9. 印象の変化
「奥様は大変優しい方ですね」
トマスの淹れなおしてくれたお茶にしょっぱさを感じながら、ペルリタはそれを啜った。
「優しくなんかないわよ」
トマスは「そんなことはありません」と小さく笑った。それからしばらく思案顔をして、黙り込み、意を決したように口を開いた。
「泣いてくれたではないですか」
ペルリタは視線を逸らした。
「坊ちゃまは本当に奥様を愛しているようですが、奥様は違いますね。結婚も奥様の本意ではないでしょう。ですが、泣いてくださった。奥様も坊ちゃま同様、愛らしいお方です」
「……主人を愛らしいだなんて」
「年を取ると怖いものもなくなってくるのですよ」
トマスは楽しそうに笑った。それからペルリタの足下まで来ると、膝を折って騎士がよくするような礼をした。何が何だかわからないまま、ペルリタはトマスを見下ろしたが、跪かれているということにやっと気づいたときには、必死になってその腕を引っ張っていた。
けれどペルリタがいくら引っ張ってもトマスはびくともしなかった。その代わり、彼は少し落ち着きをなくした声を出した。
「どうか坊ちゃまを苦しみからお救いください。坊ちゃまが幸せになることがこの老いぼれの唯一の願いなのです」
いくら腕を引っ張っても何か言っても、トマスはペルリタが約束するまでは立つ気がないとばかりに、拳を握りしめている。
仕方ないとばかりに、ペルリタは膝を折り、しゃがみ込んだ。これにはさすがにトマスも顔を上げる。その瞳には困惑の色があった。
「奥様、このようなことをされてはいけません!」
「だってトマスが立ってくれないから」
「それは……!」
トマスは目を伏せたが、立ち上がろうとはしなかった。彼も愛する坊ちゃまのために必死なのだ。呪いといった類いのものに詳しく、解けるだけの能力を持っているのは魔法師くらいなのに、この国ではその魔法師も魔法師と通じている者も迫害されてしまう。そんななか現れた公爵夫人が、稀少な存在である魔女だったのだから、わらにもすがりたい気持ちになったのは、ペルリタにも十分、理解ができた。
「……ベルトランと約束したの。だから安心してちょうだい。彼の呪いを解くために最善を尽くすつもりだから」
「坊ちゃまを幸せにしてくださいますか?」
「ええ」
ペルリタの返事はただ相手を安心させるためのものだった。トマスは静かに立ち上がり、ペルリタも立てるように手を伸ばす。
太陽が傾き始めていた。夕暮れ前の、独特の時間だ。
「ほらトマス、空が綺麗」
トマスも窓の向こうの空に目を向けると、懐中時計を胸ポケットから出した。
「そろそろ坊ちゃまが帰っていらっしゃいます」
きれいに磨かれているものの、ひと目で古いとわかる懐中時計に目をやりながら、ペルリタは頷いた。
「……そういえば、トマスはベルトランのことを坊ちゃまと呼ぶの?」
トマスはペルリタの視線が自分の握る懐中時計に向けられていることに気づいて時計を撫でた。
「坊ちゃまはいつまでも私にとっては坊ちゃまですから。……御子がお生まれになってもそれは変わりません」
意味ありげな顔のトマスに、ペルリタは、後継を産むことも含めてベルトランを幸せにすることまで望んでいるのだと悟った。けれどペルリタは我関せずと素っ気なく「そうね」と口にするに留めた。
そこは期待しないで欲しかったから。
「そういえば、あなた自分のこと老いぼれっていうけれど、歳はいくつなの?」
ベルトランは夕食前に帰ってきた。
見るからに体調が悪く、夕食の席でも食事を残していた。トマスがそんな彼のためにミルクティを用意してあげる。それを彼はほんの小さな子どものように両手で持ちながら、少しずつ飲んでいった。そんな彼をペルリタはテーブルの反対側から見守る。
用意されたデザートのブラウニーもあまり進んでいない。
「皇宮はあんなに疲れているの?」
「帝国の中でも最も命の散るところですからね」
ペルリタの囁きに、トマスが答える。
「……なるほどね。それじゃあ彼は今までどうやって社交界で耐えてきたの?」
ベルトランが社交界で大量殺人をしたという噂はない。それでも貴族たちは殺したいほど魂が汚れているというのなら……。
「ただ耐えるのです。この家に帰り着くまでひたすら」
哀れだとペルリタは思った。いったい誰がベルトランにこんな呪いをかけたのだろう。
笑顔で皇宮へと向かったベルトランだが、内心怯えていたに違いない。皇宮に渦巻くのは憎悪と策略だ。人々の魂はそれだけ汚れるのだろう。
「公爵家はそんな坊ちゃまの支えにならなければならないのです」
その言葉にペルリタは頷いた。
ペルリタがベルトランに視線を戻せば、彼と目が合った。ベルトランはそっと微笑んで手招きをする。
「いつのまにトマスと仲良くなったんだい?」
立ち上がって側に寄ったペルリタの頬をベルトランは優しく撫でた。これまで幾度となく血で染まってきたはずのその手を、ペルリタは恐ろしいとは少しも思わなかった。
不思議だ。ベルトランは呪いのことを話せば幻滅すると言っていたけれど、私ちっともそんなふうに思ってない。むしろ前よりも彼の側にいることに安心している気がする。
指先はペルリタの赤い髪を弄び始めた。
「僕を差し置いてトマスと親しくなるなんて」
「彼とは今日たくさんお話をしたのよ。……あなたの呪いがどんなものなのかとかね」
ベルトランはその言葉を聞いて非難するような目をペルリタに向けた。
「私が彼に教えてくれるよう頼んだの」
「本当はまだ知ってほしくなかった」
「……前よりもベルトラン、好印象になったけど」
「えっ?」
ペルリタの予想外の言葉にベルトランは驚くが、「そうなんだ」と嬉しそうに微笑むと、再びペルリタを覗き込むように見る。
「……君の魂はとてもきれいだ」
「嬉しいけど、たぶん歪んだ魂ね」
ペルリタが笑いながら答えれば、ベルトランは微笑んだ。
「そろそろ寝たほうがいいわ」
「君も一緒に寝てくれる? 今夜は悪夢を見そうだから」
「……わかった」
その夜、ベルトランは本当に悪夢にうなされていた。彼のうめき声で目を覚ましたペルリタは、その額が熱でひどく熱いことに気づいた。
「夢のせい?」
手を伸ばし、彼の額に触れる。
「良い夢を」
母さんがよくやってくれたように、彼の安眠を願ってそっと魔力を送る。といってもこれはまじないの一種のようなものだけれど。
すぐにベルトランの呼吸は深くなった。安心したペルリタは、今度は熱が下がるように治癒魔法をかけると、再び布団に潜り込む。
今日はベルトランについていろいろなことを知った。強そうに見えて繊細で、とても一人では抱えきれないような重い呪いに苦しめられている。自分だけが傷つくものならまだましかもしれないけれど、彼の呪いは人を殺してしまうものだ。
それがどんなに恐ろしい呪いか、彼と同じ立場に立って感じることができないのが、いたたまれない。
いったい誰が彼にこんな残酷な呪いをかけたのだろう。




