10. ジャムとバター
ペルリタが目覚めた時にはすでにベルトランの姿はベッドになかった。訓練をするのが朝の日課と言っていたので今頃は訓練場にでもいるのだろうと思い、ペルリタも起き上がる。
乱れた髪を梳くように頭をかきながら、ペルリタは扉続きになっている浴室に入った。そこで適当に顔を洗っていると、扉をノックする音が響く。
「奥様!」
「はい」
腕で濡れた顔をこすりながらペルリタは扉を開けた。扉の勢いに合わせて侍女たちが流れ込んでくる。
「奥様、昨日も注意したではありませんか! 朝起きたら私たちを呼ぶように!」
侍女の一人がベッドサイドに置かれた鈴を鳴らして見せる。ペルリタは仕方ないとばかりに肩を竦めて見せた。
「ごめんなさい。まだ慣れてないの」
「奥様、使用人に謝っては駄目ですよ!」
そうなの? とペルリタが問えば、侍女たちは困ったように顔を見合わせた。顔を洗い終わっているペルリタをドレッサーに座らせ、髪を梳かし、ドレスを用意する。
「今日のドレスは昨日の感じと違うのね。とても豪華だわ」
ドレスはペルリタが目覚めなかった三日の間にベルトランが用意させたものだ。淡い緑色の生地が美しい代物で、既製品だが、帝国の有名デザイナーの一点物だと侍女たちが解説する。
そんな高そうな服、汚さないか怖くて着れないな。
布に縫い留められた宝石を指で弄りながら、ペルリタは少しのあいだ、考えた。
「まずは朝食だから、汚れてもいい服を着たいわ」
食堂まで続く廊下で出会う使用人たちは、ペルリタに気づくと恭しく礼をして、親しみを込めて微笑む。まだ親交を深められたわけでもないのに、ここの人たちはみんないい人だとペルリタは思った。
食堂にはすでにベルトランの姿があった。
「昨日はよく眠れたんだ」
彼はトマスと話をしていた。
「それを聞けて安心しました」
トマスは嬉しそうに笑う。
ゆっくりと近づくペルリタに気づいて、二人は視線を彼女に向けた。
「奥様、気持ちの良い朝ですね」
「おはよう、トマス」
トマスが礼をすれば、ベルトランは満面の笑みを浮かべて立ち上がり、ペルリタの手を掴んで、自分の隣に座らせた。
「昨日はありがとう」
「何のこと?」
「魔法で熱を下げてくれただろう」
食堂には二人以外、トマスしかいない。
「気づいてたの?」
ベルトランは得意げな顔で頷いた。
「熱が出たのですか!」
「そう心配するものではないよ。ペルリタの……、おかげで今はすっかり元気だしね」
三人だけだった食堂に、料理を運ぶ使用人たちが入ってきたので、彼は「魔法」という言葉を使うのを避けた。
「奥様には感謝しても仕切れません。坊ちゃまは強がりで熱を出しても教えてくれないので、我々はいつも手を焼くのです」
そう言うトマスの表情には期待の色があった。
「奥様も叱ってやってください」
ペルリタは、ため息をついて口を開いた。
「体調不良ならちゃんと言わなきゃだめよ。悪化したら余計迷惑を掛けるでしょ?」
優しく言ったつもりのペルリタだったが、ベルトランはこの指摘に顔をしかめた。
余計なお世話だったかしら。ペルリタはそう思ったが、ベルトランが気にしているのは他のことだった。
「二人して僕を虐めるのかい?」
「……大袈裟」
「構うもんか! 君は僕の妻なのだからトマスではなく僕の味方をしてくれないと」
拗ねた子どものようにそっぽを向くので、ペルリタも思わず呆れて笑えば、ベルトランはパッと視線を彼女に向けて嬉しそうに笑った。
使用人たちのベルトランを見る目は不思議なものに向けるそれのようだった。控えめで、決してその領分を逸した行動を取らない有能な使用人たちだったが、この公爵の態度には驚きと戸惑いを隠しきれない。
テーブルに料理がすべて運ばれた。ペルリタはこの家の料理に好感を持っている。豪華ではなく、薄味で、ペルリタが子ども時代を過ごしたゴラの味付けと少し似通ったところがあったからだ。
ペルリタは伯爵家でいつも残飯と言っても違えない食事をしていた。伯爵家の面々が食べているところを見守り、その食事が終わるのを待って、やっと立ち上がったときに、自分の分の食事を、回収するのだ。
伯爵家の食事は、濃い味付けでペルリタはいつも気分が悪くなりながらもそれを口に運んでいた。ワインが残っていればそれを煽って流し込むこともあった。
「今日は、君と僕で皇帝陛下に挨拶に行かなければならない。……昨日のうちに言わなくて申し訳ない」
パンの入った籠にベルトランは手を伸ばし、一つをカットしてペルリタの皿に置いた。
「君には迷惑をかけてしまうな」
「公爵が結婚したとなれば、夫人を連れて皇族に挨拶に行くのは当然の流れだわ。それよりベルトランは大丈夫なの? ほら、だって、二日も続けて――」
「君が気に病むことではないよ」
ジャムとバターどっちがいいかとベルトランは話を遮るように、ペルリタに尋ねた。
ペルリタも黙って、目の前に並ぶ食事に集中し、これ以上自分たちが会話を続ける隙を作らないように努めた。
トマスの小さなため息が聞こえた。
「怒らないでやってください」
「別に怒ってなんかないわよ」
ペルリタが何度そう言っても、トマスの不安げな表情は消えない。
「……あれくらいで怒ったりしない、本当よ」
「奥様が心の広いお方で良かったです」
ベルトランが先に食堂を出て行った後、トマスはペルリタに話しかけた。彼は、ベルトランがペルリタの話を遮り、食べ終わるとすぐに部屋に戻ったことを、彼女が不快に思っていないか心配していた。
「坊ちゃまは人に気遣われることを嫌いますから。特に呪いが関係するものだと……」
「そんな顔しないで。私本当に怒ってなんかないわ。彼がそう思うのも無理ないし、私も少し出しゃばり過ぎたのかもしれない」
「出しゃばるなど! 坊ちゃまは本当に奥様を――」
トマスは話を続けようとしたが、ペルリタが首を横に振ると口を噤んだ。
「……この話はここで終わりにしましょう。本当にトマスが気に病む必要ないんだから」
「さっきは嫌な態度をとってすまなかった」
ペルリタは部屋に戻るなり、ベルトランに手を掴まれた。ペルリタが自分に幻滅したのではないかと本気で怖れているらしく、ペルリタが気にしてないと言っても謝罪をし続ける。
そろそろ鬱陶しいとペルリタが感じ始めていると、タイミング良くカミラが部屋に入ってきた。
彼女はペルリタが親しくなれた侍女の一人だ。ヴァレンティナの傍系男爵家出身らしく、わけありで侍女としてここで働いているらしい。侍女のなかには、貴族出身の彼女のことを警戒している子もいるようだが、人当たりがよく、貴族特有の傲慢さもないので、使用人たちと波風が立つことはなかった。
カミラは、片膝をついてペルリタの手を掴み、必死な顔をしているベルトランを見て、眉間に皺を寄せた。それからペルリタと目を合わせる。ペルリタが視線で助けを求めれば、彼女は深いため息をついた。
「公爵様、しつこい方は嫌われますよ」
もともと低いものをさらに低くしたその声には迫力があった。ベルトランはとっさに手を離すと立ち上がり、小さな声でもう一度、「すまない」と呟いた。
やっと解放された手には、さっきまで掴まれていたせいか少し冷たい空気をペルリタは感じた。カミラにアイコンタクトで礼を伝えれば、彼女はなんてことないと首を横に振った。ペルリタは微笑んだ。
「さっきから何度も言っているように私はまったく気にしてないの。そんなにしつこく謝られれば、カミラの言うとおりそれこそ不快になるかもしれない」
ベルトランはショックを受けたようで、涙目になるが、ペルリタはもう彼に付き合うのをやめて、カミラに何用か尋ねた。
カミラが部屋に来たのは皇宮に向かう馬車の準備ができたことを伝えに来るためだったらしい。
「痴話げんかに巻き込まれて迷惑です」
彼女は最後にこう言った。ベルトランの一方的な行動なのに、痴話げんかでまとめられるのは心外だ、とペルリタは思った。一方のベルトランは「痴話げんか」という言葉に口元を綻ばせた。
その表情にカミラの口が変なものを見た時の独特の歪み方をしたのをペルリタは目撃した。




