でも、行ってらっしゃいって言ってたじゃん」
「うん」
「じゃあいいだろ」
「……そうかな」
母はそれ以上、その話をしなかった。
*
俺はギルドに入り、二十二で北門へ回された。
それから母は、自分で門へ来なくなった。家へ帰ると、ときどき聞いた。
「今日も白い?」
「白い」
「そう」
夕飯の話の方が長かった。市場の肉屋が値上げしたとか。向かいの店の娘が結婚したとか。俺がいつまで独り身なのかとか。
ある晩、豆の煮込みを食べて、俺が言った。
「硬い」
母が露骨に嫌な顔をした。
「そこまで父さんに似なくていいのに」
「父さんも言ってたの?」
「豆が硬い、塩が薄い、肉が少ない。全部食べるくせに文句だけは多かった」
そう言いながら、母は鍋から俺の皿へ肉を一つ足した。
母が病気になったのは、父が消えて十八年目だった。
最後の半年は、寝たり起きたりだった。料理も俺がするようになった。
ある夕方、寝室から声がした。
「豆、水につけた?」
「朝からつけてる!」
「火、強くない?」
「寝てろよ!」
「硬くしたら、あの人また文句言うから」
俺は鍋の蓋を閉めた。
「帰ってきたら自分で作れよ」
「私はもう無理かもねえ」
その言い方があまりに普通だったので、怒るタイミングを逃した。
数日後。
母は窓の外を見ながら聞いた。
「今日も白い?」
「白いよ」
「そう」
しばらくして、また言った。
「ねえ、カイル」
「何」
「あの朝の『行ってらっしゃい』、あの人聞こえてたと思う?」
「聞こえてただろ」
「そうかな」
「家の外まで聞こえてたよ」
母は少し笑った。
「なら、いいや」
「帰ってきたら何て言うの」
「まず怒る」
「何て」
「遅い、って」
「それだけ?」
母は目を閉じた。
「その先は本人に言う」
三日後、母は死んだ。父の札は白かった。
二年後。
未帰還から二十年を過ぎた記録は、北門の現役棚から《長期未帰還保管庫》へ移す規則になっていた。
父の名も一覧に入っていた。俺が処理担当だった。帳簿には、
《長期未帰還保管庫へ移管済》
と書いた。札は、机の一番下の引き出しへ入れた。七年間、誰にも言っていない。
*
父が消えて二十七年目の初夏。
南坑道の掘削路が、旧第六層の裏側にある空洞へ抜けた。ギルドは二十五年ぶりに正式な救助隊を組んだ。
古い《生存反応あり・救出不能》の記録も引っ張り出された。
ひと月半前、俺は北門で救助隊の出発手続きをした。
救助隊が出た後も、仕事は変わらなかった。朝になれば門を開け、帰還者の札を合わせた。
そして今日。
迷宮側から鐘が三回鳴った。
「旧第六層救助隊、帰還!」
探索隊が見えてくる。泥だらけの冒険者。坑道技師。負傷者を乗せた担架。荷車。一人ずつ札を処理する。
「帰還確認」
「帰還確認」
「お前、腕どうした」
「折った」
「治療所行け」
最後の方で、救助隊長が俺の前に立った。
「カイル」
普段、隊長が帰還係を名前で呼ぶことはない。俺は顔を上げた。隊長が脇へ退いた。その後ろに、一人の男がいた。
六十前くらい。白髪混じり。頬は痩せ、左の眉からこめかみに傷が走っている。古い革鎧は何度も縫い直されていた。
俺の知っている父は三十二歳だった。目の前にいるのは、知らない老人に近かった。隊長が言った。
「旧王国の貯水施設跡で発見した。地下水と光茸、地底の盲魚がいた。測量隊は、そこでかなり長く生き延びてたらしい」
「他の人は」
「墓が七つあった」
そうか。
札の通りだ。
隊長は続けた。
「それと、お前の親父、まだ測量してたぞ」
「え」
「空洞からこっちへ伸びる古い測量印が、そこら中にあった。崩落のたびに引き直したんだろうな。一番新しい印は、俺たちが入る少し前のものだった」
隊長は俺の肩を一度叩いて離れた。男が一歩、前へ出る。胸元から紐を引っ張り出した。古い半札が下がっていた。
泥で黒ずみ、角が欠けている。それでも名前は読めた。
《ローディ・ベルン》
俺は机の下へ手を伸ばした。一番下の引き出し。白い半札を取り出す。男の目が、それに止まった。
「……それ」
「何だ」
「二十年で、長期保管庫行きじゃなかったか」
「よく知ってるな」
「昔、説明された」
「じゃあ黙ってろ。職を失いたくない」
男の口元が少し緩んだ。俺は札を机へ置いた。
「名前」
「ローディ・ベルン」
「所属」
「当時は《青鹿》測量隊」
「出発日」
男は年月日まで正確に答えた。俺は二十七年前の帳簿を開いた。
「本人確認」
男が困った顔をした。
「何を言えばいい」
「知らん。俺が最後に見たあんたは三十二だ」
「お前は七つだった」
男の声が止まった。
「カイル、だよな」
「そうだよ」
「大きくなったな」
「二十七年あるからな」
男は視線を落とした。
「母さんは」
「九年前に死んだ」
男は動かなかった。
「病気だった。最後の半年は寝たり起きたり」
「……そうか」
父はそれだけ言った。しばらくして、半札を握っていた手を開いた。掌に木の角が食い込んだ跡が残っていた。
「隊長が、まだ測量してたって言ってた」
「ああ」
「ずっと出口を探してたのか」
父は少し考えた。
「ずっとじゃない」
「最初は八人で崩落箇所を掘った。二ヶ月くらいした時、壁の向こうから三回、石を叩く音がした」
俺は顔を上げた。
「三回?」
「ああ。こっちも全員で叩き返した。一晩中やった。次の日から聞こえなくなった」
あの救助坑だ。四日目に潰れた坑道。父は知らないまま続けた。
「力じゃどうにもならないって分かってからは、水の流れと風を測った。外につながる隙間があるなら、どっちかは動くからな」
父は首を振った。
「仲間が死んだ日は何もしなかった。何ヶ月も地図を触らなかった時もある。最後の一人が死んでからは、何年か数えるのもやめた」
父の仲間の最後の札が黒くなったのは、十六年前だ。
「でも岩が大きく鳴ったら起きた。風向きが変わったら測った。水位が下がったら水路を潜った。崩れたら、地図を描き直した」
父は自分の手を見た。爪が二本、途中から歪んでいる。
「外へ出られるかもしれない日だけは、見逃したくなかった」
札を持つ。父も、自分の半札を外した。
二十七年ぶりに、二枚を合わせる。
泥で削れた分、少しずれている。指で位置を直した。
カチリ。青白い光が走った。毎日見ている光だった。帳簿へ書く。
《ローディ・ベルン》
出発。
二十七年前。
帰還。
今日。
最後に判を押す。
「帰還確認」
父は、合わさった札を手にしたまま立っていた。
「終わったぞ」
「そうか」
「……おかえり」
父が顔を上げた。
「ただいま」
*
その日の仕事を代わってもらい、父を家へ連れていった。
街を歩くたび、父はいちいち止まった。
「ここ、何だ」
「教会」
「パン屋だったろ」
「十五年前に潰れた」
「この道、こんな広かったか」
「馬車が増えたから広げた」
「あの鐘楼は?」
「戦争で壊れた」
「戦争あったのか」
「二回」
「二回?」
「家で聞け」
「家、あるのか」
「あるよ」
家の前まで来る。父は屋根を見上げた。
「直したんだな」
「二回」
「俺、出る前にそれで喧嘩したんだよ」
「知ってる」
父が俺を見る。
「母さんから聞いた」
「……どこまで」
「帰ってこなくていい、まで」
父は黙った。
俺は玄関を開けた。父は中へ入ると、台所の方を見た。
誰もいない。
それでも少しだけ、そこに立っていた。
「最初の修理代、あんたの鎧だからな」
「売ったのか」
「母さんが」
父はもう一度屋根を見た。
「そりゃ怒るわ」
「今さら反省すんな」
自分の部屋だった場所には、乾燥豆の袋と古着と薪が詰まっていた。
「俺の部屋」
「豆の部屋だ」
「寝る場所」
「今日は俺の寝床使え。明日、自分で片付けろ」
「帰還初日に労働か」
「二十七年分溜まってる」
父は乾燥豆を見た。
「腹減った」
「何食いたい」
「豆の煮込み」
「やっぱりな」
鍋を出した。豚肉を切る。玉ねぎを刻む。豆は、明日の分に朝から水につけてあった。
父は台所の椅子に座り、ずっと俺の手元を見ていた。
「母さんに習ったのか」
「病気になってから」
「そうか」
煮込みを皿へよそう。
二つ。
父が一口食べる。黙って噛む。
「どうだ」
「母さんのと違うな」
「作ってる奴が違う」
もう一口食べる。
「豆、ちょっと硬い」
「母さんが言ってた。あんた、豆が硬いって文句言うって」
父の匙が止まった。
「……もう一回、あいつの作ったの食いたかったな」
父は匙を置いた。しばらく、皿の湯気を見ていた。やがて鼻をすすって、もう一度匙を持った。
「母さん、死ぬ前まで気にしてたぞ」
「何を」
「出る前の晩に、帰ってこなくていいって言ったこと」
父は少し眉を寄せた。
「それと、朝の『行ってらっしゃい』。あんたに聞こえてたかって」
父はしばらく何も言わなかった。
「聞こえてたよ」
「そうか」
「あれは喧嘩の最中だ」
父はもう一口食べた。
「朝は、行ってらっしゃいだっただろ」




