3. 暴君または怪物
突然ドアが開き、伯爵が入ってきた。その後ろには夫人とカリナ、長男のマリオが並んでいる。ノックをしたのはマリオだろう。他の三人がそんな気を遣ってくれるはずがないとペルリタは知っていた。
「どうしたのですか?」
不安に駆られ掠れる声で聞けば、伯爵が喜びに満ちた顔でペルリタの手を握る。嫌な予感が募っていくなか、この家に来てからこうして彼に手を握られたのは今回が二度目だなとペルリタは冷静に思った。
「よくやった! お前の嫁ぎ先が決まったぞ!」
「えっ」
何を言っているのか理解ができず、ただ先ほど築いた未来への期待が崩れていく音だけが脳裏で響くのをペルリタは聞いた。
「結婚相手が決まったんだよ。私はこれほどお前を愛おしいと思ったことはない!」
「……相手は誰なのです?」
その質問を待っていたとばかりに伯爵は高らかに笑う。
「ヴァレンティナ公爵閣下だ!」
ペルリタは俯いて伯爵の手が握りしめる自分の青白い手を呆然と見つめた。今伯爵はなんて言ったの? 聞き間違いかしら? ヴァレンティナ公爵って……。
「まあ! それは喜ばしいことだわ!」
カリナが高い声を上げて手を叩いた。その瞳の中には喜びが輝いている。夫人も満足げに頷くと「めでたいことだわ」と何度も口に出した。半分は血を分けているはずの姉も、ペルリタの母親代わりの女も意地の悪い笑みを隠そうともしない。
「その美貌が私たちの役に立つ日がついにやってきたのよ。姉として誇らしいわ」
魔女狩りに遭って死ぬんじゃなく、公爵夫人になって死ぬことになるなんて夢にも思わなかった。二人が喜ぶのも無理はない。ずっと邪魔だった私が絶対的権力者の手で、死んでくれるのだから。
〝ヴァレンティナ公爵に嫁ぐことは死を意味する〟
令嬢たちの間でなんども語られてきた言葉をペルリタは思い出した。社交界にめったに顔を出さない彼女でさえ知っている言葉。暴君として有名な公爵に嫁ぐことの意味は明らかだった。
公爵家には二つの大きな問題があった。
一つ目の問題は公爵夫人で、前公爵である夫が亡くなって以来病にかかり、心を駄目にした。朗らかな性格だった夫人は怒りやすく、凶暴に変わってしまったそうだ。
病気のうえ、怒りっぽい人なんて姑にしたくないと令嬢たちは次々に口にした。
公爵家の二つ目の問題はまさしく公爵自身にあり、これが公爵家の最大の問題だった。
歴史も長く帝国が誕生するよりも前から存在すると言われる公爵家だが、その確固たる地位に見合い、跡継ぎは一人も欠くことなく優秀だった。一族は代を重ねるごとにその名誉と資産を増やしていった。
そんな格式高い家で生まれた現公爵ベルトラン・ヴァレンティナは異常なほどの剣の才能を持っている。彼はわずか十五歳で剣術大会で優勝した。その後すぐに軍に入り戦争に参加した彼だが、年少のはずの彼に敵も見方も誰一人頭を上げることが出来なかった。
ずっと戦地に赴いていた彼が成した功績は、国中を震撼させ続けた。
三千。
これはたった一度の戦争で彼が、身一つ剣一つで殺した敵の数だ。彼は驚異的な強さと戦術で最短でも一年続くと思われていた戦争をたったの半年で終結させ、敵に白旗を上げさせた。
けれど八年の輝かしい軍人生活を彼は二十三の時に呆気なく辞めてしまう。父親である公爵が亡くなったのだ。それに合わせて彼は公爵位を継承し、軍隊を去った。今でも国の軍部に関わっているものの、自らが戦場に立つことはない。
社交界に帰ってきた彼を、貴族たちは愛想良く出迎えた。彼らは媚びを売っておけば戦争しか知らない若者の手綱を引くことができるかもしれないと考えたのだ。
しかし彼らの思い通りにはならなかった。
詰まる所、ベルトランの才覚は、剣だけに留まらなかったのだ。彼は他の貴族たちに取り入る隙をいっさい与えなかった。その存在感とカリスマ性は、十分な威圧を貴族たちに与えた。次第に彼らは口を噤むようになり、公爵の顔色を窺い、恐れ、敬うようになった。
けれど、そんな彼らも唯一言い当てたことがある。
公爵は戦争しか知らない。
まさにそのとおりだった。彼は媚びも愛想も、私利私欲もすべて知らなかった。十五歳で軍に入った青年に貴族社会を彼らと同じように渡り歩くことは困難だった。
彼はただ彼のやり方で公爵家を上手くまとめ、社交界のトップの地位に君臨出来ただけなのだ。自分の思うように内政を進め、統治をし、貴族らしい打算をいっさいしない男。彼は貴族たちが警戒せずにはいられない一匹狼だった。
貴族たちは彼を怖れたが、それでも公爵家の持つ地位と財産からは目が離せなかった。嫌われない程度に、ほどよく媚びを売り、愛想良くする術を彼らは学んでいった。公爵は一貫してそれに無関心だったが、そのことに彼らは安心した。彼の許容範囲内だったらどんなことをしても大丈夫だ、と貴族たちは知ったのだ。
しかし、しばらくして彼らを驚かせる事件が起きた。公爵が領地の官僚をほぼすべて粛清したのだ。釈明の余地がないほどに呆気なく多くの命が散った。その暴虐無人ぶりに貴族たちは一斉に自分の首を守ってつばを飲み込んだ。
そしてその一ヶ月後に、彼は長年公爵家に務めていた執事を殺した。
粛正の時も、執事を殺した時も、公爵はいっさい事の顛末を部外者に教えなかった。
その後もことあるごとに彼は人を殺していった。それは突然で、静かだった。理由を口にしない彼に人々は恐怖を募らせた。何が彼を怒らせるのか、媚びへつらってきた貴族たちにもわからなくなっていた。
「暴君」
「人の心のない怪物」
いつのまにか人々は彼をそう呼ぶようになった。
人を殺すときの彼は何かに乗り移られたようだった。その眼だけはまるで、自分の意思でそうしているわけではないというような抵抗と恐怖、悲しみを称えるのだと、生還者たちは口を揃えていった。
彼が犯した殺人の数々は、社交界に広がり、次第に誇張され、曲解され、独り歩きを始めた。
当然、彼に嫁ぎたいと思う令嬢は一人もいなくなった。いくら顔が良くても、狂ったように人を殺す人間がいる屋敷に嫁ぐことはできないと令嬢たちは言った。その父親たちもまた、さすがに娘の命を捧げてまで公爵と縁故になろうとはしなかった。
それでも不思議なことに彼は社交界の重鎮であり、人気者だった。いくら殺人鬼だとしても普段は「普通」の公爵の彼を蔑ろにするわけにはいかなかったし、皇帝もいつまで経っても彼を咎めない。公爵家が所有する広大な領地と莫大な富に人々は目を背けることが出来ない。貴族たちは、彼が暴君であることを常に頭の片隅に入れ、警戒しつつも、彼を高く評価していた。
そんな公爵家にペルリタはどうやら嫁がなければならないらしい。
伯爵は今夜のうちに公爵家の屋敷に行くように、と別れの挨拶もなく、夫人たちを連れて部屋を出ていった。彼らに代わって入ってきた侍女たちは、ペルリタの部屋にある数少ない荷物を整理しようとして、それがみな鞄に詰め込まれていることに気がつき、訝しげに彼女を見たが、特に何も言わずに、鞄を持ってさっさと馬車に積み込んだ。
そして最後にペルリタも馬車に押し込んだ。
太陽はもう昇り始めてもおかしくないのに空は未だ薄暗かった。
その景色に、ペルリタの赤い唇の上を吐息が滑り落ちた。
馬車の側を何十人もの護衛騎士が警備していた。今までに付けてもらった騎士の数とは比較にならないわね、と少し投げやりにペルリタは思ってしまう。今ここで逃げ出しても無駄なことくらい彼女もわかっていた。
魔女だとばれるし、結婚させられるし、不幸続きね。
夜会で出会ったアイスブルーの男と、自分を殺すかもしれない夫、二つの大きな存在がペルリタの首を絞めようと手を伸ばしている光景が彼女の頭に浮かんだ。
薄暗い空は暗鬱としている。




