迷子のアリス
eat me.
私を食べて。
隠し味に赤い紅い滴をひとつ。
甘くて優しいお菓子はいかが?
さぁさぁ座ってアリス。
怖がらないで、大丈夫。
お茶会の時間を楽しみましょう?
ねぇ、アリス――
真っ青な空によく映える、真っ白な洋館みたいな家。
その洋館の裏口を静かに開ける。庭に進めば、鼻歌混じりにお茶会の準備をするあの人がいた。
「あら、今日はずいぶん早いのねアリス」
芝居がかかった動きで喜ぶ彼女。
「今日は4時間で終わりだったんですよ。もう卒業も近いんで、やることもないんです」
お茶会はいつも15時から。放課後に来ると、彼女はいつもお茶を飲んでいた。
いつもなら学校が早く終わっても15時のお茶会の時間まで、ここを訪ねることはしていない。だけど、今日は妙に落ち着かず時間より早くきてしまった。
いつもとは違う、不思議な国なんてなくて彼女はちゃんとここにいると、実感したかった。
「卒業……確か、小学校だったかしら?」
「……そんなガキに見えますか」
「ふふ、冗談よ。怒らないで、アリス」
だけど、彼女は今日も不思議な国の住人だったようだ。
「怒りは、しません……けど……」
「そう、そうなのね。アリスが迷子になってもう10年も経つのね……」
「怒りますよ」
「ごめんなさい、これからお菓子を作るの。お茶の時間まで待っててくれるかしら?」
そう言ってキッチンへと消えて行く彼女。
ただ待っているのは退屈すぎる。
鞄をテーブルの横に置き、家にお邪魔することにした。
俺がキッチンに顔を出すと彼女は口元で手を合わせて「まぁ、アリスも手伝ってくれるの?」と目を細めた。
それから、のんびりと、ゆったりと、準備を開始する。
粉やら液体やら鍋やら色々な物が並べられた。
「最初にゼラチンを水に入れてふやかしておくの」
「その粉がゼラチン……ですか?」
「そうよ。アリスはお菓子作りは初めてかしら?」
「……お菓子作りが好きな男子中学生は珍しいですよ」
「アリスの初めてが私のお家だなんてドキドキするわね」
「男子中学生ですか貴女は」
「いちごジャムにお砂糖をたっぷり入れるのよ。それからお水と水飴ね」
ただでさえ甘いはずのジャムに、吃驚するほど大量の砂糖を投入する彼女はとても楽しそうで。
「これを沸騰させる間にゼラチンを温めておくの」
お願いできるかしらと先ほどのゼラチンを渡された。
適当にレンジに入れる。設定に困っていると、横から彼女がボタンをいじりセットしてくれた。そのままニコニコと待っている彼女を横目に、スタートボタンを押した。それだけで、とても凄い事のように「流石ね、アリス!」と褒める彼女に苦笑する。
そんな俺の反応など気にもせず彼女は鍋をかき回す。くるくると、クルクルと。
「さて、次はこれとレモンとゼラチンを混ぜるのよ。ハンドミキサーで白くなるまで、よーくね。アリスは上手に出来るのかしら?」
渡された電動泡だて器をどうしたらいいか分からず、とりあえずスイッチを入れてみる。ギュルルルルルルルという勢いの良い音がした。
それをゆっくりゼラチンやら何やらが混ざった液体に近づけ――
さっきまでとは違う変な音がしたかと思えば、液体がそれはもう凄い勢いで顔面を襲った。
「あらあら、アリスが美味しくなってしまったわ」
俺の肩に手を置き、少し背伸びをして、目の横と顎についた液体を舐め取る彼女。
「……くすぐったいですよ」
「大変、忘れるところだったわ!」
何を忘れたのか、彼女はいきなり果物ナイフを取り出した。
それから、袖を捲り上げ、手首にそれを近づけて。
「隠し味は大切でしょう?」
「それ、毎回やってるんですか?」
「"eat me"そう書いてあるケーキやクッキーを食べるとアリスはおかしくなってしまうのよ」
「そうですね、あと10cmは大きくなりたいです」
「ハンドミキサーは中に入れてからスイッチを入れるの」
言われた通り、液体の中に入れてからスイッチを入れる。
面白い程に早く液体は泡に埋もれ、少しずつ重さを増していく。ボウルの中で電動泡だて器をぐるぐるぐるぐるかき回す。それに合わせるように彼女はボウルの方を動かす。
暫くそれを続けると、彼女は「そろそろいいかしら」と言った。その言葉を合図として電動泡だて器のスイッチを切る。
「あらあら、お顔が真っ白ね。お化粧してお出かけでもするのかしら?」
「あそこに置いてある平べったい容器に入れれば良いんですかね」
「お出かけ先は寒い寒いベッドの中ね。お休みなさい。またお茶会で会いましょう」
冷蔵庫に入れ終わると、彼女はお喋りでもしましょうかと言い出した。
誘われるまま、庭に出ていつものテーブルに着く。
「素敵なお茶会にご招待頂き有難うございます」
「あら、アリスったら。お茶会の時間はまだ先よ。私の時間はちゃんと進んでいるわ。だからこうやって、待っていられるの」
「進んでいるのが分からないくらい、貴女は出会った時のままですよ」
大人っぽく綺麗な外見に、子どものような可愛らしい内面。本当に変わらないまま。
「それは駄目よ、アリス。あの頃と違って今の私は大人なのだから」
変わらないという言葉は、もう少し歳を重ねた女性に言うものだと教えてもらった。
しかし、頬杖を付き溜息を吐くその表情も、「アリス」と俺に向ける笑顔も、あの頃のまま。
別の世界にいるような危うい美しさ。引き込まれ、逃げられない錯覚に陥る不思議さ。
ゆっくりと少しずつなんて優しいものじゃない。
一目見た瞬間に、奪われる。
「あの頃のままなのはアリスの方よ。可愛い可愛い迷子のアリス。いきなり垣根から出てくるんだもの、吃驚したわ」
「……柵の間が広いからいけないんです」
「あら、何もいけないことなんてないわ。大人は絶対に通り抜けられないもの」
「あの時は鬼ごっこしてたんです。逃げてて、つい……」
「慌てて走っていたのね! じゃあ、アリスはウサギさんだったのかしら?」
「勝手に人の敷地に入って怒られると思ったら"アリス"なんて呼ばれて……そのままお茶会に参加させてもらえるなんて思いもしませんでした」
「ふふ、迷子のアリスなんて君にピッタリだったのよ」
「いつもお茶会を開いている貴女はイカレ帽子屋ですね」
「そうね。私はアリスを導くウサギにはなれないわ」
「……イカレてるのは否定しないんだ」
「知ってるでしょう、アリス。不思議の国にはイカレていない者などいないのよ」
「ここは、不思議の国じゃありません」
「そうね……迷子のアリスは、帰らなければいけないわ」
言いながら彼女は立ち上がる。
いつもと変わらぬ笑顔のままで、いつもと変わらぬ優しい声色で、ゆったりとした時間に終わりを告げる。
そろそろお茶の準備をしてくるわと家へ入っていく彼女に付いていく事も出来ず、膝の上で拳を握った。
お茶と先ほど作ったお菓子を乗せたトレーを持って戻ってきた彼女。
楽しそうに鼻歌を歌いながらテーブルに並べていく。
「貴方は……」
「さぁ、アリス。準備は完璧よ! 最後のお茶会を始めましょう?」
"最後"
ああ、なんて嫌な言葉だろう。
終わりなどなく、永遠だったら良かったのに。
それが無理なことは分かっているけど。
それが無理なことは分かっていたけど。
「明日は、1年ぶりにケーキが食べられると、思ったんだけど、な」
「まだお茶会は始まったばかりよ、アリス。だけど、そうね。もう終わりにしなきゃ」
ゆっくりカップを持ち上げて、赤い唇にくっつける。
紅茶で口紅が落ちることはないのだろうか、なんて。もう数え切れないほど考えた。
「まだ大人になんてなってない」
「珍しく子どもらしいことを言うのねアリス。でも違うわ。君もきっとすぐに、大人になるの」
「……大人なんてならなくていい」
「それじゃあピーターパンだわ」
子どものように、子どもらしく、駄々を捏ねる俺。
大人のように、大人らしく、諭す彼女。
俯いて彼女の顔を見られないでいると、カチャリとカップを置く音が聞こえた。
それから静かに、いつもの楽しそうに弾む声とは全く違う、どこか冷たい音が響く。
「私、結婚するの」
ガラガラと耳障りな音を立てながら、世界が崩れる。
最近暖かくなりつつあったのが嘘のように体が冷える。
思考も、何もかもが、凍りつく。
「ようやくこの家の外に出られるのよ」
だから、君とはもうお別れね。
彼女の言葉がやけに遠くで聞こえている。
不思議な国でしか生きられなかった彼女は、もうそこにも居られない。
「それは、おめで」
「やめて。君にまでそんなこと、言われたくない。出来損ないと隠されて、相手が見つかれば結婚?どこまで行ってもイカれてるわね」
小さく鼻で笑う。
「それに逆らうことができない私も、やっぱりイカれているのよ。だけど、貴方は違うわ、アリス。不思議な国は所詮夢の中。アリスは夢から醒めなければいけないの」
終わらない物語のように、楽しいお茶会で幕を閉じられたらいいのに。閉じた本のその中で、最後のお茶会は終わらない。ずっとこの場所で、2人きりのお茶会をーー
そんな我儘を言いたいけれど、物語の登場人物は自分の意思では動けない。物語を紡ぐ書き手によって動かされているだけ。この時間が許されていたのだって、書き手の気まぐれに過ぎなかったんだ。
「お茶会の時間が好きでした」
「ええ、私も楽しかったわ」
「アリスと呼ばれるのが、好きでした」
「ええ、私も楽しかったわ」
「貴方のことが、」
「これはお土産よ、アリス」
言葉を遮り、彼女は小瓶をテーブルの上に置く。
きっと、これを受け取ったら全てが終わる。
「ひとつ、味見はいかが?」
お皿から、ひとつつまみ上げる。そのまま彼女はそのお菓子を俺の口に押し付けた。
「ギモーブはお好きかしら?」
ふにふにとした感触がくすぐったく、逃げるように口を開けた。それは口の中で溶け広がって、ただただ甘さを舌に残す。
「甘い、です」
「ゆっくり、少しずつ味わって。全て溶ける頃には、夢から醒めるのよ」
そう言って今度は小瓶を握らせる。
小さなタグが、風に揺れていた。
最後のお茶会の後、洋館だけがその場所に残っていた。
手入れもされず、ただそこにあるだけの空っぽの洋館。それはまるで最初から誰もいなかったかのように、ただそこにある。
彼女の行き先も、連絡先も、名前さえ。
俺は何ひとつ知らない。知らなかったし、知ろうとしなかった。聞いていたところできっと教えてはくれなかったし、名前を聞いたら不思議な国には居られない気がしていた。
本当に夢だったのではないかと思うほど、俺は彼女に関することを何も知らない。
ただひとつ。空っぽの小瓶だけが、彼女の存在を証明する。
ーーeat me.
あの日の彼女の声が、今も時折耳の奥で囁く。
忘れられない甘さと、彼女の味。
大人になっても、俺は時々ひとりでお茶を淹れる。ギモーブを作って、テーブルに置いてみる。
まだそれを美味しいと思うことはできないけれど、そうしておけば、また彼女が笑ってくれる気がして。
もうここには居ない彼女に、心を囚われたまま。
俺は今日も、迷子のアリスのままだ。