13. 悪夢
「ペルリタ!」
「大丈夫よ、落ち着いて。ゆっくりでいいの」
ベルトランに言いながら、ペルリタは自分自身にも同じ言葉をかけていた。ベルトランは少しずつ落ち着きを取り戻していき、馬車に乗り込む頃には顔色は優れないものの、表面上はすっかり普段の彼に戻っていた。
「大丈夫かい?」
馬車に揺られながら、ベルトランは尋ねた。それはペルリタが彼に聞きたいことだった。
「あなたは大丈夫なの?」
「皇女に何か恐ろしいことをされなかったか?」
彼はそう言うとペルリタの顔や腕に傷がないかどうか入念に調べた。
「大丈夫よ。……確実に嫌われたと思うけど」
「皇女は恐ろしい人だ。――君にもあれの魂がどんなか見せられたら良いのに」
ベルトランはしばらく黙って、やはり君にあんなもの見せるわけにはいかないなと言った。
「そんなにひどいの?」
ベルトランの顔色が再び悪くなった。思い出したのだろう。
「辛いなら思い出さなくてもいい」
彼は首を横に振った。
「これまで僕が見てきた中で誰よりも醜い魂だ。あんな色見たことない。……それにひどい匂いがする。彼女を見ると、どうにかして殺してしまわなければと思ってしまうんだ」
「匂い?」
「強すぎる魂は匂いを放つことがあるんだ」
視覚からだけでなく、嗅覚からもベルトランに殺人を誘惑する呪いなのね。
ペルリタは手を伸ばし、馬車の向かいに座る彼の手を握った。ただ慰めてあげたいと思ったのだ。ベルトランはペルリタの手を持ち上げると、その甲にキスをして、頬づりをする。
「君はすごく綺麗な色をしている」
「……どんな色?」
「透明」
「透明が見えるの?」
「見えるよ。よく澄んでいて、近くにいるだけで落ち着くんだ。僕も君と同じ色になれた気になれる」
ベルトランはそのまま眠ってしまった。呼吸は落ち着いているし、風邪をひくような前兆はないので、きっと今日熱を出すことはないだろうと思ったが、ペルリタはそれでも、一応と彼の額に触れて、魔法をかけた。体の回復のための魔法だが、これが彼の疲れた心にも効いてくれたらいいのに、と願った。
その日の夜、ペルリタは夢を見た。
夢の中の彼女は六歳で、ゴラの家で母さんと二人並んで横になっていた。深夜近いのに、目は覚めきっていて、隣の母さんに話かけた。
「なんで私には父さんがいないの?」
「……どうしてそんなこと聞くの?」
母さんの声が暗闇の中、横から聞こえた。
「キャスには母さんも父さんもいるでしょ。それに他の子にも。……私の父さんは死んだの?」
「ふふっ、生きてるわ」
「じゃあどうして一緒に住まないの?」
しばらく沈黙が続いた。闇夜のせいで母さんが寝てしまったのではないかとペルリタは心配になる。身動げば、それに合わせて母さんが動く気配が伝わった。
「……父さんはずっと遠いところにいるのよ」
「会いには来ないの?」
「仕事がとても忙しいからそんな時間ないの」
「どんな仕事?」
「……偉い人たちと話し合って、どうすればもっと人々を助けられるか考えて実行する」
「じゃあとても賢いんだ」
「とても賢いよ」
「……今の話ほんと?」
また沈黙が続いたが、しばらくして「本当のことだよ」と返ってきた。
「父さんは私のこと知ってる? 母さんのこと愛してる?」
「……愛が何かリタにわかるの?」
母さんが笑う。
愛くらいわかる。キャスに教えてもらったから。キャスは近所に住む女の子で私より二つ年上だ。キャスが言うには、愛は好きよりずっと大きい感情で、好きよりずっと複雑な感情らしい。
キャスが言った通りのことをそのまま母さんに言えば、弾んだ笑い声が小さな部屋に響いた。
「ほぼ正解といったところかな」
「じゃあ正解は何?」
「いつかわかるときが来るよ。……嫌でもね」
「……母さんは父さんのこと嫌?」
「憎たらしく思うけど、嫌じゃないよ」
「よくわかんない」
「んー、もう寝ないと」
「……おやすみ、母さん」
「おやすみ、リタ」
夢は暗転し、景色が変わった。
ペルリタは水の中にいた。
水面には光が見える。そちらに行こうと水を掻いてみるがうまくいかない。逆に沈んでいくような感覚に襲われてしまう。下を見れば、闇の中で何かがペルリタの足首を掴んでいるのに気づいた。人の手だ。ただれていてわかりづらいが、間違いなく人の手だった。ひどく熱い。必死に離そうとしたがうまくいかない。
足掻けば足掻くほど、その手は確実にペルリタに近づいてくる。
足首から太ももに、太ももから腰に、腰から腕に、腕から肩に。
そして耳元で何かが言う。
「殺して。殺して。……殺しなさい!」
振り向けば私の肩を掴んでいたのは、淡い金髪を水中で広げた皇女だった。
彼女はうっすらと笑う。
「汚い魂を生かしておくなんて罪よ」
ペルリタはいつの間にか手に剣を握っていた。水中の光を受けて、不気味に輝いている。
顔を上げればそこには皇帝の姿があった。ただじっとこちらを凝視している。それからそっと名残惜しそうに笑った。
「歳月はあっという間だ」
彼に聞きたいことがあるのに、ペルリタの口は皇女のただれた手で覆われる。彼女は何度も、何度も殺してくれるよう懇願する。
その瞬間、激しい欲望がペルリタを襲った。殺したい。今すぐ彼女を殺したい。殺さなければ駄目だ。殺す必要がある。魂が、神がそれを望んでいる。……殺しては駄目だ。また人を殺めることになる。これ以上は――!
気づけば、皇女の瞳に映るペルリタの姿はベルトランになっていた。
目が覚めてまだ空は闇に覆われていることに気がついた。絶望が身体中に広がる。ひどく汗をかいたようだ。部屋着は少し湿っていた。うっすらとした汗の匂いのせいか、夢のせいか吐き気がした。
ひどく不安になってペルリタは、ベルトランに顔を向ける。眠っていると思ったのに、彼の目はしっかりと開かれ、彼女を見つめていた。
「起こしてしまった?」
ベルトランは一度、ゆっくりと瞬きをした。
「悪い夢を見たんだ。……抱きしめて寝てもいいかい?」
ペルリタはそっと彼に近づくと、彼の伸ばす腕に頭をのせた。それから自分が汗をかいていたことを思い出す。離れようとすれば、彼はもう一方の腕でペルリタを抱き寄せ、逃げられないようにした。
「まだ夜も深い。ゆっくり眠ろう。多分もう悪夢は見ないから」
ベルトランの手がペルリタの髪を撫でるのを感じながら、彼女は目を閉じ、その感触を味わう。
頭上から子守歌が聞こえ始めた。
この曲、知っている。
ペルリタはそうベルトランに伝えたかったが、声を出す気にはなれなかった。優しく撫でる手と、ゆったりとした子守唄が、眠気を誘う。
よく母さんが歌ってくれた唄だ。
「いい夢を」
最後まで歌うとベルトランはそっと囁いてペルリタの額にキスをした。
彼は優しい。




