世界Ⅰ
浮遊感が消えた瞬間、埃っぽさが鼻を襲う。
「っくしゅん!」
鼻の奥がむず痒くなり、思い切りくしゃみをしてしまった。床に目を落としてみれば、紙やティッシュが散乱している。
「アレク、ちゃんと掃除してる?」
フレアの声が聞こえたけれど、掃除していないことは丸分かりだ。
「ごみはかき分けてくれ。とにかく、バルコニーに行こうぜ」
アレクは全く反省していない。清々しい程の笑顔で言い切ると、先陣を切ってバルコニーを目指す。幸い、まだ日は昇っていない。早く、早くと足を動かした。
開け放たれた窓を抜け、手すりに手を伸ばす。
「わぁ……!」
紫の空に広がっているのは、一面に広がる雲海だ。写真で見たマチュピチュを連想させる。
「凄い! 凄い……!」
「もうすぐ夜明けだぞ」
歓声を上げるフレアに、アレクは声を張った。陽が昇り始めたのは、まさに数秒後だ。空の色が紫から薄紫、ピンクへと移り変わる。その変化に雲の色までもが同調する。
四人で言葉を失っていた。綺麗だとか、そんな陳腐な言葉では片付けたくない。いつの間にか、頬を涙が伝っていた。
涙ではない温かい何かが頬に触れる。それは涙を拭い、そっと離れていった。
「絶景だね」
「うん」
空と雲海を見比べたまま、クラウの声に頷いた。
数分で太陽は顔を出し、辺りをオレンジ色に染め上げる。そこからは早かった。黄色から水色へ変わり、雲海も引いていく。現れたのは黄色の岩の三角屋根が立ち並ぶ城下町だ。
小指よりも小さく見える人々が行き交い始め、煙突から煙が上がる。ほのかなパンの香りが立ち上ってきそうだ。
「一見、住みにくそうなところだけどよー、山を登るのも良い運動になるんだ。健康寿命はトパーズが世界一だしな」
「それよりさ、空気薄くない?」
「そりゃそうだろ。山の上、しかもその塔の上だぞ?」
頭が少しフラフラすると思ったら、そういう理由だったらしい。最悪、高山病に陥ってしまう。
「アレク、ごめんね。トパーズからは離れた方が良いと思うの」
「俺も言おうと思ってた」
どうやらクラウと意見が合ったようだ。申し訳なくアレクに目を遣ってみると、アレクは不服そうに目を吊り上げている。
「折角来たのにもう終わりか?」
「このままじゃ、俺たち高山病になっちゃうよ」
「あぁ、そういうことか。じゃ、しゃーねぇな」
昨日計画していた流れでは、次はエメラルドへ行くことになっている。名残惜しそうに、いつまでも手すりに縋り付いているフレアを気にかけながら、バルコニーの床に目を落とした。部屋の中は散らかっていて、魔法陣を描けたものではない。ここで魔法陣を描いてしまおう。
瞼を閉じて、心の中でエメラルド城へ繋がる道を指し示してと呟いた。どこからともなく杖が現れ、床に魔法陣を描いていく。
「もっとここからの景色を見てたかったのに」
「体調不良になったら、他の国に行けないよ?」
「それは……分かるけど……」
フレアを窘めるクラウに同調しながらも、申し訳なくなってしまう。フレアはアレクが生まれ育った場所に行くのをとても楽しみにしていたのだ。
「フレア、今はしょーがねぇよ。魔導師を辞めた後に、またトパーズに旅行しようぜ」
「良いの?」
「あぁ。オレが何とかする」
どうやら話はまとまったらしい。一人で何度か頷いたところで、魔法陣が描き終わった。
「出来たよ。もう行く?」
「うん。アレクとフレアはどうする?」
「行く。アレクの言葉を信じる」
アレクがフレアの髪をさらりと撫で、微笑み合う。その姿を見られただけでも嬉しい。
クラウも表情を緩めると、魔法陣へと踏み込んだ。
「先に行ってるよ」
小さく片手を振り、緑の光の中へと消えていく。
「私も行ってるね」
瞼を閉じようとしたところで、フレアが唇をアレクの顔へと近付けた。見ない方が良い。私の方が照れてしまう。咄嗟に顔を背けると、私の部屋が揺らいで見えた。
「ミユ、顔が真っ赤だ」
先に到着していたクラウはまじまじと私の顔を見詰める。
「だって、アレクとフレアがキスするんだもん」
「じゃあ、これで上書き」
瞬きをする間もなくクラウの顔が近付いてくる。柔らかなものが私の頬に触れたかと思うと、抱きつかれてしまった。
「ミユ、可愛い」
「う、うぅ~」
これは完全にクラウのペースにはまっている。高温を発する顔を隠すことも出来ず、言葉も出てこない。あたふたしていると、アレクとフレアが到着したようだ。
「オマエら、なんかあったのか?」
「まさか、見られた……?」
二人の声が聞こえ、身体が離される。
恐る恐るアレクとフレアを見てみると、私と同じようにフレアの顔も林檎のように真っ赤に染まっていた。
「ミユ、バルコニー覗かせてもらうよ」
「う、うん」
慌てふためくフレアに返事をすると、フレアは逃げるように窓へと向かう。私もあまりに恥ずかしいのでフレアに続いた。彼女の手で開け放たれた窓から爽やかで穏やかな風が流れ込む。しかし、眼下には地震で傷付いた街並みが広がっているばかりなのだ。
「あっ……そう、だよね……」
すぐさま視線を落としたのだろう。フレアの声は萎んでいってしまった。
「家は傷だらけだけど、エメラルドの人は前向きに頑張ってる。復興したら、また見てもらいたいな~。すっごく可愛い街だから」
強がった訳ではない。フォローした訳でもない。ただの本音が漏れ出ただけだった。




