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鳥居の外に出るとすでに夜が明けていた。坊主の姿はない。家まで歩く途上、全てが夢であるような気がした。
次の日の仕事はサボった。どの道辞めるつもりでいた。午後に電話をすると電話口から怒鳴り声が飛んできた。どういうわけか気持ちがまるで動かず、冷静に謝罪の意を述べ、退社したい旨をつげると、相手も冷静になったのか理由を訊いてきたが、どう応えたものか分からず、ただ仕事が飽きただけだと言った。
再び怒鳴り声が飛んでくると思ったが、相手は何かを悟ったのか「もし復職したい時は言え」とだけ言って電話を切った。
午後いっぱいを呆然と過ごし、日が落ちた頃にシャワーを浴びた。着替えを済ませ、再び神社に向かう。
あれをあと九十九回するのか。
集落に向かった。前回は甘夏を追うことに集中していたのでろくに見ていなかったが、人の気配はなかった。
「廃村か」
中程の家の玄関から庭を覗き込み、ごめんください、と叫んだ。もちろんインターホンはない。
応えもない。
誰も出てこないとあたりを付けていたので当然の反応とばかりに玄関に背を向ける。
「何か」と女の声がした。
振り返ると年の頃は十五ばかりの少女が立っていた。
呼んでみたものの、何かを訊きたいわけではなかった。
「この先の神社について知りたいんですが」
口から出まかせに喋った言葉ではあったが、確かに誰かが教えてくれるならこれほどありがたいことはない。坊主はどこか信用できない気がしたからである。
「あそこはもう誰も管理していません。だいぶ前に町の方の神社と合祀したので」
「少しおかしなことを訊くようで悪いんだが」と前置きしてから、あの神社で何か噂のようなものはないか訊いた。
身じろぎしたのが分かった。だが少女は取り繕うように言った。
「先ほど告げたことが全てです」
尋問めいたことをするのは気が引けたので、適当に話を逸らしつつ探りを入れることにした。
「僕は趣味でこの辺りの土地のことを調べています。素人民俗学者のようなものと思っていただいて結構です。噂がなければあなた自身のあの神社の印象をお聞かせ願えたら幸いです」
「何か知っているんでしょ」警戒の色を浮かべて少女は言った。「あなた、昨日の同じくらいの時間にこの道を通ったでしょ。女の人の後を尾けて。そして明け方に帰った。知っているよ」
これは参った、と思った。先手を打たれたようなものだ。これ以上誤魔化すのもうまくない。だが、全てを話して信じてもらえるかどうか。ゆえに化け物が出たとは言わず、神社で恋人が行方不明になったと伝えた。
「本当に恋人なの? ストーカーではなくて?」
少女の中で俺はストーカー殺人鬼で、目撃者を探して口封じをしているという設定になりつつある。
慌てて俺は定期入れに忍ばせた、二人で肩を並べた写真を見せた。
恐る恐るという仕草で写真を覗き込んだ少女は、でも付き合っていて別れてからストーカーになったのかも、と呟いた。
「それを言い出したらもう打つ手はないな」腕を組んで考えてから諦めて言った。もうこれ以上この少女から聞き出せることはないと思ったからである。
「それもそうか」あっさりと少女は引き下がった。「あの神社には出入りするなって親から言われている。変質者が住み着いているって聞かされているけれど、たぶん違うと思う。もしそれが本当ならば警察を呼べばいいだけの話だから」
俺も警察を呼ぶべきなんだろうな、と思いながら少女の話を聞いていた。
「本当は駄目だけれど、一度だけ境内に入ったことがある」
ヒグラシが鳴きだした。少女は自身の細い腕を抱きしめるように抱え、不安げな眼差しを地面に落として言った。
「入ってすぐに分かった。ここに居たくないって。そうしたらどこかから『今すぐ逃げなさい』って声がして、社殿の方で暗い墨のようなものが立ち込めた。それで慌てて鳥居の外に逃げたけれど」
そこで少女は口を閉じた。立体的に色づいた暖色の雲が猛スピードで流れていく。星が現れる。空が藍色に染まっていく。
「家に帰ると庭先でお父さんが倒れていた。どうしたの?って駆け寄ろうとして異変に気づいたの」少女は不意に顔を上げた。「首がないの」
少女の顔が割れて大きな口になる。
仰け反るように飛び退いた。予感はあった。廃村に近い有様なのに、少女の瑞々しい姿がどこか背景に貼り付けた絵のような印象だったからである。
少女であった何かーー、おそらくこいつは次の”百”なのだろう。百は、どういうわけか俺を見失い、庭先をさまよい歩く。
よくみると神社の百と同じように目がない。しばらくすると少女の姿に戻り、「ああ、そこにいたのか」と言った。
「理性があるのか」
「もうネズミを漁る生活は嫌なのよ。この辺りの野犬も食べ尽くした。久々の大物だからそれはもう頭も使うさ。さっきの話も面白かっただろう。結構考えたんだぞ」
つまり俺はこいつの餌になるためにノコノコと現れた、と百は見ているらしい。
「お前の餌になってもいいが、少し話を聞かせてくれ」この手の場面で嘘を吐くのは昔話の定石である。それに嘘を吐いたのは相手が先だ。
「酔狂だね。自殺志願者ってのは辛いのが嫌で死ぬんでしょう? 他の生物に食われるのは多分一番辛いことだと思うけれど」
「頭から食われれば痛みなんて無いさ」
そういうもんかね、と百は言った。「まあいいや。元の姿になると狩りもままならないからね」
「お前のその姿は幻か何かか」
「食った奴の姿を借りている。目が見えるからな」
「そういう性質なのか。つまり食った生物の姿を擬態できるかという意味なんだが」
「まあ、そうかな。擬態というのは少し違うけれど、はたから見ればそうなんだろうさ」
「ここの村はずっと前からこんな有様なのか」
「全部食べたからね。本当は、十年に一度食べればそれで満足する。この村の住人もそれを了承してきた。でも村人が突きつけてきた要求で風向きが変わった」
「要求?」
無意識で俺は一歩足を踏み出してしまった。それは盲目の百の射程距離に入ってしまったということである。
再び百の顎が開いた。おそらく無意識の行動だろう。食欲が優ったのだ。
俺は頭を低くして懐に飛び込んだ。体当たりのような形で百を押し倒し、顎を押し上げて、坊主が寄越した癇癪玉を耳元で破裂させた。目がないので判断が難しいが、手足から力が抜けたので気絶したものと思われる。頭だけが異形で体は少女のままであるので、衣服がずれたときに脇腹があらわになる。脇腹には傷口があった。既視感があったが俺は無視してすかさず丸薬を服用する。再び目前に甘夏が現れた。
花を食べ終えて百をみると少女の姿に戻っていた。まるで俺が少女を襲ったようにみえる。背後から足音がする。俺は家屋に入り、土間を駆け抜け、土足で居間に上がり、引き戸を開けて裏庭に出た。裏庭はそのまま雑木林に続いている。雑木林に潜むには辺りが暗すぎる。裏庭から隣の家の庭先に出て、垣根越しに通りをみた。誰もいない。すでに黄昏は過ぎた。夜の領分と言っていい。灯を持たずに歩くには暗過ぎた。途中何度か用水路に落ちかけた。山道に差し掛かり、いよいよ無灯火で歩くには危険だと判断したときに、山間から月が覗いた。闇に慣れた目には月光で十分だった。
最初は早足でーー、気がつくと駆け出していた。視界が不十分な状態のせいか妙な高揚感が湧き上がる。三段跳びのように歩幅を広げ、駆け抜けた先に光が見えた。街灯は奇跡のように瞬いている。 巨大な蛾が柱にとまり、甲虫が電球に突進して時折バチッという音が聞こえる。
街灯の向こうには民家が見えた。汗だくになった自分が滑稽になり俺は久しぶりに笑い声を上げた。おそらく、甘夏が死んでから初めての出来事だった。