第十八章 一二二〇年、秋 サフリム~クラク・ド・シュバリエ(其の一)
第十八章 一二二〇年、秋 サフリム~クラク・ド・シュバリエ(其の一)
高原にあるサフリムの日暮れは早い。夕暮れになったと思ったばかりなのに、瞬く間に深い闇が草原を包み込んでいる。
キタイは天幕の中の寝台に横たわり、あれこれと考え事をしていた。出入り口にかけた布の隙間から冷えた夜風が時折入ってくる。寝台の横に置いたランプの炎が揺らめいている。
秋の夜にはあちらこちらの草むらからじーじーと虫の鳴く声がする。このじーじーと鳴く虫をキタイはまだ見ていない。騎馬兵の誰一人として見ていない。こんなに身近にいるのに不思議だ。
不思議がるモンゴル軍の騎馬兵を、サフリムの村人たちはおかしそうに笑う。じーじー虫は何処にでもいます、いつでも捕まえられますよ、村人たちはそう言う。
騎馬兵の一人が、その虫をどうしても見たいから捕まえてほしいと頼んだことがあった。ところが、村人たちは虫を捕まえられなかった。昨夜はたまたまいなかったのです、捜そうとすると危険を感じて逃げるのです、村人たちはそう弁解していた。
村人たちは嘘を付いている訳ではない。それはキタイたちにも分かっている。どこにでもいる虫なのにその姿は誰にも見えない。何とも不思議な話だ。
毎日が退屈に過ぎていた。それでも、キタイは村と宿営地周辺の哨戒は継続していた。週に一度は部下を二手に分け、集団戦の演習を欠かさなかった。部下には規則正しい生活をさせ、それぞれの仕事の合間には武具や馬の世話をしっかりとさせた。そうやって、モンゴル軍の騎馬兵としての規律と士気を維持させていた。
サフリムの地場産業として始めた羊毛の生産は、初年度としては満足に値する結果となった。春に刈った羊毛は油分を抜き、乾燥させ、売り物となるように梱包して体裁を整えた。四人の村人がサマルカンドへ売りに行った。交易の経験がない村人だけでは不安なので、キタイは交渉術に長けた部下を三人同行させた。
サフリムから初めて売りに出す羊毛は、どの織物屋でも相手にされなかった。羊毛を手に取って見ようともしなかった。サフリムから訪れたと伝えただけで門前払いされた店もあった。古の一族はやはり嫌われていた。
九軒目に訪れた織物屋はモンゴル人が経営していた。大ハーンの遠征に参加し、今ではサマルカンドに留まっている交易商人だ。村人に同行した部下と交易商人に面識はなかった。それでも、交易商人は真摯に対応してくれた。サフリムに駐留している騎馬兵が村人に羊毛生産を指導していると聞き、交易商人は羊毛を手に取って見てくれた。
油分がしっかりと落ちていない、刈った長さが不揃いで糸に束ねにくい、これでは安値でしか買えない。交易商人はそうした指摘を村人たちに率直に伝えた。その上で、羊毛自体の質はとても良いと認めた。指摘を踏まえて品質を改善すれば、来年はもっと高値で購入しようと交易商人は村人に約束してくれた。
羊毛の売買は成立した。村人は初めて多額の金を得た。村人は、羊毛で得た金で子どもたちの薬を買った。生活に必要な調理器具や日用品を購入した。村人は満面の笑顔でサフリムヘ戻った。
羊毛が売れたと知り、元気のなかったハシムも久しぶりに喜んだ。パールが旅立ってからもうすぐ一年になろうとしている。ハシムはずっとパールのことを心配していた。心配し過ぎなのか、ハシムの体調はこのところずっと良くない。
キタイにもハシムの気持ちは良く分かる。パールはハシムにとって唯一の家族で、たった一人の孫娘だ。古の一族だろうが、シャーマンだろうが、肉親を心配する気持ちに変わりはない。
キタイと会うたび、ハシムは何か情報が入ってきていないかと尋ねてきた。もちろん、パールについてだ。しかし、キタイにも情報は何一つ入ってこない。カウナたちは隠密に行動している。そもそも情報が入ってくるなど有り得ない。
カウナたちの動向はキタイも気になっていた。永遠の命の手掛かりは掴めたのだろうか、始まりの地が何処にあるのか分かったのだろうか。それでも、一年近くも経つと、たまに思い出すくらいでしかない。
永遠の命か、キタイは横たわった寝台でふと考えた。一年前のあの夜、悪魔との戦いは凄惨を極めた。キタイでさえ死を覚悟した厳しい戦いだった。多くの村人と部下が命を落とした。それに比べると今は本当に平和だ。あの夜は夢だったのではないかと錯覚するくらいだ。
キタイは溜息を付いた、いや、あれは夢なんかじゃない、嫌なことを思い出したな。キタイはランプを消して眠りに就こうとした。妙に寝つけなかった。
翌朝早く、宿営地を一人のモンゴル軍の騎馬兵が訪れてきた。歩哨が、その騎馬兵の到着をキタイへ報告した。騎馬兵はたった一人で訪れました、と。
時々、モンゴル軍が占領した地域で得た財宝を運ぶ馬車と護衛の騎馬兵がサフリムに立ち寄っている。護衛の騎馬兵は意気揚々とモンゴル軍の活躍を皆に話す。新たに制圧した国の様子も話す。騎馬軍勢は連戦連勝だ、大ハーンはさらに西方を目指している、バグダッド制圧も間近ではないかと騎馬兵の士気は高い、と話してくれる。
歩哨の報告を受けたキタイは、また何処かの都市で得た戦利品を移送する馬車と護衛の騎馬兵の先遣だろうかと思い、歩哨にそう尋ねた。
戦利品の移送とは関係ないようです、と歩哨は答えた。訪れた騎馬兵が歩哨に伝えた言葉をそのままキタイに告げた。
「ジョチ・カサルの従者です、そう言っていました」
ジョチ・カサル?キタイは眉をひそめて怪訝に思った。報告した歩哨も困惑している。歩哨も、ジョチ・カサルの名前ぐらいは知っている。
キタイは、ジョチ・カサルの従者を名乗る者を連れてくるように指示した。
「武具はどうしますか?」
「そのままで良い、帯剣させたまま連れて来い」
すぐにキタイは武具を身に付けた。そうすべきだと考えた。従者を待ちながらキタイには嫌な予感がしていた。
しばらくして、歩哨に連れられた従者がキタイの天幕に入ってきた。キタイの記憶にはない顔だ。年齢は二十五歳くらいだろうか、背が高くて病気かと思うくらいに痩せている。
キタイは歩哨を戻らせた。姿勢正しく立っている従者の武具をじっくりと見た。モンゴル軍の騎馬兵の標準的な武具を身に付けている。ただ、左腕に大きな白い布を巻き結んでいるのが見慣れない。
従者の表情は落ち着いている。従者は、自らの名前をルテイネと名乗った。キタイはルテイネに着席を許した。天幕の中で二人は向き合って椅子に座った。
最初に言葉を発したのはキタイだ。「ジョチ・カサルは八年前に亡くなっている。そのジョチ・カサルの従者とは、貴様はいったいどういう悪ふざけをしたいのか?」
従者は表情も変えずに答えた。「亡くなった?キタイ様のような聡明なお方がそのような認識では困ります。カサル様はモンゴルの正義のために立ち上がったものの、チンギス・ハーンに処刑されました。表現としてはそれが適切かと考えます」
最初から挑発的だな。キタイは椅子に深く座り直して背筋を正した。「だから、亡くなったと言っている」キタイは冷たく言い返した。ルテイネの表情が少し強張った。
「それで、ジョチ・カサルの従者が私に何の用だ?」
ルテイネは少し間を置いた。「チンギス・ハーンは騎馬民族の誇りを忘れております。あれは、モンゴルを亡国にしようと企む逆賊です。そのような逆賊を我々は許すつもりはありません」
ルテイネがいったい何を話しているのか、キタイには分からない。分からないが、我々という言葉が気になった。その言葉が本当なら、ルテイネには仲間がいる。
「大ハーンはモンゴルの王、我ら騎馬民族の王だ。今やモンゴルは世界各地へ領土を拡げ、繁栄を極めている。お前の言っている言葉は私には理解出来ない」キタイは厳しい口調で言い返した。
ルテイネはキタイを見つめ返している。「チンギス・ハーンは西方の文明に心を奪われました。西方の国々から多くの人間がモンゴルへ移り住んでいます。馬に乗れず、天幕に住むのを嫌がる腐った連中です。連中はチンギス・ハーンに与えられた地位を利用し、モンゴルの草原に西方の文明を根付かせようと企んでいるのです」
ルテイネは抑揚のない低い声で淡々と話し続けている。キタイは黙って聞いている。こうした話はキタイにも聞き覚えはある。それは、モンゴルの各部族の長老が集まった酒席でのことだった。
草原の騎馬民族がモンゴルの名の下に統一された。もはや、部族同士の無益な争いは終わった。その一方で、それぞれの部族が大切にしてきたしきたりや慣習は失われつつある。それだけではない、騎馬民族の暮らしまでもが失われようとしている。
それらは大ハーンを名指しで批判するような言葉ではなかった。とは言え、長老たちの嘆きは遠回しに大ハーンを批判していた。
ところが、キタイの目の前にいるルテイネは大ハーンを公然と批判している。
「西方から来た奴らは騎馬民族の暮らしを否定しています。奴らはモンゴルの男の仕事を奪い、モンゴルの娘をかどわかし子どもを産ませています。このままでは、モンゴルは西方の奴らに乗っ取られてしまいます」
キタイは眉をひそめた。かつて、ジョチ・カサルも同じ言葉を使っていた。
キタイはジョチ・カサルを今でもはっきりと覚えている。強権的な大ハーンの手法に疑問を感じた者が反乱を企てたことは何度かあった。大ハーンの身内が反乱を企てたことさえあった。ジョチ・カサルの反乱がそうだった。
ジョチ・カサルは大ハーンの弟だ。大ハーン以上に武術に長け、陽気で、常に最前線で戦った。ジョチ・カサルはモンゴル軍の騎馬兵の心を掌握していた。それは大ハーンを上回っていた。
やがて、ジョチ・カサルは大ハーンを批判し始めた。モンゴルの王はモンゴルに在るべきだ。それなのに、大ハーンは異国の財宝に目が眩み遠征ばかりしている。そうかと思えば、異国の者をモンゴルへ送り、モンゴルの民よりもいい暮らしをさせている。このような行いを許していては、いずれモンゴルの未来はない。
ジョチ・カサルは、大ハーンから王座を奪うために反乱を起こした。二千人の騎馬兵がジョチ・カサルに従った。大ハーンが遠征により不在だったこともあり、反乱は一時的に成功した。しかし、反乱の情報を聞き、すぐさまモンゴルへ戻ってきた大ハーンと六万人の騎馬軍勢に鎮圧された。
反乱の鎮圧後、ジョチ・カサルは処刑された。ジョチ・カサルに従った二千人の騎馬兵も処刑された。反乱の意味も分からずに従った少年騎馬兵も二十七名含まれていたが、容赦なく処刑された。大ハーンはいっさいの慈悲を見せなかった。
処刑された二千人の騎馬兵の家族は、大ハーンの処置を今でも恨んでいる。もしかして、ルテイネも処刑された騎馬兵の家族なのか。そうであれば、従者とは名乗らないはずだ。
「お前の言い分は分かった。それで、死んだジョチ・カサルの従者をお前が名乗るとはいったいどういう訳なのか?まさか、カサルが生き返ったのか?」
キタイの皮肉にルテイネは顔色一つ変えない。それがなぜかキタイを不安にさせた。
「いいえ、カサル様はこれから蘇るのです。カサル様を蘇らせる時が来たのです。今や、カサル様だけがモンゴルを救えます」
蘇らせる?この男はいったい何を言っている。キタイはルテイネを見つめた。ルテイネは真面目な顔で話を続けている。
「キタイ様もご存じのように、サフリムに住む古の一族は永遠の命を与える術を持っています」
ルテイネの言葉にキタイは心底驚いた。しかし、驚いた振りは見せなかった。どこから永遠の命の話が漏れた?悪魔と戦い、その後にモンゴルに帰国した騎馬兵の誰かが誓いを破り口外したのか。それとも尋問でも受けて話したのか。
とは言え、ルテイネは死んだカサルを蘇らせると言っている。死んだ人間に永遠の命を与える?死者を蘇らせる?ハシムからはそのような話は聞いていない。ルテイネは間違った情報を信じているのではないのか。
「サフリムに死者を蘇らせる術などない」キタイは言葉を変えて否定した。永遠の命を与える術ではなく、死者を蘇らせる術はないと答えた。
キタイは素直に否定し過ぎた。これでは、サフリムには他の術ならあると言っているようにも聞こえる。本当に何もなければ、馬鹿な冗談を言うなと呆れてもいいところだ。いっそ、笑い飛ばしたほうが良かったかもしれない。
案の定、ルテイネはしてやったりという表情になった。「そうですね。それでは、キタイ様も一緒に来てもらえますか?」ルテイネは椅子を立ち上がった。
「どこへ行く、村か?」シャーマンの娘なら今は村にいない、キタイは幸いに思った。
返ってきたルテイネの言葉は意外だった。「いいえ、湖の岸辺にある祠です」
湖の祠?なぜ祠を知っている?祠を詳しく知る者は私とハシムしかいない。
キタイの心を読み取ったかのようにルテイネが微笑んだ。「苦労しましたよ。村人に聞いても祠など分からないと言う。村の長は口が堅くて何も話さない。すぐに話せば九人の村人は死ななくてよかったものを」
「祠には何もないぞ」キタイはルテイネを睨んだ。
ルテイネは再び微笑んだ。「やはり、キタイ様は祠をご存じなのですね。まったく人が悪い。でも、祠には何もないなどと村の長の言葉を真に受けているのは迂闊ですね」ルテイネは意味ありげに笑っている。「祠の中に永遠の命を与える術が隠してあるのですよ。どうぞ、キタイ様も一緒に来てください。祠には村の長も待たせています」
「祠の中、と言ったな?」
「そうです。村の長から何も聞かされていないのですか?」
キタイは何も言い返さず、じっと考えていた。ルテイネの言葉は信用出来ない。しかし、シャーマンの娘は祠を介して死んだ者と心を通わせていた。そうであれば、祠には死者に係わる何か不思議な仕組みがあるのかもしれない。自分はそこまで考えが及ばなかった。ハシムは知っていながら黙っていたのだろうか。それでも、ジョチ・カサルの従者を名乗るこの男の指図に従うのはご免だ。
「知っている、知っていないはどうでもよい、なぜ私が行かねばならないのか?」
キタイに質されながらもルテイネは安堵していた。永遠の命の術について、キタイは肯定も否定もしなくなった。それは、すでに知っているからだ。
「私の同志は村を制圧しています。とても簡単でしたよ。ですが、二百人近くの騎馬兵がいるこの宿営地を制圧するのは簡単ではない。だから、永遠の命の術を得るまで、宿営地の騎馬兵にはおとなしくしてもらいます。つまり、キタイ様は人質です」
「私が行かないと言ったらどうする。ここで私を殺すのか?お前はすぐに捕まるぞ」
ルテイネはまったく動じない。「私が戻らないと、同志は村人を全員殺します。お分かりでしょうが、村人も人質なのですよ」
キタイはルテイネをじっと見つめている。ルテイネもキタイを見つめ返している。どうやら、嘘ではないようだ。仕方なくキタイは立ち上がった。
ルテイネはキタイの帯剣を認めなかった。キタイは剣を腰から外し、ルテイネと一緒に天幕の外にゆっくりと出た。天幕の入口に立つ見張りの二人は、キタイが帯剣していないのに気付いた。
キタイはルテイネにも聞こえるように二人に言った。「私は湖に行く。私が戻るまでは全員待機、決して宿営地から出てはいけない。全員に伝えろ、いいなっ!」
見張りの二人は即座に返事を返した。ジョチ・カサルの従者といい、キタイが帯剣していないことといい、見張りの二人は不穏な動きが起きているとすでに勘付いている。さらに、キタイの指示で、今のキタイが置かれている状況を素早く理解した。
キタイは自分の馬に跨った。先をルテイネの馬がゆっくりと進む。
「永遠の命の術など誰から聞いた?」キタイはルテイネの背中に呼び掛けた。キタイはルテイネに探りを入れようとしていた。
「キタイ様、もう嘘をつく必要はありません。大ハーンがここに宿営地を設けたのは、古の一族の村があるからですよね。大ハーンは、緑色に輝く玉を捜せとあなたに命じてここに留まらせた。違いますか?」
そうか、ルテイネは緑色に輝く玉の存在も知っている。「そこまで知っているのか。だがな、永遠の命は誰でも扱えるものではない。下手に扱えば災いが起きると聞いている」
キタイは二つの事実をルテイネに投げ掛けた。シャーマンと悪魔だ。この二つをルテイネは知っているだろうか。
「祠から永遠の命を取り出せば村の長も観念して協力するでしょう。今日のために優れた霊媒師も連れてきました。それより、災いとは何ですか?」
「そこまでは私も知らない」キタイは無愛想に言い返した。
どうやら、シャーマンと悪魔は知らないようだ。そうなると、ルテイネが得た情報は、悪魔と戦った後にモンゴルへ帰還した騎馬兵から漏れた情報ではない。キタイは情報の出所がいよいよ気になった。大ハーンがサフリムに宿営地を設けた本当の理由を知る者は限られている。緑色に輝く玉の存在を知る者も同様だ。
「私もずいぶんと捜したが見つけられなかった。まさか、祠の中にあるとはな」キタイは口惜しそうに言った。
ルテイネは得意げにキタイへ振り向いた。「私たちには特別な情報源がありますからね」
よし、引っ掛かりそうだ。キタイはもう一押ししてみた。「そうだな。おそらく大ハーンの親族だろう。大ハーンへの反乱を考えており、そのための大義名分が欲しい。手勢も欲しいから、カサルを担ぎ上げた。カサルと共に処刑された騎馬兵の子息を仲間に引き込んだ。そんなところか?」
ルテイネはいっさい答えない。キタイを馬鹿にするように声を立てて笑っただけだ。それ以降、ルテイネはキタイの問い掛けに乗ってこなくなった。
ルテイネとキタイは湖の祠に着いた。祠の周りにはモンゴル軍の騎馬兵が十二人いる。ルテイネと同じように、全員が左腕に大きな白い布を巻いている。白い布が仲間の印らしい。今は全員が祠へ向いており、十二人の顔はまったく見えない。
「お前の同志か?それとも騎馬兵になれなかった落第者の寄せ集めか?」キタイは皮肉を込めて言った。ルテイネはキタイを無視した。
二人はそれぞれの馬を降りた。二人に気付いた十二人の騎馬兵が振り向きこちらを見ている。全員が驚くくらいに若い、少年の面影をまだ残している。十二人の中にキタイの知っている顔は見当たらない。
キタイは眉をひそめた。振り向いた騎馬兵たちの隙間から、黒い服を着ている男が見える。男は祠に被さるようにして何かしている。祠の横にはハシムが座らされている。ハシムは両手を後ろ手に縄で縛られている。
周りの騎馬兵の動きに気付いたのか、ハシムもキタイの姿に気付いた。キタイ殿、キタイ殿、と凄まじい形相でハシムは叫んだ。
キタイはハシムに駆け寄った。祠の傍まで来たキタイは驚いた。祠に被さるようにしている黒服の男は、祠に積み上げた石を無造作に崩している。
「ハシム殿、大丈夫か?」
ハシムに駆け寄ったキタイに、周りの騎馬兵はどうしたらいいのか戸惑っている。
「キタイ殿、今すぐに止めさせてくれ。祠を暴いてはいけない」
「祠の中に永遠の命があるからか、ハシム殿?」
ハムシは大きく首を横に振った。「違うが、祠を暴いてはならぬ。とんでもないことになる」ハシムの両目は大きく開かれ、顔は蒼白だ。ハシムは嘘を付いていない。
ルテイネが背後にやって来た。キタイは振り返って怒鳴った。「ハシム殿をすぐに解放しろ、祠に手を付けるな」
「キタイ様、祠の中には永遠の命の術があるとさっき教えたばかりですよ。お忘れですか?」ルテイネは冷たく答え、地面に置いてある縄を拾い、キタイの後ろに回った。「何かしようなどと考えないでくださいね」
今さらキタイは無用な抵抗をしなかった。
「カサルは死んだし、死んだ者に永遠の命は与えられない。お前に情報を流した奴が永遠の命を欲しがっているだけだ」キタイは、自分の両手に縄を結んでいるルテイネに話し掛けた。
「祠から術を取り出し、カサル様の魂を呼び寄せればいい。それで、カサル様の亡骸には再び肉体と永遠の命が与えられますよ」ルテイネはくっくっと笑いながら答えた。
ルテイネは一人の騎馬兵に声を掛けた。その騎馬兵は大きな麻袋を抱えてきた。ルテイネは麻袋から白くて丸いものを取り出した。人の頭蓋骨だ。
「まさか、カサルの墓を暴いたのか?」驚いたキタイが尋ねた。
「墓を暴いたですって?キタイ様はまた言葉の選択を間違えておられる。長い眠りに就かれていたカサル様を蘇らせるのです」
キタイは、騎馬兵が持つ麻袋の大きさを見つめている。
「そうです、ここにカサル様の骨がすべて揃っています」ルテイネは悦びに溢れた表情で言った。
キタイは大きく顔を歪めた。いったいこれは何なのだ、ルテイネの言っていることは間違いだらけだ。キタイの隣にいるハシムも驚愕している。
キタイはルテイネをさらに問い詰めようとした。しかし、キタイとハシムは口に猿ぐつわをされ、強引にその場に座らされた。
キタイはハシムと間近に目を合わせた。ハシムはとても怯えている。こんなに怯えているハシムは初めて見る。悪魔と戦ったあの夜でさえ、ハシムは気丈にしていた。
祠の石を崩していた黒服の男が手を止めた。祠の中の何かを拾おうとして身体を伸ばしている。周りの騎馬兵に振り向き、何かを指示している。キタイは男を見つめた。小柄な男だ。長く伸びた髪を後ろ髪一つに結わえている。端正な顔立ちだが、生気のない目が狂気を感じさせる。
どうも見覚えがある、キタイはおぼろげに思い出した、男は霊媒師のテトヌ・テトゥルだ。素性は謎で、生まれも育ちも分からない。何処から来たのかも分からない。顔立ちもモンゴルの人間とは違う。むしろ西方の人間に近い。
どうしてこいつがここにいる?キタイは訝しんだ。
かつて、テトゥルはモンゴルのすべての部族の聖地フフノール湖で、聖なる儀式と称して十人のモンゴルの少女を殺した。その後、テトゥルはモンゴルから追放されている。本来ならば死罪だが、一人の王族の一言で死罪は免れた。その王族は生前のカサルと極めて親しかった。ルテイネたちの背後関係が見え始めた。
キタイの横でハシムが急に呻きだした。猿ぐつわをされた口の中で絞り出すように何かを呻いている。ハシムはテトゥルの右手をじっと見つめている。
何なのだろうか?キタイもテトゥルの右手を見た。テトゥルの右手は、灰色の石の塊のような物を持っている。テトゥルが祠の中から拾い上げた物だ。
「違う、こんなものではない」テトゥルは腹立たしそうに言った。
石の塊は目当てのものではなかったらしい。テトゥルは石の塊を無造作に放り投げた。その後も祠の中から同じような石の塊を取り出し、周辺に放り投げた。ルテイネがそのうちの一つの石の塊を拾い、不思議そうに眺めている。
キタイは目を凝らしてルテイネが拾った石の塊を見つめた。ふくよかな赤ん坊の形に彫られた石像だ。なぜか背中に羽を生やし、左手に弓を持ち、右手で矢を引いた格好をしている。
キタイは同じ物を西方の絵画で見た記憶がある。この赤ん坊は、西方では幸せを運ぶ神の使いとして描かれていた。確か、天使と呼ばれていた。
なぜ、そんな物が古の一族の祠の中にあるのだろうか?キタイはハシムに思わず振り向いた。ハシムは怯えて小刻みに身体を震わせている。




