5. 結婚の理由
ペルリタの住んでいた小さな家は火事で燃え、今にも崩れそうだ。渓谷には馬の駆ける音が何重にもなって響いている。誰かが彼女の名前を叫んだ。そして、赤黒い血しぶき。
思い出さないように蓋をした記憶が一斉に溢れだし、ペルリタを呑み込んだ。母さんとの幸せな記憶だけを上手に掬い取り、自分を慰めて生きてきた彼女の心に重苦しい過去が覆い被さる。忘れてはならなかった過去が渦を巻き、彼女を責め立てた。
「ごめんなさい、……ごめんなさい、ごめんなさい」
小さな声で何度も叫ぶ。自分でも呆れるほどのか細い、弱々しい声だと、頭の片隅でペルリタは思った。腕を掴んでいた手はいつの間にか耳元を押さえ、外からの音をすべて消そうと必死に抗っている。目からは涙が溢れ、視界はぼやけ、その分だけ記憶は鮮明な映像になっていくようだった。
と、突然ペルリタの視界は真っ暗になった。意識の最後、自分を抱き上げる公爵の大きな手の感触を彼女は感じた。
ペルリタが目を覚ましたのは気絶してから三日が経った雨の日だった。
小さく呻いた彼女に、ずっと付き添っていた侍女が水を運んできた。慎重にペルリタの口にコップを持っていく。口に触れた液体は暖かかった。
ペルリタが白湯をちびちびと飲んでいる間に、侍女は彼女の意識が戻ったことをベルトランに報告しに行った。
ベルトランは知らせを聞いてそのまま走ってきたのか、少し息を弾ませていた。ペルリタが目覚めたことに心から安堵したとでも言いたげな彼の表情に、ペルリタは眉をひそめずにはいられなかった。
どうしてあんなに大事な人を見るような目をしているのかしら。
ベルトランは椅子をベッドに引き寄せると、側に腰を下ろし、自らペルリタの脈を測った。その手つきは恐ろしいほど丁寧だった。
思い返してみれば、気絶したのはこの人のせいよね? パニックになっていた私を気絶させたんだ。
「良かった。悪いところはないみたいだ」
ベルトランは小さくため息をつくと、ペルリタの手を撫でる。
「何を嗅がせたんですか?」
開口一番で言うには少し冷たすぎるとも思ったが、ペルリタは彼を責めるように睨んだ。それに対して、ベルトランは、申し訳なさそうに眉を下げるばかりだ。
「僕がよく使っている薬なんだけど、耐性がない人には匂いだけでも睡眠薬の効果があるんだ。君の精神は不安定で、今にも魔力が暴走しそうだった。あれ以上興奮していたら君が魔女だということが屋敷の人間全員に知られていた。だから強制的に寝てもらったんだけど、思った以上に効果があって、申し訳なかった」
その口調と表情からベルトランの言うことが嘘ではないことをペルリタは悟った。
魔力暴走。
それは恐ろしい言葉だ。暴走が起こると勝手に落ち着いてくれるまで成す術がない。基本的には気絶させるか殺すかで、強制的に暴走を止めるしかないのだ。だから今回のベルトランの判断は正しいかった。それなのに、ペルリタはベルトランに感謝を伝えるのが少し悔しいと思った。
「暴走したのは初めてか?」
「……いいえ」
ペルリタは過去にも魔力暴走を起こしたことがある。過去に一度だけ、ほんの子どもの時だった。そのせいでゴラの村人たちが被害を被った。彼女の母親は同じ事が二度と起きないように、常に理性を保つように言い、時に辛い罰を与えた。
ペルリタはなぜ暴走してはいけないのかはわからなかったが、母親が困るのだということは理解して、感情が暴走しないよう時に理性で、時に冗談で、そして時に根性で嫌なことを乗り切ってきた。
伯爵家でいじめられていたときでさえ、母さんが殺されるのを見たときでさえ、暴走しなかったのに……。何が私を暴走させたの? このベルトランという男が原因であることは間違いない。暴走する前、彼はいったい私になんて言ったかしら……。
そう、確か――。
「ゴラ!」
そう、記憶の奥深くに隠しておいたこの地名を彼が口に出したから……。
「……ねえ」
「なんだい?」
「あなたはどうしてゴラのことを知っているの? あの地は地図に載らないくらい辺鄙な場所にある。それにずっと前に消滅したはずでしょ?」
ベルトランの表情はそれこそ彫刻のように変わらなかったが、雰囲気は暗くなった。あまり答えたくない質問なのだろう。けれど、ゴラの住民だったペルリタにも聞く権利はあるはずだ。
「ゴラの場所は知らない。ただ、ゴラが魔女の土地だということは知っている」
ペルリタは意識を失う前にベルトランとした会話を思い出した。
「ゴラの魔女の呪い?」
ベルトランは頷いた。
「……どうして私と結婚しようと思ったの? 私を告発しないの? 呪いにあったなら普通、同じ魔女である私のことも憎いんじゃない?」
ベルトランの眉が微かに動く。アイスブルーの瞳がまっすぐペルリタに向けられた。
「やっとその質問をしてくれたね」
ベルトランは笑みを浮かべる。彼は姿勢を正し、小さく深呼吸した。
「君に僕にかけられた呪いを解いて欲しい。これは僕が君と結婚した理由の一つ目だ」
予想通りの頼みだった。むしろ予想通りすぎてつまらないとペルリタは思う。告発ではなく結婚を選ぶ理由、それはペルリタという魔女を利用するだけの私欲があるからだ。
単純な脅しでは逃げられる可能性がある。だったら、妻にして衣食住を支えるという餌を用意し、魔女を囲うリスクを自分が受け持つことで、少しでも負い目を感じさせた方が従わせるにはいいだろう。魔法師は義理堅いのだ。
「理由の一つ目って、もう一つはなんなの?」
魔女をうまく利用する以外に正当な理由なんてあるわけ?
まっすぐベルトランを見つめるペルリタに彼は恥ずかしそうに顔を背けた。
「――君を愛しているから」
「はい?」
その呟きは小さすぎて広い部屋の中で虚しく消えた。ペルリタは思わず聞き返す。ベルトランはそれが不満だったのか、下を向いていた顔をパッと上げると、眉間に皺を寄せながら声を張り上げて繰り返した。
「君を愛しているからだ!」
沈黙が流れた。
ベルトランが言っていることが理解できず、ペルリタはしばし固まった。
何をどうしたら、暴君の口からこんな言葉が出てくるのだろう。
言ってしまえば最後、ベルトランは大胆になった。ほんのり赤く染まる頬をそのままに、妻の手に何度も口付けを落とし、そうかと思えば、そのまま頬擦りをした。
見た目は淡い紅色だが触れてみると熱いその頬に、ペルリタは思わず魔法で手を冷やした。
「……冷たくて気持ちいい。便利だ」
ベルトランはそれを自分のための行為だと思ったのか、嬉しそうにそう笑った。
「おかしい、おかしい、おかしい、おかしい!」
ペルリタの心の声はそのまま声に出ていた。




