17. オスカル
ペルリタたち二人はオスカルの後に続いて、会場の奥にある貴賓室に入った。夜会でその主催者と主賓が、秘密の話をするために姿を消すことはよくあるが、その時間が長すぎるのは相当な理由がない限り、善しとはされていない。
オスカルは二人を招き入れると、扉の前に侯爵家の紋章が胸元を飾る従者を立たせた。こうすることで、オスカルが中にいることが他の貴族にも一目でわかる。よっぽどなことがあったとき、貴族があちらから従者に用件をいうだろう。
扉は閉められ、オスカルは微笑を浮かべた。すでにソファに腰掛けていたベルトランとペルリタの向かいに腰を下ろし、少し考えてから立ち上がる。ソファを二人の方に引き寄せて、距離を詰めたかったのだ。
一人掛けとはいえ重いだろうソファを片手で引くオスカルに、ペルリタは内心驚いた。
会場の方から音楽が聴こえているが、それを掻き消すような参加者の笑い声が廊下に響いていた。部屋の近くに貴族がいるのだろう。彼らの声に影響されて自然と声が大きくなれば、誰かに会話が聞かれてしまうかもしれない。オスカルがソファを近づけたのはそのことを懸念したからだった。
部屋に来たのには他の貴族から逃げるためだけではないはずだ。侯爵は今から重要な話をしたいのだろうと、ペルリタは姿勢を正して彼が話し始めるのを待った。
オスカルという人間は掴みどころのない人物で、貴族たちにとってベルトランとは違う意味で要注意人物だった。くすんだ金髪を後ろに撫で付け、聡明そうな額と灰色の瞳を見せるその容姿の素晴らしさはよくレディたちの話題に上がるが、彼が最も優れているのは物事をお金に変える力だった。
オスカルは気さくな性格で、周りに嫌な思いをさせない。けれど、誰と話す時もその人の情報を本人も気づかない間に盗み取るような怖さがある。そしてそこで得たものをあらゆる手を使って利益に変える。そうしてオスカルは、影の薄かった侯爵家の名にたった一代で箔をつけた。
貴族たちはオスカルのことをこんなふうにも見ていた。ベルトランの数少ない友人。彼を怒らせることはベルトランを怒らせることと同義。
表情のないベルトランが唯一笑みを浮かべて相槌を打つ人物。ここまでの信頼をオスカルがどう手に入れたのかも貴族たちの気になるところであり、それがまたオスカルという人間自身に箔をつけた。
閉ざされた部屋に、しばらく沈黙が流れた。
オスカルはテーブルに手を伸ばすとグラスを優雅に持ち上げ、その縁を軽く拭った。その余裕な仕草はやはり何かを待っているようでもあったし、会話を始める合図のようにも見えた。
「……別室に来たのは何も、夫人を貴族たちから匿うためだけではなかったんだ。いや間違っているわけではないが」
沈黙に耐えかねたのかオスカルはそう口にする。部屋に来る前に口実として言ったことについて言及していた。ベルトランも、彼の言葉をペルリタを他の男たちから守るよう協力したいという単純な好意として受け取っていなかったが、オスカルが酒を注ぐのを見つめながら口を開いた。
「何か伝えたいことがあるんだろ?」
「招いていない客が来てしまってね」
「誰だ?」
オスカルは申し訳ないとばかりに、器用に眉を傾げてみせた。
「……ナルバエス伯爵だ」
そういうことだったのか、とペルリタは腑に落ちた。会場に入るやいなや主催のオスカルがペルリタたちを捕まえたのも、わざわざ別室に連れてきたのも、二人を伯爵から離すためだったのだ。
しかし仮にもペルリタにとって相手は父親で、ベルトランにとっては義父だ。
オスカルが必要を感じ、伯爵を避ける理由がペルリタにはわからなかった。
オスカルがどうしても避けたいと思うようなこと……。
ペルリタは一つの可能性に気がついた。
呪い?
魂が汚れているものを衝動的に殺したくなるというベルトランの呪いは、伯爵を見ると起こるのだろうか。伯爵は意地汚い人間だが、人を殺めたことがあったか、いや……。
魂を見ることのできないペルリタには、わからなかった。
「彼は招待していないはずだが」
ベルトランの声に不快感が滲んだ。そこに少しばかりの緊張が滲んでいることにペルリタは気がついた。
「主催者である俺を無視して勝手なことをしてくれたもんだよ。今夜招待した他の子爵が親戚らしくてね。どうやら彼に頼み込んで、伯爵一人、会場に入ったらしいんだ。子爵はしばらく出禁にしなくては」
「なるほど。確かに伯爵一人くらいならどうにか入れてやることは簡単だろう」
ひんやりとした冷たい声にペルリタが目を向ければ、アイスブルーは冷え切っていて鋭かった。
「……それで伯爵は僕たちに何を望んでいるのかな」
ベルトランの言葉にオスカルは肩を竦めた。
「そんなの俺に聞かれてもわからないさ」
「ベルトラン……」
ペルリタは不安になってそっとベルトランの名前を呼んだ。その声にベルトランの全身から今の今まで溢れていた怒気はどこかに消え去り、代わりに真一文字だった唇が弧を描いた。
「君が心配することはないよ。ただ、ペルリタには申し訳ないけど、僕は君の父上が好きになれないんだ」
オブラートに包んだつもりで「好きではない」と表現するベルトランに、ペルリタは口角を上げた。
「……私も伯爵のことは嫌いよ」
ベルトランもこれには声を出して笑う。
「僕らはやっぱり気が合うみたいだ」
「おいおい、暴君公爵はどこに行ったんだい? 夫人のことが好きなのは知っていたが、本当に人が変わったようじゃないか!」
オスカルが向かいから声を上げる。ベルトランは彼をさっと睨むと戯れるのを止め、口元に手を持って行った。考えるときにベルトランがよくする仕草だった。
「……伯爵に会ってみようかな」
まさかの言葉に、ペルリタの眉が痙攣した。ペルリタの予想が正しければ、ベルトランは伯爵を見れば彼を殺したくなる。その衝動を抑えるために、ベルトランは辛い思いをしなければならないはずだ。
「本気で言っているのか?」
オスカルが尋ねる。ペルリタもそれが言いたかった。
「伯爵は夫人の権利をすべておまえに渡したんだろう? 敢えて関わる必要なんてもうないじゃないか」
ん? どういうこと?
ベルトランを心配していたペルリタだったが、オスカルの今の発言に反射的に疑問が浮かぶ。帝国では、妻は結婚すれば夫の所有物になるものだが、彼の言っていることはそれとは違う意味だと感じたのだ。
「だからこそ、どんな顔をして僕の前に現れて何を言うのか気になるんだよ」
シルビアの教育を受け、表情を繕うことができるようになったペルリタだったが、この時は眉間に皺が寄ってしまった。
オスカルが今言っていたことはどういうことなのだろうか。私の権利はすべてベルトランが持っているってどういう意味なの?
「怖い顔してるぞ」
オスカルはベルトランに言ったのだろうが、ペルリタは慌てて微笑を浮かべた。しかしまたすぐに表情を強張らせることになった。
「お待ちください! 伝えたいことがあるなら――」
「ヴァレンティナ公爵!」
開かれた扉から今にも部屋の中に入ってこようとする伯爵の姿にペルリタの思考は止まった。




