4. 公爵邸へ
公爵邸に着いたときも、空は依然として暗く、夜明け前だとは思えない色をしていた。
屋敷は広大で、由緒ある伯爵邸でも比にならないほどだ。馬車が正面広場に着くと、御者が扉を開け、ペルリタが下りるのを手伝った。
広場では使用人が何十人も列を作り彼女を出迎え、その中心にこの屋敷の主人と思われる人物が立っていた。彼は近づくと爽やかな笑顔を浮かべた。
「あなたっ!」
信じられないまま、ペルリタは思わず叫んでいた。 黒い髪にアイスブルーの瞳。間違いなく数時間前に図書館で会った男だった。
「ペルリタ・ナルバエス伯爵令嬢。我が妻として公爵家に迎えられたことを嬉しく思う」
噂の暴君は、優雅な礼をして、流れるようにペルリタの白い手の甲にキスをした。
それじゃあ、私が魔女だと知ったあの男が公爵だったの? どうして魔女なんかと結婚しようとしているの?
公爵に握られていない方の彼女の手は、口元に運ばれた。そのまま強く爪を噛む。それはいつの間にか体に染みついたペルリタの悪い癖だった。公爵は慌てて、その手を取ると爪が傷ついていないか確認し、ほっとため息を着く。
「あの、……公爵様」
「ベルトラン」
「えっ?」
「結婚式はまだ先になるが、手続きはもう済ませた。僕らはもう正式な夫婦だ。公爵ではなくベルトランと呼んでくれ。僕も君を、その……ペルリタと呼ぶから」
照れているかのように俯いてそう告げてくる彼に、ペルリタは何を思えばいいかわからなかった。
「いいね?」
ベルトランがすっと顔を近づけてくるので、ペルリタは反射的に仰け反って離れる。彼の瞳が返事を待っているので、ペルリタは力一杯に頷いた。それに満足したのか、ベルトランは馬車に目をやった。
「荷物はそれだけか?」
使用人たちが運び出したのは古ぼけて見える鞄たったの一つ。たった一人の使用人だけで事足りる荷物のように、彼らも戸惑った表情を浮かべていた。
「そのようです」
「何? ペルリタ、残りの荷物は後日届くのか?」
荷物はあれだけだと言ったら、この人はどんな顔をするだろう。たった一晩で決まった婚姻だとしても、公爵家に嫁ぐのに相応しくない簡素な服と荷物の女に呆れるだろうか。
ペルリタは逡巡したが、ベルトランは彼女の無言を肯定と捉えた。
「まさか君の荷物は本当にあれだけなのか?」
周りに聞かれないように気を遣ったのか、ベルトランは小さな声で尋ねる。顔を赤くするペルリタに、彼は髪を掻き上げ舌打ちをした。
姉たちもペルリタを見るとよく舌打ちをしていた。その乾いた音にペルリタの肩は、無意識に怯えた反応を見せてしまう。それに気づいたベルトランは、激しく首を振りながら弁明をした。
「君に対して怒ったわけではないんだ。怖がらせて申し訳ない」
困ったように咳払いをして取り繕うベルトランの顔は、彫刻のように整っているのだ。確かにこの顔から舌打ちが出たら怖いだろうな、とペルリタは思った。しかし、ペルリタは別に彼の舌打ちが怖かったわけではない。体が震えたのは、染みついた普段の癖だ。
「いえ、怖かったわけではないので……」
「そうか」
ベルトランはもう一度、咳払いをすると今度は、荷物を部屋に運ぶように使用人に指示を出した。それからまたペルリタを見つめる。
その目は決して暴君のものではなく、優しい一人の人間のものだった。その表情にペルリタは首を傾げてしまう。
この男がなぜ魔女と結婚しようと思ったのか、その心理を知らなけらばならないとペルリタは思った。
「少し話したいことがあるのですが」
「……では執務室に行こうか」と彼は慎重に返した。
彼女の手を掬い取った公爵の手は少しばかり緊張で震えているように、ペルリタは感じた。
公爵邸は内装も素晴らしかった。ペルリタが感嘆し、壁や家具の装飾を食い入るように見つめていれば、ベルトランは嬉しそうに笑い、それが何世紀に誰が作ったものか、どういう経緯で公爵家に来たのかなどを説明しだす。ただ説明の後に決まって「気に入ったかい?」、「この屋敷にあるものはみんな君のものだ」と付け足すので少し面倒だとペルリタは思った。
「早く君にはここに慣れてもらいたいんだ」
レディ教育を十分に受けているわけでもないペルリタは、決して表情を取り繕うことが上手くない。新妻を歓迎してくれているはずの公爵の言葉を、心の底から喜ぶことなんてできないペルリタは、ただただ苦笑いを浮かべた。
執務室に着くとベルトランはペルリタをソファに導き、自分は茶を用意するために準備を始めた。
「公爵が自分で?」
「……一人が楽だから普段からこうしているんだ。僕の作る紅茶は軍でも人気だった」
軍でも人気だったって……。そこまで聞いてないんだけど。
ペルリタが「そうなんですね」と返すと、ベルトランは嬉しそうに笑った。
「公爵ではなく、ベルトランだ。ペルリタ」
できた紅茶を二つ、横に並べながらベルトランは言うと、そのままソファを迂回して、ペルリタの隣に腰を下ろした。
思わぬ距離の近さに瞠目したペルリタだったが、ベルトランはそんな彼女に気づかないふりをする。
「それでペルリタ、君の話したいこととは?」
「わかっていらっしゃるでしょう?」
「敬語なんか使わなくていいよ。僕らは、その、夫婦なのだから。――君の聞きたいことは予測している。でも君の口から聞かないことにはそれが正しいかわからないから」
彼の表情一つも見逃してなるものか、と瞬きをしないよう努めるペルリタに、ベルトランは笑みを深めた。美しいその顔にじっと見つめていれば、同じように見つめ返されて、居た堪れなくなったペルリタは、相手を観察するのを諦めて顔を背けた。
ベルトランに見つめられると心の底まで覗かれているみたいで、ドキドキする。
「あれ?」
紅茶だと思っていたそれは、見慣れない緑色をしていた。恐る恐るそれを飲んでみれば、香りが口に広がり、なんとなく気持ちが落ち着いてくる。ペルリタはもう一口、口に含んだ。
「美味しい茶だと思わないかい?」
「……とても美味しいです」
「これは東の大国から手に入れた茶葉を使っていて、とても稀少なんだ」
ベルトランはただの世間話であるかのように言うが、ペルリタの身体は「東の大国」という言葉に反応する。それをベルトランは見逃さなかった。
「どうやら君はあの国に興味があるらしいね。実は僕もなんだ。大国には古くからの知人がいて、世話になったんだよ」
ベルトランは不適な笑みを浮かべた。
「そうなのですか!」
「おや? 君は本当にあそこに興味があるんだね。なぜかな? 帝国の貴族令嬢であそこの存在を知っている者はいないに等しいのに。我が国との交易はないし、交通手段も限られている。文献にも地図にも詳細は書かれていないのに」
はめられた!
視線を漂わせ、ペルリタは言い訳を絞り出した。
「……ずっと昔に私の母が話してくれたのです。それで――」
「君の母上もやはり魔女なんだね。でなければ東の大国など知る術もない」
「……ではなぜあなたは知っているの?」
ベルトランは私が魔女だということを知っている。母さんが魔女だったということも推測はできるだろう。だけどもし彼が言うように東の大国が世間に認知されていないものなのだとしたら、彼が知っているのもおかしい。
アイスブルーの瞳がじっとペルリタを観察している。ペルリタは唾を飲み込んだ。
「僕が大国のことを知っている理由はね、僕自身が大国の魔女に呪いを掛けられたからさ。……正確に言えば、大国に移住したゴラの谷の魔女に掛けられた呪いだな」
「ゴラ!」
その地名を聞いた瞬間、過去の情景が脳裏に浮かび上がり、ペルリタを襲った。
母さんがごくたまに贅沢をして作ってくれるケーキ、村人が週の終わりにたき火を囲い踊る姿、頭を撫でてくれる魔法師のしわだらけの手。
フラッシュバックのせいか身体は震え、ペルリタは思わず腕に回す手に力を込めた。ベルトランはその姿に異様さを感じ、目を見開いている。
ああ、どうしよう。どうしていいかわからないほど、体の内側で魔力が湧き立っているのがわかる。何か心を落ち着けられるような、何か。
ペルリタは部屋中を見渡した。エメラルドの瞳が炎のように揺らめきながら、涙を流す様は正気じゃない。
ベルトランはペルリタを後ろから抱きしめて、ポケットに入れてあった薬を嗅がせた。
気絶したのを確認して、ベルトランはペルリタを担ぎ上げ、寝室に運んだ。




