第二章 一二一九年、秋 サフリム(其の三)
第二章 一二一九年、秋 サフリム(其の三)
「村に始祖の玉があると思っていたが、違うのだな」キタイの当ては外れた。
「昔はそうだったらしいが、邪まな考えで永遠の命を求める者は数多い。そういう者たちに安易に利用されぬよう、今は村に置いていない」
「その始祖の玉がどうして運ばれて来る?」
「それは分からん。パールは、モンゴル軍の戦利品と一緒に始祖の玉が運ばれて来ると言った」
「シャーマンの予知は信用できるのか?」キタイは疑わしそうに尋ねた。
「対話で観た像はすべて現実に起きてきた。近い内に始祖の玉が運ばれて来るのは間違いない」
シャーマンの能力はそれ程に凄いのか。「村を襲うのはおそらくホラズム軍だろう。それなら私たちで村を守れる」キタイは力強く言った。
「そうであれば良いが、」ハシムは言葉を濁すように止めた。
ハシムは、パールが教えてくれた黒い影が気になっていた。黒い影に当てはまる言い伝えはとても信じられない。信じてもいない言い伝えをキタイやカウナに話しても混乱するだけだ。
とは言え、もしも黒い影が言い伝えのとおりであれば大変な事態になる。パールはシャーマンとしての務めを果たさなければならない。それは、永遠の命を司るシャーマンにしか出来ない。果たしてパールに出来るのか。
「どうされた、ハシム殿?」黙り込んだハシムにキタイが尋ねた。
「いや、何でもない。ところで、キタイ殿やカウナ殿は悪魔を信じたりするだろうか?」ハシムが唐突に聞いてきた。
キタイは唖然とした。「こんな時に戯言は止めていただきたい。悪魔が現れるとでも言うのか。そもそも悪魔とは何だ?」
「いや、もういい。忘れてくれ」
ハシムはよほど混乱しているようだな。まあいい、始祖の玉が運ばれてくるのが本当なら捜す手間が省ける。村に運び入れたくないとハシムが言うのであれば宿営地に運ぶ。それこそ願ったり叶ったりだ。後は、始祖の玉とシャーマンの娘を大ハーンへ献上すればいい。
「話は分かった。戦利品は村ではなく宿営地に入れよう。そうすれば村は襲われない」
「うむ、だが、始祖の玉を手に入れようなどとくれぐれも考えてはいかんぞ」ハシムは念を押すように言い、村へ帰っていった。
その後、キタイはカウナに始祖の玉と永遠の命の話を伝えた。思ったとおり、カウナもその話に仰天して信じようとしなかった。
それでも危険は迫っている。キタイとカウナは今後の対応について話し合った。
その日の昼、哨戒班から早馬の伝令が宿営地に戻ってきた。
伝令は、戦利品をモンゴルへ運ぶ騎馬兵二十六人と、同行する交易商人三人に出会ったとキタイへ報告した。彼らはサフリムの村へ向かっていると付け加えた。
キタイは背筋が冷たくなった。それはカウナも同じだった。シャーマンの予知能力はこれ程に的中するのかと驚いた。
二人はパールとはすでに出会っている。モンゴル軍の騎馬兵が危険ではないと分かり、村の娘たちが隠れるのを止めた頃、ハシムはパールを二人に紹介していた。それ以降、キタイもカウナもパールと何度か会話をしている。
キタイはパールがシャーマンだろうと見当を付けていた。それでも、あのあどけない娘にこのような人智を超える能力があるとは思ってもいなかった。キタイは驚きと併せて戦慄を覚えた。
戦利品は宿営地で守る、だから村には向かわず宿営地へ向かわせろ、キタイは伝令にそう命じて戻した。ハシムにそのことを伝えるためゲンツェイを呼んだ。
「戦利品を運ぶ騎馬兵二十六人がこちらへ向かっている。今夜はそのまま宿営地へ泊まらせる。戦利品は夜を徹して全員で守る。村には決して運ばないので安心せよ。そう伝えてくれ」
ゲンツェイは村へ馬を飛ばした。戦利品の存在までどうしてハシムに言うのだろうか、ゲンツェイは不思議に思っていた。
午後遅く、哨戒班に先導された騎馬兵二十六人と交易商人三人が宿営地に到着した。宿営地の誰もがモンゴル軍の戦況を教えろと二十六人を取り囲んだ。
若い騎馬兵が大声で戦果を伝えた。「我が軍はサマルカンドを早々に攻略し、ホラズム帝国は滅びました。今、騎馬軍勢はさらに西方へ進撃するための準備をしています」
どっと歓声が上がった。宿営地の騎馬兵は大いに湧いた。
キタイも二十六人を出迎えた。サマルカンド攻略を伝えた若い男はクォルカと名乗った。背丈は高くないが、良く鍛えられた身体だ。キタイには、クォルカの顔に見覚えはなかった。
「戦利品を運ぶ道中、ホラズム帝国の敗残兵に襲われている交易商人三人を助けました。ですが、その時の戦闘で隊長は戦死しました。自分は臨時の隊長です」
「いや、長旅ご苦労だった。今日はゆっくり休んでくれ」
「ありがとうございます。天幕で寝るのは久し振りです」クォルカの表情も緩んだ。
「ところで、大きな荷物らしい物は見当たらないが、どのような戦利品を運んでいるのか?」キタイはさりげなく尋ねた。
クォルカは懐から黒い革袋を取り出した。「ここに小さな木箱が入っています。中身は知らされてはおりませんが、サマルカンドで入手した宝石のようです。この宝石は大ハーンの特命により運んでいます」クォルカは皮袋を懐にすぐ戻した。
「運んでいるのはそれだけか。サマルカンドはホラズム帝国の最大の都市だと聞いている。それなのに戦利品が一個の宝石だけとは不思議だな」
クォルカは地面に目を落とし、やがて答えた。「私たちにも分からないのです。戦死した隊長は、私たちは別働隊だと言っていました」
「別働隊?」キタイははっとしてクォルカの顔を見た。
「はい、戦利品を積んだ荷馬車八台が三百二十人の騎馬兵に護衛されてモンゴルへ向かっています。私たちのずっと後ろを進んでいます。ですから、どうして一個の宝石だけを先にモンゴルへ運ぶのか分からないのです」きちんと説明が出来ず、クォルカは申し訳なく感じているようだ。
「いや、つまらぬことを聞いてしまった。きっと、一刻でも早く届けたい物なのだろう。モンゴルまでの道中はお前たちだけで大丈夫か?」
キタイは尋ねながら考えていた。大ハーンの特命により別働隊を使ってまで運ぶというのであれば、黒い革袋の中身は本当に始祖の玉なのかもしれない。
「大丈夫です。天山山脈を越えてしまえば、さすがにホラズム軍の敗残兵もいないでしょう」
「うむ、敗残兵には何度も襲われたのか?」
「はい、何度も。荷馬車もない騎馬集団をどうして何度も襲うのか不思議でした」
ホラズムの連中も始祖の玉と知って襲ったのか?そうであれば、この宿営地にも攻撃を仕掛けてくるだろう。宿営地の守りはカウナが指揮しているが、さらに厳重にする必要がある。
「そうか、大変だったな。部下が諸君らの天幕まで案内する。食事はその後で運ばせよう」
「ありがとうございます」そう言いクォルカは踵を返して部隊へ戻った。
キタイは立ち止ったまましばらく考えていた。
何かおかしい。もしも始祖の玉ならば、大ハーンがそれを手元から離すような真似はしない。それでは、始祖の玉だと知らずに運ばせているのか。それならば、三百二十人の騎馬兵が守る八台の荷馬車で他の戦利品と一緒に運べばいい。
キタイは交易商人三人が所在無げに立っているのに気付いた。クォルカの話ではこの三人を助けるために隊長は死んだ。
あらためてキタイは三人をじっくりと見た。三人とも浅黒い顔で彫りが深いイスラムの顔立ちをしている。イスラムの交易商人らしく、顔と身体をゆったりとした白い布で覆っている。三人とも疲れた表情でこれからどうすれば良いか困っている。
交易商人を騎馬兵の宿営地に泊める訳にはいかない。キタイは三人に歩み寄り、村へ泊まるように言い渡した。ゲンツェイを呼び、三人を村まで案内をするように指示した。
その後、キタイはカウナを呼んだ。ホラズム軍の敗残兵が夜襲を仕掛けて来ると想定して、宿営地を中心とした防御陣形を再検討した。
ゲンツェイは交易商人三人を村まで案内した。ゲンツェイの乗った馬と三人がそれぞれ乗った馬、交易品を積んだ六頭のラクダが秋の青空の下をゆっくりと歩いている。
宿営地の誰もがホラズム軍の敗残兵の襲撃に備えていると言うのに、自分だけどうしてこんなつまらない仕事を任されているのか。分かっているが、ゲンツェイは少し苛立っていた。
そんなゲンツェイの気持ちも知らずに三人は後ろを付いてくる。久し振りに人里で休めるので、三人とも安堵した表情だ。時折大きな笑い声を上げながら何かを話し合っている。
その内の一人が馬を近付けてゲンツェイに話し掛けてきた。「騎馬兵さん、これから行く村が古の一族の村だと知っているかね?」
古の一族?そんなのは知りません。ゲンツェイは興味無さそうに答えた。ところが、その交易商人はしつこかった。
「古の一族の秘密を知っているかね?」
「何ですか、その秘密って?」
「永遠の命を与えてくれるのだよ」
ゲンツェイは後ろの交易商人に振り返り、怒ったように睨みつけた。ゲンツェイの機嫌が悪いのを察したのか、それから交易商人はずっと黙っていた。
村に着いたゲンツェイは三人をハシムの家に連れて行った。
ハシムは少し驚いた様子だったが、三人を暖かく出迎えた。交易商人のために用意している家がある、そこを使ってほしい、夕食はこちらで用意するので一緒に食べましょう、ハシムは三人にさっそく話し掛けている。
どうやら、夕食を一緒に食べながら異国の出来事をあれこれ聞こうという魂胆だな。そう思いながら、ゲンツェイは開いていた玄関から家の中を覗いてみた。パールは不在だ。
ゲンツェイが馬に跨り帰ろうとするとハシムが近寄ってきた。「ゲンツェイ、戦利品を運ぶモンゴル軍の騎馬兵は宿営地で泊まるのじゃな。戦利品が狙われたりしないか?」
どうしてそんなことを聞くのか、ゲンツェイはまた苛立った。「今夜は宿営地の全員で敵襲に備えます。昼間にもそう言ったじゃないですか」
「そうだったな。分かった、もう帰っていいぞ」ハシムはすまなそうに言った。
その後、ゲンツェイはオルリの鍛冶場に寄ってみた。ハクレアもパールもいなかった。ハクレアなら湖へ遊びに行ったよとオルリが教えてくれた。
交易商人を村へ届けたらすぐに宿営地へ戻って来いとカウナから言われている。ゲンツェイは宿営地へ戻っていった。
ちょうどその頃、パールは一人で湖の祠に来ていた。村でどんな災いが起きるのか不安で仕方なかった。災いの原因が分かればその災いを未然に防げるかもしれない。そう思い、ハシムに内緒で禁忌の玉を持ち出していた。
いつものようにパールは禁忌の玉を右手に持った。すると、祠の頂きに近付ける前からいきなり輝き始めた。首飾りの小さな翡翠も鈍く輝いている。
「ラトに住まわれたる古の父よ、我ら一族に進むべき道をお示しください」パールはすでに輝いている禁忌の玉を祠の頂きへ近付けた。
頭の中に、今朝よりもさらに鮮明な像が流れ込んできた。闇の中で村の家々が激しく燃えている、多くの村人が血を流して倒れている、黒い影が見えてきた、黒い影と騎馬兵が戦っている、騎馬兵も多くが倒れている。そして、パールは自分自身の姿を見つけた。
私は何をしているの?パールは意識を集中した。家々が燃えた後の燻る煙の中、黒い影と対峙する自分自身の姿がある。その直後に・・・
パールは驚きの声を上げて目を開いた。
「どうしたの、パール?」不意に背後から声がした。
驚いて振り返るとハクレアが立っている。ハクレアは心配そうな顔をしている。胸元の小物入れからコハクが不思議そうにパールを見ている。
パールは自分の迂闊さを悔やんだ。いつものようにハシムが傍にいれば、誰かが近付いても教えてくれた。やはり、一人で来るべきじゃなかった。
「ごめんね、パールの姿が見えたから声を掛けようと思って。でも、近付いたらパールが苦しそうに呻いていたから」ハクレアはそう言いながらパールの様子を気遣っている。
ハクレアの様子から、ハクレアは儀式に気付いていないとパールには分かった。パールの真後ろから近付いていたから、禁忌の玉や首飾りの翡翠の輝きは見えていなかったようだ。
どう答えようか、パールは考えた。考えようとしても先程の像が脳裏から離れない。この場は何とか話をはぐらかして、早く村へ戻らないといけない。
「占いの真似をしていたの。ねえ、モンゴル軍の騎馬兵が戦利品を運んで来るんでしょ。ハクレアは何か知っている?」パールは平静を保って聞いた。
「知らない、それがどうかしたの?」
「知らないならいいの。あの、お願いだからここで見たことは誰にも言わないで」
「いいけど。顔色が悪いよ、本当に大丈夫なの?」ハクレアはパールをまだ心配している。
「私は大丈夫よ、ありがとう。良かったら一緒に村まで帰ってくれるかな」
「いいよ、もうすぐ夕方だしね」ハクレアは頷いた。
ハクレアに気付かれないように、パールは禁忌の玉を皮袋にしまった。ハクレアはパールが持つ緑色の玉に気付いたが何も聞かなかった。
二人はしばらく無言で歩いた。そのうちハクレアがパールへ尋ねた。「パールは巫女なの?」
巫女?パールは思い出した。ハシムに以前教えてもらった。モンゴルには巫女と呼ばれる女の人がいて、モンゴルの神様の声を聞くという。
パールは困った表情になった。「うーん、巫女じゃない。話せる時になったら話すから」
ハクレアもそれ以上に尋ねるのは止めた。やがて、二人は村の入口に着いた。
別れ際にパールはハクレアに言った。「今夜は外に出ないで。でも、これも誰にも言わないで」
「それって、何かが起きるの?」
「そうよ」パールははっきりと答えた。
ハクレアはパールの瞳を覗くように見た。パールの黒い瞳が真っ直ぐにハクレアを見つめ返している。なぜだか分からないが、ハクレアも間近に迫っている危険を感じた。
「分かった、ありがとう」パールとハクレアはそこで別れた。
ハクレアは走って職人の宿営地へ戻った。オルリは天幕の中で手足を伸ばして寛いでいた。
「ああ、ハクレア。今夜は外に出たら駄目だよ」オルリが言った。
ハクレアは驚いた。さっきパールから同じように言われた。だけど、パールは誰にも話さないでと言っていた。
「どうしてなの、父さん」ハクレアは興味が無さそうに聞き返した。
「さっきカウナが来た。モンゴルに運ぶ戦利品が宿営地に届いたから今夜は警備を厳重にする、不用意に外出するなと皆に告げていったよ」オルリもあまり興味は無さそうに教えた。
やっぱりおかしい、ハクレアは思った。パールは誰にも話さないでと言ったのに、カウナは職人全員に言い聞かせている。これでは辻褄が合わない。
それにどんな危険が迫っているというのかしら。ハクレアは草わらを敷いた籠の中にコハクを戻しながら考えていた。
パールは家に戻った。ハシムは不在だった。家の前を通りがかった村人に尋ねると、交易商人三人が村を訪れており、いつもの空き家でハシムは三人と話し込んでいると教えてくれた。
パールは禁忌の玉が入った皮袋を棚の奥に戻した。窓からは夕陽が射し込んでいる。パールは窓辺から夕陽を浴びる村の家々を見た。もうすぐ夜になる。目の前の家々が燃えてしまう。パールの胸の不安は収まらない。むしろ、どんどんと高まっている。
それと同時に、パールは像で観た自分自身の姿を思い出した。禁忌の玉が何のためにあるのか、それは幼い頃にハシムから言い伝えとして教えてもらっていた。でも、本当にあの像のように私に出来るの?あれがシャーマンの本来の能力なの?もしもそうであれば、もしも私に出来るのなら迷わずやってみよう。そうする以外に村を救う方法はない。
高まる胸の不安と対称的にパールの黒い瞳は不思議と落ち着いていた。
夕暮れとなり、カウナは防御陣形を見回った。誰もがしばらく戦いから遠ざかっている、果たして大丈夫だろうか。カウナは一抹の不安を感じていたが、そうした不安は無用だった。
戦いを前にした久しぶりの緊張感で、どの騎馬兵も生き生きとしている。それは、一人一人の表情からすぐに分かった。
「やはり、戦いを忘れられないか」
それはカウナも同じだ。始祖の玉を守らねばならない義務感と、ホラズム軍の敗残兵がいつ襲ってくるかという切迫感、それ以上に戦える高揚感に喜びを感じていた。
ゲンツェイはキタイやクォルカと一緒に宿営地の中心にいた。何かあればすぐに村のハシムへ伝令に向かうために待機していた。
「別働隊はどんな重要な戦利品を運んでいるのですか?あんなにぴりぴりしているキタイ隊長は初めて見ます」ゲンツェイはクォルカに尋ねた。
「戦利品の中身は知らない。見てはならないと厳命されている。まあ確かに、キタイ隊長の緊張振りは戦場にいるかのようだな」
キタイの必要以上の警戒心を、クォルカも奇異に感じている。ホラズム帝国の敗残兵はあちこちにいるが、今では暴徒と化しているだけだ。これだけの人数と防御陣形であれば怖れる必要はない。キタイ殿は何をそんなに警戒しているのか。
宿営地周辺を見回りしていたカウナが戻ってきた。カウナはキタイに準備良しと報告した。カウナの身体からも強い殺気が感じられた。
辺りは暗くなり始めた。騎馬兵は焚火を燃やして松明に火を付けた。やがて、宿営地の周りは闇に覆われた。秋の虫が草原のあちこちでりんりんと羽を合わせて音を奏でている。
虫の音しか聞こえない中、キタイもカウナも待った。ゲンツェイもクォルカも待った。しかし、いつまで経っても宿営地の周りでは何も起きない。
やがて、虫たちの奏でる音も消えた。夜はいよいよ深まっていった。流れる雲の切れ間から秋の満月の光が草原を静かに照らしている。
あまりにも静か過ぎて、何かが起こるような気配すらなかった。