消えた記憶の行方
僕、高咲春斗には兄がいた。
僕達は双子だった。顔も声も背の高さも、まるで鏡に写したかのような等しさだった。
それでも僕達はお互いが誰かくらいわかっていた。
それはもう片方が自分ではないから、残りの方が自分だから。
ある日、僕たちの鏡は割れてしまった。
車の窓ガラスが風に散って、その瞬間君は消えた。
僕はその時記憶喪失になったのだそうだ。
そう、小説家の母から聞いている。
「僕の兄ってどんな人だったんだろう。」
真夏の屋根のない狭いバス停での待ち時間、潮風に吹かれながらふと、そんなことを思った。
親に見せてもらった写真には、確かに僕とそっくりの人物が写っていたし、事故の前日、僕と兄の誕生日のお祝いのときに撮ったであろうほんの数十秒の短い動画には、まだ声変わりする前の二人の声が記録されていた。
そういう見た目の情報なら、過去を漁ればいくらでも出てくる。
でも、それを見て懐かしいとか、寂しいとか、そういった唯一無二の僕だけの感情を抱くことは、僕にはできないのだ。
セミの声が、朝夢から目覚める時の様に段々と、はっきりしてくる。
ハッとして顔を上げた。
目の前にはバスがもう来ている。
急いでカバンから交通系ICカードを取り出すと、
自分の前のおばあさんが、重そうな荷物を抱えて一生懸命車内の階段を登っているのが見えた。
「持ちましょうか?」
「あら、ありがとうね。」
おばあさんはこちらを見てにっこりと笑う。
その笑顔を、僕はどこかで知っている。
「いえいえ。」
それでも、いくら考えても僕は思い出すことは出来ない。今は少し幸せだ、そのくらいに思えば良いのではないかと、勝手に自分に言い聞かせた。
バスのドアが閉まる。
セミの声はもう余韻だけで、それも直ぐに消えた。
「ふぅ、」
おばあさんの荷物は本当に重かった。一体何が入っていたのだろうか……そんなことを考えながら、財布にカードをしまおうとする。
……先程から、なにか『聞き覚え』の有るようなことが沢山起こっているな。
そう言えば今日は兄の命日だ。
「あれ?」
僕たちが離れ離れになったのも、バスの事故だった。
なんだか心がザワザワする。
「ねぇ、運転手さん寝てない?」
隣の若い女性が、友達らしき人にそう話しかけているのが聞こえた。
そして案の定、嫌な予感は的中した。
『次に来るのはーーー』
バスが出発して間もなく、車体が急に蛇行運転を始めた。その後急に加速し、真っ直ぐガードレールに激突した。
「キャァァアアア!」
「グシャッ!」
乗客の叫び声と、車体が潰れる音が重なる。
窓ガラスが割れた。
その瞬間視界に入ってきた、不思議なくらい綺麗な青空。
無いはずの記憶とぴったり重なる、デジャヴの人影。
「兄さん?」
疑問符はついているが、確実にそうだと直覚した。
その時久しぶりに、自分は自分だと気付かされたから。
その人影は一言も話すことなくにっこりと笑って、静けさの海に飛び込むように消えた。
「待っーーーー!」
僕達の間の血の繋がりが、連ねて僕をその海に引きずり込もうとする。
パキッ
手に持っていたカードが割れた。
僕の苗字と名前の間で。