水槽の中の群青
高校二年の夏、放課後の校舎はどこか重たい熱気に満ちていた。アスファルトからは夕立の予感が交ざったぬるい風が吹き上がり、格子状に切り取られた窓枠の向こうで、蝉の鳴き声が遠く歪んで響いていた。
「ねえ、葵。また見てたでしょ」
背後から掛けられた声に、私は跳ね上がる心臓を悟られまいと息を止めた。振り返ると、校内の廊下の柱に背をあずけた美月が、可笑しそうに口元を歪めていた。少し乱れた制服の襟元、西日に透ける細い髪、そしてその鋭く美しい目元。
「……見てないよ。ただ、外が暑そうだなって思ってただけ」
「嘘ばっかり」
美月は軽やかな足取りで近づいてくると、私の隣で窓枠に肘をついた。彼女の体温と、ほんのりと香る制汗スプレーの清潔な匂いが鼻腔をくすぐる。それだけで、私の胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
私と美月は、周囲からは「親友」と呼ばれていた。クラスも同じで、部活帰りにアイスを分け合い、休日は互いの部屋で行き来する。大人たちや同級生から見れば、どこにでもいる仲の良い女子高生二人組だ。
でも、私にとっては違った。
私にとって美月は、ただの「親友」という綺麗な言葉ではとても収まりきらない存在だった。彼女が他の女子生徒と親しげに笑い合っているだけで、嫉妬で胃の奥が痛む。彼女がふと見せるアンニュイな表情を自分だけが知っているという事実に、愚かなほどの優越感を抱く。
自分でも分かっている。これは友情ではない。誰にも言えない、醜くて切ない恋心だ。
「葵ってさ、たまにすごく遠くを見てるよね。私のこと、どこか別の世界の人間だと思ってない?」
美月の言葉に、私は不意をつかれた。
「そんなこと……思ってないよ」
「嘘。葵の目はね、いつも私を遠ざけようとしてる。近くにいるのに、壁を作ってる」
そう言って美月は、私の手首をそっと掴んだ。爪が少し皮膚に食い込むくらいの強い力。冷たい指先とは裏腹に、触れられた場所から火がついたように熱が広がっていく。
この距離感が、私を狂わせる。
高校生という時期は、あまりにも不確かだ。子供でもなければ大人でもない。進路、人間関係、変わりゆく自分の身体と心。自分という存在の形さえ定まっていないのに、社会からは「正しさ」や「普通」を求められる。
ましてや、同性に対する恋心なんて。この狭い学校という世界でそれがバレてしまえば、どんな目で見られるか。好奇の目、密やかな嘲笑、あるいは「多感な時期の気の迷い」という片付けられ方。それが怖くて、私は必死に「親友」の仮面を被り続けていた。
「ねえ、葵」
美月が顔を近づけてくる。夕日の光が彼女の瞳を琥珀色に染めていた。
「私ね、最近自分が分からなくなるの。みんなが話す恋愛の話も、将来の話も、全部どこか他人事みたいでさ。息が詰まりそうなの。……葵もそうでしょ?」
彼女の瞳の中に、揺れる私が映っていた。美月もまた、この宙ぶらりんな高校生活のなかで、孤独と葛藤を抱えていた。私と同じように、大人になりきれない焦燥感と、自分を偽る痛みに苦しんでいたのだ。
だが、美月の抱える「息苦しさ」と、私の抱える「息苦しさ」は同じなのだろうか。
もし私がこの手を握り返して、「私はあなたが好きなの」と言ったら、彼女はどうするだろう。私と同じように苦しんでくれるだろうか。それとも、ドン引きして軽蔑の目を向けるだろうか。
恐ろしいのは、美月が時折見せる「私に対する特別な執着」だった。彼女は私の手を握り、私を特別扱いし、他の誰にも見せない弱音を吐く。だけど、それが「恋愛感情」なのか、ただの「友情の依存」なのか、私には判別がつかない。
もしこれがただの執着なら、私の恋心を知った瞬間、この関係は壊れてしまう。
「……息が詰まるのは、夏だからじゃない?」
私は精いっぱいの強がりで、美月の手をそっと振り払った。冷たく突っぱねることでしか、自分の心を護る術を知らなかった。
美月は一瞬、傷ついたような目をした。だがすぐに、いつもの少し冷めた笑みを浮かべた。
「そっか。……葵は強いね」
違う。強いんじゃない。臆病なだけだ。壊れるのが怖くて、本当の自分を隠しているだけなんだ。
美月は鞄を持ち直すと、「先に行くね」と言って背を向けた。廊下を去っていく彼女の背中を見つめながら、私は自分の掌を強く握りしめた。美月の体温が残る皮膚が、痛いほどに熱かった。
青い春、なんて誰が言ったのだろう。
私にとってのこの季節は、息もできない深海の中で、ただ足掻き続けるような苦しくて暗い群青色だった。
互いにすれ違い、互いを傷つけ合いながらも、離れることのできない二人の歪な関係。
夕立の第一滴が、校庭の砂埃を叩く音が聞こえた。
夕立は瞬く間に激しさを増し、校庭のアスファルトを黒く染め上げていった。強烈な雨の匂いと、土の冷たい香りが開いた窓から押し寄せる。
廊下に取り残された私は、美月が去っていった方向をぼんやりと見つめていた。だが、履き替えた靴で下駄箱に向かう途中、昇降口の脇にある階段の踊り場で、小さく丸まっている人影を見つけた。
美月だった。
彼女は土砂降りの外をじっと見つめ、濡れたコンクリートに腰を下ろしていた。傘を持っていないのだろう。折りたたまれた長い脚、膝を抱える細い腕。いつもクラスの中心で大人びた笑みを浮かべている美月が、今はまるで置き去りにされた捨て猫のように見えた。
「……美月」
声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。その目には、いつもの余裕のある光はなかった。ただ深く、どこまでも澄んだ底なしの暗がりが広がっていた。
「葵……。帰ったと思ってた」
「傘、持ってるから。一緒に入る?」
私の差し出した折りたたみ傘を見て、美月は小さく首を振った。「ううん。もう少し、ここにいたい。雨の音、すごく静かでいいよ」
校舎にはもう誰もいない。雨の音だけが、私たちを包む世界を遮断していた。ここは二人だけの、小さな檻だった。
私は美月の隣に腰を下ろした。冷たいコンクリートの感触が、スカート越しに太ももへ伝わってくる。
「ねえ、葵」
美月が膝に顎を乗せたまま、呟くように言った。
「私ね、ときどき全部嫌になるの。親の期待も、学校の評価も、友達同士の探り合いも。みんな『普通の女子高生』でいることを求めてくるでしょ。可愛い服を着て、男の子の話をして、適当に流行に乗ってさ。……私、その『普通』の枠の中に自分の居場所が見つけられないんだ」
美月の声は掠れていた。私は黙って彼女の横顔を見つめた。
「でもね、葵と一緒にいるときだけは、息ができる気がするの。葵は私を『綺麗な美月ちゃん』として見ないでしょ。私の汚いところも、冷たいところも、全部見透かしているみたいな目で見る。それが……すごく救われるの」
美月の指先が、私の制服の袖口をそっと摘んだ。
その言葉は、救いであると同時に、あまりにも残酷なナイフだった。
美月にとって私は「息ができる場所」であり、「理解者」なのだ。でも、それは彼女が求める「友情」の極致であって、私が彼女に抱いているような「ドロドロとした独占欲」や「恋心」とは違う。彼女は私という安全基地に甘えているだけなのだ。
(ずるいよ、美月)
心の中で声が漏れた。そんな風に頼られたら、私は勘違いしてしまう。私のことを一番だと思ってくれているのだと、都合のいい夢を見てしまう。
「私を……見捨てないでね、葵」
美月が私を見つめる。その瞳には、すがりに来るような切実さがあった。私は彼女の頬に触れたい衝動を必死で抑え込みながら、ただ浅く頷くことしかできなかった。
「見捨てないよ。……絶対に」
それが、自分を永遠に「親友」という枠の中に縛り付ける誓いになると知りながら。
◇
夏休みが明け、二学期が始まると、学校という空間はますます息苦しさを増した。文化祭の準備が進むにつれ、クラスの中での人間関係のグループ化が強固になり、男女間の色恋沙汰の噂が廊下を飛び交うようになった。
ある日の放課後、教室で一人作業をしていた私のもとに、クラスの女子数人がやってきた。
「ねえ葵ちゃん、美月ちゃんって今、誰か好きな人とかいるのかな?」
唐突な質問に、ハサミを握る手が止まった。
「……ううん、聞いたことないけど。どうして?」
「ほら、サッカー部の橘くんが美月ちゃんに告白したって話、聞いてない? 昨日、放課後に裏庭で呼び出されてたらしいよ」
心臓がドサリと重い音を立てた。視界が一瞬、ぐらりと揺れる。
「……橘くんが?」
「そう! すごくお似合いじゃん? 美月ちゃん、なんて答えたのかなって気になってさ。葵ちゃんなら何か知ってるかと思って」
「ううん、何も聞いてないよ」
私は務めて冷静な声を装い、作業に戻るフリをした。爪が手のひらに強く食い込み、痛みが走った。
橘くんは成績も良く、サッカー部のエースで、女子からの人気も高い。誰から見ても「お似合い」の相手だ。もし美月が彼と付き合えば、彼女は「普通の女子高生」の枠組みに綺麗に収まることができる。私が与えられない「誰もが認める幸せ」を、彼は簡単に提供できるのだ。
夕方、誰もいなくなった教室で、私は一人で机を拭いていた。そこへ、部活を終えた美月がやってきた。
「葵、まだ残ってたんだ。一緒に帰ろ」
いつもの無邪気な声。私は雑巾を絞りながら、どうしても抑えきれなくなった問いを口にしてしまった。
「……橘くんと、何かあったの?」
美月の動きがぴたりと止まった。彼女は少し驚いたように目を見開き、それから苦笑いを浮かべた。
「なんだ、もう噂になってるんだ。……断ったよ」
「どうして?」
思わず強い声が出た。自分で尋ねておきながら、喉の奥が焼きつくように熱い。
「どうしてって……好きじゃないから」
「橘くん、すごく良い人じゃん。みんな『お似合いだ』って言ってるよ。美月にとっても、その方が……『普通』になれるんじゃないの?」
言い終わった瞬間、しまったと思った。激しい後悔が波のように押し寄せる。私は何を言っているのだろう。美月が誰かと付き合うのを見たくないくせに、自分から彼女を突き放すようなことを言っている。
美月の顔から笑みが消えた。彼女は静かに私へ近づき、両手で私の机を強く叩いた。ガタンと大きな音が響く。
「葵は何なの?」
美月の声は低く、震えていた。
「私に『普通』になれって言いたいの? 他の男の人と付き合って、どこにでもあるような恋愛をして、私をどこか遠くへ追いやろうとしてるの? 葵がそんなこと言うなんて思わなかった」
「違う……私はただ、美月が……」
「私は葵にだけは、そんな『その他大勢』と同じような目で見てほしくなかったのに!」
美月は叫ぶと、カバンを掴んで教室を飛び出していった。バタンと激しくドアが閉まる音が、静まり返った教室に空しく響き渡った。
一人残された私は、自分の発した言葉の愚かさに打ちひしがれ、その場に崩れ落ちた。
好きだからこそ、壊れるのが怖い。彼女の幸せを願いたい気持ちと、自分だけのものにしたい醜い欲望が、私の中で渦を巻いて破裂しそうだった。
◇
雨が降っていた。季節はいつの間にか秋へと移り変わり、濡れた風には肌を刺すような冷たさが混じっていた。
美月とあの日以来、まともに口を利いていなかった。廊下ですれ違っても、彼女は私を避けるように視線を逸らした。クラスメイトたちは「喧嘩でもしたの?」と聞いてきたが、私は首を振るだけだった。
放課後、私は吸い寄せられるように、旧校舎の渡り廊下へと向かった。そこは雨の日に美月と出会った場所であり、誰にも邪魔されない私たちの暗黙の避難所だった。
渡り廊下の突き当たり、薄暗い影の中に、彼女はいた。
美月は冷たい窓ガラスに額を押し付け、雨の降る中庭を見つめていた。その背中はあまりにも小さく、今にも消えてしまいそうだった。
「……美月」
彼女は振り向かなかった。だが、逃げ出そうともしなかった。
「ごめんね」
私は彼女の背中に向けて言った。言葉が震えていた。
「あのとき、酷いこと言った。美月の気持ちを無視して、自分の都合ばっかり押し付けて……本当にごめん」
「葵のばか」
美月が低く呟いた。ゆっくりと振り返った彼女の目は、赤く腫れていた。
「私ね、ずっと怖かったんだよ。葵が私から離れていくのが。葵が『普通の友達』として私を扱って、いつか誰か他の男の人を好きになって、私を置いていっちゃうのが……怖くてたまらなかった」
美月は歩み寄り、私の制服の胸元を強く掴んだ。彼女の体温が、冷え切った生地を通して伝わってくる。
「これが何なのか、私には分からないよ。友達としての執着なのか、それとも……もっと別の異常なものなのか。でも、葵がいない世界なんて、息が詰まって生きていけない。お願いだから、私を突き放さないで……」
美月の涙が、ポロポロとこぼれ落ちて私の手に落ちた。温かくて、けれどあまりにも切ない雫。
その瞬間、私の中でずっと引き結んでいた糸が、プツリと切れた。
もう、「親友」の仮面を被り続けることはできない。彼女を傷つけ、自分を偽り、この曖昧な関係に逃げ込み続けるのは、限界だった。たとえこれで全てが壊れてしまったとしても。
「美月」
私は彼女の手を握り返した。強く、解けないように。
「私は……美月が思っているような『親友』じゃないよ」
「え……?」
「私、美月のことが好きなの。友達としてじゃない。一人の女の子として、美月のことが好きなんだ」
言葉にしてしまった。二度と取り消せない、禁断の告白。
美月の瞳が大きく見開かれた。呼吸が止まったかのような静寂が、二人の間に流れる。私の心臓はうるさいほどに脈打ち、全身の血が逆流するような恐怖と解放感が交ざり合っていた。
「ずっと……苦しかった。美月が他の誰かと話しているだけで羨ましくて、美月に触れられるたびに胸が痛くて……こんな醜い感情を抱いててごめんね。でも、これが私の本当の気持ちなの」
私は握っていた手を緩め、一歩引き下がろうとした。拒絶される覚悟はできていた。これで、私たちの「親友」という歪な関係は終わるのだと。
だが、引き下がる前に、美月が私の腕を強く引き寄せた。
衝撃とともに、私の身体は美月の胸の中に飛び込む形になった。力強い腕が、私の背中に回される。美月の香りと、彼女の激しい鼓動がダイレクトに伝わってきて、頭が真っ白になった。
「……遅いよ」
美月が私の肩に顔を埋めながら、泣き出しそうな声で囁いた。
「遅いよ、葵……。なんで、もっと早く言ってくれないの」
「美月……?」
「私だって……自分がどうしてこんなに葵に執着するのか、ずっと考えてた。他の誰とも違う、葵じゃなきゃダメな理由。……これが恋なのかどうか、私にはまだハッキリ分からない。でも、葵が私をそうやって愛してくれるなら、私は葵のものになりたい」
美月の唇が、私の耳元に触れた。
「私を……壊してよ、葵。この息苦しい世界から、私を連れ出して」
それは、甘い救いの言葉のようでありながら、どこまでも深い毒を含んだ言葉だった。
彼女は「恋」という感情を完全に理解しているわけではないのかもしれない。ただ、私からの圧倒的な愛情と執着を受け入れることで、己の孤独を埋めようとしているだけなのかもしれない。
けれど、それでもよかった。
私は美月の背中に腕を回し、力いっぱい抱きしめ返した。彼女の体温、髪の匂い、震える吐息。その全てが私のものであり、同時に私は彼女の囚人になったのだ。
私たちは「普通」の道から完全に外れた。これから先、どんな世間の目が待っているか分からない。噂話、好奇の視線、大人たちの失望、そして自分たち自身の未来に対する不安。
高校生という青く不確かな季節の中で、私たちは互いを縛り合い、傷つけ合いながら生きていくのだろう。美しいハッピーエンドなんて保証されていない。あるのはただ、重く、甘く、息もできないほどの葛藤だけだ。
窓の外では、雨がしとしとと降り続いていた。
水槽の底に沈んだような群青色の世界で、私たちは互いの息を分け合うように、静かに身を寄せ合った。
こういうお話の長編を書きたいです




